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高校二年の夏、とある病気を患ったことでダブったのをきっかけに全部がうまくいかなくなって毎日本当に憂鬱だった。
とにかく外に出ればすれ違う人全員が人生うまくいっているように思えたし無意味に苛烈な劣等感を抱いた。特に、電車を待っている時間なんて考えこむにはちょうどいい間だった。ほんの僅か、このまま電車に飛び込んで死んでしまおうかなという気持ちは常にうっすらと持っていたけれど、誰にも迷惑をかけない死に方をするというのは難しいことなのだと常日頃のニュースを見ては思い知る。
「…………」
今頃かつての同級生たちはどんな大学へ行って、どんなにか楽しい生活を送っているのだろう。羨ましい。
普通に生きられる人生、とにかく全部が羨ましくてしょうがなかった。
そんな憂鬱な視界にぬるっと黒い塊が横から急に現れたのはラッシュ前の人がまばらなある日の駅のホームだった。
誰も気に留めていないが、どう考えても喪服だし、どう考えても心神喪失、表情も全然ないまま目からは湧き水のように涙がどしゃどしゃ流れている。
死ぬ気なのだろうなとは直観で思った。
でも、止めようとは思わなかった。それから、誰かが止めるだろうとも思ってもいなかった。
「……」
つまり、見殺しにしようとしていた。勿論、自殺の瞬間など見たくないという常識の反面、無責任に止めて何になるのかというエゴとの葛藤があった。生きるのが辛くて辛くてどうしようもない人間に、明日があるから頑張ろうなんて言えない。しかも、通りすがりの赤の他人になど少なくとも自分は何を言って欲しくもなかった。
ホームの最端、先頭車両が迫りくるこの位置には茶色いコートの営業マンと自分、そして喪服の人しかいない。
構内アナウンスが流れる。耳障りな爆音のメロディ。遠くから聞こえてくる地を這う様な轟音。
咄嗟に、人間とは気弱な生き物だと思う。いざ目の前に人の死が迫るとなればいつの間にかその人のすぐ近くにまで寄っていて、足が一歩でも動いたら漆黒の重たそうなベンツを引っ掴んで止めてやろうと思っていたのだから。
若干震えだす手をいつでも前に伸ばせるように集中する。俺だって死にたい。でも、本当にそれでいいのか? 本当に今、死んでしまっても後悔はないか?
俺はある。こんな自分にすら後悔があるのだから、きっとこの人にだって何か一つぐらいは未練があるに決まっている。生きていたらまた、何かいいことがあるよ。無責任だけれど、心からそう思う。だって、喜んで死にたい人なんているわけない。いるわけがないんだから。
手の平がじとっと汗ばんだ。心の瞬発力はバッチリだ。そこへ、ゆっくりとブレーキの軋むいやな音が響いて心臓がどくどくいったが一向にそれだけで、何事もなく電車はホームに到着した。
喪服の人の両足はびくともしなかった。足元が動くのだけを気にしてじっと見つめていたので少し驚いた。
顔をあげると反対に、泥が溶けるみたいにして喪服の人はその場に崩れてしまった。
「っだ、ぃじょうぶですか……」
反射的に隣にしゃがんでそっと静かに背中に触れると、こんがらがった下手な呼吸のまま途切れ途切れに声を漏らして泣き出した。叫びたいのだろうけれど嗚咽で息も出来ない。声にならない声で何かを必死に訴えようとするが、何かって、そりゃ多分、悲しみなのだろうけれど。
「どうした? 大丈夫か?」
大概普通に平凡な感性で生きていたら、こんなに感情的になる出来事もそうそうないだろうななどと考えながらぼんやり背中をさすり続けていると、横からだいぶ大きな声でそう問われた。
変わらず泣き続けている喪服の人を横目に見遣り、代わりに「急病かもしれないです」と答える。
「泣くほどどっか痛いのか!? てかそんな前いたらアブナイし、お兄さん、ちょっと移動しよっか……!」
「……。俺駅員さん呼んできます」
言葉の端々からエネルギーに満ち溢れた若くてうるさい営業マンにその場を任せてそそくさと離れた。
そもそもどっか痛い様子に見えるか? アブナイ? 全くの初対面だけれど物凄く気に食わないほどズレた人だと思った。
喋ったら話が通じなくて疲れそう。出来れば関わりたくない。
駅員に事情を話してそのままトンズラしようかとも思ったが、もし仮に自分が死にたくても何とか踏ん張って死ななかったあと、あの営業マンに隣でダイジョブか? メシクウか? ハラいたい? とうるさくされたら明日への希望が完全に断たれるなと思い直して一緒に戻った。
「……人、呼んできました……」
「ああ、ありがとありがとー。すうごい泣いててなんも聞き取れなくて、今ちょうど落ち着いてきたけどどこが痛いのか教えてくれない……」
そこでは先ほどの慟哭からすっかり呼吸が落ち着き、改めて自分に起こった現実にうしひしがれているといった表情の喪服の人と、それをなんとか無理くりベンチに座らせたのであろう汗だくの営業マンが並んで座っていた。
「少し落ち着きました? 水飲みますか? 封切ってないのあるので」
「…………すいません……メーワクかけました……もう大丈夫です……」
「歩けないようでしたら車いすをお持ちしますよ」
「いえ……平気です、この人たちいるのでもう……本当にすみません……」
言いながら目の端からつるんと涙が零れるのを見てこんなに悲しい思いは出来ればしたくないなあ、とまた他人事のようでいて自分のことのように受け取ってしまう自分がいた。
黙ったまま喪服の人を挟むようにして営業マンの反対側に座ると、何度目かの構内アナウンスが響いてきた。そこで、良くも悪くも三分間隔で絶え間なくチャンスは訪れる現実が初めて酷だなと思ってみる。このひっきりなしの忙しなさは果たして飛べない人の背中を押さないと言い切れるだろうかなんて。
すると、アナウンスが耳に入ったのであろう営業マンが大げさに反応して立ち上がった。
「あーーーっ! やばい、ごめん、俺そろそろ行かなきゃ! 電車どこまで? 途中までなら送ろうか?」
「やばいんならどうぞ行ってくださいよ。俺暇なんで送りますから」
「マジ? ごめんな高校生……これ、足りなかったら悪い、電車代にして!」
「え、い、……いらな、」
「待って」
ホームに入ってきた電車と一緒のタイミングで急に真横から立ち上がった喪服の人は今更ながらかなり背が高い人だったのだと気づく。泣いたり崩れ落ちたりしたから小さく思えていた背中は向こうにいる営業マンを遮ってしまうほど大きかった。
「ほんとにメーワクかけました、仕事中にごめんなさい……。いつかお礼させてください……」
「へ、え……」
待ってはくれない発射のベルに戸惑いながらも名刺を受け取ってギリギリ乗車した営業マンは閉まるドア越しに何でかぺこぺこと頭を下げた。
「……」
「すみません……みっともないところ助けてもらって……」
車両を見送ってすぐにこっちに向き直った目からまた涙が落ちた。涙腺がぶっ壊れているのだろう。そういう感覚ももう久しくないのでまた生々しく他人の人生を感じてしまう。
「いえ。死ねませんでしたね。平気ですか」
「……。学校の帰りかな。遅くなったら家の人……」
「帰っても誰もいないんでお気遣いなく。電車乗る気しなくないですか? 駅出てタクシーつかまえましょうか?」
「共働きか何か? 夕飯は?」
対峙した相手が制服だというだけで年下認定して、ある意味非現実的な心の変化が訪れてしまうのは一体どうしてなんだろうと殊更呆れる。さっきまで死のうとしていた心理はどこに行った? 誰がいてもいなくても、周囲なんてどうでも良かったあの心境は?
まさかもう忘れてしまったわけでもあるまい。だったら他人の飯の心配などしている場合じゃないはずなのに。死のうとするほど壊れているくせに人間というのは二人より多くと行動すると本当に残念な生き物になるとしみじみと思う。
「何急にまともぶってんの?」
「……えっ……」
「人の飯の心配より自分の心配したらどう。顔色も悪いし自分こそ早く帰って休んだら」
「…………」
ここ数年の挫折で捻じ曲がったコミュニケーション能力がつい苛立ちと共に火を吹いた。反抗期とか思春期とか言っている年齢でもそろそろなくなるというのに、ささくれた心の棘と人間不信は一向におさまってはくれないままだ。
こういう物言いをして後から後悔するのは自分だとはっきり分かっているのにやめられないのは病気の後遺症なのだろうか。誰かと話している最中に自分で自分の感情や行動を上手くコントロールできなくなることは少なくなかった。
生意気な自分の発言を無理に轡で抑え込もうとされているのではないか。口では黙らせられないから衝撃を与えて一瞬でも口を噤ませようと機会を伺っているのではないか。他者に対する疑念は強くなる一方だった。
だって正論を言うといつも相手の目つきは途端険しくなる。間違っていないのに嫌な顔で煙たがる。
嘘の鎧で正常ぶることが一般的な普通の人である世界。誰もが本当は何を思っているのか分からない恐怖心でこっちの頭が先におかしくなってしまった。
「ありがとう」
一人で悶々とフラッシュバックに苛まれていると、思ってもみなかった言葉をかけられて顔をあげた。
「一人暮らしとか? 俺も、家に帰っても誰もいないから……良かったらなんか食べにおいでよ。今日やっぱ店開けることにした」
「店?」
「うん」
言いながらあまりにもあっさりと改札方面へと目線で促されるのでもしかして新手の詐欺かと疑った。手の込んだ美人局。背中をじっと睨みながらとりあえず後をついていくが、変な動きがあったらすぐに逃げようと思った。注意深く行動を観察する。
でも、前に進む途中で何度も手で目を擦りながら必死に駅中を歩き続ける姿を見ていたら「人は心の感情に嘘がつけない」という誰かの言葉を思い出して耳の奥がツキンと鋭く痛んだ。
きっと死にたいほど悲しかったのは本当なのだろう。死ぬのを止めたも同然なのは自分。ならばその悲しみの行先を見届ける責任があるのも、救った人の義務なのかもしれない。
「ハンカチないんですか」
「……ないなあ……コートも置いて来たんだろな。はは。寒」
駅を出てタクシーの順番を待つ間、喪服の人はもう一回「寒いね」とつぶやくとまた洪水みたいに涙を流しはじめるのだけれど、ハンカチもチリ紙も増してや慰める言葉ですらも持っていなかった自分は、ただただ黙って隣に居ることしかできなかった。
「おはようございます」
「おはよう。今日は麺。ナポリタンとペペロンチーノどっちがいい?」
「食材余ってる方で」
そんな不遇な出会いから始まった嶌田朗二との関係はいまやおよそ八年弱に及ぶ。朗二と出会いその生き方に触れながら過ごすうち、折れた心でもなんとか高校卒業まで漕ぎつけ更には大学に行けるような気持ちの回復が果たせるとは当時からすれば微塵も思っていなかったことだった。
今は無事に大学も卒業し、そのままフリーターとしてここを手伝う毎日を送っていた。朗二にはやりたいことも特に思いつかないから見つかるまでいさせてくれ、などと甘えたふりをしていたが本心ではこの先一体どうやって生きていくつもりなのか見届けてやりたいという気持ちの方が大きかったりもするわけで。
現在時刻は十八時半過ぎ。店自体は十五時ぐらいから開けてはいるが人が入るのはごく稀で、大体はあと三十分ぐらいで一人目か予約客がやってくる。それまでに賄いを食べ、ホール作業を一人でこなす。たまに簡単な調理を手伝うこともあるけれど、中のことは朗二がやるのでほとんど触らない。
慣れたなどと生意気な口を利ける身ではないが、大学二年でバイトとして働き始めてからは今年で六年。それなりに勝手が分かってきたような気もするほど時が経つのはあっという間だなと思った。
何でか過去を思い出してしみじみしながら手を洗っていると表から朗二の声がする。
「今日は榛葉九時頃になるって」
「はーい。毎日毎日よく来ますねあの人も。だから恋人出来ないんですよ」
「常連なんだから悪く言わないの。あと今日予約多いから見ておいて」
「おっけーです」
榛葉とは八年前にあの場にいた営業マンだった。別れ際に朗二が渡した店の名刺を頼りになんとその日遅くにやってきたつわものだ。
図々しいというか面の皮が厚いというか、もう具合平気なの? と酒を飲みながらでかい声で喋っていた記憶が鮮烈に残っている。その場に居たのでここぞとばかりに嫌味をいっぱい言った記憶も朧にあるが、今ではむしろ下品だったなとこっちが反省してしまうほど病的に空気が読めないのがキャラな男でもある。
場の雰囲気に対して自分が異質であることをものともしないのは強い精神力の持ち主の証拠だ。心の根っこから明るくて勿論性善説信者。相手が怒ってもびくともしない悪気のなさは関わっている人間からしたらギリギリ長所とするしかないだろう。今でもたまに余りにもまっすぐで透明な明るさを振舞われると堂々と詰ってしまうことがある。
白は正義の色かもしれないが、世界は正しさだけでは出来ていないことを分からせたくなってしまう。色味も捉え方も反対だけれど無意識に人を傷つけてしまう純粋さとド正論は、かつての自分の生き方とどうしても似ていて嫌いだった。
「でも、あんま真剣に話聞いてると頭おかしくなるから気を付けてくださいよ」
「俺は別に苦じゃないけどね。世戸くんは苦手だよね、榛葉」
もっとも、その言葉通り、朗二は榛葉の話をいつも丁寧に受け止めた。あれから八年、決まって一人で来店し続ける榛葉の指定席は六つあるカウンター席の最右端だ。入口から一番近いレジ横にいつも座っている。コーヒーのテイクアウトをしに寄る人も多いので、コーヒーメーカーと調理場があるその場所が大体の朗二の定位置でもあった。
つまり、八年前から今日まで朗二は毎日のように榛葉と顔を合わせてとりとめもない会話をしているということになる。なのに、どんなにたわいもない発言を榛葉がしたとしても、朗二があからさまに顔を顰めて嫌がったり否定的なことを言うのを一度も見たことがなかった。
ともすれば、お客さんだから、常連だから、世話になったから、友達だから、様々な理由をつけて朗二は他人を許し続けているのかもしれない。
八年前失ったのは恐らく心の大部分。その一部には誰かを責め立てたり詰ったりする自己防衛能力がきっと含まれていて、また一部であった傷つくという感情が根こそぎなくなってしまった。だから、そこを埋めるために人の愚痴や悩みを取り込んで詰め込んで麻痺した自分の感情の肥しにしようとしている。
「ま、世戸くんも割と被害妄想と飛躍激しいからほどほどにね」
「……」
まるで釘を刺すかのような朗二の言葉にはっとして思わず「かもしれない」と小さく呟いた。
実際に朗二が心を失ったかどうかなんて分かるはずもないし、本心ではうるせーとか黙れこのやろーとか思っている、のかもしれない。
「自慢じゃないですけど一回病んでるんでね俺は……。被害妄想だって自己防衛なんですよ……」
「ん?」
予約表を見てぶつぶつと零していると朗二が何か言った? とひょっこり裏を覗いてくる。
「なんもないです。今日ゆみさん来るんですね」
「そうそう。久しぶりだよね。二人って言ってたからひかる君かな」
「最近よく駅の広告で見ますよ。今更サインねだったら怒りますかね」
「あはは、欲しいならいんじゃない? 俺は断られたけど……」
「えっ……店長ダメなら俺絶対ムリじゃないっすか……」
食べ終えた賄いの食器を片付けながら本当に何気なく朗二の方を見ると、無機質な蛍光灯に晒された疲れた顔が浮き彫りになっていて目を瞠った。ホラー顔負けの濃い隈だった。恐らく本人に自覚はない。店内の薄暗い照明とは違って、残酷なほど全てをハッキリと照らし出す白色の光。
これが今現在の嶌田朗二の本当の素顔である。
「て」
ほんの一瞬目が合った直後、扉の開いたベルの音が響いた。すぐに向こうへ引っ込んだ残像に「んちょう」と呼びかける。
何せあの隈の心当たりは明白だった。胸が痛んでカレンダーを見るとずばり、朗二曰く「死にたくなるほど愛した人」の命日がすぐ週末に迫っていた。
八年前失ったのが心でもなんでもく最愛の人だと知ったのは奇しくも朗二と出会ったあの日の晩、店を開けていることに驚いた常連客達とのやりとりからだった。
店に入るなり全員が今日はもうやめろとか、帰ってゆっくりしろとか、様々な言葉を投げかけられる中、朗二は曖昧な顔で俯いた。
「……さすがに死んでやろうと思ったんだけど出来なくてさ。駅で泣いてたらこの人が優しくしてくれてすごい救われたからお礼に開けてただけ。でも、よく考えたら帰っても一人だし今日もやる。明日も、明後日も、……待ってたら帰って来るかもしんないし……」
おどけながらそう言ったのに、また涙が溢れて泣き出してしまう朗二の姿を見ていた一人が、駆け寄って自分も震えて泣きながら何も言わずに強く肩を抱いた。
朗二はちょっと笑ってから深く俯くと身体を大きく震わせて嘆いた。
「最後に好きって言ってやれなかったから、またいつか会えるようにここでずっと待ってるよ」
それから八年、本当に毎日欠かさず店を開けて待ち続ける朗二の想い人が訪ねてくることはなかった。
そしてこれからも恐らくきっと、その願いが生涯叶うことはない。
「ごめん、世戸くん。ご新規さんドリンクお願いしていい」
バイトを始めてから気が付いたけれど、毎年命日が近づく頃になると、朗二は目に見えて体調が悪くなる。何年経っても全く同じ顔つきで苦しみ、後悔と懺悔に明け暮れ枯れるほど涙する。入れ替わり立ち替わり色々な人に寄り添われながら毎回何とか乗り越えてきていたけれど、思い返せば立ち直るのにも時間がかかるようになってきた気がしてならない。
とやかく言える立場でないのは百も承知なのだが、毎年近いところで見守っている側としてそろそろ気持ちの堕ち方をもう少し穏やかにしてやれないものかとは考えてしまう。
「はい。すぐ行きます」
裏への入り口を仕切っている暖簾のすぐ向こうはカウンター兼調理場だ。心なしくだびれた背中でフライパンを振る姿が見えている。暖簾越しに後ろに立つとそっと声を潜めた。
「店長」
「うん」
「寝てないのバレバレだよ」
「……あらら。暗くても分かる?」
「うん」
「ほんと? 榛葉にも?」
「……」
珍しく意地悪なそんな問いに言い返せなくてバチンと背中を強く叩いて表に出た。
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