稲妻を聞く
遠雷が聞こえる──
小豆と野遊びをしたことがある。夏至の日に行けるところまで歩き通して、そしてまた帰ってくるのだ。付喪の身では人ほど遠くへは行けないものだが、春日山城からさらに山中に踏み入ってみた。
人一人が通れるか通れないかという獣道を連れ立って歩いていた。木々の合間からは鋭い陽射しが降りそそぎ、茂みや草花が地面に落とす影はどこまでも濃い。朝方に雨が降ったせいで草木の匂いが強く香ってむせかえらんばかりだった。
ふと前を歩く小豆が足を止めた。
「なんのかおりかな」
すんと嗅いでみるとほの甘い香りがする。覚えのある香りだ。一瞬考えて、ああ梔子だと答えていた。へえ、と小豆は分かったような分からないような顔をしていた。
ぼんやりした顔で、梔子……と噛んで含めるように呟く小豆を見ていると花の方も見せてやりたくなった。どこか近くに咲いているのだろう。辺りを見回すと藪に覆われた斜面に白い花弁がちらりと見えた。
「待っていろ」
生い茂ったウドの葉を踏み分けて斜面を登る。葉から滴る雨粒に着物の裾を濡らし、ぬかるみに脚を取られながら梔子の木を目指した。待っていろと伝えたのに小豆は後ろからやって来た。
花を木から一輪摘み取って、これだと渡してやった。香りの強い花だから木の傍にいるだけで匂いが移りそうだ。小豆は花に顔を近づけて、甘いと呟いた。
もう一輪くらい貰っていっても良かろうと足を一歩踏み出したら、泥に脚を滑らせた。わっと高い声が己から上がる。驚いた小豆が手を掴んでくれたのだが、勢いは殺せずにふたりでそのまま斜面を滑り落ちた。どうにか途中で止まったものの泥だらけになってしまった。そのうえ草が潰れて青臭い臭いがこびりついている。梔子の甘い芳香は草いきれにかき消えてしまった。
髪も服も乱れた姿があまりに滑稽で腹を抱えて笑った。
雷とは神鳴り、すなわち神が鳴らすものなのだという。確かに落雷の轟音には畏怖をもたらす凄まじさがある。地に落ちれば火事を起こし、直撃すれば命を奪う。
五虎退の部屋を訪れると虎たちと一緒に隅で震えていた。膝に一匹を抱えて両耳を塞ぎ、残りの四匹は足元に身を寄せている。部屋に入って障子を閉める前に稲妻の閃光が弾けた。ぱっと部屋の中が明滅する。直後に轟音が部屋を揺らした。小さな悲鳴を上げて、五虎退はさらに身を縮こませた。
できるだけ音を立てないように障子を閉め、隣に座って肩を抱くとジャージにしがみつかれた。
「かみなりはこわいかな」
ゆっくりと頭を撫でるとジャージに縋りつく力が強くなる。
「……音が大きくて、怖いです」
「陸奥守がいっていたのだけれど、かみなりからいのちはうまれたのだそうだぞ」
「そうなんですか?」
「せいめいのざいりょうをつくったのだ。そんなすごいものなのだから、こわくてとうぜんだよ」
雷雲が通り過ぎるまで、二振りと虎たちで身を寄せ合っていた。
泥だらけになったと言えば、田植えをしたことがある。米沢城の蔵でしまい込まれていた頃だ。屏風の龍が酔った勢いで領内の畑に降りていき、水を張った田で思う存分水浴びしたせいで苗が潰されて無駄になってしまったのだ。城中の付喪が顔面蒼白になって龍をふん縛って罰を与えたが、これでは民にも主家にも申し訳が立たない。城下のお稲荷様に頭を下げて苗を分けてもらい、夜を徹して田植えをしたのだった。
五虎退は真っ暗な田に足を入れることを怖がっていたが、いざ入ってみると楽しんで植えていた。謙信は何度か足を取られて転び、己はどうも等間隔で植えられず何度かやり直しを食らった。蛙の鳴き声すら途絶える丑三つ時に灯明の付喪に照らしてもらいながらの作業だったのだが、田植えなんて見物しかしたことのないものが大勢集まっていたのだ。ああでもない、こうでもないと口々に言いながらやっているうちに家人が目を覚ましてしまった。
仕方がないので急ごしらえで五虎退と謙信をお付きの童子にして使者に立つことにした。灯明の付喪を総動員して背後に控えさせ後光に見立てる。彼らの必死の働きのおかげでそこだけ昼のように明るくなった。
農家の親父どんは己を目にするや、手を合わせてナンマンダブナンマンダブとぶつぶつ言いながらその場に跪いてしまった。罪悪感に胃が痛い思いをしながら、眷属の龍がお前の田を荒らしたので直しに参ったと本当のことを率直に伝えた。親父どんはどうにか納得してくれたようで、大人しく寝に帰ってくれた。そのあと必死になって修復したことは言うまでもない。
観音様は田植えが下手という噂は立ってしまったものの、以来その田の稲はどんな冷夏の年も枯れることはなかった。上杉の家を出るまで、稲の様子を見るのが例年の楽しみだった。
五虎退だけでなく謙信も雷は苦手なようだった。怖くないのだぞと口では言うが、遠くからかすかな音がするだけで、びしりとその場に固まって誰かの傍に寄って来るのだ。それは小竜のマントの影であったり、極めて大きくなった五虎退の虎であったり、その時に応じてさまざまだった。大般若はなかなか頼りにされなかったようで、深夜の厨でお猪口を開けながらよく管を巻いていたものだ。
「山鳥毛もよくだきしめてくれたのだ」
胸に顔を埋めて謙信はぼそぼそと言った。本丸にいない刀の話をするとは珍しい。よほど世話になったのだろう。
閃光がひらめき、落雷の音がする。びくっと小さな肢体が跳ねる。
「にがてだったのに」
思わず呟いていた。下にも置かれない扱いのせいで、小さい子供をどう扱っていいか困惑していたように思う。世話を焼くより焼かれる側だった。
「そんなことないのだぞ。山鳥毛はめんどうみがよかった」
よくなったのだ、と小さく言い添えていた。言葉もなく頭をゆっくり撫でることで答えた。
岡山にいるときもたびたび抜け出しては近所の畑を見て回り、ときには蜜柑の一個や二個を貰い受けることもあった。一家のものたちは福岡やら名古屋やら、押しも押されぬ大都会で大切にされて暮らしているが、己はどうも田舎暮らしに縁があるらしい。もちろん東京や岡山や華やかな場所にもいたのだが、色々な縁が重なった末にお世辞にも大都会とは言えないような産土の地に戻って来たのだから、そういう星の下にいるのだろう。
トンテンカンテンと刀を打つ音を聞いていると、生まれたときのことを思い出せる気がする。長船を擁する中国山地はなだらかで米沢とも越後とも山の風景は大きく異なっていた。あの厳しい峻厳さはなく、気候も温暖で自然そのものに人への慰撫が宿っているようだった。己の先に出でたものも己の後に打たれたものも、この優しい自然から成っているのなら、それは励まされることのように思えた。
己のいるところは、すぐ傍に鍛冶場があった。炉に火が入ると忍びこんでまた一振りまた一振りと同胞が生まれるのを見守った。そうしていると我知らず物思いにふける時間が長くなっていた。老けたなとつい笑っていた。あるいは文化財としてもう五十年以上在り続けて、ただ在ることそれ自体に価値を見出されることに慣れてしまったからなのかもしれない。
そうして日を過ごすうちに、ふと野遊びをしようと思い立った。夏至にはほど遠かったが、道々には躑躅が照るばかりに咲き誇り、あてもなくそぞろ歩くには良い日和だった。まずはと博物館から農地を縫い、ゴルフコースの合間を通って福岡城址までやって来た。ここから吉井川を遡上するのだ。挨拶代わりに頂上にある稲荷社に参っていく。
ぱんと柏手を打ったところで、三百年だか二百年ばかり前だったか、お稲荷様から稲の苗を貰い受けたのだったと不意に思い出した。そういえばあれも今日のような春のことだった。咄嗟に誤魔化すために脇侍を五虎退と謙信に頼んで畏れ多くも観音菩薩の真似事をしたのだった。
階段を降りながら、野遊びもしたのだったと記憶をたどっていく。あまりにも昔のことでおぼろげだ。あのとき、己の前を小豆が歩いていた。後ろには五虎退に謙信もいたのだったか……あの甘い香りの花は……
山鳥毛は雷が苦手ではないという。むしろあの重低音を聞くとわくわくするそうだ。雨に降られる方が抵抗があるのだと笑っていた。
「慈雨だとは分かっているのだがね。君は平気そうだな」
「まあ、手取川でさんざんけいけんしたからね」
「覚えているのか」
「それはもちろん。きのうのことのようだよ」
梅雨の半ばだった。降りしきる雨が紫陽花を揺らしていた。雲の中で雷が轟いている。落ちるだろうか。
「きみはたまにそういうかおをするね」
不意に申し訳なさげな顔を見せるときがある。
──遠雷が聞こえた
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