4-8 記憶の狭間で交わる心
蝶野は鳳子の調査結果を受け、お化け屋敷を中止することに決めた。机や椅子を片付け、残りの時間は休憩室として教室を開放することになった。
「あ、そういえば世成さん。これ、体育館に忘れていたわよ」
教室を片付けている鳳子に、蝶野が思い出したように声を掛けた。彼女の手には鳳子のスマホが握られていた。
「わぁ! 預かっていてくれたんですね! ありがとうございます!」
「お父さんが、何度かあなたを探して私のところに来てたの。スマホを持っていないって知ったら、すごく心配して、どこかへ探しに行ってたから、後でちゃんと連絡してね」
「はい! わかりました!」
鳳子はスマホを受け取り、画面を確認すると、和希からの数件の着信やメッセージが入っていた。クラスメイトたちが忙しなく教室を片付ける中、鳳子は邪魔にならないようにと廊下に出る。
廊下に出た鳳子が目にしたのは、窓枠に寄りかかってクレープを持っている風雅の姿だった。彼は両方の手にクレープを一つずつ持ち、そのうち一つは自分で食べていた。鳳子はその姿を見つけて、すぐに駆け寄る。
「お疲れ様です、風雅くん! まだ2Beの前にいてくれたんですね! ちょうどよかった!」
鳳子はお化け屋敷の怪奇現象が解決した時点で、風雅とはもう解散したものと思っていた。しかし、彼がクレープを買いに一度ここを離れたものの、再び戻ってきていたことは予想外だった。
風雅は無言で、自分が持っていたもう一つのクレープを鳳子の口に突っ込む。驚いた鳳子は「あむっ」と無言でクレープを頬張り、口に広がる甘さに思わず笑みがこぼれる。今日一日の疲れが甘さとともに溶けていくような気がした。鳳子が泣いたり、笑ったり、焦ったり、真剣になったりと、次々と表情を変える姿に、風雅も自然と笑みを浮かべた。
「それはやるよ。まだ、お前と初めて会った時の話をしてねえだろ。話したいことは俺にもたくさんあるんだ。ちゃんと最後まで付き合えよ」
その言葉に、鳳子ははっとして、本来の目的を思い出した。二人が一緒に行動していたのは、鳳子の空白の記憶について風雅から話を聞くためだったのだ。解決部のことで夢中になり、そのことをすっかり忘れてしまっていた。
「そうでした! すみません、つい忘れてました……」
鳳子は風雅の隣に並び、少し緊張した様子で口を開く。
「あの、そのことなんですけど……」と、鳳子は手に握ったスマホを見つめながら、少し切ない表情を浮かべた。
「もしかしたら、今日はもうこれ以上一緒にいられないかもしれません。先生がすごく心配していて……」
鳳子の言葉は、和希からのメッセージを確認した瞬間、彼女の中に湧き上がった感情を映していた。風雅ともっと話したい気持ちはあったが、和希の心配を無視することもできなかった。
風雅は、鳳子が手にしたスマホの画面にふと目をやった。そこには「鳳仙和希」という人物からのメッセージが大量に届いていた。一瞬、風雅はその件数に戸惑いを覚えたが、もしこの人物が鳳子の父親ならば、その過保護さも愛情ゆえなのだろうと考え、少しだけ鳳子が遠い存在に感じられた。
しかし、すぐに彼女の言葉に違和感を覚えた。鳳子は「お父さん」ではなく「先生」と呼んでいた。花火大会のときも、迎えに来た人物を「先生」と呼んでいたのを思い出す。
「なぁ、お前の両親って何してる人なんだ?」
風雅はつい口をついて出た言葉に、自分が踏み込みすぎたことに気付き、慌てて口を覆った。しかし、鳳子は全く気にした様子もなく、むしろ無邪気な笑みを浮かべて答えた。
「お母さんは刑務所にいて、本当のお父さんは生きているのか死んでいるのかも知りません。私は知らない人の養女で、形だけの家族ごっこをしています」
鳳子の言葉は淡々としていた。それは、まるで何十回、何百回と繰り返し語ってきた台詞のようだった。その笑顔は一見明るいが、どこか翳りを帯びていて、まるで作り物の仮面をかぶっているかのようだった。
それは「死に行く鳳子」が「生まれ行く鳳子」にずっと語り続けてきた残酷な真実。鳳子にとっては、他人に話すのは初めてのことだったが、驚くほどさらりと口に出てしまったことに、彼女自身少し驚いていた。
「すまねぇ……不躾なこと聞いちまったな……」
風雅は耐えきれず、視線を鳳子から外した。その瞬間、鋭い声が響いた。
「だめ……!」
鳳子の声に驚いた風雅がそちらに目をやると、鳳子が突然、彼のクレープにかじりついていた。驚いた風雅は、彼女の行動にムキになりかけた。が、次の瞬間。風雅の口いっぱいにクレープの甘さが広がり、言葉を失った。それは、風雅が鳳子にあげたクレープの一口だった。冷静にその甘さを感じながら、彼はゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。
「何すんだよ」
風雅は不機嫌そうに問いかける。すると、鳳子は少し怒ったような表情で静かに答えた。
「私から目を、逸らしたからです。今のはクレープくれたお礼と仕返しと、視線を外したお仕置きです」
鳳子の真剣な瞳に、風雅は思わず言葉を飲み込んだ。その一言には、彼女の内側に潜む孤独と不安、そして、ほんの少しの甘えが込められているように感じられた。
「……悪かったよ……」
風雅は小さく呟いた。彼自身も複雑な家庭事情を抱えていた。だからこそ、その重さを分かち合うことはできないにせよ、比べるものでもない。ただ、鳳子はきっと、普通の会話の一部として受け止めてほしかったのだろう。風雅は彼女の怒りを、そう解釈した。
「クレープ、美味しいですね。私のおやつは、普段はドーナツばかりなので、こういうのはあまり食べないんですよ」
鳳子はまるで何事もなかったかのように、楽しげに口を開いた。
「まぁ、文化祭の出店にしちゃ上出来かもな。だが、俺に言わせればまだまだだ」
「これを超えるクレープがあるんですか!?」
鳳子は驚いた表情で声を上げた。その反応に、風雅は得意げに微笑み、大きく頷いた。彼はどこにその店があるか、そしてどう美味しいかを話し始めた。その時、不意に男の声が二人の会話を遮った。
「やっと見つけたよ、鳳子」
その声に、二人は振り向いた。そこに立っていたのは和希だった。
「先生!」
鳳子は和希の姿を見つけると、すぐに駆け寄った。その様子は、まるで親子の感動的な再会のように見えた。しかし、風雅は花火大会の夜の鳳子を思い出す。ほんの一瞬でありながら、和希に対しいて恐怖……あるいは警戒心を抱いていた鳳子。その代わり様に違和感を抱かざるを得なかった。
風雅は距離を取り、そっと二人のやり取りを見守っていた。すると、鳳子は再び風雅の元へと駆け戻ってきた。
「風雅くん、風雅くん! さよならだから、抱きしめて!」
鳳子は両手を広げて、風雅に求めた。人目も憚らず、どうしてそんなことを突然求めるのか、風雅は一瞬困惑した。しかし、鳳子の表情は真剣で、何か切実な思いが込められていることを感じた。躊躇しながらもほんの少し腰を下ろした瞬間、鳳子は待ちきれないかのように風雅へと飛び込んで抱きしめた。
その瞬間、鳳子の唇がふいに風雅の耳に触れ、彼女は小さな声で囁いた。
「風雅くん、私を忘れないで。また会いたいの。だから、だから……」
その囁きは、焦りと恐怖に満ちていた。この行動が、和希の前では何かを言えない理由があるのだと風雅はすぐに悟った。風雅はふと和希に目をやる。そこには冷たい眼差しを向ける男が立っていた。その視線は、まるで自分の獲物を奪われた怒りを湛えた獣のようだった。
風雅は和希に気付かれないよう、そっと鳳子の耳元で囁いた。
「また会おう。その時は、もっとたくさん話そうな。鳳子が忘れても、俺はお前を忘れない」
その言葉を聞くと、鳳子は風雅を抱きしめていた手をそっと解き、彼の顔を見つめた。彼女の瞳に浮かんだのは、信頼の色だった。彼を信じられると確信した鳳子は、安堵の笑みを浮かべた。
「風雅くん、またね」
そう言って、鳳子は和希の元へ駆け寄り、そのまま姿を消すように立ち去っていった。
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