にわか髪結い
何かが弾け飛ぶような音に、小関三英は思わず周囲を見回した。ごく小さい音だが確かに聞こえた。すぐ続いて、ぱさぱさと軽いものが落ちて広がる音。
「あ、くそ。切れやがった」
隣に座っている友人が、舌打ちして後頭部に手をやる。
普段高い位置で結わいている長髪が、ざらりと肩の下まで流れていた。あれは髪紐が切れる音だったか、と三英は一人納得する。
「わあすご、さらさらだー」
「総髪は落ち武者にならないからいいですよね」
「よっ色男」
「うるさいス」
好き放題に囃し立てる輪の中心で、高野長英が顔をしかめる。額の際を撫でつけ、顔の脇から流れてくる髪を鬱陶しそうに耳にかけた。
「飲みの席でよかったですね。勤めの最中だったらもっと面倒でしたよ」
「よかったのか悪かったのか……」
向かいに座る渡辺崋山に気遣われて、長英はぶつぶつ言いながら指先に髪を巻きつけていた。
それにしてもずいぶんと雰囲気が変わる。隣席の三英には、変貌ぶりが殊によく観察できた。
ざんばらに髪を流した長英は勇ましい無頼の風もあり、しかし荒っぽいだけでなくどこか涼やかなところも感じられる。医者として健康に気を配っているのか男前を保つためかは知らないが、まめに髪の手入れをしているようで、毛先まで健康的な艶とコシが保たれていた。
同じことを思ったのか、長英を挟んで反対側に座っていた者がひょいと髪を摘み上げた。
「これは遊びがいのある髪というやつですね」
「は? どういう意味だます」
「一回やってみたかったんですよ、人の髪の毛を好き放題いじり倒すの」
言うが早いか、川路聖謨は手に取った一房の髪をせっせと編み始めていた。
「あっ楽しそう! 私はこっち側やります」
「その次はお団子にしよう」
「誰かかもじ持ってない?」
「櫛とかんざしならありますよ」
「ねえ! 誰か止めて!」
瞬く間に取り囲まれた長英が切羽詰まった悲鳴をあげた。非常に珍しい。
「いやあ可哀想に、長英くん。私が代わってあげたいくらいです」
「くそー、坊主頭が優位に立てる状況が存在するとは」
二つお団子に丁髷もどき、大陸風の編み込み。揶揄う間にも長英の髪はしっちゃかめっちゃかにいじくり回され、思いつく限りのありとあらゆる髪型に組み上げられていく。素人の腕だから仕上がりは当然めちゃくちゃだ。
「ははは、可愛い可愛い」
暴走気味の一座の中にあって、崋山だけは文字通り手出しせずに状況を見守っていた。
「わたなべさーん、たすけてー」
「すみません、私は忙しいので」
「えっ何が」
矢立と帳面を取り出しながら、にっこりと満面に崋山は笑った。
「高野くんの新しい髪型を全部描き残しておきます。今日来ていない人にも見てもらいましょうよ」
「やめてやめてほんとに、堪忍してください」
どっと一同を笑いが包む。三英も肩を揺らして笑った。愉快だ。
「ああ〜酷い目に遭った。さっさと帰ろ帰ろ」
一刻ばかりも散々に遊ばれて、長英はようやく解放された。飲み食いの後なのにげっそりしている。
「いやはや、珍しいものが見られました。ありがとうございます長英くん」
「新しい蘭書が入った時と全く同じ調子で発声するのやめてくれません?」
「災難でしたね。ところでちょっと寄りたいところがあるんですが、高野くんと三英どのもお付き合い願えますか?」
「俺これ以上出歩きたくないんスけど」
「帰り道の途中ですから」
普段の崋山なら先に帰しそうなものなのに、強いて同道を頼み込むのはいささか不思議だった。
「あ、ここです。お二人は待っててください。すぐ済みますから」
崋山が入っていく店を見て驚く。髪の装飾品を扱う店だ。まさか彼に限って、今更悪乗りするわけでもあるまい。
前言通り、間もなく崋山は戻ってきた。手にしているものを迷いなく長英に差し出す。
「はい高野くん、どうぞ」
横から覗き込むと、それは男物の髪紐だった。地味だが微かな光沢があり、しっかりとした作りに思われる。
「この店で一番上等な、切れにくい紐だそうですよ」
真新しい髪紐を長英の手にしっかと握らせ、崋山はにっこりと顔いっぱいに笑みを浮かべた。長英の髪型を描くと言った時と同じ笑い方だ。
「明日からでも、きっと使ってくださいね。また人前であんな風になっては大変ですから」
ひゅう、と長英が口笛を吹く一方で、三英は反射的に口元を押さえた。
直接触れることなく絵筆越しに長英のあらゆる髪型をかっさらい、その上彼の|髻《もとどり》までせしめようとする。なんという独占欲だ。
「んじゃまあ、ありがたく使わせていただきますけど。せっかくだし渡辺さんに結わいてもらおうかなあ」
連れ立って歩き出した二人の方から、耳を疑う会話が聞こえてくる。
「私なんかに任せていいんですか。上手くできるかわかりませんよ」
「他の人に結ばせるとまた切れそうだもの。身も焦がれるってやつ?」
「もう、仕方ない人」
うりうりと肘で小突かれて、崋山はむしろ長英に身を寄せた。流し髪に首筋を撫でられ、くすぐったいですよ、と満更でもなさそうな苦言を呈している。
「いやお似合いなんかい」
今度こそ我慢できずに口から出た。前を行く二人とも話に夢中で耳に入らなかった様子なのが、安心するような、腹立たしいような。
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