稲妻を聞く



 目覚めると、木の天井が目に入る。自室の天井だ、多分。ぼんやり横を見ると目の前に寝入っている自分の顔が目に飛び込んできた。「えっ」と咄嗟に声を上げてしまい、寝ている自分も目を覚ました。緩慢に二三度まばたきをして己を見て、驚いたように目を見張らせていた。
「おは、えっ……」
とりあえず挨拶をしてみたが随分声が低い。飛び起きて姿見を見れば、そこにいたのは小豆長光だった。なぜ、と呆然としていた。だが徐々に床につく前のことを思い出していく。そうだ、そうだった……。自分は小豆長光なのだ。まだ現実感がない。というよりも鏡に映っているものが自分という気がしない。だが、そうなのだ。
 小豆よりも幾分か寝起きの悪い山鳥毛も不機嫌そうに目を細めて鏡の前にやって来た。自分の姿を爪先から頭のてっぺんまでじろじろ見まわしている。ふたりとも何も言わなかった。その沈黙を雨音が埋めていく。雨脚は穏やかだが、ごろごろと低く這う雷の音が雷雲の訪れを告げていた。まだ距離は遠いがすぐに来るだろう。
 曇り空のせいで時間は判然としなかった。日は出ているが午前中なのか午後なのか、どれくらい寝ていたのだろうか。
 山鳥毛が納得したように長く息を吐き出した。ぼんやりと窓の向こうを見やっている。
「気分はどうだ」
窓に顔を向けたまま言った。
「頭が重いね」
「私もだ」
緩慢に寝間着を脱ぎ始める。小豆も枕元に畳まれた着替えを身につけていった。
 戦装束は久々に身に着けたような心地だった。もちろん体にしっくりくるのだが、太腿を締め付けるベルトの感触がないとか佩いている太刀が軽く感じるであるとか、妙に落ち着かない。山鳥毛も同様のようでしきりに首をひねったり、太刀に触れたりしていた。彼がしきりに触っているところはちょうど三色団子のキーホルダーが下がっていたところだった。
「あげようか?」
「いい。いらん」
おかしくて笑ってしまった。
 布団もたためば部屋はがらんどうとしてすっきりしたものだった。本丸に初めて顕現した日のようだ。山鳥毛は一通り部屋を見回してから、今度はじろじろと小豆を眺めまわしていた。
「どうしたのだ」
「いや……変な感じだ」
お互い様だ。小さく笑ってとんと指で彼の胸先を突いた。
「私は君になったのだ」
「きみはわたしだな」
低く笑う小豆を見やって山鳥毛は「いくか」と言った。
 鍛刀場へ向かうあいだも人の気配は遠く、雨音に混じってささやきのような話し声が漏れ聞こえるばかりだった。審神者が亡くなり本丸を閉じるにあたって、もう大半の刀たちは顕現を解いて還ってしまった。一文字の刀も山鳥毛を残してもういない。一振りずつ小豆は丁寧に送っていった。最初は御前だった。相変わらずよく通る声で笑って去っていった。次に南泉、日光。日光は黒田のものたちを見送るのを待ってのことだったから、山鳥毛がひとりで送った。
 長船の刀は燭台切だけが残っていた。みんなを置いては行けないよと笑っていた燭台切の気持ちが今の小豆には実感として理解できた。
 雨はどんどん弱くなり今にも止みそうなほどだったが、霹靂が止まることはなかった。雷鳴が雲の中を走る音が断続的に聞こえている。
「還れるかな」
呟くように口にしていた。
「さあ、どうだか。ずいぶんかわったからな」
 記憶を交わそうと言い出したのは山鳥毛だった。一文字とも上杉由縁の刀とも別れは済んでいた。小豆と己の間にある隔たりを埋めたいのだろうと申し出を聞いたときには思ったものだったが、今となってはそれと同じくらい彼の中の忘却も耐えがたかったのだと知っている。今の小豆は何もかもを覚えていた。五虎退と出会ったときのことも、上杉の家を出たときも、一文字の頭目を継いだときのことも、本丸で小豆と再会してどれだけ驚いたかも我がこととして覚えている。男士の姿を得て、どんな風に世界を感じ取っていたのか共有している。山鳥毛の知る梔子の甘さは小豆の記憶の中よりも甘みがあった。彼の中に自分がいて、自分の中に彼がいる。
 鍛刀場は灯明ひとつと炉の火だけで明かりはなかった。足を一歩踏み入れただけで熱波が正面から襲い掛かって来た。この部屋のつくりは山鳥毛がいた場所の鍛冶場とそっくりだったのだと小豆はいま思い知った。
「お二振りご一緒にということでよろしいでしょうか」
刀解を担当する役人が平伏してふたりを出迎えた。
 山鳥毛が一瞬言い淀んだ。考えていることは分かる。だから小豆が提案した。
「君が偶数、私は奇数でどうかな」
「分かった。きみ、いまはなんじだいだろうか」
「十時でございます」
「なら私だ」
昨晩から夢を取り交わして、少々の寝坊で済んだらしい。何の因果か今度は小豆が見送る側に回った。自分が失われたときに散々悲しませたのだから、これであいこになるだろうか。いや、ならないなと思い直した。
 とんと指先で胸を押される。
「私が逝って」
「わたしがみおくる」
山鳥毛は爽やかな笑みを浮かべると上着を翻して小豆に背を向けた。担当官に依り代を渡す。
「山鳥毛」
顔だけで彼は振り向いた。ひたひたと別れが近づいている。今となってはこの別れのみが小豆を小豆長光たらしめる。彼は先に逝き、自分が見送る。たったひとつ、分けあうことのない記憶。
 ついに雷がやって来る。それは破壊なのだという。それは豊穣なのだという。炎のみなもとが天から地上にもたらされる。
「さようなら、山鳥毛」
「さらばだ、小豆長光」
迅雷が聞こえた。





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