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 明るく正しく生きることとは、誰しもに見栄え良くうつるわけではないのだと知ったのはもうだいぶ昔のことだった。
 神経質で少しカッとなりやすい父親と、聡明で朗らかだがお嬢様気質の母親と、一歳年下のマイペースな妹と暮らす一軒家は俺にとってとても緩やかな牢獄の様だった。
 逆らったり間違えばすぐに平手打ちで怒られていたので幼少期はいつも父の機嫌を伺っていた。フラストレーションは溜まる一方でも誰も父を悪いとは言わなかったし母の口癖といえば「あんたが悪いんだから」。当然、その仕打ちを見て育つ妹は怒られるような失敗は犯さないように上手く生きた。
 狡いなと思う反面、妹が叩かれたり叱られたりするよりはいいかと無理に納得する。
 とはいえ、当時は躾で厳しくされるのにも限度があったし、今みたいに死ぬまで殴るとかあてつけに暴力を振るわれたりするような虐待というのとはやっぱりちょっと違っていて、自分が悪いからその報いを受けているという方程式は俺の中ではずっと「正解」だった。
 優等生でいること、人の道をはみださず前に倣ってなんとなく皆と同じ生き方を会得すること。
 それがいつの間にか全ての理不尽から目を逸らし誰の目にも留まらない同じ百の内の一に擬態する方法なのだと防衛本能として培われていたのだと思う。
 及第点でいることの安寧が俺の幸せであると、随分長いこと思い込んでいたのは事実だった。
「亮はつまらないよね。自分の意思がないわけじゃないのに何でなんだろ」
 普通を装って平凡の温さを保って生きてきたからには、周りに倣って彼女を作ったりしたこともあるが、こうやって初めて付き合った女の子にそう言われた時には地球がひっくり返ったぐらいの強い衝撃を受けたのを覚えている。
 つまらないって何だろうか、面白い人間ってどんなヤツ? 普通の感覚で普通の暮らしをして普通の感性で生きている人間に、面白みを求めるお前はじゃあ、面白い人間なの?
 それから、普通であることを懸命に装ってきたつもりだったのに、知らないうちに周囲からはつまらない人間に自分が部類されていたことを知って凄く焦った。周囲を見て上手くやってきた自信があったから尚更。
「榛葉おもしろ~い」「榛葉、お前うるさくてちょうどいいよな」「榛葉呼べば盛り上がるんじゃね?」「馬鹿で元気なのが一番いいよな」「なんも考えてなさそうでらく~」
 つまらないということはつまり、人間としての価値をつけられていないのだと思うと悔しくて、ならばと面白い人間という部類に割り込むために必死に努力した。
 誰かといるときはいつも笑っている、ポジティブに話を転換させる、伺うばかりではなく陰陽全部を巻き込む鈍感さ、それから、その“面白さ”についてこられないものを追わない強さ。
 気づけば周囲にはたくさんの人がいて、皆笑っていた。俺は成功した。道化を演じる自分という存在に多くの人が価値を見出してくれている気がしたのだ。いつしか家族にですらもそうあることが普通になっていて、馬鹿で能天気な姿へと成長した息子を見た父は「お母さんに似たんだな」とにこにこしてくれた。
「いつまでも学生気分でいられても困る。君は少し落ち着きなさい」
 なのに、それなのに、流れのままに入社した先ではそう言われるのには今度こそ心から疲れたと思う自分がいた。つまらない人間から面白い人間になったら、今度は何になればいいのか。つまらない人間に戻ればいいの?
 その答えは結局わからなかったが、こんなことは誰に聞くわけにもいくまい。その日から機械的に自我の切り替えを行う日々が自動的に始まって、社内では“つまらなくとも落ち着いた新卒会社員”を演じ、出先では“やや面白みのある溌剌とした新入社員”を演じ、友達の前では“完全なる馬鹿の道化”を演じていたら、ある日の通勤ラッシュの雑踏で一体どれが自分としてあるべき姿なのか分からなくなって立ち止まってしまった。
 誰から見ても誰かに都合のいい存在。これでいいのかな、俺の人生。立ち止まった俺を避けながら流れるように流麗に雑踏は前へ前へと進んでいく。
 自分らしくあるがままに生きたら楽なのは分かるが、自分らしいとはいったい何なのか俺は知らない。優等生の自分。つまらない自分。馬鹿な自分。面白い自分。気づけば全部、誰かの俺だ。
 なら、俺は本当の自分を知らないままで生きていていいのか? いろんな場所でいろんな自分を使い分けて、そうして一生を終えていいのか? 他はどうなんだ。本当の自分とはどういう人間なのだろう。
 そうやって会社にも行かずに家にも帰らずに丸一日駅のホームのベンチに座って延々と考えていた時、ふと背の高い黒い背広の男の人が目の前を横切って行くのをなんとなく目で追った。
 近くには学生服の男の子が一人。対面のホーム以外、他は誰もいない。
 泣いていたし何かあったのかなと思う。まさか自殺志願者? まさかね、とそれでもその人のことが気になってじっと見ていたらあの黒い背広は喪服だとはたと気が付いた。そこで、少しじゃなくあの人死にたいのかな? と思った。人身事故での電車の遅延は何度か経験していたけれど直接現場に居合わせたことはまだ無い。とてもじゃないが、気まずくなって目を逸らす。
 そういう知らせを目にする度、いつも思っていた。現場に居合わせた人というのは、死ぬ気がある人のことが外見の様子で分からないものなのだろうかと。止められないもんなんだろうか、と。
「…………」
 実際はこれほどあまりにもわかりやすかったので正直怖じ気づく。止めるとか止めないとかじゃなくて、関わりあいたくない気持ちの方が大きい。出来たら気が付かなかったふりをしてこの場を去って、事実から目を背けてしまいたいドキドキで考える余裕がなくなっていく。心臓付近にはちっちゃく、止めなくちゃと思っている自分がいるのに、頭ではでもとかまさかとかそんなはずがとか理屈をこねくっているばかりで足は動かない。
 そうしているうちに構内アナウンスが流れた。右方向からがたんごとんと迫りくる重たい死。ぱっと顔をあげるとリュックを背負ったさっきの学生が男のすぐ斜め後ろに立っていた。握りしめた右手の拳が少し震えているのが見えた瞬間、ああ、なんて勇気のある自分自身を持っている人なのだろうと悔しくなった。
 途端、今まで何に迷っていたのか恥ずかしくなるほどちっぽけな生き方だったことがそれですらもどうでもよくなってくる。馬鹿野郎、これでいいはずがないんだ、俺の人生は。
 誰に求められる人生じゃなくてもいい。すぐに変えられなくとも見つからなくともそれでいい。自分が例えどういう生き方をしていようが、目の前で死のうとする人を理由なんてなく引き止められるような人間になりたい、とその時初めて心の底からそう思った。



 実際本人に直接確かめたことはなかったが、しまちゃんはあの日、恋人を事故で亡くしたショックで死のうとしていたというのは多分本当のことだった。
 しまちゃんはあたかも俺が全ての事情を知っている様な素振りであの時はありがとうとあいさつみたいに使ってくるが、しまちゃんの恋人が誰でなんという名前でどういった人なのかなんて知らないし、増してや当時どんな状況で命を落としたのかだって全く分からなかった。
 だから、どんな話題が地雷かも見当がつかないままおちゃらけて話題を振ると度々世戸に睨まれることがあったけれど、使い慣れた道化で触れてしまったからには「気にしたりしない」もしくは「できない」のが常態化している。表向きの俺には何ら刺さらないものの、ないようであるのであろう本当の俺は自分の言動のくせにその鈍感さに傷ついていたりする。
 八年前に自分の人生など全部どうでも良くなった割には、急に生き方を変えることも出来ないままで、相変わらず場所場所での自分のキャラクターを演じてしまっている日々。楽になった気がするのは、そうしていることが苦痛だった時よりもそうしていること自体どうでもよくなったからで、今はしまちゃんがこれからどうしていくのかを見守ることだけに真剣に夢中になることで全部をなあなあに誤魔化して生きていた。
 最初こそ一年経ったらよっぽどマシな顔をするようになるのではなかろうかなんて愚かな予想に反して二年経っても三年経っても、果ては八年経ってもまだ出会った頃のまんまずっと悲しい顔をしているしまちゃんは「悲しい自分」をわざと忘れないようにしている。
 それに気が付いたのはもうだいぶ昔のことになるが、どうしてか内側にいる人ほど気が付かないものなのだなといつも思う。
 世戸も、“ゆみや”も、吾妻さんも、しまちゃんの独りよがりの酩酊に惑わされてとても重大な束縛を長い間している様に感じる。
 悪いことだとは言わない。しまちゃんはもうあの瞬間以降自分で死ぬ気は絶対にないのだと俺は、あと多分世戸も思っているだろうけれど、その場にいなかった人たちにはもしかしたら分からないことなのかもしれない。
 それにしてもあんまりにも長い間前に進むことを拒み続けているのは明らかで、言わば、周囲が悲しまなくなることを恐れているしまちゃんの真っ黒で狡い生き方は傍から見たら迷惑極まりないとはっきり思う。
 きっとそれほど、しまちゃんは恋人のことを誰にも忘れて欲しくないだけなのだろうとも勿論分かっている。多分本人も自覚しているからこそたまに零すのは「周りに迷惑ばっかりかけている」とか「今更進んでいけない」という自分自身の生き方に対する愚痴であるようにも聞こえる。
 いなくなったことを認めたくない。進んだら恋人を裏切ることになるのではないか。忘れられていくことで自分が一人になっていくような気さえする。
「…………」
 分かる。あなたの考えていることは手に取るように分かるよしまちゃん。
 だからこそ、それを甘やかさない人間が居たっていいと思った。しまちゃんに今必要なのは俺ではないけれど、多分、きっと、死んでしまった恋人が望んでいるのは今のしまちゃんの姿では決してないと思ってしまうから。
 こうして不毛な来店は今日も恙なく続く。いつもの席でいつもの距離感で対面しながら喋ったり喋らなかったり、しまちゃんの世界にとって圧倒的異物としてあえて存在し続ける。
 しまちゃんがいつか、この止まってしまった世界線をぶち壊すためのきっかけを与えるために虎視眈々とそのチャンスを狙っているのである。
「榛葉、根菜好き? 今日のおすすめなんだけどどう?」
「好き好き。俺なんでも食えるからなんでも出してちょうだいよ。喜んで食うよ」
「はは。好き嫌いなくて最高じゃん。人生薔薇色」
「しまちゃんは嫌いなものあるっけ?」
「ん~……。昔は肉があんまりだったけど。今は言うほど嫌いなものはない。榛葉は出したらなんでも美味いって食ってくれるから作り甲斐があるよ」
「俺ってば毎晩しまちゃんの手料理食わせて貰えて世界一幸せものだな~!」
「あー、……いや、幸せならいいけどもな……」
 本当は、恋人さんも幸せだったろうなぐらいは言ってやりたいくらいだが、空気感だけぶち壊せたって意味がない。もっと根底から、もっともっと基本的な部分から跡形もなくなるぐらい更地にしてやるきっかけが欲しい。でもそれきり、ぱっと目を伏せて料理に集中するふりをして黙るしまちゃんを見て世戸が後ろからグラスビールの底をなかなか激し目にカウンターへたたきつけてくる。
「たいへんお待たせしましたあ。店長にいらんちょっかいかけないでくださあい」
「かけてないわ。事実を言ったんだ事実を」
「アンタと連想ゲームしたら地獄みたいになりそうだから今度場外でやりません? 俺が勝ったら二度と来ないでくださいね」
「え~。連想ゲームとか楽しくなさそうだしいや~」
「なら余計な言葉選びばっかすんな。店長にだけでいいからもっと気を遣って生きろ」
「ン何がだよお……」
 誤魔化して知らないふりをするのも疲れるっつーの。世戸も分からんヤツだ。
 だって、誰かが過去にしてやる流れを作らないと、永遠にこうだよ。誰かが話題にしなくても誰もが忘れたわけじゃないっていつになったらしまちゃんは思える日が来るだろう。もどかしい理由は分かっている。本当は赤の他人の自分なんかじゃなくてもっと近しい人がそうしてあげるべきだから。その方がずっとしまちゃんにとって説得力があるとも思う。
 でも、「忘れたら絶対に許さない」オーラがしまちゃん自身を蝕みながら今日まで絶え間なく発されていることにより事情を知る人間のうちで誰より辛いのが明確なしまちゃんを傷つけるのを皆が恐れているのだからしょうがない。
 誰かが汚れ役を買わないとならないのなら喜んで引き受ける。それでしまちゃんに疎まれても蔑まれても構わない。
 もう一回、心から笑おうとしてさえくれるのならば。
「…………」
 とは言え、と気取られないように静かにため息を零してちょっと落ち込む。
 八度目の命日を繰り返したという週末を超えた月曜の夜。まばらな常連もそろそろ帰っていく時間帯になってきて、ここに来る前に変えたばかりのスマートフォンをちょんと触るとあとちょっとで零時になるところだった。
 今日もまた、何も壊してやれないまま無意味な異物としてしまちゃんの世界に居残る俺はいつまで経っても情けないのは言い訳しようもない事実。
 いい加減、一体いつまできっかけを「待つ」気でいるのだか。
 遣る瀬無い気持ちのままビールに口をつけたその時、カラン、と乾いたベルの音がして入口の扉が開いた。
「おーす。お、今日もいるね榛葉」
「いらっしゃい」
「こんばんは」
「隣いい?」
「もちろんどうぞどうぞ」
「世戸くん。ハイボールくださーい」
 上着を脱ぎながら朗らかにそう言って笑ったのは吾妻さんだった。先週のいつだったか、店が物凄く賑わっていた時突然しまちゃんが調子の悪い理由を知っているかと聞いてきて驚いた。その時なんとなくこの人はもしかしたらしまちゃんを前に進ませようとしている人なんじゃないかと感じて真面目に取り合ってみた。
 俺の考え自体をどう思ったかは分からないままだけれど、そのあとしまちゃんのことが好きかと聞いてきたからには、きっと多分吾妻さんも「きっかけ」を探している人だろうと勝手に思うことにした。
 言わば、俺の味方だ。しまちゃんの世界線をどうにかして壊し隊。だから吾妻さんとはもっと直接的な救済の話を一度してみたいとは思うのだけれど。
 ふーとかはあとか言いながら早速出てきたハイボールに口をつけた吾妻さんはふとこちらの手元を見たままあれ、と呟いた。
「……あれ、榛葉スマホ変えた? そんな色だったっけ」
「え、ああ。これ……。嘘みたいな話なんですけど、今朝会社の屋上から手が滑って落としちゃって……」
「お、屋上……?」
「俺の勤め先、月曜日は社員全員屋上に集めてラジオ体操するんです。やばいでしょ。早めに行ってスマホいじりながら煙草吸ってたら手が滑って」
「こわあ……下に人居なくて良かったな……」
「ほんとですよね。真下の池に落ちたんで不幸中の幸いでした……。番号引き継ぐとかよく知らなくて普通に新規で買ったから番号変わっちゃって……。ま、ほとんどの人とは会社の端末で繋がってるから別にいいんですけどね!」
 これは因みに本当の話で、ここにくる直前ギリギリでこの端末を手に入れた。顧客といつもやり取りしている会社のスマホと違って個人のスマホはほぼほぼ使わないから番号が変わって影響があるとすればしまちゃんとのやり取りぐらいだ。店に行く時間を連絡できないのも困るなあと思ってなんでもいいから急いで買ってきた、なんて言うとまた世戸にキモイと言われるのだろうが。
 大方同じことを思ったのか、やり取りを聞いていたしまちゃんがこちらを見てそうなの? と言ってくる。
「じゃ、メッセージも新しい番号じゃん。大事なことなんだから、来た時に言っておいてよ。ちょっと待って。スマホ裏にあるから今持ってくる」
「あ、なんかごめんね……」
 にこっと笑って裏へ引っ込んでいくのを見て、どうせならば登録も手っ取り早い方がいいだろうと隣を向いた。
「しまちゃんの番号見せてもらえませんか。着信残した方が早いと思って」
「ああ、いいよ」
 ここまで、別に何を企んでいたわけじゃなかった。しまちゃんの世界をこういう形で壊そうとしていたわけじゃ、全然まったくそんな気なんて微塵もなかった。
 だから、吾妻さんが見せてくれている画面に並んでいる数字をただただ打ち込んだし、何を疑うこともなく通話ボタンを押した。
 ワンコールかけて、そのまま切ったのだ。
 ちょうどしまちゃんが暖簾から出てきたのでいまかけたよ、と話しかけた。


「…………え……?」


 そう呟いて画面を見つめたまま、しまちゃんは全ての動きを完全に止めた。無表情のまま微動だにしなくなったのを見ていたのは数秒で、何かおかしいと反射的に立ち上がった吾妻さんが朗と呼びかけた次の瞬間、しまちゃんは「なんで?」と恐ろしいほどまっすぐにこちらを見た。
「朗? どうした、大丈夫か?」
「え、何、何で?」
「……しまちゃん……?」
「何で朔の番号なの」
「……は?」
「え」
 思わず吾妻さんと同時に手元にあったスマホを見た。だって、つい先ほど新規で購入したスマートフォンだ。頭の中でぎりぎりと辻褄のネジがまわる。つまり、何もかもが新しかったはずのこの端末には、八年の時を超えてリサイクルされた“さく”の番号があてがわれたのだと紐づいた時、何故だかやはり、“さく”もしまちゃんの世界が壊れるのを望んでいるような気がした。してしまった。
「……」
 絶句したまま再び自分のスマートフォンに目を落としたしまちゃんは「解約はしないでって言ったのに」と心から疲れた声でそう零した。
 店内には少し前に帰ったテーブル席の客以外いなかった。立ち上がったまま何も言えないでしまちゃんを見つめる吾妻さん。洗い物で濡れた手をだらんとしながら足元を見つめて何かを思考する世戸。
 そんな中俺は一人、ああ、本当の味方はさくだった。チャンスは今、俺にだけ到来した、と思った。






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