いい子、悪い子、かわいい子

「……水、」
持ってこい、と命令形で言わないところを見ても、セックスの余韻が尾を引いていることは明らかだった。
コップに水を満たしてここに置きますよ、と盆に乗せて顔……というよりは頭の横に置くと、肘で支えて起き上がろうとして失敗するところが見えた。
「何で立てへんのや。」と布団の上でぐったりしている男に「まああれだけしたら腰も抜けるでしょうね。」と僕はシャワーを済ませた髪の水滴を拭いながら声を掛けた。
他人事のようにも聞こえる言葉に噛みついてくるかと思ったが、兄弟子はさっきからずっと枕に突っ伏して顔を上げようとしない。
レンジで暖めた濡れタオルで、身体の隅々まで、それこそ腰から下の、この人がおいどというなだらかな膨らみやら腿の内側、竿の裏筋までを清拭されたのが堪えたのだろう。
このプライドが山より高い年下の男が、身体を差し出す/差し出されるという、ある意味分かり易い形以外で触れられることを、舌を噛みたいほど恥ずかしいと思ってるのはここから見てるだけでも知れた。

ひとつ違いの兄弟子と喧嘩に明け暮れてた日々の賜物かなんなのか『この年でセックスなんか怖いわけないやろ。オレかて経験くらいあんねやから。』とかつての大風呂敷にも似た大概な虚勢を張って、下手くそなキスで無謀に挑発して来たのはこの人の方が先だった。
僕の方でも、経験ていつの話ですか、といつものようにからかう言葉を口にしたのが最後になって、その後はもう余裕もなかった。
多少は悪かったとも思っているが、こうして立ち上がれもしないのに、人の唾液やら自分のザーメンやらでべたついた身体をそのままで眠ることなど出来ないだろう。
自分でも驚くことに、僕はこの関係を一度で終わらせたいとは思っていなかった。だからなるべく、この人も次もしたいと思えるように振舞いたいとは思っているのだが、ほとんどその意図が成功していないことは、相手がこうして全く視線を合わせようとはしない今の状態からも明らかだった。
それでも頭の隅では、今はまあええか、と思っている自分もいる。
一人で暮らすのは寂しくて耐えられないくせに。素直にそうした気持ちを打ち明けることが出来ない人だった。
師匠が亡くなった今、こうして寄りかかることが出来るのは、僕だけなのだ。
どうせこの部屋から出て行くような真似は出来ないだろう、という傍から見たら性根の腐ったような打算は、裏を返せば安心感でもあった。
平兵衛にも水をやって、もう今日の仕事は仕舞いだ。
黒い九官鳥は水を飲み終えると満足げに息を吐く。それから、『おやすみ、シーソー。』という言葉が聞こえてきた。
「……。」
平兵衛に僕自身の名を覚えさせることはしばらくなかったことだ。
振り返ると、丁度犯人らしき相手が布団を頭から被ってもぞもぞと蓑虫になるところだった。
「水、飲みたいですか。」と敢えて外した質問をすると、もう後でええ、と返事が戻って来る。
『わ』の途中で、くしゅん、とくしゃみが聞こえて来た。
「もしかして、寒いんですか?」
そう尋ねると、三秒だけ何かと戦ったような年下の男は、布団から顔を出して、ちらりと恨みがましいような視線をこちらを向けると「オレほんまはあかんのや……寝るときパジャマでないと……。」と言って唇を引き結んだ。
かわいい、という単語ひとつが頭に浮かんできて、相手は小草若兄さんやぞ、と打ち消して趣味の悪い布団カバーに包まれた安い布団に潜り込んだ。あのマンションにあったお高い羽毛布団は、風も通さないようなマンションの部屋に捨てて来たので、こちらはまだ新品同然だ。
布団の中は妙に暖かく、Tシャツを纏っただけの身体の体温がすぐそこにあるのが伝わって来る。
妙な気分だった。
他人と布団を分け合うような馴れ合いも、甘えた態度でこちらを束縛しようとしてくる見え透いた女の心根も何もかもが嫌になって、いつもはこうして夜を分け合って過ごす時は朝までまんじりともせずに起きていた。
早く出て行けと思うばかりだったのに、今は、よそに行くくらいならずっと目の届くところにいて欲しいとさえ思う。
よせばいいのに、「今からでも着せましょうか?」と口を滑らせると、「赤ん坊ちゃうねんぞ。」という拗ねた声が聞こえてきて、兄弟子は窓際に身体を寄せるように寝返りを打った。余程、さっきの清拭が嫌だったらしく、長い身体を丸めている。

電気消します、と言うと、そないせえ、という声が聞こえてきた。








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