1-1 現実への帰還

 夏の光が水滴を纏った街並みに降り注ぎ、どこまでも澄み切った青空が広がっていた。鳳子の耳に届くのは、微かに響く遠雷の音と、時折空を横切る白い鳩の羽ばたき。鳩は先ほどの雨で濡れた羽を大きく広げ、青空の向こうへと飛び去って行った。その姿を見つめながら、鳳子は自身の体に走る異様な感覚に気付いた。先ほどまで感じていた痛み――火傷の熱さ、裂傷の鋭さ――それらが嘘のように消えている。まるで、自分が戦いで負った傷など最初から存在しなかったかのように。

「まるで夢みたい……」

 無意識に鳳子の口から漏れた言葉は、空へと消えていった。彼女は深い安堵感に包まれながら、じっと空を見上げ続けていた。しかし、その安らぎの中に潜む一抹の虚しさが、彼女の心をわずかに揺らしていた。仰向けに横たわったまま、目に映るのは嵐の過ぎ去った晴天。濡れたアスファルトが反射する光が彼女の周りを包み込み、現実感のない風景が広がっている。それでも、これは夢ではない――自分が掴み取った確かな勝利の結果であることを、鳳子は確信した。

 彼女は魔人を倒し、災害迷宮を解決した。それは喜ばしいはずの出来事だった。けれど、その勝利の中で、彼女の心に浮かんでいるのは純粋な喜びではなく、どこかに漂う違和感だった。迷宮からの帰還と共に、自分の中の何かが変わってしまったような――何かを得て、同時に何かを失ったような、そんな予感。

 その不確かな感覚を確かめたい。そう思って鳳子がゆっくりと体を起こした時、不意に水たまりを蹴る音が背後から響いた。

「せなんちょ!」

 振り返った鳳子の目に飛び込んできたのは、真解部のガチ恋ちゃんの姿だった。彼女は鳳子の方へ駆け寄り、その顔には涙の跡が光っていた。ピンク色の髪を二つに結い上げ、瞳には驚きと安堵、そして鳳子への感謝の念が溢れている。彼女は手にスマホを握りしめ、鳳子の前で立ち止まると、そのまま飛び込むように鳳子の胸に抱きついた。

「おかえり、せなんちょ! 本当にありがとう……! そしてごめんね、大変な役目を一人で背負わせちゃって!」

 ガチ恋ちゃんの言葉には、心からの感謝と後悔が込められていた。彼女は大切な人が魔人の人質になることを恐れて迷宮へ同行できなかった。それなのに、「大切な人なんていない」と言い放ち、単身で迷宮へと乗り込んだ鳳子を、彼女はずっと気にかけていたのだ。鳳子が掲示板で迷宮の進行状況を追い続け、ようやく彼女が帰還した時、ガチ恋ちゃんは誰よりも先にその労いの言葉を伝えたかった。

「ただいま……です」

 鳳子は困惑しながらも、彼女の言葉に応える。鳳子にとって、誰かに感謝されるのは慣れていない。ましてや迷宮に挑んだのは、ほぼ私欲のためだった。しかし、結果的に誰かを、世界を救ったという事実が、鳳子の中に小さな温もりを灯していた。それは不思議な感覚で、どこかむず痒いような――そして、自分が成し遂げたことの重みを初めて実感させるものだった。

 だが、鳳子を困惑させているのは、その感謝だけではなかった。

(……どうして、普通に視えるの?)

 鳳子はガチ恋ちゃんの顔を見つめ直す。そこにはピンクの髪を結い上げた、少し濃いめのメイクを施した女の子が立っている。悍ましい芋虫のような姿はどこにも見当たらない。彼女の顔も、体も、何もかもが、今や正しい人間の形をしている。

(呪いは……にみりちゃんは……?)

 迷宮からの帰還で、鳳子は何かを取り戻した。それは自分の過去の記憶だった。なぜ自分の見ている世界が狂い始めたのか、本来の自分の使命とは何だったのか。――そして、同時に鳳子が失ったもの。それは歪んだ世界の認識、すなわち擬蟲神の呪いだった。

(和希の投薬が途切れたせい……?)

 記憶を取り戻した事に関しては心当たりがあった。思い出すのは、和希が幻感病で倒れ、暁の元に一時的に身を寄せていたこと。解決部としての依頼に駆け回っていたこともあり、通常の投薬が行われない日が続いたことがあった。しかし、こんなにも鮮やかに、まるで空が晴れ渡ったように全ての記憶が戻ってきたという事実は、鳳子に不安をもたらした。さらには、今見えている世界が正常に戻っている――記憶を取り戻したからこそ、これまでの自分がどれほど歪んだ視界に囚われていたのかがわかる。全ては呪いのせいだったのだ。

(でも、どうして呪いが……消えた?)

 鳳子は迷宮での出来事を思い返そうとした。最後に出会った、仁美里によく似た少女。そして彼女が持っていた刀……あれは、あれは……。

(だめだ、肝心なところが抜けている……)

 疑念が頭を巡る中、鳳子はふと立ち上がった。突然の動きに、ガチ恋ちゃんは驚き、体勢を崩しながらも鳳子を追いかけようとする。だが、鳳子はそのまま何処かへと走り去った。その足音だけが、静寂に包まれた街に響き渡っていた。



 商店街はまるで祝祭のように賑わっていた。数時間前まで、街全体を呑み込むほどの嵐が押し寄せ、世界が終わるかのような暗雲が空を覆っていたのに、今では澄み切った青空が広がり、日差しが街の隅々まで照らしていた。嵐の爪痕として、道路には散乱した木々や倒れた看板が散らばり、車の渋滞を引き起こしていた。しかし、それらの障害物を取り除く作業を気にすることなく、歩道は人々で溢れ、喜びに満ちた表情を浮かべながら思い思いに行き交っていた。

 そんな喧騒の中、鳳子はずぶ濡れのまま歩き続けていた。嵐の残した水たまりが道の至る所に点在していたが、彼女の姿に誰も気を留めることはなかった。人々のざわめきも、車のクラクションも、まるで遠くで聞こえる幻のように感じた。鳳子の心は、その場にあって、どこか別の場所に彷徨っていたかのようだった。

「ねえ、待ってってば! そんな恰好でいたら風邪ひいちゃうよ!」

 背後からガチ恋ちゃんの声が響くが、鳳子は振り返ることもせず、ただひたすらに前へと歩を進める。湿った空気が彼女の髪にまとわりつき、服は肌に張り付いていたが、その不快感すら感じていないようだった。彼女の目に映る景色は、すべてが奇跡のように鮮やかだった。

(どうして……どうして……?)

 胸の中で何かがぎゅっと締め付けられるような感覚が広がり、鼓動が煩いほどに早くなる。今、自分が感じているこの感情は何なのだろう。嬉しいのか、悲しいのか、混乱する鳳子の心は答えを見つけられない。ただ一つだけはっきりしていることがあった。それは、今見ている世界が、長い間待ち望んでいた「正しい世界」であるということ。人々の顔がはっきりと見え、かつて自分を苛んだ歪んだ視界は消え去っていた。

 不意に目頭が熱くなり、視界が滲んでいく。

「んん……やだ……、だめ……!」

 鳳子は生乾きの袖で強引に涙を拭った。やっと手に入れたこの現実を涙でぼやかしたくない。もっとこの目に焼き付けたい。そう思い、鳳子は何度も涙を拭い続けた。しかし、涙は止まることなく溢れ続け、気がつけば視界は袖に遮られ、真っ暗になっていた。

「せなんちょってば!」

 ついに歩みが遅くなった鳳子に、ガチ恋ちゃんが追いついた。彼女はしっかりと鳳子の腕を掴み、その顔を覗き込む。ガチ恋ちゃんの声が、ようやく鳳子の意識を現実に引き戻した。

「泣いてるの!? やっぱり迷宮攻略ってそんなに大変だったの?」

 ガチ恋ちゃんは焦ったように、何とか鳳子を元気づけようと慣れない言葉を探した。彼女は常に自分の好きなことにしか興味がなく、他人を慰める術を持ち合わせていない。加えて、シメっぽい雰囲気は苦手で、正直なところ、鳳子との相性も決して良くはなかった。しかし、それでも迷宮を解決した鳳子に対する感謝の念だけは、彼女の中で強く根付いていた。

「ねえ、お腹空かない? ドーナツでも食べない? それともカラオケとかさ。あ、居酒屋も連れてってあげるよ! 年確されないところ、知ってるんだ! それか、うちに来て三王さまの隠し撮り写真コレクションでも見る? 三王さまを見ると、人類は元気になるんだよ!」

 無理やり明るく振る舞うガチ恋ちゃんを見て、鳳子は自分が気にかけられていることに気付き、微笑んだ。その笑顔は、ガチ恋ちゃんにとって見慣れたものではなかった。

「……ごめんなさい、少し……嬉しくて、感極まって涙が出てしまったんです。心配させてしまってごめんなさい」

 鳳子の柔らかな微笑みに、ガチ恋ちゃんは驚きを隠せなかった。彼女が見ている鳳子は、以前の鳳子とはどこか違っていた。今まで鳳子と過ごした時間はわずかではあったが、彼女はどこか遠くにいるような――心ここにあらずといった印象が強かった。しかし、今の鳳子は確かにここに存在し、ガチ恋ちゃんを見つめていた。そこに人間味があり、温かさが感じられた。

「なんか、雰囲気変わったね、せなんちょ」

「そうですか?」

「うん、なんか、人間味が出たっていうか。もしかしたら迷宮って、人を成長させるのかもね! 私も行ってみたくなっちゃった♡」

「いえ、できれば迷宮の発生を防ぐことが解決部的に一番だと思いますが……」

「でも、私は真解部だから関係ないもーん♡」

 ガチ恋ちゃんの無邪気な返答に、鳳子は微かに笑みを浮かべたが、その視線は周囲に漂った。楽しそうに笑い合うカップル、難しい顔をして歩くサラリーマン、スマホに目を落としている若い男性。どこにでもある、あたりまえの風景が広がっている。それは現実であり、日常であり、本来の世界だ。

 鳳子は自分の体に意識を向けた。呪いの残滓はどこにも感じられなかった。擬蟲神の憎悪も、仁美里の存在も、今はすべてが消え去っていた。

(私は、本当に呪いから解放されたのだろうか……?)

 その疑念だけが、彼女の心の中に僅かな不安を残していた。だが、それでも、鳳子はこの新しい現実を拒絶することができなかった。長い間、孤独と苦しみの中で閉じ込められていた自分にとって、やっと手に入れたこの「正常な世界」を捨てることはできなかった。

「せなんちょ、迷宮のお礼もしたいし、うちに来ない? この近くに美味しいドーナツ屋さんがあるから、テイクアウトしよ! ご馳走するよ♡ それに、お風呂に入っていきなよ」

 ガチ恋ちゃんは笑顔で手を差し伸べ、鳳子を誘った。その手を取るべきか、鳳子は一瞬だけ躊躇した。しかし、今だけは呪いや過去から解放されて、ただの普通の女の子として、自由に生きてみたい――そう思い、彼女はそっとガチ恋ちゃんの手を握り返した。
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