シャアシャリ/春をゆく
※オスカー・ワイルド「幸福な王子」のオマージュを含みます
本当はこんなことしたくなかった。こんな男など置き去りにして飛び出していけばよかったのだ。
一羽の燕は、もう長いこと身を横たえている冷たい石の台座の上でそんなことを思った。重苦しい雲に覆われた空からは雪が音もなく降りしきり、燕の小さな身体にも雪が積もりつつあった。かつて天鵞絨のごとく輝いていた黒い翼はくたびれみすぼらしく薄汚れて、もはや自分の上に降り積もる雪を溶かす熱さえ持たなかった。もうすぐこの身から命が消え去るのを燕は知っていた。
燕は渡り鳥である。移ろう世界を渡り行き春を目指して飛ぶ鳥である。それがこんな冬空の下にどうして横たわっているかといえば、あるひとりの男の望みを聞き入れてしまったせいだった。
その男はいつもひとり、街の中心に佇み人々に見上げらている像だった。端正な顔立ちに伸びやかな手足、黄金の髪と蒼玉の瞳をたずさえた美しい男だった。人々は彼を王子と呼び街の誇りとして誉めそやしたが、彼の本当の名前を知る者は誰もいなかった。人々が彼に求めたのは彼に生まれつき与えられた偶像としての責任だけだった。彼をひとりのひととして見つめる眼差しは当然なかった。
燕が王子に出会ったのは長い長い旅を終えた後のことだった。共に旅立った同胞たちが悉く死んだにもかかわらず、燕自身は手ずから死を選ぶ自由さえ許されない無意味な旅だった。生きる意味も自分の価値も見失い、ただ生存に適した宙に向かって飛行する機構に成り果てていた燕は、空の只中で春の陽とも嵐の灯とも異なる光を見たのだった。それは虚ろに静まり返っていた燕の内側を煌々と照らし出し、日々の営みに血を燃やす一個の生命としての喜びを思い出させ、世界にまなざす気概を失っていた瞳に輝きを取り戻させた。燕が彼に惹かれたのは彼が美しい男だったからではなく、彼の内に秘められた魂の眩しさに灼かれたからだった。
彼に焦がれるほどに燕は彼のありさまを悲しく思った。民衆は彼を讃え崇拝し彼の栄光を慕っていたが、それは彼を硬く冷え切った石の台座に縛り続けるのと同義だった。生きるものには自由があることを知っているのは燕だけだった。人々は彼に心臓があることさえ知らないらしかった。燕も初めは気付かなかったが、王子といくつかの言葉を交わすうちその拍動を聞く機会を得た。拍動は言葉の揺るぎなさと眼差しの静けさに巧みに隠されていて、それはおそらく彼が自分を守るために覚えるしかなかった術なのだが、閉ざされた暗い胸の奥底に燕がよくよく耳をすませば、そこには孤高の光をたたえた錫色の心臓がたしかに脈打っているのだった。燕には彼を彩る黄金や蒼玉よりその飾り気のない柔らかな光こそが美しく思えたし、叶うなら柔いゆえに無数の傷を負っているその心臓を自分の羽で包んで温めてやりたいとさえ思った。彼は民衆の願いを叶えるための偶像ではなく、その心臓の巡らせる血の滾りのままあるべきひとだと燕は信じた。
だというのに、燕が彼自身の望みを尋ねても彼は決して答えなかった。何を問われたのか分からないような眼をして、あるいは答えを口にするのを恐れるように息を詰め、この身体から黄金を剥がして運んでおくれ、と燕に頼んだ。世界をより良くすることが自分の責任、生まれついての使命だからと。君にしか頼めない、と繰り返し言われては燕に断る術はなかった。王子は死に損ねたばかりに意味もなく生きている取るに足らない生き物に向かって、
──君とならどこまでも行ける。
と楽しそうに言った。柔らかな笑みを含んだ声はしなやかな若木のように瑞々しく、謡われるにふさわしいのは美しい未来であるはずなのに、彼がその声で繰り返し呼ぶのはみすぼらしい燕の名前だった。台座から一歩も動けない身の上で、大衆の望みに囲われた籠の鳥のごとき宿命の只中にあって、君となら、と迷いなく寄せてくれるその信頼をどうして拒めよう。冷たく閉じたこの胸の内にまばゆい光を注いでくれた、夢を見る喜びに醒めさせてくれた眼差しをどうして、振り払うことができるだろう。
このひとの傍にいよう。このひとのためならいくらでも宙を駆けよう。このひとの望みは私の望みだと燕は信じた。だから王子の身体から黄金を剥ぐのも、その瞳の蒼玉を嘴で抉り取るのも厭わなかった。これが王子の幸福であるのならと、彼を傷つけるたび泣き喚きそうになる自分の心など無視した。愛するひとをむざむざと贄にする苦しみに裂ける心臓など些事だった。
──私を導いてくれ。
両の瞳を失い盲目になった王子からそう願われた時には、もう後戻りできなくなっていた。己が使命に従うのではなく自分の羽音に導かれたいのだと王子に明かされた瞬間、やはり負わされた使命はこのひとの心が望むものではなかったのだと燕は悟った。もはや取り返しはつかなかった。それでもなお王子自身の望みは分からなかった。すでに空は秋を深め残酷なまでに透き通り、視覚をなくした王子には宙の変容が分からなかった。春の宙へと旅立つ刻を燕は永遠に失った。そして世界はあっけなく冬を迎え、燕に終わりを連れてきた。
──こんなことしたくなかった。
積雪に埋もれていきながら燕は思う。王子と出会って熱く巡り出した彼の血潮は白い闇に呑まれて凍りつつある。翼はその前からだめになっていた。王子に頼られるまま昼も夜もなく飛び続けた翼は、風切羽がみな千切れ落ち風を掴むことができなくなっていた。持ち上げるだけで端から崩れるように羽が抜けた。さんざん王子の身体を抉り剥ぎ取ってきた嘴はひび割れ、砂状に砕けた金や石を吸って病みついた喉はまともな声も出せなくなった。
──こんなことしたくなかった。
燕は硬い石の上で心臓が止まるのを待っている。かつては選ぶことを許されなかった死が、終わりの刻が、自ずから宙を目指せる生き物の尊厳を何もかも失ってようやく与えられようとしている。やっと再びの自由がやってくる。
なのに心に安らぎはない。
──飛び出してしまえばよかった。
白く冷たい後悔が燕の内を埋めていく。
──傍に留まるべきではなかった、こんな、こんな男の。
閉じていた目を開く。震える瞼から雪が零れ落ちる。宙を塞ぐ厚い灰色の天を頭上にたたえて立ち続ける、王子の像が見える。
傷だらけだった。大衆の幸福のために黄金を剥ぎ取られた衣は風雨に晒され赤錆に蝕まれきっていた。まるで血染めの軍服のようだった。濁った赤い錆は衣の裾から彼の四肢へと伝い|蔓延《はびこ》り、いつか燕を留まらせてくれた滑らかな指先もいまは火傷のごとく爛れていた。輝く髪は黒ずんだ鉛色になり、柔らかな頬は死者の強張りを纏い、青い瞳のくり抜かれた跡には暗い眼窩がのぞくばかりだ。そしてその額に深く刻まれた一閃の|疵《きず》にだけは生来の黄金が残っていた。そのひと筋の光だけが錆色の裂傷と黒い剥落に蝕まれた相貌に白々と浮かび上がっていた。自らの負う責任に則り何もかもを捧げた王子には、もはや喪失そのものしか持ち合わせがないのだった。
──嗚呼。
もう寒さを感じる余力もないのに燕の嘴は震えていた。無情に降り積もる終末の身を切るような冷たさより、ここまでされてなお世界のために立ち続ける男の勇壮さのほうがよほど|堪《こた》えた。何が使命だ。こんなのは呪いだ。自分の望みを抱く前に世界に何もかも奪われて、内側には虚無だけが残されて。
──そんなになってもまだ貴方は終わることができない!
潰れた喉の内側で血を吐くような叫びが|谺《こだま》す。こんなありさまになっても王子に終わりは来ない。彼は大衆に仰がれる偶像であるから。責任を果たせと望む眼がある限り彼に滅びは訪れない。いずれ大衆の欲望に喚ばれて戦争がやってくる。貴方は台座から引き下ろされ、火にくべられ身体を溶かされるだろう。溶かされた身体は銃弾に変えられ、戦場の汚濁にまみれたきり死骸ごと打ち捨てられるだろう。貴方がついぞ口にしなかった貴方の望みを聞く者は永劫現れない。その錫色の心臓はついに血に滾ることもなければ、誰かにまなざされる温もりを知ることさえないのだ。
──こんなことしたくなかった。
焦がれるだけではだめだったのだ。貴方に灼かれた喜びに浮かされて、貴方が使命を果たすための翼になって、貴方を傷付けた。本当は貴方を一片だって世界に捧げたくはなかった。
──傍にいたのが間違いだった。
死にかけの自分が貴方を望むのは不相応だと信じて、貴方の信じる使命を果たさせてあげたくて、結局貴方を世界の犠牲にした。貴方をおぞましい虚無に陥れたのはこの翼だ。貴方の自由を殺したのはこの鳥だ。
貴方の血と孤独から編まれた世界に、貴方の安らぎがあろうはずもなかったのに。
雪は絶えず降り続けている。先程開かれたばかりの燕の瞼にも新しく降り積もり、視界を白く閉ざしていく。ちっぽけな身体はほとんど埋もれて、骨や腑は雪の重みに耐えかねて少しずつ潰れ始めている。
それでも。燕はひび割れた嘴を雪上に突き立て、背骨を頸の骨ひとつで持ち上げるようにして、己が身体の頸から下を雪の中から引きずり出した。嘴のひと突きは雪下の硬い石の台座にぶつかり燕へ跳ね返り、嘴の先を砕き割りその付け根まで引き裂いた。燕は引きずり出した身体を両の羽で支えて立たせた。肩から先の骨は軋んで悲鳴を上げ、震える脚の先には感覚がない。
それでも顔を上げる。頸を伸ばした途端全身を突き抜ける痛みを無視して、血まみれの姿で立ち尽くす壊れた王子を見上げる。その頭上を覆う、暗い空から白い雪の降りしきるさまは星空のよう。燕を灼いた美しい光を閉ざす昏い檻。燕には、時の移り変わりに身を委ねるしかないちっぽけな渡り鳥には、あまりに巨きすぎる|宙《そら》。
──それ、でも、
それでも伝えなくては。責任も使命もこんな世界も、貴方は選ばなくていい。貴方は貴方の望みを選んで自由に在っていい。その心臓の高鳴りの求めるままに生きてほしい。
貴方の光は、熱は、鮮やかに閃く魂は。かけがえのない貴方の明日を輝かすためにあるのだから。
朽ちかけの身体を広げる。皮膚を裂く冷たい空気を穴だらけの翼で掻き分けるようにして、矮小な黒い鳥が雪上から飛び立つ。白い地表に千切れた羽が散り、追って鮮血が滴り落ちる。羽ばたきは弱々しく、降る雪よりも遅い。身体ひとつぶん飛び上がるたび激痛が奔り、視界が暗く狭まっていく。冷えきった|腑《はらわた》は羽を一度動かすごとにひしゃげて嘴から血の泡を溢れさせる。
しかし軌道に迷いはない。まっすぐに、ひたむきに、燕は宙を駆け抜ける。今生でたった一度、たったひとりに抱いた祈りを歌うために飛翔する。遙か遠くの面差しをもう一度見つめるために、羽ばたくたび小さくなっていく鼓動を引き連れひとつ、またひとつと飛び上がる。
そうしてついに燕の身体は王子の目の前に躍り出る。瞳の失われたその眼窩に姿は映らなくとも届けるべき言葉を届けるために、燕は羽ばたきを繰り返し身体をその場に留めると、もうほとんど何も見えない視界で錆色の光沢を辿り、王子に向かって身体を投げ出すように進み出た。開いた嘴が崩れる。溜まった血をごぼりと吐いて、薄汚れた腹を赤黒く染めながら喉を震わせる。
だが、そこまでだった。王子に出会う前の旅の途中で停まり損ねていた燕の心臓は、たった今前触れもなく拍動を打ち切った。血を巡らせる機関を失った燕の羽ばたきが一瞬だけ滞る。その一瞬にほたりほたりと降り注いだ雪のかすかな重みに、崩れかけの鳥の身体は抗う術を持たなかった。身体があっけなく傾く。燕の暗い視界から王子の輪郭が流れ去っていく。
燕はなんとか王子の顔に取り縋ろうと羽を伸ばした。血の脈動の残滓を掻き集めどうにか一度だけ羽ばたきを為した。けれどその羽の先は王子を掠めもしなかった。羽ばたきは小さな風を起こしたきりで、その風は王子の眼窩や鼻筋に降り積もった冷たい雪を払い除けることさえできなかった。
ただの鳥。ただの鳥ではだめなのだと燕は思った。ただの鳥ではこの男を自由にするどころか、この男の孤独を溶かすことさえできないのだ。
燕の身体が落下する。なけなしの命を削って為した飛翔の何倍もの速さで落ちていく。このまま石の上の雪に叩き付けられて終わるのだと悟った。何もしてやれないままこの男をひとりにする自分の弱さと愚かさが、|宙《せかい》の醜さ以上に口惜しかった。
──生まれ直したい。
厭わしい宙に恥知らずにも祈る。懇願する。次の宙があるなら、赦されるなら。私はもっと強い鳥になろう。貴方を犠牲にしようとする世界を討ち滅ぼせる力を、貴方を縛る宙を引き裂ける翼を持った強い生き物に生まれよう。
そうしてまた貴方に巡り会えたら、必ず貴方を自由にする。貴方が貴方の望みのままに生きられる世界を創ってみせる。
その果てに、愛する貴方の傍にいられなくなったとしても。
──貴方の、
貴方の幸せ以外、本当に、要らなかったのに。光をくれた男に何も返せない自分を呪いながら、それでもあのまばゆい輝きを|眼裏《まなうら》に思い描いて、真っ黒に閉じた視界のなかで彼の名前を呼んだ。
そうして、目が覚める。
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