空に糸をかける


長らく架空の生物と信じられてきたドラゴンの実在が確認されたのは21世紀後半のことであったが、「異能」の発現のほうが人類にとっては驚異であったため、ドラゴンの調教や人工飼育に成功したというニュースは超常黎明期の混乱の陰に埋もれた。
また日本において野生ドラゴンの生息は確認されておらず、海外から輸入した小型ドラゴンを研究・飼育する施設が国内に一か所のみ。ドラゴンの“個性”を有したヒーローが活躍しているにもかかわらず、日本人にとってドラゴンは、決して馴染み深い生き物ではなかったのである。
「それがまさか、こんなことになるなんてねぇ」
ホークスは眼下を悠々と飛ぶ巨大な爬虫類を眺めて目を細めた。真っ赤な鱗が日差しを浴びてきらめき、全長6メートルを超える巨体が長い尾をうねらせる。空の支配者然とした堂々たる姿は、彼らに天敵が存在しないことを示している。翼にはコウモリのような飛膜を持ち、その羽ばたきは鳥よりも静かだ。本気を出せば向かい風でも時速100キロ以上、急降下時には400キロ近くを出す彼らだが、今はホークスのジャケットに仕込まれた匂い袋に誘導され、ゆったりと空のお散歩中だ。機嫌良さそうに体を上下にくねらせるのを、ホークスは苦笑気味に見守る。ドラゴンが楽しそうなのは何よりだが、問題はその背に設置された鞍に、人間が二名へばりついているということだ。
二連構造の鞍の前に陣取った男は、必死の形相でレバー型のハンドルを握りこんでいる。しかしいくら力んだところで、ドラゴンに指示が伝わらなければ意味はない。
「エンデヴァーさん!」
ジャバラ式の人工羽の角度を手元で操作し、すぐ頭上まで降りて声をかける。
「ドラゴンの扱い、自分ならできるって大口たたいてた割になってないですよ。燈矢くん酔いやすいんだから、もっと落ち着かせてあげないと」
「分かっとる!」
言われたほうは憮然と言い返してきたが、初めてのドラゴンライド、しかも同乗者あり、さらに右手は使い慣れているとはいえ義手、ときては余裕がないのも致し方ないだろう。鞍のハンドルはドラゴンの前足の根元を一周するロープにつながっていて、よく教育された彼らはハンドルの動きから、降下や上昇、方向転換や飛行速度の指示を認識してくれる。馬の手綱のようなものだ。かといって、初心者がいきなり完璧に扱えるものではない。だから今日は並走飛行するホークスが、進行方向やスピードを誘導する役割を担っている。
ホークスは前に回り込むと、こちらの羽がぶつからないよう注意しながらドラゴンに近づき、その鼻の頭を撫でてやった。ブルル、という熱い吐息がグローブ越しにも伝わる。ライドジャケットのポケットからリンゴを取り出して差し出すと、人間の顔ほどもある黄色い目の中で、瞳孔がキュンと細められる。ガバリと開かれた牙の並ぶ口にリンゴを放り込んでやると、満足げに喉を鳴らした。いい子、と声をかけて額をくすぐるようにひっかく。すると動きがおとなしくなり、体も水平に戻してくれた。少し前から飼育者にレクチャーを受け、この個体とも仲良くなっておいたおかげで、これくらいはお手のものだ。
鞍の上ではエンデヴァーが、こちらの一挙手一動足に目を凝らしているのが分かった。次は自分でもできるよう、見て学ぼうとしているのだろう。勉強熱心な人だと、ホークスは改めて思う。
「今日は俺がサポートしますんで、リラックスしてください。動物にはそういうのよく伝わるんですから、まずはあなたが楽しまないと。空の上は慣れてるでしょ」
「生き物の上には慣れとらん」
ぐぬぬと歯を食いしばるフレイムヒーローをどうどうといなすと、ホークスは背中のエンジンの出力を調整し、後部座席に回った。
「それでどう、気分は」
高度を下げ、ほぼ横並びになる。革張りの鞍に窮屈そうに腰かけている男の顔をのぞきこむと、気怠げな一瞥が返ってきた。
「おまえのお望みの空だよ」

荼毘――轟燈矢は、身柄が確保された時点で全身が重度の熱傷による崩壊の寸前で氷結、意識も混濁していた。常人であれば到底助からないであろう状態であったが、本人の体内で発現していた冷却の“個性”とセントラルの医療技術により、なんとか命がつなげられた。
個性抑制剤を投与し、医療施設にて治療と拘留を行いながら、並行して裁判が進められることとなった。しかし彼に残された時間が短いことは、誰の目にも明らかだった。
何かやりたいことはないのかとたずねたのは、同情からでも、憐憫ゆえでもなかった。ただ管につながれて死んでいくことが、彼の人生の終着点だと思いたくなかったのかもしれなかった。
ホークスの問いかけに、荼毘は人工の骨格と皮膚で構築し直され一層表情の読み取りにくくなった顔をほんのわずか振り向けると、小さく「そら」とつぶやいた。

そらを飛びたい。

量刑確定前のヴィランの数時間の外出のために、大量の手続きと根回しと書類の束、その他諸々が積み重ねられた。
で、どうやって飛ぶ?という根本的な議題が後回しになっていたことに気づいたのは、外出許可をもぎ取ってからのことだった。ここからまた護送計画と警備プランを組み立てて、ふたたび書類の山に埋もれることになる。さまざまな手段の中から最善を選び出そうと頭を絞っていたホークスは、荼毘にふと「ドラゴンとかどう?」とたずねた。荼毘は心底怪訝そうに眉をひそめた。
その反応で決めた。

群訝一帯を更地に変えてしまった一連の戦闘や、死柄木による地表の崩壊をきっかけに、各地の山中に潜んでいた大型ドラゴンが大量に出現したことを荼毘は知らなかった。
棲家を失った野生のドラゴンは保護され、国内外の飼育者及び研究者の尽力によって広大なドラゴン保護区や飼育場が整備された。ドラゴンは鳥や小動物、果実を好んで食べ、知能が高く、人間によく懐いた。調教を受けたドラゴンへのライド体験はスカイレジャーとしてあっという間に一般化した。かの戦いから数年が経過した今、日本はもはやドラゴン大国なのだ。
ところがずっと病床に縫い留められていた荼毘は、当然その実物を見たこともなければ、触ったこともないのだった。
それならもう、ここはドラゴンでしょう!
というホークスの提案にエンデヴァーは渋い顔をした。空に何で行くにせよ、操縦桿を握るのは自分であるべきだ、という主張を頑として譲らない元No.1――現在は権威主義や競争、抑圧を加速させていたことへの反省からヒーローチャート自体が廃止となった――ヒーローも、乗ったことのない動物にまたがって空を飛ぶことになるとは思っていなかったらしい。
「上空でのナビゲートは俺ができますし、もちろん警備役も兼任します。せっかくなら少しでも滞空時間が長くて、装備も簡易で済む手段がいいでしょう。あいつの言ってるのは、単にヘリや飛行機に乗りたいっていうのでも、ましてやスカイダイビングでもなさそうですから」
荼毘が空に行きたいなどと言い出した理由に少し思い当たるところのあったホークスは、そう説得した。
エンデヴァーはやると決めたら突き進む男だ。ついに首を縦に振ると、次の休みに練習しておく、と力強く答えた。
ドラゴンに乗れるよと伝えると、荼毘は興味のなさそうにまぶただけでうなずいてみせた。

その結果、無事に三人と一匹での空中散歩にこぎつけたのだ。エンデヴァーは宣言どおり練習に臨んだそうだが、時間が足りず講習と地上での簡単な体験に留まり、実際に空中まで飛翔するライドはぶっつけ本番となった。それにしては上々の乗りこなしっぷりといえるだろう。
さすがの勘の良さだ。そう思うと同時に、胸に自然と誇らしさのようなものが沸き上がるのを感じる。やはり彼は今でも、自分の憧憬の対象に変わりない。いざというときは自分がハンドル操作を代われるように準備しておいたが、その必要はなさそうだった。
下層雲を足元に見下ろし、燦々と降り注ぐ日差しを浴びながら、以前はたったひとりで駆けていた青空をのんびりと飛ぶ。
周囲には当然厳戒態勢が敷かれ、戦闘機が控えているが、ドラゴンを刺激しないよう一定の距離を取って飛行していた。それもホークスの計算のうちだった。この時間だけは、できるだけ外野の視線から遠ざけてやりたいと思っていた。
荼毘の青白い顔を見て、ホークスは背負っているジェットエンジンの出力を最小限に弱めた。ちょうど良い風をつかまえて、ドラゴンも羽ばたきを止めている。人工羽の角度を調整しながら滑空しているだけで十分ついていける。いずれにせよ、誘導係の自分からドラゴンが離れて飛んでいってしまうことはない。
エンジンの駆動音が小さくなると、こわばっていた荼毘の表情がほんの少しやわらいだ。
「やっぱり酔い止め飲んでおけばよかったのに」
「……いらねぇ」
荼毘は答えるのも億劫といった様子だった。酔い止め薬は医師に事前に承認を受けたもので、乗る前に飲むよう勧めたのだが、「必要ない」の一点張りだったのだ。結果として今の彼は、決して気分が良さそうには見えなかった。
「どう、実際の空は」
それでも一応たずねる。荼毘はずるずると鞍の背もたれに身をあずけ、「つまんねぇ」と答えた。
「そう?残念だな。ドラゴンはお気に召さなかった?」
「いや、空が」
「そっちかぁ」
ということは少なくとも、ドラゴンには多少なりとも新鮮味を感じていただけたらしい。地上で巨大有翼爬虫類と初対面を果たした際に荼毘の浮かべた表情を思い出して、ホークスは頬をゆるめた。
しかし肝心の空が期待外れとなると、ここまで連れてきた甲斐がない。
「空を飛びたいって言ったのはおまえでしょ」
「まぁな」
力無い声で続けた荼毘は、「全然大したことねぇ。こんなもんか」とつぶやいた。
吹き抜ける風がその白い髪をかき混ぜていく。地表ではすでに桜が満開だが、そこから1500mもの高さにまで上がると、さすがにまだ春のあたたかさにはほど遠い。ただ遮るもののない太陽が力強く熱を発してかがやき、季節の変化を告げていた。
「そもそも、どうして空なの」
その問いに、荼毘はちらりと視線を寄越した。しかしその目線はすぐにそらされ、正面に戻るとそこに父親の背中があることに改めて気づいたようで、ふたたびウロウロとさまよう。そしてとうとう目を閉じてしまうと、首を上向け、風にまぎれそうな小さな声で言った。
「空は気持ちいいって、言ってたやつがいた」
「あ」
ホークスは自分の口から飛び出た声を慌てて飲み込んだ。
やっぱり覚えていたのか。もしかしてと思ってはいたものの、正直なところ意外だった。
たしかにそう言ったことがある。戦線への潜入中、荼毘の誘いに乗る形で自分たちは寝ていて、ある日『空飛ぶのとイくのとどっちが気持ちいい』などという馬鹿げた質問をされたので、投げやりな気持ちで前者だと答えたのだった。その後散々な責め苦を味わわされたのでこちらとしてはしっかり記憶に残っていたが、相手はすっかり忘れているだろうと思っていた。それくらいの、何気ないやり取りのつもりだったのだ。
「おまえ、もしかして、その前から空飛んでみたかった?」
荼毘は否定しなかった。薄目を開いて、真っ青に広がる空を見上げながら「おまえが、九州で、お父さんと飛んでた」と独り言のようにつぶやいた。
「羽で押し上げて、高く、空の上まで飛ばして……」
ひとつひとつ記憶をたどるようにそう言うと、荼毘の口元が急に笑いの形にゆがんだ。そしてクッと喉を鳴らすと、背もたれにあずけていた頭をホークスのほうにぐるりと振り向けた。
「あれ見て、おまえの羽は絶対に燃やしてやろうと思ってた」
それまでの弱々しい声がうそのように、はっきりとホークスの目を見て荼毘はそう言った。その瞬間、ホークスは会敵の緊張感が久しぶりに背骨を走るのを感じた。
「へぇ」
まるでその一瞬だけ、山荘で対峙したあの日に戻ったようだった。ホークスは反射的に湧き上がる高揚を抑えながら、「じゃ、そんときから狙ってたんだ」と笑い返してやった。
「目標達成したわけだ。さすがだね」
ホークスの嫌味が十分に伝わったのだろう。荼毘は舌打ちと共にふたたび脱力し、不満げにこちらを睨み返した。

意識を取り戻した荼毘のもとを初めておとずれたとき、荼毘はかすれた声で「まだ生えねぇのか」と言った。
勝ち誇ったような色がそこに見て取れたので、ホークスは彼があの対決の後、テレビ越しの記者会見以来、初めて自分を見たのだということに気がついた。
山荘で彼に根本から焼き払われた羽は、決して失われたわけではなかった。義羽による補強によって飛行が可能な程度にまでは回復し、その上で臨んだ戦闘において、自分の背中から永遠に消え去ることとなったのだ。
「残念ながら、奪われたのはおまえにじゃないよ」
その言い回しで、男は悟ったらしい。目を見開くと、ベッドに横たえられた全身から、すうっと力が抜けていった。
なんだ、と荼毘はつぶやいた。
「生えてきたら、また俺が燃やしてやりたかったのに」
そのときホークスの目には、荼毘をこの世につなぐ糸がひとつ、プツンと切れてしまったのが見えた。
たった数本しかない、細い細い糸だった。
あまりにも弱く頼りないそれが、けれどたしかに、死にゆく彼の生命を支えているのだと、そのときにホークスは理解した。
どのような形であれ、彼にとって自分がその糸のひとつであったのだということにホークスは気がついた。それと同時に、むずがゆい感情が自分の胸を駆け抜けていくのを感じた。よろこびにも似た、ヒーローとして人々を救うときに感じる使命感とはまた別の何かが、その瞬間たしかにホークスの心臓をくすぐったのだった。

荼毘はホークスの装備が気に食わないようで、隣り合って飛ぶ姿を改めてじろじろ見分すると「もうそんなの背負わねぇと飛べねぇのか、ダセェな」と吐き捨てた。
たしかに骨組みに飛膜を張った簡易的な翼と機構がむき出しのエンジンは、洗練されたデザインとは言い難い。公安のツテを頼れば、今日の付き添いフライトのために最新鋭のアイテムを入手することもできただろう。しかしホークスは、この羽をそれなりに気に入っていた。
「雄英のサポート科出身の子が用意してくれたんだけどさ、シンプルだけど使い勝手が良くて俺に合ってる。なかなかのものだよ」
正確には事情を聞きつけたツクヨミが、今や業界大手のサポートアイテム社の開発部で活躍しているという元同窓生に打診したところ、たった一晩で完成させて送ってくれたものらしい。「彼女とは騎馬戦で力を合わせ戦った仲」だそうだ。
学校というものに通う機会を得られなかった自分には分からなかったが、若い世代の交流というのは見ていて気持ちがいい。彼らの厚意が素直に有難く、使わせてもらうことにした。
剛翼を失い、ヒーローとしては事実上引退している。本来であれば、このようなサポートアイテムを使用する資格もない。しかし今のホークスの立場は非常に微妙、というか、あえてあいまいなポジションにとどまっていた。
あの戦いによって、日本社会もヒーロー界も公安組織も、壊滅的な打撃を負っていた。やるべきことは山ほどあった。その処理が落ち着くまでという名目でひとまず公安の所属からは抜けず、被害地域の復興支援と戦線の残党の情報収集、活動中のヒーローのバックアップと傷ついた同僚たちの回復のサポートなど、できることには何でも手を出していた。立場が微妙ということはつまり、いきなり組織を放り出されるかもしれないということでもあり、裏を返せば権限を行使できる境界が不明瞭で、上手く立ち回れば多少の越権行為が可能になるということだ。その状況をフル活用することで、こうして荼毘に接触したり、無理を通すこともできている。
しかしすでに数年が経過して「後処理」も落ち着きつつあり、公安の新体制も軌道に乗ってきた今、自分がこれからどうすべきかは未だ決めかねていた。
社会においては、あの日サポートアイテムを駆使して魔王に立ち向かったオールマイトに象徴されるように、“個性”に依存しない新しいプロヒーロー制度の構築が必要だという世論が強まっていた。ヒーローチャートの廃止もその一環といえる。ヴィランを抑えるという目的を第一義としていたヒーロー社会のひずみが可視化され、大きな傷跡が残された中で、制度の抜根的な改革、強さや力に重きを置かないヒーローの新たな在り方が模索されているのだ。その流れの中で、捜査のためとはいえ世間を欺いてヴィランの一員として行動し、さらには人道に反する殺人の瞬間まで全国民の目に曝された元No.2、その上今は“個性”を喪失している元ヒーロー「ホークス」をどう評価すべきか、という議論が行われていることも当然知っている。
“個性”を持たずともヒーローとして活動できるようになったとして、それで自分は、果たして復帰するべきなのか……そもそも、したいのだろうか。ホークスは最近そんなことを考えている。
判断も行動もすべて最速でこなしてきたというのに、他でもない自分自身の身の振り方について答えを出せずにいるなんて。
しかしそれも、かつて実現したかった「ヒーローが暇を持て余す世の中」の在り方なのかもしれない。
「あのさ、荼毘。これはおまえには、ダサく見えるかもしれないけど」
ホークスは手元のハンドルを握り直しながらつぶやいた。
今背負っている人工の羽は、ずっしりと重たい。エンジン音はうるさいし、熱いし、使い慣れないからどうしたって動きはぎこちなくなる。すべて意のままに操れた、体の一部だったあの真っ赤な翼とは、何もかもが違う。
でも、それでもこうやって、飛ぶことができている。
「空にいるとさ、物事を俯瞰で見られるんだ。孤独だし、風の音しかしなくて、誰もいない。だから空を飛んでいる間は、自由だって思ってた。あのとき俺が気持ちいいって言ったのは、そういうことだったんだよ」
荼毘は関心のなさそうに、日の傾きはじめた西の空を眺めていた。でも聞いてくれているとわかっていたので、ホークスは静かに続けた。
「前の俺はさ、“個性”がないと、ここまで上がって来れないと思ってた。でもそうじゃなかった」
それはおそらく本当の自由ではなかったのだろうと、最近では思う。
「 “個性”を失っても、こうやって空に来れてるでしょ。俺もお前も、“個性”に関係なくさ。それを知れてよかったと思ってるんだよ」
「殊勝だな、俺の火に敗けたくせに」
荼毘は口元を皮肉げに吊り上げてそう言った。ホークスは呆れ半分で「勘違いしないように言っとくけど、感謝まではしてないからね」と付け加える。
「羽をあんな風に焼かれて、感謝する人間なんていないよ。でも正直、おまえのこと恨んでもいない。ただそれが事実ってだけ」
「つまんねぇやつ……」
恨めよ、とでも言いたげな目つきが可笑しくて、ホークスはけらけら笑った。すると前からエンデヴァーの大声が響く。
「どうした、燈矢が何か言ったか!?」
どうやら風の中では、背後で交わされている会話はほとんど聞こえていないらしい。いいえ何も、と普通の声量で答えると「何だ!?」とより一層大きな声が返ってきて、ドラゴンがそれに応えるようにギャオンと鳴く。どうやら彼らはすっかり息ぴったりのようだ。
「何も!気にしないで、そっちに集中してください!」
「言われんでも集中しとる!燈矢!俺に言いたいことは!何でも言え!俺はいつだって聞いてる!」
荼毘の顔をのぞきこんで促したが、むしろがっちり口元を引き結んでしまった。こればかりはどうしようもない。
それより顔色が一層悪くなったのが気になって、ホークスは胸ポケットからケース入りの錠剤を取り出した。
「やっぱ酔い止め飲みなよ。……あ、そっか」
しかしそこで荼毘の様子を見て、今さら気がついた。体をベルトで座席に固定されているのはエンデヴァーと変わりないが、右腕部分は義手もなく中身のない袖が絞られていて、残った左腕は、腹部の前で大仰な拘束具に縫い止められている。
薬と水を渡そうにも、相手に受け取る手がないのだ。強引に口に流し込むにしたって、自分も飛行しながらではとてもできそうにない。ドラゴンの巨大な口にリンゴを放り込むのとは話が違う。羽をたたんで鞍の後ろにまたがれば可能かもしれないが、いきなり乗る人数が増えたらドラゴンを驚かせてしまうだろう。つまり、この状況では飲ませてやることはできない。
「やっぱり出発前に飲んでおくしかなかったね」
「いらねぇっての」
「やせ我慢はかっこ悪いよ、燈矢」
あえてこれまで呼んだことのなかった名前を口にすると、うんざりした表情が返ってきた。お互い様だ、こちらだって最悪のタイミングで本名を利用されたのだから。
ちょっとした意趣返しのつもりで、ホークスは笑いながら言った。
「どうせなら、口移ししたげよっか」
ほんの冗談のつもりだった。当時の自分たちの関係を思い出すような会話を交わした後だったから、ほんの悪ふざけ、ただの軽口。そのつもりだった。
しかしまばたきの間に、ホークスは荼毘の表情に、何かが走るのを見た。
「あれ」
何だ、今の。
わずかな動揺で羽の操作がブレて、先端がドラゴンの鱗をひっかく。短い鳴き声が上がり、ぐわんと巨体が揺らいだ。エンデヴァーがハンドルを操作してドラゴンをなだめながら、「ホークス!」と抗議する。
慌てて「さーせん」と返しながら、ホークスは荼毘の横顔をまじまじと見つめた。
そこに浮かぶ表情は無気力そのものだ。あの戦いのあと目を覚ましてから、いやもしかしたらその前からも、ずっとそうだった。すべてをあきらめ、捨て去り、この世界のすべてを厭い、たったひとつの執念のために命を燃やしてきた男の目に炎を灯すのは、父親への怨嗟。ただそれだけだった。
そして戦いを経たあとの彼は、それすらも燃え尽きてしまったように見えていた。
けれど今、彼の瞳にほんのわずか、何かが走ったように見えた。彗星のような、一瞬の光が。
「あのさ、……本当にする?」
荼毘は答えなかった。うなずくわけでもなく、馬鹿げてると一蹴するわけでもなく、ただじっとホークスを見つめ返した。
そこに糸が見えた。
あの日、病室でプツンと音を立てて切れた糸が。
彼をかろうじてこの世につなぎとめる、細く頼りないそれが。
弱々しい一本の糸が、それでもこの空で、ホークスの目にはたしかにつながったように見えたのだ。
「あ、あのさ!」
焦るな、と自分に言い聞かせながら、ホークスは矢継ぎ早に続けた。
「ここじゃ難しいから、あとで、降りてからでもいい?」
絶対に切らせたくなかった。糸を少しでも強く、長いものにしたかった。荼毘は相変わらず無表情のまま、ふいと顔をそらしてしまう。
否定されないということは、それでいいということだろうか。それでも確認しないわけにはいかない。無粋だろうがなんだろうが、構わない。言葉を重ねる。
「ねえ、本当におまえ、分かってる?」
自分が携帯してる酔い止め薬は後から飲んでも効果のない種類のもので、ということは降りてから口移しで飲ませようってそれ自体に意味はなくて、それってつまり、つまり自分たちがしようとしてるのは、ただの……。
そこまで言ったところで、荼毘がうっとうしそうにこちらを向いた。
「うるせぇな。……もういいから黙ってろ」
これはさすがに、「分かってる」という意味に取ってよさそうだった。
「じゃ、約束だね」
ホークスは自分の頬が熱くなっていることを自覚しながらそう言った。荼毘は疲れたように目を閉じて、それでもたしかに、小さくうなずいた。

西の空で太陽が赤く燃えていて、荼毘の横顔も赤い光に照らされていた。
紅色のドラゴンが、夕陽に呼応するように大気を震わせて鳴いた。炎のヒーローがホークスの名を呼んだ。そろそろ降りる時間だった。冷たく青い夜が、じきにおとずれようとしていた。
ホークスは、まぶたを閉じたままの荼毘の横顔から目が離せなかった。
目を閉じていると寝たか死んだか分からない、とかつて自分が言われたことを思い出す。ちょうどこの男に背中を焼かれた直後だった。あのとき自分に声をかけてくれた先輩ヒーローの気持ちが、今ならよく理解できる。ホークスは彼がそうしてくれたように、目の前の男に呼びかける。
「燈矢」

ねえ燈矢、目を開けて。太陽がまぶしいならゴーグルを貸すよ。このまま夕焼けを一緒に見よう。おまえもきっと気に入るよ。そして降りたらキスをしよう。それまで行かないで。あと少し。ほんの少しでいい。
おまえの望みをひとつ叶えて、新しい約束をひとつ作った。その約束を叶えたら、また次の約束をひとつしよう。
そうやってひとつひとつ重ねていって、いつかそのどれかが、叶えられない最後の約束として残るんだろう。
それが今日でないといい。明日でないといい。できれば明後日でもないといい。
そうやって少しでも、おまえをつなぎとめられたらそれでいい。俺にそれができるのなら。“個性”なんてなくても。ヒーローじゃなくても。ただおまえにとって俺が俺であるというだけで、それができるというなら。
細い細い糸を、かろうじてつなげられるのなら。

今の自分にとっては、ただそれだけでいい。

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