Belgian
今更だけれど今更ついでに思い切って自分の心に正直に言うと、嶋田朔夜とは本来一生一緒にいられるものだと本気で思っていた。
家は隣。家族ぐるみで仲が良くて保育所から大学卒業まで全く同じ通学路だった人生。朝から晩まで行きも帰りも寝ても醒めてもほぼ休みなく、本当にずっと一緒にいた。
周りから見たらおかしな感覚だと思われるかもしれないのだろうが、朔夜と出会った時から今日までどうしてか自分たちの在り方が変だとか嫌だとか疑問にすら一度も思ったことは無い。
でもだから要するにはそれがおかしいのだろう。
だって、朔夜は、生まれてから死ぬまでの一秒たりとも嶌田朗二という何の変哲もないただの普通のこの自分という人間を好きでいなかったことは無かったから。多分、いや、絶対。
「…………」
身体に毒だとバイトの若い子には嫌がられるが、閉店作業の諸々を済ませた後の一服はどうしてもやめられない。
昔買い付けに行ったアンティーク市で見つけた大きな古い柱時計は早朝5時半を少し過ぎていて、そろそろ地下鉄の始発が足元を通過する頃だろうか。
肺まで深く飲み込んだ煙をゆっくりと吐き出す。今日はなんだかいつもより疲れた。
ぼんやりとしていると、からんと氷の溶けた音で飲もうと思って注いでいたウイスキーのことを思い出す。グラスに触れてみるけれど、口には運べずまた煙草の煙を腹いっぱいに飲み込んだ。
疲れたといっても別に特段変わったこともないのだ。今日も朔夜は来ないまま、常連で賑わう夜が終わり朝が来た。朝が来たなら帰らなければならない。誰の待つでもない、一人きりの広い家。
それはいつもの朝であり、いつもの終わり方だった。
「……」
残念だけれど、昨日も一昨日も、きっと今と全く同じことを思っていた。
疲れたけれど、夜さえ明けなければずっとここで賑やかな楽しい時間を保ったまま待っていられるのに。
奇しくも、道路側の窓からまるで映画のエンドロールみたいにして世界の始まりの朝日が差し込み、くすんだ白色をした時計の文字盤を斜めに切り裂く。
立地に拘った覚えはないが、ここは東側に大きく拓けるようにしてゆるい下り坂になっていて、つまり遮蔽物のないまま、昇る朝日に容赦なく煌々と照らされた。
燻る紫煙は夜明けの黄金に透かされながら磨りガラスみたいになってこの侘しさから守ってくれる。
こうして今日も、世界は愛の在り処を隔てたまま進んでいく。
短くなったキャスターを咥えながら、おもむろにスマートホンの通話履歴を触る。
「…………」
そこに並ぶのはこの病んだ心が求めてやまない愛の残像。あの日の嶋田朔夜へどうしてもリダイヤルしたくてたまらない瞬間が病的に連なっていた。
事実、これが決して朔夜に繋がらないことだけが救いであることは変わらないけれど、けれど、もしもいつか繋がったら、
「………」
繋がったなら。
「一回ぐらいでてみろ、バーーーカ」
苛立った人差し指で終話ボタンを乱暴に連打しながら煙草を灰皿に吐き捨て勢いのまま黄金色のまやかしを飲み下す。
こうして今日も朔夜には会えず終いだったから、帰って寝て、起きたらまた店を開けることにする。
そしたらいつか会えるかもしれないし、そう思っていなければ、もうどっち向きに生きていけばいいのかすら分からない。それはもうこの命が終わる時までしょうがないから、今日も辛い一日がちゃんと終わったことを褒められてしかるべきだと思う。だから誰か。
誰か。
「……ばか……」
(Belgian)
胃がかあっと熱くなって独特のにおいが喉と鼻を抜けていく。すぐに心臓がどくどくいって眼球が痛くなってきたら頃合いと見て店を出る。これを乗り越えて眠って起きたら平気になっているのだけれど、店を閉めたら途端に強い不安に苛まれてとてもじゃないがアルコールを引っ掛けないと帰れないし眠れない。誰に明かしたこともないがもう何年も前からの習慣だったし言われなくとも依存症なのだと思う。歩いているうちにぼやっとしてくるので狂いそうな早朝の静寂を紛らわすにはちょうど良かった。
店を出てすぐの幹線道路を横切るための横断歩道で立ち止まる。
この大通りを向こうに渡って登り切ったところにある分譲マンションは築年数でいうとちょっと古いが頑丈なコンクリート造りで騒音もトラブルもなくすこぶる快適な物件だった。
二人で何度も下見をして店にも近いし駅にも近いしいい街だからと思い切って買ったのに結局一年も住んじゃいない。広いし寂しいししばらくは帰る度に辛くてしんどかったものだが、それでも少しは一緒に過ごしたにおいが残っていたから手放す気にはなれなかった。
今日から一人になるのだと思った時、昔実家の近所に住んでいたじいさんのことを思い出した。奥さんに先立たれて見るのもつらいからと遺品の服をゴミに出す姿だ。子供心にそういうものかと悲しい気持ちになったが、今は逆にメンタル強すぎるなと思ってしまう。
生きた名残を見るのは確かにつらいけど、それまで無くなるのは絶対に嫌だ。未だにここに残った朔夜のものは何一つ捨てる気も毛頭ない。
でも、時折その気持ちに疲れてしまうことがあるのは事実で、そうなると今でもあんな風に諦められるほど自分も強くあれたらなとそうは少なくない頻度で思い返すことがある。
勿論、本当はあのじいさんだってメンタルが強いからそうしたわけじゃ決してないということも頭では十分理解している。けれどそうしないと前に進めない、あれは少なくとも彼なりに生きようとした結果なのだと思ったらやっぱり強いと言わざるを得ない。
仮にいつかは朔夜がいなくなったこの強い虚無の穴が風化して、なんでもないように笑える日が来るのかと思うとそれこそ嫌で嫌でたまらない。そんな自分を受け入れたくないしだったらずっと悲しいままでいたい。
朔夜がいなくなったと一人でずっと、いつまでも泣いていたかった。
どんなにセンチメンタルだとしても、六時前には部屋に入る。ウイスキーのお陰で軽く揺れている視界の中で最低限ベッドに入れる恰好に何もかもを整えてから、薬みたいにしてショットのテキーラを一杯だけ飲み下す。すきっ腹にキツく染みるのをちょっと我慢すれば、あとは面白いぐらいにすぐに眠たくなれた。
気づけばもう八年はずっとこんな調子だった。閉店後は見ての通りの廃人ポエマーではあるが、起きたら吐いてシャワーをすれば割と健常でまともな人間になりきれると毎日そう思い込んで生きているところはある。それから大体昼前にはほかの誰かの作った飯を求めて外へ出るし、そのままぶらぶらと買い出しへ行って店を開けながら仕込みを始めているとあっという間に誰かが来てくれる。
だから、生きているのが心から嫌になるのは閉店直後から朝起きるまでの数時間だけだ。
だって、さっきまであんなに賑やかだった空間なのに店を閉めたら夢みたいにがらんどうなのは寂しくて心細くて世界にたった一人になってしまったみたいに思えてたまらなく不安になった。一体どこからどこまでが夢で、何から何までが本当。逸る心は状態によっては軽くパニックになりかけることもあったり。
もしも急に一人だけ世界線を飛び越えたらこんな感じなのかもしれない。誰もいないパラレルワールド。ならば元に戻る方法を必死になって探さなくちゃいけないな。でもそれでいうと、朔夜はもしか俺のいない世界線に行っただけなのかも? 結局のところさ、死ぬってなんなんだろう。朔夜の自我はどこにあったの? 心臓? 脳? それとも肉体そのもの? いつか人の精神のありかが分かるようになったら、万一肉体としてのカタチが朽ちても精神世界で一生一緒にいる方法がみつかるかもしれない。しれないよね?
ないかもしれないけどさ。
こういった馬鹿げた妄想は子供の頃からの悪癖だったが、朔夜はそれをいつでも面白がって聞いてくれるので直らないまま大人になった。からには、最後まで面倒を見ないのは無責任だ。意味なんてないけど聞いていて欲しかった。どちらにしろ、朔夜のありかは多分もう俺には一生わからない。悲しいな。
軽く酔わないと帰れないのはそんなしょうもないことを考えているからと、出来ることなら何かのはずみで死んでしまいたいとも心の底では思っているからだ。ドライバーには悪いけれど、タイミングが良かったら、或いは悪かったら、俺のことも間違って轢いてくれないかなと密かに思った。
「……ぅ……」
若干気持ち悪くなってきて寝返りをうつ。酒でも寝付けない日は夢見も悪いから嫌だ。身体を丸めて息を深く吐き出す。
「…………」
本当は朔夜を見送ったあの日その足で電車にでも飛び込もうかと考えて駅まで行ったのだけれど、ふと自死した人間の魂は天国にも地獄にも行けないのだという聞きかじりを思い出して(死んでも朔夜とは会えないのか)と一瞬でも留まったらもう無理だった。夢から醒めたみたいに周囲の雑踏が耳に届くと死にたいなんて一人よがりの心理よりも、世界で一番大事なものを失った悲しみの方が勝ってしまって初めて人前で声をあげて泣いた。
因みにその時声をかけてくれた一人である当時の高校生は、世戸くんといって今年でもう六年目にもなる店のアルバイトだった。よく気がきくし素直だし、ちょっと口うるさいところもあるけれど来て貰ってすごく助かっている。
もう一人、新卒の営業マンにも世話になったがそっちは榛葉という。この人もあれから八年来の店の常連になってくれていて、ほぼ毎日のように店にいる。明るく元気で憎めない人なのだけれど、本当にしつこくて空気が読めない。悪気がないのは勿論よく分かっているが、率直な明るさに助けられたこともあれば、純粋な好奇心に時には傷つけられたこともあった。
普段から客だからという理由だけでは特別扱いしたりしないので、苦手でも嫌いでもないのだが、ちょっと横暴ともとれるトーク力を上手くいなすのに少し時間がかかった自覚はある。
その点、世戸くんは自分が嫌な話題だと思ったらすぐに嫌な顔をしてちょっと、とすっぱり遮った。それには榛葉もさすがに気が付いて黙るので、いっそそれぐらいのバランスの方が彼と付き合っていくにはちょうどいいのかもしれない。
「…………」
寝ても覚めても思考はこうしてめぐった。微睡みの延長でぐるぐるぐるぐる余計なことを思っては不安になっての繰り返し。やっと途切れたと思った意識は一瞬ですぐまた始まってしまって正味四時間程度のノンレム睡眠を、だからもう八年は続けているのだ。
寝不足だとももはや思わない。身体は疲れているのかもしれないが構ってはいられない。朔夜のいない今日をまた乗り越えるためには起きて店を開けに行かなくちゃいけないのだから。
けだるい身体を無理に起こすと途端今にも吐きそうになる。今日も今日とて起き抜けは地獄の二日酔いだった。なんだかいつもよりもひどい気がしたが、そういえば昨日は忙しかったから夜は食べなかったかもしれない。世戸くんには賄い作っていたと思ったが、どうだったろう。
よたよたとなりながら無駄に広いつくりの便所で這いつくばると消化しきれなかった昨日の悲しみをえづいた。
「おえ、っう」
だいじょぶか?
「…………」
いいよねほんと。昨日楽しそうだったから羨まし。
吐くほど飲んだりは絶対しなかった朔夜にとって二日酔いになるほど飲めることをいつも羨ましがられた。なりたくてなっているわけじゃないと毒づくと優しく背を撫でてくれた手の平の感触を思い出して泣きそうになる。
「よしよし。まあでも二日酔い、なんか可哀想だから今度はほどほどで止めようかな。ごめんな、容量オーバーなの気づいてやれなくて」
「……ぐぅ、うう、いいからあっち行ってろよお……てか何でお前に俺のキャパがわかんなきゃなのよ、エスパーじゃん……」
「ん~。酒強いんだと思ってたから。意外とよえぇんだな」
「っっさいわ……う、あっち行ってて、だいじょぶだから」
「……朗」
咄嗟に身体を引いたが問答無用でゲロまみれの口を塞がれ舌までいれられてドン引きした。抵抗しているのにそのまま十秒ぐらいしつこくされ続けていたらなんだか段々酸欠で頭が割れそうに痛くなってくる。
「んんっ……! やぇ、も、」
「……ん-、ん……ごめん、ほんとに具合悪そうでむらっときた」
「うう……いった、っおまえ、どういう性癖だよ、ド変態、最悪、マジ無理、口ゆすげっきったねえなマジで」
「んな、酒の味しかしないし……てかなんか知らんけどお前相当エッチだぞ……? 自覚しろ。てか、俺いないとき吐くまで飲むの絶対やめろ」
「知らねーよ! どこの誰がゲロしてる男にむらっとくんだよ、馬鹿じゃねえの!」
もう八年以上も前のことなのに、思い出したらとても鮮明で泣きながら笑ってしまう。吐きそうで、悲しくて愛しくて、つらくてつらくて、なのに可笑しくて、最早感情も身体もひっちゃかめっちゃかになってしまってどうにもできない。
仕方がないのでしばらく順番に身体の好きに任せていたら、最終的には吐いて泣くことしかできなくなって、吐くのが止んだらやっぱり”辛くて泣く”しか自分には残っていないということになんだかとてもとても安心してしまった。
まだ色褪せさせやしない。まだ、一人だけ先に進みたくなんてない。八年間こんな風に命の秒針を毎秒毎秒わざと無視し続けているのだから身体は老いても、気持ちはあの日に留まったまま動こうとしない。
それでも、吐いて泣いたらちゃんとすっきりした。これからシャワーを浴びて今日は誰の飯を食いにいこうか。
「…………」
それから、いつもよりも調子が悪いのは時期的なものでもあるから仕方がない。知らせを受けて病院に走ったのは吐く息の白く形づく真冬の雨の日だった。かじかむ指先と頬を切るような冷たい空気。でもあの時はまだ温かかった手の平が冷たくなるまで握っていられたからまだ幸せだったと思う。
もうすぐ、八年前に二十八歳で世界線を飛び越え今はもう肉体の影すらなくなってしまった嶋田朔夜の命日がまたやってくる。
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