2-1 音無き影
春の風がそよぐ黄昏学園の校庭には、桜の花びらが舞い散っていた。季節は巡り、鳳子は中等部二学年へと進級した。
歪んだ世界を認識するという現状は何一つ変わらなかったが、彼女はそれでも、他人を理解しようと、あるいはその歪んだ世界を受け入れようと、何度も自分と向き合い続けていた。
新年度初日、黄昏学園は授業がなく、下校時間は午前中に設定されていた。 まだ学校生活に慣れていない鳳子には和希の送迎があった。しかし、その日は想定よりも早く終わり、迎えの車が到着するまでの時間を持て余してしまった。
(少し、探検してみようかな…………)
気まぐれに思いつき、鳳子は人の気配の少ない校舎の奥へと足を運んだ。 騒がしさが嫌いで、誰かと顔を合わせるのが億劫な彼女は、無意識のうちに静寂を求めていた。 進むうちに、たどり着いたのは校舎の一番隅っこにある教室。まだ学園内に残る生徒たちの笑い声が遠くに微かに響いていたが、ここだけはまるで別世界のように感じられた。
鳳子は教室の扉をそっと開けた。中に入ると、乱雑に物が積まれており、中心には古びたピアノが埃をかぶって置かれていた。 どうやら物置として使われているようだ。彼女は静かに部屋の奥に歩み寄り、物陰に身を潜めた。 周囲の気配から遮断されたこの空間が、彼女にほんの少しだけの安らぎを与えてくれた。
(ここを、秘密の場所にしよう)
心の中で密かにそう決めた。 もし、この学園で何か辛いことが起こって逃げ出したくなった時には、ここへ来ればいい。たった一つでも安心できる場所があれば、不安が少しでも和らぐ。そんな思いが、彼女をこの場所に縛りつけた。
ふと、目の前にある古びたピアノが気になった。鳳子は近づき、椅子に腰を下ろした。 久しぶりに投稿した鳳子に、クラスメイトたちが最初にかけた言葉が、合唱コンクールでのことだった。
「ピアノを弾けるなんて、知らなかった」
クラスメイトだけでなく、蝶野も和希も、皆が口をそろえてそう言った。しかし、鳳子にはその記憶が一切無かった。 ピアノを弾いた覚えも、そもそもピアノが弾けるという実感も無い。
彼女はそっとピアノの蓋を開け、鍵盤に指を添えた。 そして、一音だけを響かせる。それは、静寂の中にひっそりと溶け込んでいくような音だった。
(やっぱり……私じゃない)
それ以上音を奏でることなく、鳳子は背もたれに体を預け、天井を見上げた。目を閉じ、静かに一人つぶやく。
「あなたは誰なの?」
誰に向けてでもなく、しかし確かにその言葉は胸の中に沈んでいった。
忘れられない誰かの面影――それはかつて大切だった存在のはずなのに、彼女の中に残っているのは、ただ鋭く抉るような胸の痛みだけだった。
その時、スマホから着信音が鳴り響いた。 鳳子は目を開け、画面に表示された名前を見る。和希からの着信だった。応答しようと手を伸ばした瞬間、着信は切れてしまい、画面に不在着信の通知が表示された。気づけば、すでに四件もの不在着信が溜まっていた。
(いつの間にか、眠ってしまっていたんだ……)
急いで和希に折り返しの電話をかけ、鳳子は教室を後にした。校舎の静寂を背に、彼女は一歩ずつ足を進め、校門へと向かった。
◆
それからしばらく、放課後になるたびに鳳子はあの教室へと足を運ぶようになった。迎えが来るまでの短い時間、ひとりになれる場所がどうしても必要だったのだ。 黄昏学園の賑やかな喧騒から逃れ、誰にも邪魔されないその教室に身を沈めると、鳳子はいつものように古びたピアノの前に座り、まるで弾けもしないピアノを真似るように、指を鍵盤の上でそっと滑らせた。
ピアノの音はほとんど響かず、代わりに微睡みのような静寂が教室を包み込む。鳳子は、その心地よい静けさに身を任せ、意識をふわりと漂わせていた。
――ここに座って。私が教えてあげるわ。
耳元で囁く声が、鳳子の意識の奥に響いた。 遠い記憶の中で、その声に応えるかのように、誰かと椅子を譲り合って座った。密着した肩から伝わってきた温かさに、鳳子の心臓は早鐘を打つように高鳴った。 痛み以外で誰かと触れ合うことなど滅多にない彼女にとって、その優しい温もりは特別なものだった。
その瞬間、鳳子は夢の中に落ちていった。
そこに現れたのは、忘れ去られていた大切な誰かとの記憶――ピアノの鍵盤に指を置き、あの子が教えてくれた旋律。 しかし、鳳子は一曲も弾けるようにはならなかった。いつしか、彼女はピアノを覚えることを諦めたのだ。
「……あしおと」
ふと、廊下から足音が聞こえ、鳳子は目を覚ました。 音の主が近づいてくる。鳳子はすぐに身を隠すべき場所を探し、教室の奥の物陰に潜り込んだ。足音が教室の前で止まり、ガラリと勢いよく扉が開いた。
「あれ? 確かに聞こえたはずなんだけどな……」
男子生徒の声が教室に響き、鳳子は心臓が跳ね上がるのを感じた。
「誰か隠れてんのか?」
彼は何かを探している様子だったが、鳳子にはその意図がわからなかった。恐怖で震える体を押さえつけながら、どうかこの場を去ってくれと祈る。
しかし、その願いは叶わなかった。男子生徒は教室に入り込み、手当たり次第に誰かを探しているようだった。 彼の動きが近づくたびに、鳳子の心臓は早く鼓動を打った。
(どうしよう、どうしよう……!)
何も悪いことをしているわけではないのに、堂々と姿を現すことができない。彼女には、いつも自分の言葉が理解されないという恐れが根深くあったからだ。 なんとかこの状況から逃げ出すために、必死に頭を巡らせた。
ふと、物陰から開け放たれた扉が目に入った。男子生徒はそこから離れている。今なら、この隙に抜け出せる――鳳子はそう考え、音を立てないようにゆっくりと移動した。 そして、気付かれることなく教室を抜け出し、そのまま走り去ろうとした。
しかし、一つの思いが足を止めさせた。
(……あの人が、またこの教室に来たらどうしよう……)
鳳子にとって、ここは心が休まる唯一の秘密の場所だった。 それを失いたくないという思いが強く胸に迫り、彼女は意を決してもう一度教室へと戻ることを決めた。
「……あの……!」
男子生徒に向かって、鳳子は震える声で呼びかけた。
「ん? ああ、ちょうどよかった。なぁ、この教室からピアノの演奏が聞こえなかったか? 最近よく聞こえるんだよ。気になって来てみたけど、誰もいなくてさ……」
「ピアノの演奏……?」
鳳子は困惑した表情を浮かべた。彼女が知る限り、この教室でピアノが弾かれたことなどなかったはずだ。 その反応を見て、男子生徒もまた、彼女が何も知らないことに気づき「ごめん、気にしないで」と呟き、再び教室内を探し始めた。
その姿が、自分の居場所を荒らされているようで、鳳子は次第に不快感を覚え始めた。
「やめて……」
思わず言葉が口から零れた。男子生徒が不思議そうな顔で彼女を見つめる中、鳳子は必死に言い訳を探した。
「あの……この教室は……幽霊が出るんです。だから、荒らすのは……よくないと思います……」
鳳子は自分の言葉が苦しい言い訳だと感じていた。せっかく勇気を出して教室に戻ったのに、思うように言葉を紡げない自分を酷く嫌悪した。
その時、スマホが着信を知らせた。和希が学園に到着したのだ。 男子生徒は何か返そうとしたが、鳳子はそれを聞くことなく、逃げるようにしてその場を去った。
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