にわか髪結い


 うっすらと開けた目を低い太陽光がまともに射して、長英は何度も瞬きした。長英の身じろぎで目覚めたのか、隣の崋山もゆっくりとまぶたを開く。部屋に満ちた早朝の空気が青白い。
 昨夜は二人とも洗髪したので、起き抜けでもどことなくさっぱりとしていた。外見はもちろん、触れた感じも結構変わるものだな、と思う。
「絵になりますね」
 枕から頭を上げて、気だるげに起き上がりながら崋山が言った。崋山は髷を結わき直しているが、長英は流したままで床についていた。
 身支度を始めた彼の様子に、長英も掻巻から抜け出す。盥に水を張って顔を洗い、固く絞った手拭いで互いの身体を拭いてやった。
「うう、寒い寒い」
「冷たい方が気が引き締まっていいでしょう」
「夏場はありがたいんスけどねえ」
 自分で自分の身体を拭けば済むものを、敢えてそうしない。
 襦袢と小袖を一通り身につけてから、髪紐を猫と遊ぶように掲げて振る。
「ん。お願いします」
「はいはい、帯だけ締めさせてください」
 宿代相応の簡素な部屋に、鏡台などという気の利いたしつらえはない。手鏡を顔の前で持って、長英は毛羽立った畳に胡座をかいた。
 鏡の中の長英に、崋山が櫛を入れる。うなじに朝の風が通る。後ろ髪を持ち上げ、額から丁寧にくしけずられる感触が心地よい。
「髪油変えました?」
「わかりますか」
「いつものよりも、手にしっとり吸い付く感じです」
 櫛を置いて、崋山が髪紐を取り出した。
「あら、ほつれている。使う度に少し湿してあげる方がいいのかもしれませんね」
 崋山は舌を出して、紐の端をちょっと舐めた。
 髪紐を唇に挟んだまま、崋山は手の平に薄く鬢付け油を伸ばした。軽く俯いた長英の髪を高い位置でまとめ上げる。本職の髪結に及ぶべくもないとはいえ、回数を重ねるごとに手際がよくなっている。このまま人前に出ても何も言われなさそうな仕上がりだ。
 できましたよ、と肩を叩かれて頭を上げる。礼を言おうとした時、鏡の中の崋山が髪の束を掬い取って、口付けた。
 昨夜の情景が手触りを伴って蘇った。手鏡を放り出して振り向きざまに抱きつき、敷きっぱなしの寝具の上に押し倒す。のしかかる身体を押しのけようとする手とその隙をつこうとする手で、しばし戯れ合った。
「俺もあんたの髪を結えたらなあ」
 透き通った朝の空気の中で、長英は崋山の耳を撫でた。親指の腹でもみあげの生え際をついついと辿る。
「月代を剃ってもらうくらいならできそうですね」
「その手があった」
 新しい剃刀に覆い布に、と必要なものを指折り数える長英の髪を、崋山がのんびりと手櫛ですいている。
「渡辺さんよくそうしてますけど、俺の髪ってそんなに指通りいいんスか?」
「それもありますけど、なんだか落ち着くんですよね」
 いつまでもこうしていられたら。言葉尻が消えないうちに、彼の手首をとらまえた。
「名残惜しいけど、もう朝だます」
「わかってますよ」
「今ある仕事片付けて、十日後くらいになるかな。剃刀一式持って、渡辺さん家にお伺いします。続きはその時に」
 廊下に人の気配が増えてきた。いつの間にか日差しは暖かい黄色みを帯びている。じきに宿の朝食が用意される頃合いだろう。
「お待ちしています。物足りないくらいでちょうどいい、と思わせてくださいね」
 握られた手首を見つめながら、吐息混じりに崋山は言った。

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