2-2 祈り

 春の風が擬羽村に吹き始め、桜の花びらが舞い散る季節が訪れた。外の世界では華やかで美しい桜も、この村ではどこか陰鬱で、不穏な空気が漂っている。今日は奉納演舞の日。仁美里は、神主である父に真剣な顔つきで向き合っていた。

「パパ、お願いよ。あの子へのいじめをやめさせて。神主であるパパの言葉なら、みんな納得してくれるはず」

 仁美里は、村中からいじめを受けている鳳子のことをずっと思い悩んでいた。鳳子は、自分を守るために嘘をつき、結果として村人たちから「禁忌を破った悪い子」として扱われている。しかし、仁美里は知っていた。自分もまた、共に罰を受けるべきだったのだ。あの日、仁美里が体調を崩し倒れたことで、鳳子は彼女を助けるために行動した。それが禁忌を破った原因だったからだ。

 村人たちは盲目的で、仁美里が鳳子を助けようとすれば「脅されている」「何か弱みを握られている」と勝手な言いがかりをつけ、彼女の言葉を信じなかった。さらには、仁美里が鳳子に関わることで、鳳子はますますひどい扱いを受けるようになってしまったのだ。だから、仁美里はただ静観するしかなかった。それが仁美里の心に重くのしかかっていた。

 しかし今日は、春の訪れとともに、奉納演舞を控えたこの日に、仁美里は父である神主に頼んだ。神主の立場を借りてでも、鳳子へのいじめを止めて欲しかったのだ。

 だが、神主の反応は冷たかった。

「お前が犯した禁忌は、それだけではないだろう」

 仁美里に冷たく言い放った。

 その言葉には、仁美里が体調を崩した事実を隠そうとする意図が含まれていた。巫女である仁美里が体調を崩すことは、神の信仰を揺るがす危険を孕んでいる。村を出たことだけならまだしも、病を患った巫女という事実は、村に災厄が訪れたと信じられるかもしれない。だからこそ、神主はそれをなかったことにしようとしていたのだ。

 その言葉を聞いた瞬間、仁美里の脳裏に過去の記憶が鮮明に蘇った。幼い頃、彼女が高熱を出し、生死の境をさまよった時、暗い部屋に閉じ込められ、誰にも助けてもらえなかった日のことを。息が苦しくて、喉が焼けるように痛く、いっそ死んでしまえば楽になれるのではないかと思うほどだった。本当に苦しい時、彼女を助けてくれるものなどいなかった。そんな苦しみを消し去ってくれたのは、あの時、鳳子が彼女を病院に連れて行ってくれたことだった。

 しかし、父はその真実を無かったことにしようとしている。

「もういいわ」

 仁美里は小さな声でそう言い放ち、無言でその場を去った。



 仁美里は、擬羽村が祀る神――擬蟲神の御神像が置かれている部屋の前に立ち止まった。この場所は、彼女にとって最も忌まわしい場所でありながら、同時に心が安らぐ特別な場所でもあった。この青銅で作られた擬蟲神の御神像だけは、神としての威厳を持ち、彼女を守り、見守ってくれる存在だと信じていた。

 仁美里は静かに御神像の前に進み出ると、まるで何かに引き寄せられるように正座をした。冷たい床にひざをつき、深く頭を下げる。青銅の御神像は、村の中心にあり、常に村人たちの祈りを受け止めてきた。彼女もまた、神に救いを求めるように祈りを捧げる。

「かみさま……どうか、あの子をお救いください。たった一度の過ちを、どうかお許しください」

 仁美里の声は、微かに震えていた。彼女は村人や父親がどれだけ冷たくても、この擬蟲神様だけは信じていた。神様は公正で、たった一度の過ちを許してくださると、そう信じていたのだ。

 青銅の御神像は、静かに仁美里を見守るように鎮座している。その姿は不動で、まるで永遠の時を超越した存在であるかのようだった。仁美里は、その御神像にすがりつくように、ただひたすらに祈りを捧げ続けた。

「どうか、鳳子を助けて……」

 仁美里が深く頭を下げ、祈りを捧げ続けた後、静寂の中で御神像を見上げる。青銅の擬蟲神像は冷たく無表情だが、彼女にはどこか安心感を与えていた。この神様だけは、彼女の苦しみを知り、そして鳳子の幼き罪を赦してくれると信じていた。

 やがて、村の者たちが奉納演舞の準備を始める時刻がやってきた。仁美里は静かに立ち上がり、御神像にもう一度深く一礼すると、その場を後にした。



 仁美里は、境内の舞台の中心に立っていた。白い装束が風になびき、周囲の桜の花びらが彼女の周りを舞い踊るように漂っていた。彼女の目はまっすぐに前を見据え、金色の瞳が微かに光を反射していた。村の男たちの視線は仁美里に向けられていた。彼らは尊敬の念を持ちながらも、どこか歪んだ欲望を隠し切れない。その視線を感じながらも、彼女は全く意識していなかった。

 仁美里は幼い頃から、「いずれ神様の一部になる」と言われて育てられてきた。そのために施された過酷な教育は、彼女の心を凍り付かせ、孤独にさせた。しかし、それでも神様を信じ続ける彼女にとって、神様のために捧げるこの演舞の時間だけが、彼女にとっての最高の安らぎだった。ここでは、何も考えず、ただ神に捧げる舞に身を委ねることで、自分の存在を許されていると感じることができた。

 舞が始まった。白い袖が空気を切り、桜の花びらと共に彼女の周囲に漂う。金色の瞳は何も映さず、ただ無心に舞い続ける。彼女の動きはしなやかで、まるで風に揺れる花のようだった。

 その瞬間、全てが完璧だった。仁美里は神の御前で、自分が何よりも神に近い存在であることを感じていた。村人たちの視線などは、彼女にとってもはや存在しないも同然だった。ただ、神様の目の前で、すべてを捧げるという感覚に包まれていた。

 演舞が終盤に差し掛かったとき、仁美里はふと、鳳子の笑顔が脳裏をよぎった。なぜ今この瞬間に彼女のことを思い出したのかはわからない。あの日、鳳子と手を繋ぎ進んだ暗いトンネル、その時に見た鳳子の微笑みが、頭から離れなかった。

 ――村に帰るの? 私も一緒に!

 触れた手の温もりを、今でも鮮明に覚えている。

 その瞬間、彼女の体がわずかに硬直し、右腕を伸ばすべきタイミングが遅れてしまった。たった一瞬の乱れが、奉納演舞という神聖な儀式においては致命的だった。

 村人たちはざわめき、彼女の失敗を見逃さなかった。今まで一度もミスをしなかった巫女の演舞が、初めて乱れた瞬間だった。仁美里は、すぐに体勢を立て直し、何事もなかったかのように舞を続けたが、内心では動揺が広がっていた。

彼女の心の中に広がる感情は、鳳子の笑顔の影だった。それが彼女の演舞に影響を与え、完璧であるはずの舞を乱した瞬間だった。
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