シャアシャリ/春をゆく
「起きたか。おはよう。今朝の卵は何焼きにする?」
キッチンで朝食の用意をしていると背後に人の気配がしたのでそう言う。|両面焼き《ターンオーバー》が彼の好みなのは承知しているが、咀嚼が傷に響くならゆるめのスクランブルエッグのほうがいいだろう。昨夜のチキンソテーは時々眉根をひそめながら食べていた。注視していると取り繕うように笑って、美味しいですよ、と告げてくれた感想に嘘はなさそうだったし、皿のソースまできれいに食べきってくれて安心もしたが、障りがあるのを隠されてはいい気はしない。
「オムレツはどうだ。パンはトーストしないほうがいいか? ……シャリア?」
返事がないのに振り返ると、視線の先には寝巻きの下から包帯をのぞかせたシャリアが立っていた。柔らかくうねる髪が朝の陽を透かして翡翠色に光っている。表情はぼんやりとして心ここにあらずといったふうだ。
「シャリア」
手を止めて顔を覗き込むとようやくシャリアの焦点が合った。髪と同じ翡翠色の瞳が目の前の恋人の金色と紺碧を孕んで瞬く。
「……おはようございます、大佐」
「うん」
もうその地位にはないが、シャリアにそう呼ばれるのはこの男の慈しみの証のようで誇らしい。頬と顎先、額にキスをすると昨夜塗ってやった膏薬の匂いが鼻先をかすめた。肩口からのぞく包帯を避けてシャリアの首筋に触れる。
「まだ痛むか」
シャリアは薄い笑みを浮かべて頸を振る。
「いえ。もうだいぶ良いようです」
「貴様の『だいぶ良い』は信用ならん」
言いながら、自分の眉間に深い皺が刻まれるのを自覚する。アルテイシア公王の失脚を目論むザビ派残党を『処理』した際にシャリアの負った怪我は、そのまま仕事を続けようとする姿にコモリが目くじらを立てる程度には重傷だった。シャリアはすぐさま病院にぶちこまれたものの、見舞いから帰ってきたアマテはジト目で彼の不養生を報告してきた。
『全然休む気ないよヒゲマン。コモりんと看護師さんの目盗んですぐ仕事しようとすんの、ヤバすぎ。いっそシャアさんとこ攫ってきたほうよくない?』
というわけで、主治医が自宅療養の診断を告げるのと同時に診察室を強襲したジークアクスによってシャリアは地球に誘拐された。セーフハウスで待ち受けていた恋人に即刻の帰還を要求したシャリアは、突き出された『短期休職辞令』とその末尾に記された公主の署名を見てさすがに沈黙した。ちなみに一連の根回しは主治医と公主、そして同僚のワーカホリックぶりに呆れたランバ・ラルの共謀によるものである。
「自分の身体のことは分かっているつもりですがね」
「分かっていて無理を強いるから信用ならんのだ。貴様がなんと言おうと完治するまではここに居てもらう。逃げようなどとは考えるなよ」
「怖い顔だ」
シャリアは困ったように笑うと恋人の顔に手を伸ばした。眉の間から額へと奔る深い皺を冷たい指で撫でてくる。
「逃げたりしませんよ。本気の貴方から逃げるなんて試すだけ無駄でしょう。貴方に世話を焼かれるのも楽しくなってきたところですから」
ならばいい、とひとまずは頷く。料理だの手当てだの人並みの生活だの、会わなかった五年の間に培った自分をシャリアに披露するのは存外楽しい。五年の後にシャリアと帰るはずだった戦場、赤い彗星として再び二人で駆けるはずの宙は、他でもないこの男に名前ごと討ち落とされた。名も無き男として行く宙はあまりに広く、道は自分で探すしかない。生き方に迷わずに済む名前を得ることは二度とないという予感もある。
それでも生きることは楽しい。世界は醜く、憤りは消えず、己の在り方への迷いや苦しみはあれど。何にも縛られず、自分の心に問いながら手探りで進む日々の旅路には喜びがある。
だからこそ、そんな旅路に自分を送り出した張本人には目の届くところにいてもらいたい。いくら自由な旅であれ|標《しるべ》に見上げる星のひとつもないのは困る。
そう考えていると、さっきから額に触れているシャリアの指が一向に離れないのに気付いた。視界を覆う指の隙間から覗くと、シャリアは瞳を苦しそうに眇めて恋人の面差しを見つめている。そのくせ額をなでる指先はどこまでもいたわりを宿している。まるでそこに、取り返しのつかない傷でもあるかのように。
「シャリア」
撫でる手をそっと上から包んで握ってやれば、急に眼を醒ましたかのようにシャリアの肩が跳ねた。握った手を引き寄せると体幹の強い男にしては珍しくたたらを踏んで、揺らいだ身体を恋人の腕のなかに着地させる。
「すみません」
「さっきからどうした。やはり痛むのか」
「いえ。本当にそれは」
「ああ、分かった。さては夢見が悪かったな?」
囁きはからかいのつもりだったのにシャリアの肩が強張った。咄嗟に空いていた手をその背に回す。何かを視たのかと問うべきか、気付かないふりをしてやるべきか。できればこの男の矜持に|疵《きず》をつけずに済ませてやりたい。やり方を決めあぐねていると、シャリアは肩口に額を押しつけたまま意外な言葉を口にした。
「キャスバル」
不意に唱えられた本当の名前に眼をみはる。それを手ずから明かした相手はシャリアだけだった。己の血に課された責任を呼び起こすための聖痕でさえあったその言葉は、今は何のしがらみもない男の名前でしかない。自分をひとりの人間としてまなざしてくれる者が唱えるならば、もはやただの福音だ。
「キャスバル、」
「うん?」
つい口端を緩めてしまいながら、どうした、と囁けばシャリアは顔を上げて溜め息を吐いた。次いで底に銀河をたたえた瞳をまっすぐ向けてくる。
「……くだらない話と、笑っていただいて構わないのですが」
「笑わんよ」
額にかかる髪をすくって耳にかけてやりながらそう言うと、シャリアはほんの少し目元を緩めて微笑んだ。それからひとつの問いを差し出した。
「あの時、私を殺し損ねた。──そう思ったことはありますか」
どう応えたものかと思った。どんな答えならこの男の腑まで届くだろうかと。
「そういう貴様はどうなんだ」
「ありません」
にべもない。そのくせ忌まわしそうに首を振り、前髪をこぼれさせてなおも言う。
「ありませんよ、あるわけがない」
「だろうな」
分かっている。分かっていると言い含めるように背中を撫でる。
「私を死なせないために、貴様が血を滲ませて艱難を堪え忍んだことぐらい想像がつく。その果てにこうして、生きた貴様を抱いていられる現状を私が厭うているとでも?」
「私ひとりの成果ではありませんよ。貴方でなければできなかった。私のよく知る貴方のままだったから、貴方は生きて、旅立って。なぜか私をもう一度選んだ」
なぜか、などとはずいぶんな言い草だ。二人で分かち合った理想にその身をくべておきながら、その片割れを自由にすべく全霊で立ち向かってきたのはこの男なのに。その苛烈なやさしさを振り返らずにいられるものか。無視して生きていけようものか。
「ですが貴方の自由が、私の一方的な望みであったのも事実です。もしあそこで私を殺せていたなら。私の死んだ宙で、理想を負って、赤い彗星のまま生きていたかった。……そう思うことはないのですか」
くだらない。たらればなどもってのほか、人生にもしもはない。そう言ってしまえばそれまでだが、そんな言葉がシャリアの内に響くだろうか。この男のために何ができるかと自問するとき、初めて杯を交わした夜に差し出した己が手を思い出す。あの手は赤い彗星でなければ差し出せなかった。そういう手が存在していたのは確かだし、それを失ったのもまた事実だ。
もはやありふれた綺羅星のひとつになった今となっては、シャリアへの情は自分の能う限りのありさまで手向けていくしかない。手を伸ばせば触れられるほど近くに居ることを幸いとして。この宙でこの男とこの先も生きていきたいと望むまま。
それだけがきっと、望みが過ちではなかったとシャリアに証明する福音になる。
「……私は、哀しみに涙したことがない」
シャリアの頬に触れ、翡翠の瞳を見つめながら言葉を紡ぐ。
「膝をついて慟哭したこともない。喪失に泣いたことさえ。ずっとそういう人生だった」
子どもだった頃から涙を流すことは許されなかった。自分の無力さに打ちひしがれ、耐え難い離別の悲しみに苛まれた時は、心優しい妹が兄のぶんまで泣いてくれた。
「もし君が死んだところで、私という人間は涙ひとつ零さないだろう。君ひとり失ったところで世界は終わらない。私は君なしで続いていく世界をきっとすぐさま受け入れる。貴様の墓標の前で立ち上がり、再び振り返ることはない」
そういう自分が容易に想像できる。この男に殺されずに済む生き方を、この男がいなくなってもなお探し続けるだろう自分が。
「だから貴様なしでは生きていけない、などとは言わん」
そう告げて、聡明な視座を持つ男を納得させるべく微笑を浮かべた。
「だが全てを呪うぞ」
確信がある。この男のいない宙を想像するだけで全身の血が冷たく滾る。どんな理由であれ違いはない。あの時殺せてしまっていたら、どうせ同じ道へと至った。
「世界を呪う。運命を呪う。貴様と私を巡り会わせた|宙《そら》そのものを心底呪う。貴様を奪われた怒りのままに全てを憎み、全てを壊し、罪業を問わず滅ぼし尽くす」
これは依存や盲信とは違う。虚無とやらのせいでさえない。ただの情だ。愛を怨讐の炎に変えて全てを燃やさんとする激情だ。
「私から貴様を奪った愚かしい世界を一塵も残さず消し去ってやる。貴様を喪ってなお生きている私自身諸共にな」
望むままに、想うがままに、己の情に身をくべる。世界ではなくたったひとりの星を選んで死ぬことは、今の自分になってようやく叶えられそうな望みなのだから。
「……呆れた人だ」
翡翠色の男は眦を下げてくしゃりと笑う。瞳の奥の光が潤んだように揺れる。
「そんな酷い終わりを迎えた後で、また私に会いに来てくださるのですね」
「そうとも。君のいない宙に私の幸福を見つけたくはないのだ、シャリア・ブル」
この宙でようやく共に駆ける喜びを知りえたからこそ、次の宙でも何度でも、この心は同じ星を探す。
「貴様がいるから自由でいられる。そういう自分が私の望みだ」
自分の自由を望んでくれたこの男の覚悟と優しさに、この選択と感情がかなえばいいと願っている。
「我ながら、本当にくだらない質問でした」
「まったくだ」
吐息混じりに笑う男の唇に軽く口付けて、傷に障らぬよう慎重に抱き寄せる。
「次またくだらんことを聞いてきたら年甲斐もなく泣きわめいてやる」
「私が死んでも泣いてくださらないのに?」
「揚げ足を取るな。貴様が生きてるうちは数に入らん」
くすぐったそうに笑い声を零す男を、力いっぱい抱きしめてやりたい衝動になんとか抗う。
「それに今生の私は好きなだけ涙を流せる生き物だからな」
背中を軽く叩いてから身体を離し、キッチンに向き直りながら問う。
「で? 卵は何がいい」
「貴方と同じものが食べたい気分です」
「分かった」
粛々と支度を始めようとしたその時、どこからか鳥の声が聞こえた。
「珍しいな。何の鳥だろうか」
「そうですね。燕だといいです」
不思議な物言いに視線を受けると、シャリアは光の射すほうに身体を向けて眩しそうに目を細めている。視線に気付いた翡翠の瞳が光の中から振り返る。
「春ですね、キャスバル」
そう言って、柔らかな微笑みを浮かべた男の輝く眼差しに、ああ、と頷く。
「美しい季節だ」
それからもう一度口付けるべく無二の光に手を伸ばした。
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