4-7 蒼い火の迷宮

 クラスメイトに、潔癖症の少女がいた。彼女はいつも手袋とマスクを欠かさず、誰かが触れた場所や物を、常に持ち歩いている消毒液で拭いていた。特に汚れたものに触れる時は、手袋を何重にも重ねていたことを覚えている。高校一年の夏休み前、そんな彼女の素手を一度だけ見たことがある。四六時中ゴム手袋をつけていたため、その手の皮膚は痛々しいほど荒れていた。また、彼女が何度も消毒を繰り返した自分の机は、塗装が剥がれ、木の表面が摩擦で削れ、ぼこぼこになっていた。

 彼女はいつの間にか転校してしまい、今はどこでどんな生活を送っているのか、風雅にはまったくわからない。ただ、ふとした瞬間に、彼女が語った言葉が風雅の脳裏に蘇る。

 ――潔癖症って、みんなは過度な綺麗好きだって言うけれど、本当はね、誰よりも汚い世界を生きているのよ。私の目に映る世界は、一度だって綺麗だったことはない。

 その時、風雅はその意味を上手く噛み砕けなかった。ただ、どうしてか、鳳子の告げた言葉を聞いて、その潔癖症の少女の言葉を思い出したのだった。同じ症状ではないのだろうと、風雅は理解していた。それでも、みんなが当たり前に生きている世界を視認できない彼女は、今までどんな気持ちで生きてきたのかと想像することしかできなかった。

 秋のやわらかな木漏れ日が、風雅と鳳子の頭上から降り注いでいた。木々の葉が風に揺れるたび、光と影が穏やかに揺れ動き、二人の姿を包み込むようにベンチの周りに踊っていた。

「でも、風雅くんはちゃんと視えているんです。私の知らない私が、貴方を特別に思っていた証拠です」

 鳳子は、優しく微笑みながら、そっと風雅の手を取った。彼の手は自分よりもずっと大きくて、その温もりが手のひらからじんわりと伝わってくる。彼女はその感触を確かめるように、指先を滑らせながら一つひとつの指をなぞる。その触れ方は、どこか慎重で、今この瞬間を大切に感じ取っているかのようだった。まるで、相手の心にまで触れようとするように、静かに、優しく。

 そして、彼の手のひらを自分の手のひらにそっと重ねる。まるで失くした絆を確認するかのように。鳳子は自分の体を彼の肩へと預け、やわらかな息を吐いた。その瞬間、彼女の呼吸とともに、空気が少し軽くなったように感じられた。風雅の肩に寄り添うその体は、まるでそこがずっと彼女の居場所だったかのように、自然に馴染んでいった。



「あ、もうすぐですよ。風雅くん、風雅くん。ところでお化け屋敷は平気ですか?」

 鳳子の明るい声が、喧騒の中で風雅の耳に届く。彼女は依然として風雅の腕にしがみついているが、二人の手はしっかりと握られていた。遠目から見れば、親密な関係に見えるだろうが、彼女の事情を少し知った風雅には、それは気になることではなかった。

「お化け屋敷って言っても、本物のお化けが出るわけじゃねえだろ。怖くも何ともねえよ」

「でもね、解決部への依頼には、時々オカルト案件もあるんですよ! 私、多少はオカルト知識もありますから、これがオカルトだったら頼りにして下さいね!」

 鳳子は得意げに微笑みながら、風雅に自信たっぷりに言い放った。

 やがて二人は中等部2年Be組――鳳子のクラスのお化け屋敷に到着した。どうやらそこでトラブルがあったらしく、さらにはこのお化け屋敷で本当に怪奇現象が起きるという噂まで流れていた。それを聞きつけて、鳳子は調査にやってきたのだ。

「あら、世成さん……その方は……?」

 受付をしていた蝶野が、見知らぬ男性を伴って現れた鳳子を見て目を丸くし、数秒後に顔を赤らめて口を覆った。

「あ! もしかしてそういう関係なの!? もう、世成さんも隅に置けないわね、いったいいつから……?」

 蝶野は一人で盛り上がり、軽く鳳子の肩を叩いた。鳳子はその意味がわからずに、思わず風雅の方を見つめた。風雅は内心で「まぁ、そう思うのも無理はないか」と呟きつつ、鳳子に向かって「ほら、調査しに来たんだろ?」と本題を思い出させた。

「ああ、そうでしたね。蝶野さん、このお化け屋敷でトラブルがあったと聞いたのですが、どういうことですか?」

 蝶野は一瞬真剣な表情に戻り、深いため息をついて2年Be組のお化け屋敷に視線を向けた。

「毎回じゃないんだけど、予定にない演出が起きたり、お客様が脱出できなくなったりとか……。さっきも一旦中止して、教室内や役者、演出を確認したんだけど、何も異常はなくて……一部では本当に怪奇現象が起きてるんじゃないかって噂が流れてるの。それが本当で、怪我人が出たら困るし……」

 蝶野が話し終えると、鳳子は彼女に歩み寄り、その手を両手で包み込むように握りしめて、安心させるように微笑んだ。

「私が調査をしてきます。絶対に解決してみせるので、心配しないでください!」

 そう意気揚々に告げた後、鳳子は風雅に視線を向けた。

「風雅くん、風雅くん。一緒に行きましょう! 解決部としての私の活躍を見届けて欲しいのです!」

 鳳子は眩しいくらいの笑顔で、風雅に向けて手を差し向けた。もとより見放すつもりはなく、風雅は迷うことなくその手を握り返した。そして二人は静かにお化け屋敷の中に入った。



 そこは、まるで夜の屋外の墓場に迷い込んだかのような異様な空間だった。中等部が用意したお化け屋敷にしては驚くほど本格的で、細部まで作り込まれている。風雅はそのクオリティの高さに思わず感嘆した。

「思ったより本格的だな。本当に墓場にいるみたいだ」

 しかし、その言葉に対し、鳳子は即座に否定した。

「……違う……。2Beのお化け屋敷は、こんな配置にしてない」

 鳳子は静かに呟きながら、周囲を見回し、急いで教室から出ようとした。しかし、扉も壁も見当たらず、見渡す限り続く墓石の並んだ道があるだけだった。鳳子は混乱しながら、数メートルほどその道を走り抜けたが、何も障害にぶつかることはなかった。これは目の錯覚ではない。鳳子の心に不安がよぎる。

(……どういうことなの?)

 彼女は、これが噂されていた怪奇現象であり、トラブルの原因であることをすぐに悟った。そして同じく異変に気付いた風雅は、急に走り出した鳳子を追いかけ、彼女の元にたどり着く。風雅自身も、この状況が現実のものではないと理解していた。鳳子の顔を見ると、彼女は唇に指を当て、何かを考察しているような様子を見せていた。

「一体、何が起きてんだ……?」

 風雅は、彼女の思考を邪魔しないようにそっと呟いたが、その問いに答えるように、鳳子は口を開いた。

「……怪異……あるいは、迷宮が出現した可能性がありますね」

「迷宮?」風雅は聞き慣れない言葉に反応し、自然と問い返した。

 鳳子は周囲を調査しながら、迷宮について説明を始めた。

「解決部って、掲示板に沢山の依頼が寄せられるんですけど、その依頼に対して未解決が多発すると、迷宮っていうものが出現するらしいんです。私が初めて挑んた迷宮も、未解決が増えたせいで出現したものでした」

 風雅は少し驚いた様子で彼女を見つめた。現実と似ているが、法則が異なる場所――迷宮。鳳子は、現状が怪異や霊障によるものか、それとも迷宮なのかを見極める必要があると考えていた。

「もしこれが迷宮なら、迷宮内で発生している事象を解決すれば、迷宮は消滅して、無事に帰れるはずです」

 そう言って、鳳子は風雅に振り返り、微笑んだ。その微笑みは、まるで彼女が何度もこういった状況に立ち向かってきたかのように落ち着いていた。

「じゃあ、とにかく何か異変を見つければいいんだな? 俺も手伝うよ」

 風雅は半信半疑ながらも、彼女の言葉を受け入れるしかなかった。現実に、ここから脱出するには彼女の知識が頼りだと感じていた。彼女に倣い、草木に触れたりして異常がないかを探り始めた。

「いえいえ、風雅くんは安全な場所に隠れていてください! 万が一、魔人さんや魔女さんが現れたら危険ですから!」

「魔人……?」

「自分自身の迷宮を作ろうとしたり、迷宮を拡大しようとする人たちのことをそう呼ぶらしいです」

「わざわざ迷宮を作ろうとする奴なんているのか?」

「……いますね。私は詳しくはわかりませんけど、私が知る限り、みんな何か望みを叶えようとして迷宮を出現させていました。その度に、一ノ瀬先輩はとても怒ってました!」

 風雅は一瞬考え込んだ。鳳子の言葉は信じがたいものだったが、どこか興味を引かれていた。

 すると、鳳子が突然「あっ」と声を上げた。

「い、今の話、部外者には言っちゃいけないことらしいんです! だから、内緒にしておいてくれませんか……? 解決部から居場所を失ったら、私……!」

 焦りながら、鳳子は風雅に駆け寄り、今にも泣き出しそうな瞳で訴えかけた。その姿に、風雅は花火大会での彼女の姿を思い出した。割れたスマホを握りしめ、「解決部が」と繰り返し叫んでいたあの痛々しい鳳子。改めて、解決部が彼女にとってどれほど大切な居場所なのか、風雅は理解した。

「わかったわかった。俺は誰にも言わねえから、落ち着けって。ほら、調査を再開すんぞ」

 風雅は鳳子の頭を優しく二度ほどぽんぽんと叩いて、前を向かせた。その行為に、鳳子は安心した表情を浮かべ、再び周囲の調査に集中し始める。少し進むと、不意に開けた道に出た。そこには学生服を着た幼い子供がしゃがんで、泣いているのが見えた。鳳子はその姿に気づき、後ろを歩いていた風雅に片腕を突き出し、近づかないようにと動きを制止した。

「風雅くん、暫くの間、後ろを向いていてもらえますか?」

 鳳子の声は低く、真剣なものだった。風雅は無言で指示に従い、「後ろを向いたぞ」と鳳子に告げた。彼が後ろを向いたのを確認すると、鳳子はゆっくりと泣いている幼子の元へ歩み寄った。

「どうしたんですか? 迷子になってしまったんですか?」

 鳳子の声は優しく、柔らかかった。彼女は目を細めて、笑顔を浮かべながら語りかけた。しかし、幼子がゆっくり顔を上げた瞬間、鳳子の目に映ったのは、皮膚も眼球もない異様な姿だった。口は開かれており、数本の歯しか残っていない、まるで生者とは思えないものだった。

「マ"……マ"……」

 幼子は不気味な声で啼いた。鳳子はすでに、それが怪異であることを察していた。しかし、その瞬間、見えない腕が彼女を取り押さえ、さらに首を締め上げてきた。鳳子は突然の攻撃に驚き、バランスを崩して後ろに倒れ込み、小さな悲鳴を上げた。

「おい、大丈夫か――」

 風雅が鳳子の悲鳴に反応して振り返ろうとしたその瞬間、鳳子が大声で彼を制止した。

「――振り向かないで!」

 風雅は思わず動きを止め、心配そうにその場に立ちすくんだ。鳳子は、酸素が不足し始める頭の中で、必死に考えを巡らせていた。怪異には様々な種類があり、姿を見ただけで憑りつかれるものもいる。この幼子もその類だと鳳子は判断した。

 蝶野が言っていた、「予定にない演出」、そして「脱出できなくなる」という現象。だが最終的には、すべてのお客さんが無事に脱出できていたということは、皆が何らかの対処をしていたはずだ。

 その対処法とは――

(この怪異には、物理的な攻撃が効く!)

 しかし、それでも鳳子は怪異を傷付ける行動はしたくなかった。彼女は必死に自分の首を締め上げる見えない腕に手を伸ばし、冷たい何かに触れた。それだと確信した彼女は力を振り絞り、その腕を引き離そうとした。しかし、次の瞬間、締め上げる力がさらに強まり、鳳子の喉を締めつけた。

「あ"ぁ……っ!」

 喉が押しつぶされるような感覚に、鳳子は苦しげに声を上げた。やはり単純な力押しでは、生身の人間の力では、怪異の力には敵わない。絶望が押し寄せる中、ふいに遠くから風雅の声が聞こえた。

「鳳子!!」

 砂利の上を走る足音が近づき、すぐに風雅が鳳子の元へ駆け寄った。その瞬間、鳳子を締めつけていた力は消え去り、彼女は解放された。

 鳳子は咳き込みながら、辺りを見回し、何が起こったのか理解しようとした。鳳子の目に映ったのは、蒼い炎に包まれてゆっくりと消えていく幼子の姿だった。青い火の粉が空中に舞い散る中、風雅が倒れ込んだ彼女を支え、しっかりと抱き起こしていた。その異様だった空間は次第に教室の姿を取り戻し、いつもの風景へと変わっていった。

「何が起こったの……?」

 鳳子は戸惑いながら呟いた。その言葉に対し、風雅は少し息を整えながら応じた。

「いや、それはこっちのセリフだ。お前……」

 風雅の声には安堵と混乱が混ざり合っていた。彼はまだ鳳子を支えながら、立ち上がる彼女をじっと見つめた。その視線には、彼が目撃した奇妙な出来事への驚きが表れていた。

 鳳子の悲鳴を聞き、思わず振り返った風雅の視界は、蒼い光で満たされていた。その光の中で倒れていた鳳子へと駆け寄った時、彼は鳳子の瞳が一瞬、金色に輝いているのを見た。しかし、その光は一瞬で消え去り、再びいつもの彼女の瞳に戻っていた。

(気のせい……か?)

 風雅は自問したが、鳳子の瞳にはまだ、どこか力強い光が宿っているように見えた。

「……とにかく、元の世界に戻れたみたいですね」鳳子は静かに呟いた。

「霊障が起きていたのは間違いないので、やはりお化け屋敷は中止にした方がいいかもしれませんね」

 彼女はふっと笑みを浮かべ、柔らかな声でそう言った。その笑顔には、先ほどの出来事が信じられないほどの冷静さがあったが、どこか少し疲れたようにも見えた。
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