秦田・麻弓①
かみさまをやめたかみさまのおはなし
彼女はその頃、神であった。
正しくは、神と呼ばれる何か。稲妻を呼び雨を呼び、恵みを呼び。老化せず劣化せず、而して風化せず。
はたたがみ。いなりのかみ。それは、いつしかそう呼ばれるようになったものであった。
初めはただ、住み心地の良い山へと流れ、そこに根を下ろしただけ。たまたま人里が近く、たまたま人に興味を持ち、たまたま仲を深めただけ。そうして時を経る中で、たまたま年を経ただけの、変哲もない狐の化生――自らの接した好もしい人々と、同じ時の流れを望んだだけの、変哲もない狐の化生であった。
力を得、言葉を得たそれは、変わらず人を好み、愛していた。望まれるままに力を振るい、愛おしき皆の笑顔を対価とした。異種の|輩《ともがら》が子を成し、孫を残して世を去ろうとも。
気付けば人は狐を崇め、山に社を築き、手を合わせて神とした。深く交わることを求めた獣が、望み努めた末に得たのは、この上は恨めしいだけの力と、欲しくもない神の名と、厭わしき孤独であった。
◆
平伏す人の頭ばかりを眺めやる、言葉の届かぬ無聊の中で、人と狐に訪れたのは青天の霹靂。誰も招かぬ雷に、慄いた人は再び勝手なことを言う。即ち、神の怒りであろうと。彼らの神は怒りなどしないのに。もはや諦念に囚われて、雨と笑顔を降らせるだけの、年経た狐は怒りなど……。
それから間もなく、社を少年が訪れる。着飾り、飾られ、供物を抱えた少年は、彼自身もまた供物――贄であった。
そんなものを求めていると思われるなんて、狐にとってはまさしく青天の霹靂である。怯える子どもの抱えた物だけ受け取ると、麓の人へも伝わるように、こんな供物は要らぬと噛んで含めて、狐は人を送り返した。
僅かな時でも、怯える子でも、久方ぶりの触れ合いを、喜び、懐かしみ、愛おしみ。
それから間もなく、社を少年が訪れる。着飾り、飾られ、供物を抱えた少年が、今度は幾人も、連なって。
どうしてこうなったのか。要らぬと伝えたはずなのに、どうして足らぬと思われたのか。またも怯える子らを前にし、狐は頭を抱えることとなった。
さてどうしたら良いものか。このまま帰してもまた繰り返すだけだろう。もちろん人を喰う習いもないし、養う扶持もありはしない。ならば、それなりにもてなしてお帰りいただくしかないだろうと、狐はそう、考えた。
僅かな時でも、怯える子らでも、しばし触れ合う煩わしさに、胸を弾ませ、燥ぎつつ。
◆
もともと望まれることを成すのが好きな狐は、子どもたちのためになんだってした。
怯えるうちは宥めるように優しく言葉を掛けた。腹が減ったなら贈られた供物を、足りねば自身の蓄えも新たな収穫も惜しみなく分け与えた。獣の話すを嫌うならと、人の姿へと変じ元の在り方を捨てることにも躊躇いはなかった。
そうして次第にこぼれ出す幼い笑みに、狐は、狐だった彼女は、無上の幸福を感じていた。
すっかり懐き、笑顔の彼らを送り帰した彼女は、再び寂寥に苛まれることとなる。一たび再び満たされた心は、またの空虚を殊更のものとした。季節をひとつ巡ってのち、訪れた春はしかし彼女に、望外の喜びをもたらした。
子らの伝えた優しき神の、艶なる姿を一目見んとて、子よりもいくらか年を経た、若者どもも挙って彼女を訪ね来たのだ。言うまでもなく彼女はもてなし、望まれることはなんだってする。
かくて贄を供える因習は根差すことなく早々に潰え、神と触れ合うめでたい祭事が代わりに据わることとなった。
人々は神を喜ばせ、神は人々に恵みを与え、春の数日を共に過ごしては年の平穏を感謝して暮らす。人々は神と過ごすだけ、神は求めのすべてに応え。惜しみなく実りを与え、知恵を授け、身を捧げ――それでも彼女は幸せで、それで彼女は満たされた。
翌年までを過ごす孤独を忘れたようなふりをして、永の無聊の寂しさを待ち遠しさと誤魔化して、その愚かしさに気付かぬ愚かさを装って。
◆
「かみさまだってさびしいのにね」
ひとりの少年がそう言った。祭宴の中で彼女に何を求めることなく、困ったようにそう言った。蓋をして、目を逸らし、誤魔化してきたそれは、年端も行かないただの子どもに――年端も行かないただの子どもだけに、気付かれ、暴かれてしまった。
彼女はもう、自分ひとりすら欺くことはできなくなった。寂しくて、どうしようもなかった。
神さまの弱みを唯一知った少年は、そうしてついに彼女に願い求めた。帰りたくないと。ずっと一緒にいたいと。神なるものを畏れる者の、決して発せぬその言を。神にあらざる神さまの、いちばん求めたその言を。
優しい少年の願いは果たして叶えられ、彼は神の伴侶となった。彼女は惜しみなく実りを与え、知恵を授け、身を張って守った。彼もその想いに応え、愛情深く、思慮深く、すくすくと育ち、彼女を守ろうとした。あるいは宴で笑顔を振りまく彼女への、独占欲の萌芽であったかもしれない。
目まぐるしくも穏やかで、とてもとても幸せな時間だった。
幾度かの春を経た青年。優しい笑みを湛えた顔立ちも、髪を頬を撫でる暖かく大きな手も、腕に抱き包み込む身体も、精悍なものとなった。賢く逞しく育った彼は、今や彼女を強く守れるようになっていた。多くの危険から、恐怖から、そして何より、孤独から。
彼は惜しみなく愛を注ぎ、彼女も限りなく愛を捧げた。かつて望んで得られなかった、同じ時を歩むその日々は、無上で、最良で、とてもとても、とても幸せだった。何より、喪いがたいほど。
◆
幾度もの春を見送った老人は、変わらず彼女を愛している。その背は曲がり、目も耳も衰え、痩せこけた身体にはかつての力強さは感じられない。それでも、少年だった老人は、変わらず彼女を愛している。それは彼の喜びで、誇りで……今にも尽きようとする命の、たったひとつの心残りで。
重いまぶたを懸命に持ち上げながら、困ったように笑って見せても、目の前でぼろぼろと涙をこぼす、出会った時と変わらぬ姿の彼女には、ちっとも泣き止む様子はなくて。
あと少しだけ、もう少しだけでも、最愛のひとを笑顔にしてあげたくて、重たい腕を持ち上げて、縋る頭を撫でてやり――それきり、少年の愛は永遠となった。
頭を撫でた手は力を失い滑り落ち、それきり最愛のひとは喪われた。眠ったように穏やかなまま、もう目を開くことはない。優しい笑顔も暖かな手も、もはや彼女に向けられることはない。
ともに歩んだそのひとは、彼女にとってかけがえもなく、その人を欠いたこれからなんて、満たされぬ永遠の余生なんて、考えることもできなくて。心の中に生きる彼の、思い出を糧に生きていくには、向き合うべき孤独はあまりにも大きく恐ろしくて。
だから、彼女は死ぬことにした。その方がよっぽど、怖くないから。
自ら首に輪をかけながら、別れを思い目を閉じる。
出会った時にくれた優しい言葉。甘える様の可愛らしさ。名前をつけて呼んでくれた日。自分の背丈を追い越した日。繋いだ手、触れた熱、抱く力。甘えると困ったように笑ったり。安らぎ、快さ、幸せ。別れのそばでも、やっぱり優しかった言葉。
思えば彼は、驚くほどに長い時間を、生涯を捧げてくれたのだ。それだけ自分を思ってくれたのだ。最初から最後――この今までも、ずっと。
だから私も、私のすべてを捧げよう。あなたを思う私も、あなたと出会うまでの私も、ぜんぶ。私も私の中のあなたもぜんぶ、私の中に沈めて隠して、二人だけのものにしよう。
たとえこれから生き永らえても、私の心はあなただけに。他の何にも捧げはしないし、捧げさせてもやるものか。
首元でかちりと音がして、記憶と心はそれきり死なない身体に封じて隠された。彼女と彼の愛と思い出は、そうして人知れず永遠となった。
◆
取れない首輪を触ってみても、どこにも留め具は見当たらないし、もちろん引っ張っても取れそうもない。違和感はあるけど、別に困ることはなさそうだし、放っておいても良さそう。
何も憶えてはいないのは、きっと自分が忘れっぽい性質なんだろう。忘れちゃいけない大事なことなら、そのうち不意に思い出したりするだろうし。
ケガとかもないしお金もいくらか持ってるし、大きな道沿いで気が付いたから、すぐに人にも会える気がする。どっちに行っても知らない場所なら、きっと楽しいに違いない。怖いこととか起きないと良いけど、起きたらその時考えよう。
歩き出した彼女が持つのは、雑多な小物が入ったカバンと、不思議な形のライフル銃、いくらかのお金と能天気さ。
あとは、名前の書かれた一枚の札。友達のいない誰だかが、自慢のために書いた札。大切な人が与えてくれた、大事な素敵なひとつの名前。
僅かな物しか持たない彼女は、それに不安を覚えもせずに、知らぬがゆえの躊躇いなさで、道の先へとずんずん進む。
彼女が彼女である限り、興味の赴くその先へ、歩みは止まりはしないだろう。
彼女が彼女である限り、ひとつの心の欠落に、気が付くことはないだろう。
果てしなく触れ合いを求め、享楽を求め、さりとて愛を知らないもの。
けものをやめた、けもののおはなし。
かみさまをやめた、かみさまのおはなし。
ひとをあいした、なにかのおはなし。
次へ
powered by 小説執筆ツール「notes」
115 回読まれています