2-2 鬼ごっこ
地下室を抜け出した鳳子と蜂谷は、駆け足でビルの駐車場に辿り着いた。外の冷たい空気に触れた途端、体が震えたが、それは焦りと緊張のせいだと自分に言い聞かせた。追手が迫ってくるかもしれない。限られた時間の中で、逃亡に使える車を探し始める。鍵が付いたままの車を見つける必要があったが、こんな状況で悠長に選んでいる時間などない。
目の前の車を一台一台確認しながら焦りが募る中、ふと視線に入ったのは見覚えのある車だった。和希の車だ。鳳子はためらうことなく車の窓を覗き込み、鍵が置かれていることを確認する。その瞬間、胸に浮かんだのは不信感だった。几帳面な和希がこんな不用心なことをするだろうか? 普段なら絶対にありえない。なのに、今はどうして――。
「蜂谷先生、運転して下さい!」
鳳子はすぐに蜂谷に呼びかけ、後ろを振り返る。追手がすぐそこまで来ているかもしれないという恐怖が、彼女の判断を急かす。和希の車に乗ることへの違和感を無視し、今は現実に縋るしかない。
意を決した鳳子は、息を整えることなく助手席に飛び乗り、心のどこかで警戒を解けないまま蜂谷を促した。
蜂谷は無言で指示に従い、ハンドルを握りしめると、緊張の中で車を発進させた。エンジンの低い唸りが耳に響き、車内は張り詰めた空気で満たされる。彼女の額には汗がにじみ、その手は微かに震えていた。出口へと向かう狭い駐車場の道を、蜂谷は慎重に進んでいく。
鳳子は何度も後ろを振り返り、追手が来る気配を探っていたが、まだその姿は見当たらない。焦燥と緊張で胸が締め付けられる中、偶然にも開かれていたゲートが視界に入る。
(……開いてる……)
鳳子は心の中で呟いた。ゲートを抜けた瞬間、二人はようやく暁のビルから脱出することに成功した。冷たい夜風が車内に吹き込み、一瞬の静寂が訪れたが、鳳子の心は安堵する間もなく、次の動きを考え続けていた。
◆
地下室には、静けさと重い空気が漂っていた。そこに残されたのは暁と和希の二人だけ。彼女たちが扉を抜ける直前、その気配を和希は確実に捉えていた。止めようと思えば、彼女たちを阻止することは簡単だった。しかし、和希の腕を掴んだ暁が無言で「何もするな」と命じたため、彼はそれに従った。
「何故止めた?」
彼女達が去ってから暫くして、和希は暗闇の中で静かに問いかけた。
返ってきたのは暁の答えではなく、ポケットを探るような音。暫くすると、カチッというライターの音が響き、淡い炎が暁の顔をぼんやりと照らし出した。煙草の匂いが瞬く間に地下室に広がる。
「……あの子、宵子に似ているね」
暁が呟いた。
「最初は、宵子が残した損失の清算に使えれば、それでいいと思っていた。用済みになったらそれで終わりにするつもりだったんだが……鳳子には、それ以上の価値があるかもしれないと思い始めたよ。この数年、彼女を見てきた君にはどう見える?」
暁の問いに和希は言葉を選んだ。正直に言えば、ここ数年の鳳子は、まるで魂を失った人形のようだった。しかし、彼女が自分に拳銃を向けた瞬間――そして先ほどのやり取り。彼女の鋭敏さや、状況をすぐに飲み込む能力を考えると、何かが彼女の中で目覚めたのかもしれない。だが、認めたくはなかった。和希は鳳子の無垢な残虐性を知っていた。過去に行った心理テストや思考分析からも、それが窺い知れた。
宵子に似ているのは容姿だけではなく、性格や思考も――。
和希の胸に、その思いが込み上げてくる。それでも彼は、彼女を裏社会の人間にしたくないという強い願いを抑えられなかった。
「今回、鳳子が『おかしくなった』のは俺が不在だったこと、それにお前の監督不行き届きのせいだ。だから、彼女に期待するのは早急すぎるだろう」
和希は冷静を装いながら答えた。
暁はその言葉に「なるほど」と笑みを浮かべ、煙草を床に落とすと、靴でじっくりと揉み消した。そして二人は、地下室を後にしてビルの中を歩き始める。途中、部下たちが鳳子と蜂谷に関する報告を暁に伝えた。
「彼女たちは鳳仙さんの車を奪い、現在、首都3号渋谷線を走行中です。追跡車両が数台向かっていますが、どうされますか?」
(やはり俺の車を使ったか……)
和希は心の中で苦笑した。今日この場所に来る時点で、すでに何かが起こることを予感していた。そして万が一の状況に備え、すぐに車で離れられるように、あえて車のキーを車内に置いていたのだ。それが、彼女たちの逃亡を手助けする結果になったのだ。
やがて暁は自分のデスクに辿り着くと、モニターに映し出された情報を確認し、少しの間、じっとそれを眺めていた。そして、不意に和希へと視線を向け、柔らかな笑みを浮かべながら言葉を紡ぐ。
「鳳子を保護してあげたまえ。その後は箱猫の家に帰るといい。教師の処遇も君に任せるよ」
暁の声は穏やかで、まるでこの場の空気が柔らかくなるような響きを持っていた。悪意など一切含まれていないかのような微笑み。しかし、和希は知っていた。暁が心からそんな笑みを浮かべることなど、決してあり得ない。彼の言葉は常に裏に何かが潜んでいる。和希はその一見親しげな言葉の背後にある意図を探ろうとした。
その時、暁は部下に冷静な指示を与え始めた。モニターの向こうで鳳子たちを追いかける部隊に向けて、何の感情もなく伝達する。
「逃亡者の処理をお願いします。教師の方は殺して構いません。子供の方は生きたまま連れて帰れ。邪魔する者は始末していい。工作班を向かわせる」
暁の声が途端に冷たく、鋭く響き渡り、部屋の空気が一変した。和希はその瞬間、内に溜まった怒りが沸騰するのを感じた。暁の冷酷さ、無慈悲な命令に対する憤りが、彼の胸を締め付ける。今すぐにでも暁を撃ち殺したくなる衝動が、和希の中で爆発しかけた。しかし、その衝動をどうにか抑え込み、冷静を取り戻すために深呼吸をする。
「凰雅……お前ってやつは……!」
和希の拳が震える。暁の平然とした態度、冷酷な命令に対する憤怒が抑えられない。だが、ここで衝動に任せれば、全てが台無しになる。和希はすぐにその場を後にし、鳳子を守るために行動を起こす必要があった。
――邪魔する者は始末していい。
暁の言葉が脳裏にこびりつく。鳳子を守ろうとする者、その中に当然和希も含まれている。つまり、暁は和希に試練を課しているのだ。「守りたければ、私の手から逃げ切ってみせろ」と。その残酷な意図をはっきりと感じ取った和希は、今を逃せば鳳子を一生救い出せない気がした。
◆
和希は暁のビルの冷たいコンクリートを背にしながら、無言で駆け抜けた。夜の静寂の中、足音が焦燥を反映するかのように響き渡る。出入口を抜けた先、街灯に照らされるタクシーがひっそりと待っていた。和希はその車に向かい、滑り込むようにタクシーに乗り込んだ。
「首都高3号渋谷線に入ってくれ。そのまま箱崎を経由して向島線へ」
声は冷静だったが、その内側には焦りと緊張が絡み合う感覚があった。時間は限られている。指先がタクシーのシートに軽く食い込むのを感じながら、和希はスーツの内ポケットに手を差し入れ、普段暁や鳳子の前では決して使用しない特別なデバイス――セキュリティが強化されたスマホを取り出した。黒くマットな質感が、非日常的な緊張感を強調していた。
和希はそのスマホを手慣れた動作で操作する。画面には瞬く間にセキュリティ認証のプロトコルが現れ、指紋と顔認証を素早く処理する。背後でタクシーのエンジン音が静かに唸り、車は滑るように東京の夜を駆け抜けていく。窓の外に映る街の灯りが流れる景色をぼんやりと見つめながらも、彼の意識はすでにこれからの作戦に集中していた。
スマホを耳に当てると、彼が属する|特別諜報局《Special Intelligence Agency》への直通回線につながった。SIA――それは、表向きにはその存在すら知られていない組織でありながら、裏では各国の政府機関と緊密に連携し、世界の脅威に対処している。和希はその一員として、常に国際的な陰謀や危険に身を投じていた。
電話口からオペレーターの落ち着いた声が応答する。和希は瞬時に指示を伝えた。
「鳳仙だ。応援を頼みたい。|Helix《ヘリックス》に追跡されている二名を保護したい。場所は……俺の自家用車の位置を特定してくれ。彼女達はそれに乗っている」
緊張の中にも冷静さを保ち、必要な指示を的確に伝える和希の姿は、SIAでの経験の積み重ねが滲み出ていた。背筋が自然と伸び、身体全体が戦闘態勢へと移行するのがわかる。緊張感が増す中で、オペレーターの声が再び返ってきた。
「承知しました。上層部に共有し、指示を仰ぎますのでそのままお待ちください」
その瞬間、車の振動がわずかに彼の身体に伝わる。タクシーはすでに高速へと進入し、夜の闇を切り裂くように走っていた。和希は窓の外をぼんやりと見つめながら、次に訪れる瞬間を冷静に待ち構えた。助手席には彼の道を照らすかのように、街の灯りが揺らめいていた。
「鳳仙さん。二名の位置を特定できました。……ところで、彼女達を保護するメリットはございますか?」
無機質なオペレーターの声が耳に届くと、和希の心の中にじわじわと苛立ちが広がっていく。外の夜景が高速道路の照明に照らされて、ひとつひとつ光の帯となって車窓を通り過ぎていく。そんな景色を目にしながらも、和希の視線は虚空を漂っていた。SIAのために暁の組織――Helixに潜入し、命を削りながら得た数々の情報を思い返すが、そのすべてが組織の冷徹な合理性の中に呑み込まれていた。
「世界平和」と銘打ちながら、組織にとっては個人の命など、計算の上ではただの数字に過ぎない。和希は唇を軽く噛み、静かに息を吐きながら、ふとスマホを見下ろした。指先が少し汗ばんでいるのを感じたが、それを意識的に無視してオペレーターに答える。
「蜂谷まりこは数ヶ月間、暁の元で強制的に働かされていた一般人だ。何か重大な秘密を持っている可能性がある。……世成鳳子は――」
一瞬、鳳子の名を口にする際に言葉が詰まる。だがその微かな躊躇いも、冷静な仮面の下に隠し、淡々とした調子で続けようとした瞬間、オペレーターが冷酷に言葉を挟んだ。
「世成宵子の娘には以前より、抹殺命令が出ていましたよね。抹殺命令の対象者を我々が保護する事は出来ません。蜂谷まりこの保護に関しては、引き続き検討致しますので、それまで連絡をお待ちください。」
回線が切断される音が冷たく響き、無機質な電子音が耳の奥でこだまする。タクシーの振動が和希の足元に伝わり、彼は無言のまま、その音が静かに消えていくのを聞いていた。心の中に残るのは、冷えた無力感と怒りの残滓だけだった。
SIAは十三年前、和希に世成宵子の娘を抹殺する任務を与えていた。それは、Helixに潜入し、暁の信頼を得るための重要なステップだった。だがそれだけではない。宵子が裏社会で示したその非凡な能力を、娘が引き継いでいる可能性をSIAは危惧していた。
親を戦場で失った子供がやがて自らも銃を手にし兵隊に育つように、人殺しの娘はいずれ人殺しになる――それがSIAが下した、宵子の娘に対する冷酷な判断だった。とくに宵子の存在は、彼らにとってあまりにも危険視されており、実際に彼女のその手は無数の犠牲者の血で染められていた。
美貌という武器を使い、無数の男たちを意のままに操り、破滅へと導いた彼女。その血が、同じように危険分子として娘に流れていると彼らは信じていたのだ。和希の頭の中に、冷たい風が吹くような静けさが広がる。鳳子――その無垢な瞳に映る運命は、すでに決められているのかもしれない。しかし和希の心の中には、鳳子がただの「危険分子」で終わらないと信じたい自分がいた。
世成鳳子はまだ救える――それをSIAに証明し、暁との因縁を断ち切り、彼女を明るい未来へ導くこと。それが、和希の目指す唯一の道だったのだ。
◆
蜂谷と鳳子は、箱猫市へ向かうため首都高を滑るように走っていた。夜の東京の街が車窓に流れ、人工の光が途切れることなく続いている。車内には静かな緊張感が漂い、二人は言葉を交わすことなくただ前方を見つめていた。しかし、間もなく進行方向に不穏な空気が立ち込める。谷町ジャンクションを目前にしたところで、蜂谷の目に飛び込んできたのは、無数の赤い点滅――封鎖された道路の光だった。
蜂谷は無意識に舌打ちしながら、仕方なくハンドルを箱崎ジャンクションの方向へと切った。首都高速6号向島線へ乗り換えるしかなかった。予定していた道が突如閉ざされ、行く手を遮られた苛立ちが彼の胸にじわりと広がる。エンジン音が静かに響く車内の中で、彼女の脳裏には不意に、あの日の記憶が蘇っていた。
それは、鳳子を轢いた日のことだった――本来進むべき道が、何らかの理由で進めなくなり、変更を余儀されなくなった焦燥感と苛立ちに苛まれたあの日。だが、その苛立ちは、今となっては違和感に近いものだったのかもしれない、と蜂谷は思い返す。まるで、何者かによって進むべき道が操作されていたかのような不自然さ。あたかも自分の行動が見えない力によって操られているかのような感覚。まるでSF映画にでもありそうな不気味な操作。あり得ないとわかっていても、その感覚が背筋を冷たく走る。
「先生、蜂谷先生!」
後方をじっと見張っていた鳳子が、突然声を荒げた。その鋭い声が車内の静けさを切り裂き、蜂谷の背筋が一瞬だけ凍る。ビルを抜け出してから、一度も口を開かなかった彼女が、こうして突然声を上げるというのは、良い兆しではないと蜂谷は即座に理解した。
「なに、世成さん?」
蜂谷は、ちらりとルームミラーを覗き、声を落ち着けて鳳子に語りかけた。車のエンジン音が静かに響く中、鳳子は後ろの景色を凝視している。
蜂谷の頭の中に地下室での出来事が浮かんでくる。あの時、鳳子が密かに彼女を縛る縄を解き、逃げ出すための作戦を告げなければ、蜂谷は今も暗い地下室に囚われたままだっただろう。
あの瞬間、部屋が暗闇に包まれた時、蜂谷は彼女を置き去りにして逃げることすら考えた。しかし、鳳子の手には武器があった。その武器を手にした彼女は危険だが、自分の身の安全を確保できるまでは、蜂谷も鳳子を手放すわけにはいかなかったのだ。車内の静寂が再び張り詰める。
「……もしかしたら、付けられているかも。後ろの車、一台挟んだその先のやつ……車線変更ばっかりするくせに、全然前に出てこない。私達と一定の距離を保っているわ」
鳳子の言葉に、蜂谷の胸に緊張が走る。車は高速道路を滑るように進み、看板には「向島出口」の文字が見えてきた。夜の闇の中、遠くに見える街の灯りが車窓に流れ込んでくるが、蜂谷はその光景に集中する余裕などない。このまま進んでも箱猫市には辿り着けない――もし後ろの車が追手であるなら、ここで一度一般道に降りて確認するべきかもしれない。
「世成さん。解決部の貴方に、私から依頼を出したいのだけれど……」
蜂谷が静かに告げると、鳳子の反応は瞬時だった。後方を見張る視線をパッと蜂谷に向け、目が輝いた。
「依頼、ですか!」
その瞳には、自分が「解決部」として認められる喜びと、その任務を全うできる可能性に対する期待があった。無邪気とも言えるその姿を見て、蜂谷は彼女の解決部への執着が異常で不気味だと再確認したが、今はその執着を利用できると確信していた。
「……今から一般道を走ることになるけど、何が起きても私を……依頼人であるこの私を彼らから守って欲しいの。……できる?」
「任せて下さい!」
鳳子は迷うことなく力強く答えた。その声には、何の迷いもなく、幼ささえ感じられる無邪気さがあった。蜂谷は静かに息を吐きながら、出口の分岐点が近づくのを見据えた。ぎりぎりまで本線を走り続け、直前になってハンドルを切る。方向指示器を出さず、急な動きで車を出口の方へと滑らせた。
ルームミラーで後続車を確認する――一瞬、緊張が膨れ上がる。そして、後ろの車が不自然に方向指示器を出し、同じく出口へ向かってきた。まるで遅れを取り戻すかのように。鳳子の予感は的中していた。蜂谷は再びミラーに視線を送りながら、唇を引き締めた。
高速を降りた先、視界に映る信号は幸運にも青だった。蜂谷はホッと胸をなで下ろし、足元に力を込めてアクセルを踏み込む。車は交差点へと滑るように進んでいく。しかし、わずかな安心感は一瞬にして壊された。
突如、右側から不気味な轟音と共に、1台の車が猛スピードで突っ込んできた。目に見えない力に弾かれたかのように、蜂谷たちの車は横転し、衝撃が全身に走る。世界が激しく回転し、車体が地面に叩きつけられる度に金属の悲鳴が耳を貫く。やがて、電柱に激突してようやく車は止まり、静寂が訪れた。
「……何が……?」
蜂谷は一瞬、何が起こったのか理解できなかった。信号は確かに青だった。それなのに――。体は痛みに包まれ、視界はぼやけ、赤く染まっていく。頭を押さえながら、ふと隣を見ると、鳳子がいる。彼女は頭を窓ガラスに強く打ちつけたのか、額から血が流れている。しかし、意識ははっきりしているようだ。蜂谷が言葉を発する間もなく、鳳子は静かに拳銃を取り出し、蜂谷の方へとそれを向けた。
その瞬間、時間が凍りついたかのように感じられた。蜂谷の思考は麻痺し、なぜ鳳子が自分に銃を向けたのか、理解が追いつかない。心臓が喉元まで押し上げられ、全身に冷たい汗が流れる。次の瞬間、乾いた銃声が夜空に響き渡った。蜂谷は恐怖で目を見開いたが、その直後、背後で短い悲鳴が聞こえた。
鳳子が撃ったのは蜂谷ではなく、暁の追手だった。男は運転席側の扉まで忍び寄っていたのだが、鳳子の素早い判断で瞬時に仕留められた。蜂谷の中にあった疑念は霧のように消え、現実が一気に押し寄せる。
「蜂谷先生、逃げて――!」
鳳子の声が鋭く響く。彼女は片手で拳銃を構えつつ、もう片方の手で助手席の扉を乱暴に開け放った。車体が横転しているせいか、扉は驚くほど簡単に開いた。鳳子は蜂谷の襟を掴み、そのまま外へと引きずり出すように地面に落とした。蜂谷は無意識のまま車外に放り出され、硬いアスファルトの冷たさを体全体で感じた。
「くっ……」
痛みが全身を襲うが、状況を把握する時間はない。背後でさらに二発の銃声が響き、蜂谷は身を縮めた。暁の追手たちは今、完全に鳳子に集中している。彼女はその幼い体に不釣り合いなほど、冷静に敵に向かって発砲を続けている。蜂谷はその現実を理解して――
(――今しかない……逃げるなら……今だ!)
心の中でそう叫び、蜂谷は衝動的に体を動かした。息を殺し、身を低くしながら、闇の中へと足を動かす。全身が痛みを訴えたが、それを無視して、蜂谷はひたすら暗がりへと走り出した。遠くで再び銃声が響き、蜂谷の心臓はさらに早く鼓動し始める。背後では、まだ鳳子が戦っている。しかし、振り返ることはしなかった。
(もう、あんな奴らとは二度と関わりたくない。私はただ、静かに教員としての人生を送りたかっただけなのに……。全てが狂い始めたのは、世成鳳子と関わったせい! 今は、とにかく――とにかく安全な場所へ逃げなければ!)
蜂谷は自分にそう言い聞かせながら、冷たい夜風の中を必死で走り続ける。胸の鼓動が耳の奥で鳴り響き、息が切れそうになるが、足を止めるわけにはいかない。周囲はいつもと違う不穏な静けさに包まれていたが、不意に遠くから大きな音が響いた。
「……何?」
一瞬、何が起きたのか分からず、蜂谷は立ち止まり耳を澄ませた。その瞬間、夜空に轟く音と共に、鮮やかな光が視界の隅に広がった。花火だ。今夜が隅田川の花火大会だったことに、蜂谷はそこで初めて気付いた。
(そうか……隅田川の花火……)
普段ならば、その華やかな景色に心が和むはずだった。しかし今、その音は彼女にとってただの遠い世界の喧騒に過ぎなかった。
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