12話

BACKBONE.
 12、BATS


 引っ越しを機に新調したやや大型のテレビと新しく迎えた革張りのソファは、オフの時間をこうして部屋でだらだらと過ごす度、買って良かったと改めて思えた。前の部屋には余計だろうとソファは置いていなかったけれど、これ一つでこれほどにQOLが爆上がりするのならばもっと早くに置いても良かった。
 この後に及んでもいつどうなるか分からないという頭がないわけではないので、物を多く持つのはまだ不安だったけれど、いい加減もう少しだけ自分に甘くしてもいいのかなと思うこともある。要はそれほど充実した今日ということでもあるわけで。
 ひとまず、怒涛の半年間の皮きり企画であったRI2Eのお披露目ライブも、ありがたいことに予定通りミニアルバムが出せるほどの利益は出たとのことでほっとした。こちらとしては半分遊びみたいに思っていた節もあるのでそれほど気負った形にするつもりも端からなかったが、ファンとの接触イベントも想定しての企画ではあったし、ミニアルバムの発売イベント以降の展開もぼちぼち考えていかなくてはならない。
 それから、初めての六都市ツアーも965と共に大団円に終わったし、それらの合間に入っていたドラマの撮影やメディアの収録も我ながら恙なく完遂したつもりだ。
 そのうえでようやっと訪れたまとまったオフ期間であるわけだが、いつも通りアドレナリンの切れた数日は死んだように眠るだけで終了。ようやく起き上がってもメンタル的に何もやれないのでこういう時はとりあえず晴祝慶人の映像を延々と垂れ流すに限る。
 期間中は露出チェックもする余裕が無かったので、まずはレコーダーの録画から遡りザッピングがてらだらだら流し見る。疲れ果てると表情筋も満足に機能しないところだが、やれ晴祝慶人にかかってはこちらがまったく預かり知らないところでバンジージャンプをやらされていたり、罰ゲームで墨汁まみれになっていたりするのは流石に狡くて何も考えずに笑ってしまっている。
 無論、立ち位置としてはすこぶるオイシイだろうが、推しという観点では扱いがちょっと雑で腹立たしくて可哀想で、でも可笑しくて可愛くて余計に情緒がおかしくなりそうではある。
 もとい、ガチガチのプロ根性で張り詰めていた精神が、少しずつ緩んでいくような気もしたりして。
 殊、最近の晴祝慶人とは当然ながらアンダー生時代の彼とはまた違った魅力に溢れていて、こうした日々の成長著しい姿をメディアで見せつけられるとなんだかこちらまでわくわくして好きで追っているだけなのに誇らしい気持ちになってきてしまう。
 この無理に飾らない等身大のいで立ちというのがファン心理をくすぐる最大の要因に違いなく、例えば、常のファンとの接触の機会を見てみると、どちらかというとガチ勢よりも普通にお喋りをする感覚で来ている人が多くて、不思議なことにどの年代の層からもクラスの男の子みたいな接され方をする。けれど、そこに金銭のやり取りが発生している時点で、やっている側からすればそれが結構な難易度であることはよくわかった。
 芸能活動をする人間の大体は大なり小なり自信家でそれなりにプライドをもって自分を魅せようとする者が圧倒的に多い。それは、日々の努力や育った環境、性格とか素質とかにもよるのだろうけれど、対面によるファンサービスに出る態度は特に顕著で、わざとらしいリップサービスや、でなければ割り切った営業スマイルか、いずれにしてもあえて自分を特別扱いしてくれるファンと同じ目線でフラットに向き合おうとする人などいないも同然だった。
 確かにファンとの信頼関係が自信の正体だと諭したのは自分だったが、大昔からずっと人見知りだと周囲に理解を求めてきたであろう彼がどういう心境で誰とでも友達感覚という接し方に至りそうしているのかは知らない。
 でも、結果的に自分の魅力を最大限に発揮できる方法を自ら選んで行っていることには相違ないし、意図していてもいなくてもそれはちゃんと凄いことだと恋は思っていた。
 勿論、己の生き方が一〇〇パーセント効率が良くて楽だとは言わないが、少なくとも上から目線で人生のノウハウを教えたつもりになっていた自分の全く想像しない形で表現される生き方を目の当たりにすると、いかに自らが凝り固まった思考の枠の中で生きているかを思い知る。
 出口が分からないでもがき苦しんでいた晴祝慶人が、突如自分の知らない世界観を口にしたりいきなり臆せずに見える形に表現したりするのを見る度、ああ、自分とは全然違う方向にどんどん成長できる無限の可能性を持つ人なのだと素直に尊敬したりもする。
 だからと言って、今の自分の生き方が気に入らないかと言われたらそういうわけでもない。埋まらない虚無がここにあるから生まれた感情は数えきれないし今も根底に抱えている狂いそうな渇望への焦燥が”ある”からこそ自分らしさを表現することができる。
「…………」
 明るく平穏な光景の続くテレビの画面を見つめながら、ただ、と思考を遮る。
 このままでいいとも思ってはいない自分もいると最近は特に明確に実感する。ほとんど無意識にため息が漏れる。
 デビューからはおおよそ六年。やりたい音楽とがむしゃらに向き合いながら吐き出し続けた十代、二十代前半のレベルミュージック。後悔もやり残しも多分ない。懸念していたグループ活動としても概ね順調と言え、念願だった六都市ツアーも無事に完走した。大きな節目の十周年まではあと四年弱。現状、個々それぞれの仕事も満遍なく回ってくるし獲れる仕事の量としてもグループとして業界に浸透してきたことも実感する。これから自分達がどう進化していくのかは全くの未知数でやっと手放しで楽しみだと思うことすらある。
 もっとも、望幸恋としては、全体の四割が俳優業になりつつあるが呼ばれる機会のあるうちは素直にありがたいと思うしそれでもいいかと思う。否、ゴールデン帯で目立ちすぎるのは正直リスキーだと感じてもいたが、当初の目的であったシンガーソングライターとしての礎としてはまあ十分な実績なのかなとも思う自分も、いたりして。
「……いやいや……」
 及第点、まあまあやれている、つい自分を認めてしまいそうになる瞬間こうしてかぶりを振ってしまうのは、グループ活動、個々の活動、どちらにせよ知名度としては次の段階への過渡期である今、有名になる、売れる、頂を掴む、という横並び達の願望と、静かに自分のやりたい音楽をやる、というアホみたいに消極的な自身の願いとのバランスが危ういことなど最初から一目瞭然だと知っているからだ。
 そして、アホみたいな、と自分で言えるからには、言っていることとやっていることがここ数年で随分かけ離れてしまったととても冷静に客観視している自分もいて。
 というか、知名度を上げる? 誰の為に。誰の夢の為に自分が必死になるべきなのか。性分上どうしても己のパフォーマンスの手だけは抜きたくないのは仕方ないから理解する。けれどそれは果たして誰の為になる? 誰の、何の為に、いつの間にか半分本気になってこの世界で売れようとしているのだろう?
 自分の為? メンバーの為? はたまたそれとも、この身体を一秒も休まず駆け巡っている誰かさん達の眩い遺伝子の証明の為、だったりもする?
 その可能性があるのならば答えは一つ。もうやめとけ、それに限る。今更身バレして死のうなんて無責任が許せる自分じゃもうないはずだ。バレたら散々メディアに遊ばれて業界ではきっと腫れ物扱い。多くのお偉い人間が突然笑顔で話しかけてくるようになるだろう。そして今までの経験も信頼も、実力ですら”親からのもらい物”になる。
 これほどありありと想像できるならそれはもはや確信に近い。そうならないわけがない。でも、そうはなりたくないから、わざと燻っていようとすることもできないのがこの自分というしょうもないアイデンティティ。
 どうしようもない。立ち止まることも、手を抜くことも、成功の軌道をわざと回避することもできない。やりたくない。ならば、今向き合うべきものはどれ? 手放すべきものは、どれ。
「………」
 危うく鬱に入りかけながら虚空を眺めていると、とても聞きなれたイントロが画面から躍り出て意識を持っていかれる。一瞬で役の心情がぶわりと脳裏に蘇ってきて懐かしさに思わず目を細めた。
 随分前に撮了した今夏クールのドラマの告知映像だった。
 人生史上最も短くした赤毛の短髪。前にマツリがビジュアル系をやりたいと言い出したらどうするかという質問をハレに投げかけたことがあった。ハレはその時推しが好きでやっていることなら何でも応援すると言った。芝居は好き。演じるのは得意だ。だから、ビジュアル系、とまではいかないが軽いパンクテイストの衣装とメイクを施した当て馬役のやんちゃなバンドマンを喜んで演じた。
 セットのエレキギターである赤のSG。我ながらノリにノれた演奏シーンは当初全てフェイクの予定で、ギターは弾かない段取りのはずだったが、急遽生演奏で撮ってみないかと言われ結果そのまま使ってもらえたのは嬉しい記憶として鮮明に残っている。
 役名は加連綾|《かれん りょう》。
 話が進んでいくにつれ主人公の女の子に惹かれて自身のワンマンライブに誘うも、恋敵となる幼馴染みと二人でやってきてしまう。勝ち目はないことをもう八割方理解はしていたはずだったのに、好きになった気持ちに嘘はつけないとステージ上からの虚しく切ないラブソングの歌唱シーンが加連という役どころの最大の見せ場だった。
 思えば、これまでの自身の経歴に加連のような素行の良くない引き出しは無かったが、台本に目を通した段階でめちゃくちゃ重要なポジショニングのキャラクターだと分かった。酒と煙草と女|《三種の神器》は無論、口汚くて喧嘩っ早い性分。純粋な恋愛など微塵も柄じゃない加連が本気でヒロインを好きになればなるほど、視聴者はそのコントラストに目を奪われることになるだろう。
 当て馬役こそ腐るほど経験したが、主役級の背景を持つ人物像は初めて演じた。
 それに、撮了の時に監督がしたり顔でこっそりと加連はバズるねと呟いたのを、素直に「だろうね」と思えたのはきっと、生まれて初めて「ハマリ役」というものに出会ってしまったと直感でわかっていたからなのだろう。
 確かに思い入れは普段よりも重たかったと思う。
 何より新鮮だった。いつもの優等生でスマートな脇役という当て書きじゃなくて、ダサくて格好悪くて不器用で幼稚な人間味のある男の生き様がとても。


「好き……なのかな、私……」
 ”晃”のことが好きなのか、とストレートに言葉をぶつけることしか出来ない自分の愚かさを噛みしめながらも夜のコンビニの喫煙所、店の明かりにほんのり上気した”やえ”の頬が照らされると、思ったよりもめちゃくちゃショックで全く茶化せなかった。
 どんなにシチュエーションに期待しても、本人に直接聞いてしまった手前、さすがの加連も俺にしろとは言えなくて言葉に詰まる。黙るつもりはなかったので、この数秒の沈黙は耳に痛い。
「……へー。いつから?」
 なんとか口にしたのは、別に聞きたくもない馴れ初め話のきっかけだ。嫌になる。そうじゃない。聞きたいことなどもうない。ないけど、だったら俺にもっと、時間とチャンスをくれよ。そう思った。
 そしたらあいつなんかより、
「いやま、いーや。明日ライブ来んだよな?」
「う、……うん! 皆で絶対いくよ、加連の歌また聞きたいから!」
「うん。じゃまた明日」
 あいつなんかより、俺の方が何億倍もお前を好きだって気付かせてやれんのにさ、

 思えばこの二年でメジャーデビューの話は三回蹴った。メンバーも全員今のままでいいと頷いた。有名になる方法がメジャー契約だけだと思ったら大間違いだという意志の表れだった。金で叶える綺麗な装飾など別にいらない。この痛みが響きもしない不特定多数に聞かせる音楽などやる意味もない。本当は成功の定義なんかない。他人のビジョンにのっかって得られた満足になど一ミリの興味もない。現に今だって集客力に申し分はないしでかい後ろ盾が無くたってやりたいことをまっすぐブレずにやっていれば、その熱に当てられるレジスタンスは必ず出てきて味方になってくれる。そういうヤツらと一生消えない不満を音楽に変えて叫び倒しながらスッキリ死ぬのが一番理想の人生だった。それでよかった。
 そんなしょうもない人生が、存外気に入っていたから。
 まあそれも、儚い恋を生涯知らないで生きていければの話だったのだけれど。
 演り慣れたライブハウス。キャパいっぱいの客。埃のスモーク、ライティングと調律はいつも通り完璧。なのに、柄にもなくちょっと緊張していたのかもしれない。いるとは思うが、なかなかやえを見つける気になれず、エフェクターのある足元を確認するふりばかりしていた。
「加連」
「……あー」
「どしたん。クソ?」
「ちげーボケ」
 いつもと様子が違うというのがこれほどまでにバレバレだと分かっているのはいっそ楽ではある。つまり、嫌な予感はしているし、多分当たっている。そのルートから逃げられるわけじゃないのはもう分かっていた。
 憂鬱だったが仕方がない。思い切って顔をあげると、やっぱり奥のド正面にやえがいた。
「……」
 シンプルに悲しかったのは、その隣にちゃんと晃が立っていたこと。優しい顔でこちらを見て、がんばれ、なんて言っている。そしてそんな晃を横目にちらりと見たあと、頬を赤らめたやえの口もがんばってと動いた。
 あーあ、腹立つ。そんな顔でこっち見んな。皆で来るっていったくせに、二人できてんじゃねえよ。てか、こんなん多分もう勝てないけどさ、奪う努力はしてもいいのかな? なあ神様。めっちゃダサいし今更だけど、俺も好きだって言ったらダメなの?
「結局何からやんのか決めたのかよ」
「ああ、フラれたらスターからだったっけ?」
「な~んか言ってたな」
「え、加連もうフラれたの? 確定??」
「…………」
 いつもの通り外野ばかりうるさくて神様はシカト。ならば多分いいと思う。いいに決まってる。だってまだ付き合ってもないんだあいつらは。でも、でもさ俺よ? 本気で好きになった子を困らせても、後悔しないか? 本気で好きならオトナになって、幸せを願ってやれねえのかよって、カミサマは、良心は、言ってねえのか???
「……」
「…………」
「重症☆彡」
 黙っていたらいよいよメンバーの視線が痛い。もう始めてもいい時間だから当然だった。
 そもそも、惨めに葛藤したところでどうせ答えは出ていた。腹の虫がおさまらないから好きとは言うが結局失恋は認めざるを得ない方向。予定通りでつまんねーなとは我ながら思う。イラついて思わず床に唾を吐き捨てた。
「……ま、スターっしょ」
「ええ~???? ダッサ」
「何もしとらんのにフラれたんかお前」
「まあまあ。俺はお前のそういう女々しいところ大好きだからネ」
「お前らみんなだまっとけい」
 マイクが通電する。いつものように、こんにちは、と澄ました顔で一言だけ挨拶をしてから「スター」と短く宣言すると前回のライブでの告知の通り、今日の一曲目がスターの場合本命にフラれたという暗号だった。どよめいた客席からドンマーイ!とひとつ大きく野次が飛ぶ。うるせえ、と吐き捨てるがなんだか面白くなって笑った。今だけは心底ありがたいと思った。
 スター。イントロのギターリフ、インスピレーションは子供の頃母親の隣で観ていたしょうもない恋愛ドラマの流星群の音だ。ロマンスなんてくそくらえだったが好きな人と二人で見上げる星空には実際しょうもなく憧れていた。そういえば好きになってくれた子とは一回も見なかった。見ようとも思わなかった。
 まったく、どこまでも馬鹿だな。後悔なんてしねえよ。自分が幸せになれねえのに他人の幸せなんて別に願ったりしなくていいだろ。だってそんなの、俺らしくねえじゃん。
 傷つけたくない純粋な恋愛なんて所詮は綺麗事。愛は性とは切り離せない。それはよくよく知っている。汚い方なら一通り、全部知ってんだ俺は。だってそっちが好きで、らしくてぽいから、わざわざ選んでまでそう生きてきたんだから。
 
 寝ても覚めても君の鼓動が頭の中に響く
 どうしても伝えられないのが好きという
 ただそれだけの言葉
 君じゃないなら別にいらない
 この感情も持っていってよ

「今すぐに」
 この通り、キレイゴトは歌詞の上だけにしとけ。馬鹿野郎が。
 サビの終わりにボルテージの上がった客席で渦が出来る。いっそダイブしてしまいたい気持ちはあったが、まだ一曲目だからそれはあまりにも滑稽かと思い留まる。無意識に奥に目をやると、やえはアップテンポの曲調に楽しそうにしていたが晃はこの曲の意味に気が付いたのか真剣な眼差しでこちらを見つめていた。目が合った一瞬中指を立てそうになってしまったが、もういいやとそっぽを向いて全部忘れようと思った。
 はいはい、お幸せにね。
 イライラしながらエフェクターのフットスイッチを踏んだそのタイミングで、ふと足首に目がいった。
 つけたことすら忘れていたやえからもらった黒のミサンガ。紐が緩んで外れかけていた。やえの声が鮮明に脳裏に響く。黒は魔除け。私が保証する。お母さんの手術、絶対絶対、成功するからね。真剣な表情だ。向こう見ずで負けず嫌いで、強くて優しくて純粋なこんなに友達想いのめっちゃいい女。
 照れ隠しに今時こんなゲン担ぎは小学生でもやらないとバカにしたことを思い出した。
 本当はとても心強かった。嬉しかった。
 こんなどうしようもない自分に、ちゃんと人としての愛情を向けてくれたことが何より。
「…………」
 息が弾む。アウトロを引っ張りながらマイクを引き寄せる。二曲目は決めていないから、この宣言が実質次曲への引導になる。数秒の判断。何にしようか。ま、なんでもいいか。
「……やえ、ミサンガさんきゅー、ババアの手術はぶじにおわりました。だからこれはもういらない。返す! ”バッツ”!」
 BATS。宣言したその瞬間、飛び跳ねた着地のタイミングにぴったり合わせてきてくれる最高のメンバーに自然と笑みがこぼれる。熱の渦は霧散し今度はしぶきのように方々へ散らばっていく。ジャンプの反動で毟り取ったミサンガを右手に持ったままデビュー曲でもあるインストウルメンタルをかき鳴らす。
 実のところ、やえは人生で初めて本気で好きになった人だったから、馬鹿みたいにいいヤツで数少ない信用できる男である晃にとられたのが心底悔しかった。晃じゃなければ強引にでも振り向かせたかった。でも、それもできないぐらい、二人のことが好きだったんだなとやっと素直になれた。
 なんだか泣きそうになってきてギターを弾く指はそのままに咄嗟に客席に背を向けて俯く。
「くだらな。ここにいる全員死ねばいい、バカタレ」
 目からこそすれ、こうしてマイクを通さずに力なく口から零れ出た”涙”には、メンバーだけが全員仕方なさそうに黙って笑って見逃してくれた。


 この、加連綾という役柄は監督の、そして恋の想像通り、若しくはそれ以上に世間を熱く賑わせることとなり、とてつもない反響を巻き起こした。
 分かりやすい当て馬役だったこともあり、情緒に溢れた望幸恋のピュアで繊細な演技力がとても高く評価され、街には早速ドラマのメインメンバーを使用した広告が溢れかえった。
 元々売れっ子だった晃役の新人俳優の話題性も相俟って、放送日には毎週毎週メインの三人で番宣に引っ張りだこ。三人の中では一番年上ということもあって常にエムシーのような立ち位置で喋りっぱなしとくれば、否が応でも視聴者の印象に望幸恋という名前は残ったしその気遣いの細やかさですらも世間には大変受けが良い始末。おまけに番宣の切り抜き動画が横行するSNSでは随分長い間ホットワードに名を連ねるほどだった。
 幸い時期的にも、ワンスリーとしての大規模なツアーも終わっていたし、多少無理のある予定を組んでもこなせないほどではなかったのだが、地上波、WEB、紙面にラジオと本当に一日も休みのない状態とは、これぞ正しく売れっ子のスケジュールだった。
 最初のひと月があまりにも忙しくて大袈裟でなく数百件ものメールが溜まったままチェック出来ずにたまらず急ぎの用は電話を入れろとプロフィールに書いたほどだ。
 というか、これまでにも多忙多忙とは言っていたが余裕がなくなる余裕があったことに自分が一番びっくりしていた。本当に忙しいと余裕をなくす余裕もない。つまり、体調が悪いとかメンタルが不安定とかそういうことを感じる余裕が微塵もなかった。
 身体は当たり前に疲れていたし当然度重なる生放送にも相当神経を遣っていたのだろうが、不思議と気持ちが落ちることもなくこつこつさくさくとあっという間に二か月が経過してようやっと風呂で寝溺れて死にかけたぐらいで。
 正直、二か月間毎日びっしり忙しいのは生まれて初めてだったので自分でも今のメンタルがどうなっているかはよくわからずにとにかく毎日くるものをこなしていたら、ある日突然晴祝慶人との仕事がポンと入ったのを見た途端、急に五感がざわざわしだした。
 怖い話忘れかけていた。晴祝慶人という存在すらをもすっかりと。
「みゅうさーーん! お疲れ様です! めっちゃ忙しいでしょう!? 大丈夫です!?」
「…………は、晴祝慶人くんじゃないですかあ……あれえ、なんか泣きそうなんだけど一瞬いいですかあ……?」
「な、泣くほどのものではございませんが、メンタルやばそうなのでどうぞお好きにしてください……」
 だから、恵比寿のスタジオに三次元的に晴祝慶人が元気よく現れて何故だか無防備に両手を広げてくるのを見てしまったら、ほとんど無意識に深いことを何も考えずにそこに飛び込んでぎゅっときつく抱きしめた。咄嗟に触れている筋肉が互いにピクっと緊張したのが分かったが、そんなことより思ったよりも人肌に安心してしまって色々どうでもよくなる。
「おう、結構、ガチの……よしよししましょうか……?」
「どういう心境??? してみて」
 一応、周囲の反応を気遣ってか、おどけながらどうにかこの状況を笑いに変えようと立ち回る晴祝慶人とはきっともう立派なバラエティガチ勢として戦力になっていることだろう。がっちり抱き合いながらぼんやりとそういえば自動録画の整理も二か月していないなあと思った。
 そして普通に、当たり前に”疲れた”とも。つまりここでようやっと疲れたと思う余裕ができたわけだ。まずいとは思いつつもガチガチだった肩の力が抜けていく気がした。
 一方で、少し冷静になると今までに晴祝慶人とこんなノリで交流をした覚えがないはずなので、ハレの匂いだ~とか安心する感触だ~とかは一切ないかわりに、このハグという行為とぎこちないよしよしにおける異常なまでの嘘偽りないストレス解消効果には正直驚きを隠せなかった。
「???????」
「……あれ、これ絵面大丈夫ですか……マネージャー撮らないで……」
「限界みゅうはさすがに可愛らしいので一枚だけ」
「え、てかなんだこれは、すげーな人体、むっちゃ生きてるって感じする、こわあ……」
「え……?」
「ちょっとまって離さないで、続けて、俺は今すごい速度で癒されてる、なんだろうかこれ????? マネージャー知ってる????」
「知らないです(笑) 使うかは置いといて動画もいい?」
「ア、アニマルセラピー的なアレでしょうか……ちょっと恥ずかしいです……あつい……」
「お前アニマルなの? 恥ずかしくない、もうちょっとやってて、頼む」
 得体の知れない癒し効果を体感しながら冗談抜きで眠たくなってくる。時間があるならいっそこのまま仮眠したいぐらいだったがきっと叶わないのでギリギリまでくっついたままでいようと心に決める。観念したのか耳元でぼそりと呟くのが聞こえた。
「フォロワー十万人おめでとうございます」
「エ、……マジ?」
「多分もっといくと思います。加連綾相当凄かったんで」
「え~すげ~、……見てくれた?」
「!? アタリマエじゃないですか!!!!!! なんかもう全部びっくりしました!!!!! みゅうさんの新境地でした!!!!!! ッっ語彙っ……!!!!!!」
「えっへまあ、そうかも、久々の供給素直に嬉しいわ。ありがと」
 いい加減周囲が機材のセットを始める気配がして、やっとのことで離れると何も言わずにひどく心配そうに見つめてくれる晴祝慶人の静かな視線には脳のどこかが刺激されて勝手に充足感で満たされる。
 このぴったりとハマる凹凸のような補いとはまるで中毒性があって困った。
 限界ギリギリの身体が脳内麻薬を求めて強くもう一回を促す。濃縮されたストレスが遮断する快楽回路をこじ開ける手段。咄嗟に、逃げとしての飲酒や喫煙、性欲と食欲は現状の自分には本気で危険だと本能で察知する。セロトニン、オキシトシン、エンドルフィン、ドーパミン、全部全部今は危険。制御の利かない自信しかなかった。
 ジリ、と目の奥に割れたグラスの破片が蘇る。ヒステリックな叫び声、地獄みたいなリビング、噎せ返るほどの香水の匂い。そう。溜め込み過ぎればああなる。キャパ以上の感情を抱えたらああなってしまう可能性が高いのはもう知っている。
「みゅうさん」
 はっとして顔をあげると大きな窓から明るい陽射しが柔らかく入る部屋の隅で、晴祝慶人が手招いて呼んでいた。
 無垢で純真な光に吸い寄せられるようにして側へ立つと、内心こいつこそが一番の危険因子だと実感する。
 本当に擦り減った今ならよくよく分かる。間違えても今より深く晴祝慶人に依存し過ぎてはならない。きっと酒より煙草よりどんな快楽の方法よりも抜け出すことの困難なドープを目一杯孕んでいる。
「大丈夫ですか?」
 いつも頭では、分かっているのだけれど。




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大丈夫ではなさそう
飲んだら即犯るぞこいつぁ(えがお)
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