遠くの空に手を延ばす
虹
雨上がりの地面には、いくつも水たまりが出来ている。
幼馴染は、どこに足を取られたのか、オフホワイトのスカートにデカい水跳ねを作ったまま、マニャン精肉店にやって来た。
大股でやってきたオ・ジファは、俺の手元を見て、首を傾げる。
昼から飲みたいという三十年来の友と待ち合わせて、いつもの精肉店のテラス席(と言えなくもない路面のテーブル)に陣取っている五十手前のおっさんが手にした編み棒には、もう五センチにも成長した、セーターの赤ちゃんがいた。
「……あんた、こないだまでミサンガ作ってたんじゃなかったっけ?」
そう、虹色のヤツな。
「あれはドスんとこの子が欲しいっていうからあげちゃったよ。」
ジファは、あんなもんに、まだ需要があるの、と言わんばかりに眉を上げ、よいせっ、と椅子を引っ張って前に座った。哀れな有様になった九分丈のキュロットが机に隠れる。
それから、ジェイが持って来たコーン茶の入ったコップを口元に寄せた。
「ワールドカップの予選が始まるタイミングで、友達に売りつけるんだとさ。」と俺が言うと、幼馴染は、一口飲んだ冷茶にむせた。
紫、青、藍、緑、黄色、橙、赤。
無心にその七色を編んでいくと、雨の止んだ後で、虹が浮かぶ空を見上げていたユヨンの、色鮮やかなスカートを思い出した。
――ねえ、お兄ちゃん。虹は七色っていうけど、全部の色は見えないね。
パル・チュ・ノ・チョ・パ・ナム・ボ。
明るい空に向かって指を差し、段々薄くなっていく虹の色を順繰りに口にした。
あの虹、ずっと消えなければいいのにね、とユヨンが言った。
編み物というのは奥が深いというけど、ひとつがうまく作れただけで、単純な俺はすっかり鼻高々になった。褒められて更に楽しくなったのもあって、残った糸や使わなかった糸で水色とピンクと白のセットも作った。
それに、黄色と白と黒と紫も。
いくつかの組み合わせを仕上げて出来上がったものを袋に入れて手渡すと、黒いビニールに手を突っ込んだあの子は、やっぱりおじさんは分かってる、と言って、バシっとこちらの背を叩いた。
生まれたばかりの頃に贈られた小さな小さな白い靴をすっかり脱ぎ捨てて成長した子どもからの一撃は、はっきり言って痛かった。
しかも、何を褒められたのか分からないまま、油断していたところに拳がやってきたのだ。
アイゴアイゴ、と大袈裟に痛がってぼやくと、次からは手加減するから、という言い訳の後で「おじさん、ずっと前に、人の痛みが分かる人になってほしいって言ってただろ、ずっと覚えてるけど、全然身に付かないんだ、悪いね。」と笑って反論された。
この年になると、年を食ったな、と思うことは少なくないが、青少年の若さが眩しいと思うことほど多くもない。
「ああいうの、数が多ければ多いほどいいんだろうな。どれもそれなりに売れたってさ。」
普段何をやっているか分からない親の知り合い――顔を知られているので酒を買う時に出くわすと面倒な中高年のおじさんの箱にも入れてあったはずだ――が、あっという間にミサンガ作りの救世主にされた。
「商売繁盛、結構だこと。」とジファがため息を吐いた。
その顔には疲れが見える。
スポーツの祭典は、大多数の警官にとって、忘れられない思い出と不可分だった。
そもそも、国威発揚のために日常の犯罪対応に優先されるというだけでも、多くの警官にとって厄介ごとでしかないが、その上、酔漢が増えて留置場は満室。普段忙しくない部署にいたとしても――そんなことはありえないが――他部署のてんやわんやに巻き込まれて、気が付いたら季節が変わっていた、なんてことも珍しくない。
「苦労してるみたいだな。」
からかいに、いたわりが半分。
言葉を掛けると、ジファはコップに半分になった焼酎を飲み干し、首を横に振った。
「最近、最前線は若いのに任せてるからね。」
そうか。
「しっかし、あんた、子ども相手に慈善事業やってる暇あるの?」
まあ、善というほど良いことでもないけどな。
「こんなものでも、作ってる間に愛着が沸いてくるもんだ。それなら、必要なとこに貰ってもらえるのが一番だろ。あの子が将来独り立ちする資金を、今から貯めとくっていうなら否やはないさ。」というこちらの話を、ジファはふん、と鼻で笑いながら、ジェイが持って来た焼酎に口を付けた。
……おっと、編み目編み目。
「飲まないの、イ・ドンシク?」
「俺はまだいいよ。肉が来たらで。」
裏切り者、という顔をされるのは心苦しいが、昼から酒を飲むようになった男がどんな末路になるかなんて、親を見ていれば分かるというもので、なるべく深酒をしないよう、ジェイには冷やしたコーン茶を出してもらっている。
外から見られるところに座らされてランチの客寄せも兼ねているので、サービスのドリンクがちっとも減らない。
真面目に手を動かしていたらそんなものだ。
テーブルには、平日半額と書かれたチケットが乗っている。
これがジェイにとって経営努力というヤツなのか。
昔に比べれば、ムンジュ署や派出所の面々が肉を食べに来る機会が減ってしまったことが効いているんだろうと思うが、仕入れた肉をほとんど仕入れ値に近いところで売ることが店にとっていいことなのか、俺には分からない。
身体の隅々からエンドルフィンが湧き出るような大きな事件捜査には縁がないと言っても、絶え間のない事件報告と、積み上げられていく書類だけは、田舎の派出所もソウル本庁と変わりがない。娯楽に溢れ、選択肢も多いソウルとは違い、マニャンでは、食べることが唯一の楽しみだった。それが、このところの不景気の長期化と、派出所所長の代替わりもあって、マニャン精肉店の売り上げも低迷し、客足が遠のいているのだという。
そうなれば、ジェイも自然と、この先食い詰めないように新しいアイデアを出さざるを得ないというわけだ。(精進落としになりそうなスープの味見をしながら、スーパージュニアが食べに来てくれないかな、と言っていたのは聴かないふりをした。)
「ふたりとも、メニューいる?」とジェイが再びやって来た。
手渡されたメニューを裏表と返して「メニュー、また新しくした?」とジファ。
「中身は変わってないけどな。」と俺。
壁に掛かっている看板メニューはそのままだが、洒落たカフェ風になった。
SNSにアップロードされたら集客アップしそうな、小さく丸っこい文字。
中を開くと店主のおまかせコースの文字が躍っている。
『※特製プテチゲ:ブルーチーズのトッピングは前日までにご予約下さい。』
変わったのはマニャン精肉店のメニューだけではない。
ジファも、昔はジーンズばかりだったのに、このところの非番は、スカートを履くようになった。
男が寄って来るような年でもなし、好きにさせてよと言っているが、どうだか。
足に沿ったタイプのロングのキュロットスカートは、正直スカートというよりパンツルックに近い。
似合わないとも言い難いが、それ以上に、昔のことを思い出してしまうのが問題だった。
最近再放送していた九十年代の青春もののドラマを見ていて思ったが、もしジファがテコンドーみたいに汗臭いばかりの『男らしい』競技を選ばず、テニスとか、フェンシングとか、いわゆる女ウケするスポーツを選んでたら、俺みたいに幼馴染というだけでパッとしないヤツと腐れ縁でつるむこともなく、黄色い声にキャーキャー言われるような学生生活を送っていたんじゃないだろうか。
爬虫類面したあの男に見る目があったと言いたいわけじゃないが、あの頃のジファには、それだけのポテンシャルがあった。
もしあの頃、有象無象の連中にちやほやされることに慣れていたら、あんな犯罪者と結婚することもなく、こんな風に出世に物言いがつくこともなかった。
でも、もしで組み立てる仮説に意味はないと判っちゃいるが、あの頃の、チーム長の肩書を失わずに済んだだけで十分、と言わんばかりの重いため息を聴かずに済んだ。
「こんなもの、まだ流行ってんだね。」
ジファは袋の上に置いたミサンガの完成品を持ち上げて、感慨深げに言った。
皮肉が巧くなっていくばかりの口元には、久しぶりのまっさらな笑みが浮かぶ。
「……糸が切れたら願いが叶うってさ。豚肉より韓牛を食いたいよな~。」
ジファはしょうもないと分かってて口にしてんなよ、と言わんばかりの視線でこっちを睨んだ。
「お前にもひとつやろうか?」
緋色と緑と白のミサンガは、請われて作ったものの買い手が多くはつかず、いくつかは手元に戻って来ていた。
「今更、いらないわよ。」
「誰かさんと縁切りしたいとかそういう願いでもいいんじゃないか。」と言うと、ふ、と鼻で笑われた。
「いくらおばちゃんになったからって、こんな洒落た組紐で願い事するなら、もっと明るい願い事をしたいじゃない。」
「まあそうだ。」と頷くと、いい匂いが漂って来た。
「そういう、どんな願いも拒まないミサンガって、ホラー系の小説の出だしにありそう。」と水のおかわりを持って来たジェイが言った。
……ホラー小説?
「どっちか言うと、ミサンガの願いを叶えてもらうために勝手に糸を切ったら呪われるとかいう話になるんじゃないか?」
ジェイがちょっと考える顔になって「それも面白い話になりそう。」と言った。
「小説なんか、読んでるのか?」
そんな風に尋ねてから、余計な差し出口か、と思ったが、ジェイは「貸して貰ってるのをちょっと。」と言葉を濁し、ジファの方を見た。
なんだなんだ?
まさかと思うが……。
「うちの弟よ。流行ってるからって、酔っぱらった時に通販で買って、怖いから家に置いておけないって。」とジファが小声で耳打ちしてきた。
なるほど。
「ジフンのヤツ、本当に成長しないな。」
「……きょうだいなんて、この年になると、煩わしいばかり。」
ため息と一緒に口を突いて出て来た言葉に、ジファは何かに気付いたような顔で瞬きして、こちらを見た。気まずそうな雰囲気の中、店の中から肉の匂いが漂っている。
腹減って来たな~、と言い辛い。
「まあ、なんだ、その、……気にするなって。」
「いや、気にするでしょ。まあ、諸悪の根源はうちの弟だけどね。」
いい年してほんとにあいつは、とジファがいつものように難しい顔つきになっているところを見ると、今の俺を見たら、ユヨンにもこういう顔をさせてたかも、と思わないでもない。
元警察官の、現無職で、街のお助け屋も開店休業状態だ。
まあ、無益な編み物で人生を楽しんでいる、と言えなくもない。
「このミサンガも、残ったのは全部ジフンに押し付けてみるか。」と冗談半分に言うと、オ・ジファは真顔になった。
金をとるつもりじゃないでしょうね、という顔ではない。ジフンの願いが『この先の人生も姉さんの給料に頼ってやっていきたい』という内容だったら…、という考えが頭を過ぎったように見えた。
「あのさ、ミサンガじゃなくて、この間作った新作の焼き豚の結び紐を切りたいんだけど、ふたりとも立候補してくれる?」
いつの間にかキッチンから出て来たジェイが唐突に言った。まあ、ランチの時間にふたりしかいない客がロクに注文せずにただ酒と茶を飲んでだべってるんだから、唐突も何もないか。
俺は数えていた編み目から顔を上げた。
それにしても、今時蒸し豚でもなく、焼き豚?
「八角で香りづけした叉焼飯、どう?」
これね、とジェイが開いただけのメニューをめくって指さした。香港風、か。
「丼なあ。」
「今、SNSで流行ってるから作ってみたの。」
「……例のインスタグラムとか言うヤツか?」
「似てるけどちょっと違うかな。」とジェイは苦笑した。
アカウントがないと言ったら、今時世代の坊ちゃんに呆れた顔をされたけど、こっちは
カトクのアカウントまで教えてるのに、おっさんにこれ以上何をしろと、という気持ちはある。
「ジェイがおススメ、っていうならそれにするか?」と問いかけるとジファが首肯した。
先に突き出しで出て来た芥子葉のキムチで米だけを食って逃げたい気分だとしても、マニャン精肉店に来たからには肉を食べないと。
しかし、値段によりけりだが、焼き豚を食べるくらいなら、普段のポッサムでもいいような気になってくる。こういうのは、男心となんとかの空というやつだ。
「じゃあわたしは叉焼飯、白米別で。ビールもお願い。」
「おい、ジファ。」
抜け駆けするな、と言おうとしたところ、ジェイが笑って仲裁した。
「もし同じがいいなら、ご飯の器と叉焼の皿は分けて出せるけど。」
叉焼飯より叉焼の量が増えるけど仕方ない、とジェイは笑っている。
「……悪いな。ポッサムとキムチ追加で。オレもビールにしてくれ。量は半分。」
「ところで、あの編み物は何になるのよ。」
ああ。
「そのうちセーターになる予定。」
自分でも、なんで青い毛糸を選んでしまったかな、と思う。
「ミサンガやってる方が気楽じゃないの。型紙とか、編み棒とか、道具以外にも毛糸をそれなりの量、揃える必要があるでしょ。」
「いや……まあね。確かに。」
「まあ、長くこんな仕事してたら、何か作って誰かに喜ばれる、ってこととは無縁だからっていうこともあるけど。」とジファは言った。
あれ?
自分のために編んでると思われてる?
まあいいか……。
「そのミサンガ、もう少し続けられてりゃいいんじゃないの?」
ドスの子も心配な年頃だしね、とジファが言った。
心配な年、か。
多分俺もジファも、同じひとりの顔を思い出していた。
「はい、叉焼定食とビール、お待ち遠さま。」
ジェイが叉焼と白米に付け合わせのポッサム、更にキムチを追加したものを持って来た。
チャン、とグラスを合わせるだけの乾杯を済ませ、口を開けて被りつこうとすると、「あんたは、子どもがここから出て行く手伝いをしたいんだもんね。」と叉焼に箸をつけたジファが言って、目が合った。
「そういうんじゃないけど。……マニャンでの日々がいい思い出ばかりだったら、外で失敗しても、もう少しだけ、外で頑張ってやってやろうって気になるだろ。」
ソウルで働いていた頃の相棒と、かつて肩車をしてやった小さい子どもの顔が交互に思い浮かんでくる。ミンジョンは写真があるから思い出せるが、サンヨプの顔は、もう忘れてしまいそうだ。
短いスカートを履いて化粧が派手になっていったミンジョンと、かっちりしたシャツとジーンズで決めていたジェイは、正反対のようで酷く似ていた。
もしあの子が本当の意味で父親や、このマニャンの全てから遠ざかった場所での暮らしを始められていたら、あの子はどんな服を選んでいただろう。
きらきらと光る服や、年齢なりのやり方よりずっと年かさに見せたい化粧で大人になった自分を演出しながら、ジョンジェにアタックしていることを隠していたミンジョンは、俺の気持ちなんて、すっかり見抜いていたのかもしれない。
あの頃の償いをするやり方も分からないまま、編み物をしている。
「これもどうぞ。」
追加で出て来た水キムチには、胡瓜の薄切りとトマトが入っていた。
「ドンシク、あんた、次何飲むか決めたの?」
じゃあ生マッコリを、と言いそうになって口をつぐむ。正直、あいつの顔を思い出すから二度と飲めないと思えば、逆に飲みたくなってしまうのが人情というものだ。
ちらりとジェイを見ると、精肉店の店主兼雇用種は、「お金なら心配しないで、うちは今日もアルバイト募集中だから。」と言った。
つまり、終わったら片付けを手伝って、ということだ。
「おっ、ありがとな。じゃあビール追加で。」
「毎回毎回……ジェイにたかろうとするんじゃないわよ。」と言いながらジファはスカートの膝を払った。
金は天下の回りものというから、俺やお前にもそのうち回って来ると思うけど。まだ先の話だろうな。
「……お前にもやろうか、ミサンガ。」
「は?」
いや、俺が言えた義理でもなし、正直本人がやきもきしていた頃もすっかり過ぎてしまったとはいえ、ジフンもいい年して独り身で平巡査のままだし。
「私はいいわよ。今更叶えたい願いなんて……いや、ジフンのことはどうにかするから。」
「何も言ってない。」
「そういう顔してた。」
ハハ、何でもお見通しか。
グラスを傾けると、こうして一緒に飲んだりするはずだったミンジョンの横顔を思い出す。
いつかの話、と思っている間に叶わなくなった、俺の小さな願い。
あの子と、ミサンガが似合わなくなる年まで一緒にいたかった。
そんな風に思いながら飲む酒は、いつもより苦く感じられる。
今日のビールは、コップに半分くらいでいいのかもしれない。
残りの半分は、あの子やユヨンが虹の上で飲む分だから。
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