コメンタリー:8.その心に報いを

8.その心に報いを

 物語のクライマックスです。「その心に報いを」というタイトルは、近年好きな歌の歌詞のフレーズが耳に残っていたためそれに引っ張られたのかもしれません。そちらは「その心に愛を」というフレーズなのですが、「報い」としたのは、ストレートに「愛」と表現するよりも、ここまでの二人の選択や行動の結果が複雑に交錯した結果、この結末に繋がったのだということを強調したいと思ったからです。因果が応報した結果ということです。ロクスブルギーに再会することを最優先に選んできたルーにとっての「報い」は当然、ロクスブルギーとの再会であるべきでしょう。物語のクライマックスに据えるのに、これ以上相応しい言葉はありません。

 さて、第八話は解説しなければならないことが少なくありません。

 まず、冒頭で出てくるこの屋敷についてです。後々、読んでくださった方から感想などを聞いて、ここの冒頭の建物と、物語の最後で出てくるルーの自宅が同じものだというように伝わっていたりもしたみたいです。分かりづらくてすみません(直角の礼)。この屋敷は、ルーともロクスブルギーとも特に縁の無い、冒頭で説明されている通りの屋敷です。
 ロクスブルギーは骨董屋で棺を買ったものの、こんなものを背負っていてはどこへ行っても悪目立ちするという当たり前のことに気が付いたので、仮の拠点を構えることをしました。それに選んだのが、この森の中の屋敷です。明らかに長いこと人の手が入った形跡の無い、人里離れた森の中にあったのが適当だったのでしょう。距離としては、ルーの住んでいる街からそう遠くないのだと思います。軽い跳躍ひとつでバルコニーに上がったロクスブルギーは、窓ガラスを取り外しその一室を仮住まいとしました。

 ルーはロクスブルギーを探して、この森の中の屋敷に辿り着きます。人目を憚ってこの場所を選んだロクスブルギーのように、ルーも「彼ならこのような場所を選ぶのではないか」という推測のもと訪れたわけです。これはある程度ご都合主義的な展開ですが、ロクスブルギーを二十年も探し続け、夜鬼や吸血鬼のことにも詳しい男なのですから、それなりに近い距離にいて選択肢が限られてくるのなら、かなりいい選択ができるのではないかと思います。

 奇しくもそこは、かつてルーが家族で暮らしていた家を彷彿とさせるような屋敷です。導かれるようにルーはその部屋へ向かい、『本物』となった棺を見つけます。逸る鼓動を抑えて冷静に振舞おうとする姿は、彼が大人になったのだという長い年月を感じさせます。そして棺の中には、あの日と同じように眠る吸血鬼ロクスブルギー。彼を目覚めさせる一連の手順は、かつてとは打って変わってスマートで、どことなく色気を感じるようなシーンを目指して書きました。

 ルーの血の味で、ロクスブルギーは目を覚まします。その第一声は「苦い」でしたが、これにも理由がありました。『吸血鬼』は人間の血から、知識や記憶を読み取ることができるのですが、その中で嬉しい・楽しいなどの記憶は甘く、悲しい・苦しいなどの記憶は苦い味として認識されるのです。ですから子供、若者の血は甘く、長く生きている大人、老人の血は自然と苦くなっていくのです。この話は度々小ネタとして出している気がしますね。

 「おはよう、ロクスブルギー」――これは最初の回想、第二話で実際にルーがロクスブルギーにかけた言葉です。かつてと同じような場所、同じ言葉で吸血鬼との再会が果たされますが、この場においてはルーだけはかつてと大きく異なる姿をしており、ここでも過ぎ去った時間を意識させるような描写がされています。
 ロクスブルギーが棺の中にいた理由ですが、単純に部屋の中にベッドなどがなかったので、陽の光を避けて休息するために棺の中にいたのでしょう。この時のロクスブルギーは特段積極的に活動する理由がなかったので、棺を購入したあとは緩やかな休眠と覚醒を繰り返していたのだと思います。

 自身を目覚めさせた男を見て、ロクスブルギーはしばし言葉もなく彼を見つめます。勿論ロクスブルギーは骨董屋の店主とのやり取りで、かつて出会った少年が大人になっていることは理解しているはずなのですが、やはり吸血鬼の感覚は人間とどこかズレがあるのかもしれません。二十年の間にすっかり大人になった少年の姿に、どこか理解の追いつかない様子です。ロクスブルギーが頭の中で想像していたのは、あの頃の面影を残した無垢な少年の姿だったのかもしれません。再会のシーンは、吸血鬼が特有の感覚による天然さを覗かせて、ここまでの緊張感を少しだけ和らげるようなやりとりで幕を開けます。

 再会を果たした二人は、それぞれに今までの様々な想いを打ち明けます。素直に喜ぶことができず、呆れと苛立ちを見せるロクスブルギーに、ただ会いたかったのだと告げるルー。本当は、あの日置いていった恨み辛み、今日まで自分がどれだけ必死になって探していたのか、そんなことが頭の中にたくさん浮かんできたのだと思います。身勝手と分かりつつも詰りたいような思いも多少なりあったでしょう。その全てを包括して、「会いたかった」とルーは言うのでした。

 かつてと変わらないひたむきなその言葉に、ロクスブルギーは素直な内心を打ち明け始めます。「嬉しかったりした」というセリフがありますが、好きな漫画の印象に残っているシーン――他人に心を閉ざしていた青年が、幼い少女のひとことに心を動かされる場面を回想して述べた想い――を意識していた節があります。嬉しいと言いつつも、そうした自分の感情にどこか戸惑うロクスブルギーは、何をもって君に報いるべきか、とルーに問い質します。

 夜空の下、二十年の時を経て、物理的にも精神的にも歩み寄る、人間と吸血鬼。物語の山場です。
 人間を星に喩えるのが好きでよくやってしまいます。ルーの瞳の色は淡いブルーなのですが、青白い恒星の光をイメージしています。そして青白い星というのはシリウスをイメージしていて、これはおおいぬ座の一等星です。とにかく犬や狼をモチーフにしている、そんな男です。ここにおける星という喩えは、吸血鬼にとって人間の一生は流れ星のように短いものだということも表しています。

 ルーの告白――と言っても差し支えないでしょう――は、非常にバランス感が難しかった記憶があります。広義のBL作品ではありますが、恋愛が主題というわけではないので、あまりロマンティックすぎても物語の軸から外れるし、かといって淡泊すぎても説得力がありません。少なくとも二十年という時間をかけるに値する熱量があるということは、読み手に感じて貰わないといけませんでした。その結果、ロクスブルギーの過去の言葉に返答するような形で、自分に必要なものがそれらではなくロクスブルギー自身であるということを伝える形になりました。これはあの日、ルー少年が声に出したくても言えなかったことでもあります。ロクスブルギーを探し続けていたから、ようやく伝えることができたということも、ひとつの「報い」であるかもしれません。

 それに対してロクスブルギーは、吸血鬼が人間の考えるほど理想的で特別な存在では無いということを語ります。それはロクスブルギー自身が、孤独に生き続けることを運命づけられているにもかかわらず、孤独を苦痛と感じ、内心で自分に寄り添ってくれる存在を求めている、人間と同じような、ありきたりな感情を抱えているために出てきた言葉です。
 孤独に生き続ける運命、とはどういう事なのか具体的に表現するのであれば、ひとつは不死の存在である『吸血鬼』は他の命が寿命を迎えるところを常に見送る側であるということ、そしてもうひとつには、『吸血鬼』たちは同族同士では渇きを潤すことはできない――互いの血が毒になるため――ので、本質的には個として生きることを定められている生き物であるから、といったところでしょうか。

 ルーはロクスブルギーにとって得難い存在です。同じ時間を共有し、その辛さや悲しみに寄り添い、友人になることを望んでくれました。ロクスブルギーは彼の健気な想いに心を動かされ、友人として認めはしたものの、必ずいつか自分より先に死んでしまうことを、想像するだけで辛くなってしまったのでしょう。二十年前に彼を置いていったのは、彼の将来を案じる気持ちとは別に、そうしたごく個人的な想いもあったのです。

 しかし、ここでロクスブルギーは改めて自分を友と呼ぶ人間に感謝を述べ、彼の二十年に報いること――彼の命が尽きるまで共にいることを約束します。その先に避け得ざる別れが待つとしても、友の傍でひとときの安らぎを得ることを選んだのです。

 二十年ぶりにあげる血の祝杯は、ロクスブルギーにとっては甘美な――その血がほろ苦い記憶に満ちたものであっても――ものであったことでしょう。このあたりの描写は、初稿から改稿版の間に多くの加筆をした気がします。加筆をし過ぎて元がどうだったかをあまり憶えていません。
 進んで無防備な首筋を吸血鬼に曝け出し、その血を差し出すという一連の場面もまた少しセクシャルな雰囲気があるかもしれません。かつては大人と子供の姿であった彼らですが、ここではおおよそ同年代程度に見えるような姿ですから、はたで見ている人があれば非常にどぎまぎしたことでしょう。直接的な性的描写がない代わりに、こうした部分でそれを表現しています。一応、大人の読み物とさせて頂いているので遠慮なくやらせて頂きました。

 最後に夜空を見上げるシーンは、初稿からの加筆部分になります。言わずもがなのようなところはありますが、それが二人の関係の出発点だったからです。夜空を見て、何気なく「綺麗だね」とロクスブルギーは返しますが、それはかつての少年が口にした言葉であったことを、ルーは憶えています。
 同じものを見て、それを同じように綺麗だと思う。二十年を経ても変わらないその感情への感慨や共感、そうしたものを思いながら二人は夜空を眺め――物語は静かに幕を下ろします。

 締めの文章では、ルーとロクスブルギーが再会したのち、同じ家に暮らしている様子が示されています。『ロクスブルギーの棺』は、ただの棺としてふたりが住む家に置いてあり、ロクスブルギーはその中で寝ていることもあれば、はたまた棺の外へ出て、さらには街へ出ていくこともある。人間の傍にいることを選んだロクスブルギーは、やはり口では人間のことが好きじゃないというのでしょうが、その実、人間を害そうという気も無ければ、世間を騒がせようという気もなく、ただの一個の命として、生活を営んでいる――そんな様子が描写されています。

 私が物語(小説やTRPGのシナリオなど)を書くときに重要視している要素のひとつが、「報い」であったりもします。
 これはいわゆるハッピーエンドやバッドエンドを、果たして何をもって定義づけるかという話にもなってくるのですが、個人的な意見を述べさせて頂くのであれば、それは「報われたかどうか」であると思っています(あくまで個人的な意見であり、他の方に押し付ける気は一切ないことは明確に述べておきます)。
 この「報われたかどうか」は、生死は問いません。たとえ主人公が死んでしまったとしても、その人の大目的が達成されていれば、それはハッピーエンドと呼べると思うのです。キャラクターの死などが苦手な方には本当に申し訳ないのですが、そういった理由で私の物語はしばしば遠慮なく人が死にます。本当にすみません――

 この物語においては特に、この「報い」を意識しています。
 主人公の片方ことルーは、延々と報われない選択をし続けてきました。どこかで違う選択をしていれば、彼は二十年も吸血鬼を追いかける生活をしなくて良かったのです。いつでも彼はそれを止めることができて、別の形の報いを受け取ることもできたのです。それを本人もよく分かっています。いろんなところで触れているのですが、ルーはずっと孤独だったわけではなく、恋人も普通に作って過ごしていたし、結婚を考えたこともありました。しかし結局、ロクスブルギーと再会したいという想いを捨てることができず、誰とも添い遂げることなく独り身に戻ったという過去があります。
 一途な男なんじゃないのかと反感を覚える方もおられるかもしれませんが、彼の幼少期からのことを考えれば、一緒にいてくれる人がそこにいたら甘えてしまうのは当たり前のことだなと、人間の弱さの面を表現したかったためそのようになりました。むしろそれができたから、今日まで心が折れずにやってきているとも言えます。付き合わされた方はたまったものではありませんけれども。今後は反省してもらいたいものですね。

 物語の本筋はここで終了なのですが、この後にエピローグ的な第九話が続きます。
 その部分にも軽く解説を挟んでいきたいと思いますので、よろしければあともう少しお付き合いくださいませ。

(9話コメンタリーにつづく!)



次へ

powered by 小説執筆ツール「arei」