5-3 揺らぐ現実の中で

 夕方の柔らかな光が、部屋の窓から差し込み、ベッドの上に横たわる私の体を包み込んでいた。窓際にずらりと並んだぬいぐるみたちが、夕日の温かい光を浴びて、その影が少しずつ長くなっていく。まるでこの時間の移ろいを静かに見守っているかのようだった。

ベッドの上で、鳳仙先生が優しく私を抱きしめ、髪を撫でる。だけど、その手の感覚すらもどこか遠い。私はその腕の中にいるのに、感じるべきはずの温もりが、まるで他人事のように思える。

「大丈夫だよ、鳳子。怖がらなくていい……」

 彼の声が私の耳元に届くけれど、その言葉はまるで遠い世界の向こう側から響いてくるように感じた。ふと、私の肩を抱きしめる鳳仙先生の手に意識を集中させると、その手の中には何かが握られているのが分かった。薬だ。記憶をリセットする為の、甘くて残酷な毒だ。

「僕達は何度だってやり直せる。だけど、壊れたら戻らないものがあるんだ。だから、その前に……嫌なことは全部忘れて、また初めからやり直そう……なぁ、鳳子」

 沈黙を守る私に、鳳仙先生は優しく諭すように語り続けていた。

 それは、学校から帰宅してすぐに、彼が私に薬を飲ませようとしたことが発端だった。私がその薬を拒んだ瞬間から、気がつけば、家中は荒れ果てていた。棚に整然と並んでいた本やぬいぐるみは、無惨にも床に散乱し、花瓶かコップか分からないが、何かガラス製の物が砕けて床に飛び散っている。その破片のひとつを踏んだ足の裏が、じくじくと痛むのを感じている。

 鳳仙先生が薬を飲ませようとした瞬間、私は激しくそれを拒絶した。そのことははっきりと覚えている。私が暴れまわり、抵抗したことも、断片的には記憶に残っている。そして今、彼は私をしっかりと捕まえ、私が落ち着くのをただ待っているのだ。彼が本気になれば、その錠剤を無理やり私の口に押し込むことなど、容易なはずなのに……。それでも彼は、私の心が静まるのを、根気よく待ち続けているのだ。

 足の痛みや散らかった部屋の様子が、現実感を伴って私に迫るが、心は依然としてその現実から逃げようとしている。それでも、鳳仙先生の穏やかな声が、少しずつ私をこの世界に引き戻しているようだった。

「解決部のことも、もう忘れよう……。鳳子がどれだけ誰かを助けようとしても、彼らには君を救えはしない……だから、」

 彼の声が私の耳元に届くけれど、その言葉はまるで遠くの水の向こう側から響いてくるように感じた。声はあるのに、その音がどんどん曖昧になっていく。私の意識は深い海の底へとゆっくりと沈んでいくように、現実感が遠ざかっていった。

 鳳仙先生の腕の中で、抱きしめられているはずなのに、私の感覚はどんどん遠くへと流されていく。このまま深い水底に引き込まれてしまうのではないかという恐怖が、胸の中でじわじわと膨らんでいく。心が壊れていく。

 ――はやく、薬を飲まないと。心が。意識が。自我が。記憶が。曖昧になって。

(でも、違う。それじゃないの。私が欲しいのは心を安定させるほうの――)

 ふいに、肩に置かれていた鳳仙先生の片手がそっと動き出した。その動きに視線を向ける気力は無かったが、包みから薬を取り出す音が耳に届いた。その瞬間、何をしようとしているのか理解できた。先生は私が再び抵抗しないよう、できる限り慎重に動いているのが分かった。彼の手が、私の口元へゆっくりと近づいてくる。その動きは、まるで私を刺激しないよう、そっと包み込むような配慮が込められていた。

 心の中で何かがかすかに反発するが、体は反応しなかった。薬がすぐ目の前に迫っているのを感じながら、ただその場に静かに沈んでいくような感覚だけが残った。

(その錠剤は……全て白紙に戻して、最初から始める……)

 私は心の中で言い聞かせるように繰り返し呟いた。

 鳳仙先生は指先をそっと私の唇に触れさせ、僅かに開かれた口内に慎重にそれを挿入してきた。錠剤が舌に触れた瞬間、私の舌は無意識にそれを受け取ろうとして動いた。しかし、突然、苦いタバコの味が広がり、舌先が鳳仙先生の指に触れた。彼は人差し指と中指で錠剤を挟んで持っていたのだ。

 私は錠剤を受け取ろうと、必死に舌を絡めてみたが、なぜかすぐにはそれを与えてもらえなかった。むしろ、鳳仙先生の指は私の舌の動きを確かめるかのように、ゆっくりと微妙に動いた。その不思議な動きに、私の感覚は次第に曖昧になり、現実感がまた一歩遠ざかっていくように感じた。

「……っん……ぁ……」

 彼の指の動きに思わず声が漏れる。やがて彼の指はゆっくりと引き抜かれ、その代わりに舌先に置き去りにされた冷たい錠剤の感触を覚えた。

「そのまま、飲み込める?」

 鳳仙先生はそう言いながら、ベッド脇に用意していた水の入ったペットボトルのキャップを静かに開け、私の口元へと差し出した。しかし、体を起こして飲む気力など残っていなかった。私はただ、舌の上で錠剤を何度か転がし、意識の遠いところでそれを呑み込もうとした。その時――。

 ――それこそ、解決部としてお前が解決すべき謎なんじゃないか?

 不意に柴崎先生の言葉が脳裏に蘇った。それだけじゃない。

 ――いつだって、どんな状況だって、依頼は、謎は解決しなくてはならない。

「一ノ瀬……先輩……」

 無意識に呟いて、彼女が伝言板に書き残した言葉を思い出す。一ノ瀬先輩は消えてなんていない。今はどこにいるのかわからないけど、ちゃんと彼女の言葉は|解決部《ここ》に残されているじゃないか。

 私は鳳仙先生に預けていた体を突然起こし、自分の口を覆った。そして、口の中の錠剤をそこへ吐き出した。

「……鳳子?」

 私の一連の行動が、鳳仙先生には薬を受け入れたくないという抵抗に見えたのだろう。彼の表情に、わずかだが抑えきれない怒りが滲んでいるのが分かった。普段は冷静な鳳仙先生が感情を表に出すことは滅多になく、その変化に気づいた私は思わず肩を震わせた。

 私の動揺に気づいた鳳仙先生は、すぐにその感情を抑え込むようにして、「ごめん、驚かせちゃったかな」と、いつもの穏やかな笑顔を浮かべて取り繕った。その笑顔が優しくても、私の胸の奥にはまだ微かに不安が残っていた。

 鳳仙先生の言葉は、ぼやけて聞こえ、まるで遠くの泡が弾ける音のようだった。水中にいる――そんな感覚が広がる。暗く冷たい水が私の足元から胸元へ、そして喉元まで静かに浸食してくる。そしてその沈みゆく先には何もない。暗闇しかない。冷たく、深い水底が私を待っている。

「先生……私に、与えて……」

 ――空白じゃなく、言葉を。未来を。答えを。

 その言葉が水中に吸い込まれていく。声に出しても、波紋一つ立てないまま、水底に沈んで消えてしまう。私の体はここにあるはずなのに、まるで私はすでにこの場所に存在していないかのように感じた。鳳仙先生の手が私の髪を撫でる感触も、もう現実ではなくなりつつある。

 私の視界はぼやけ、ぬいぐるみたちも、部屋も、すべてが遠ざかっていく。まるで水の中で何かに引き込まれていくように、現実が私から離れていく。息が詰まる。水が喉元に迫り、もう息ができない。胸が苦しくなる――このまま沈んでしまうかもしれない。

 水底で、私は私ではなくなっていく。恐怖が私を支配するけれど、それすらも感覚が鈍っていく。私の体はここにあるのに、心はすでに深い水の底に飲まれてしまったようだった。鳳仙先生の手の温もりだけが、かろうじて私を現実につなぎとめている。でも、その温もりも、次第に水に飲まれて消えていくように思えた。

 私の意識は深い闇へ、深い水底へとゆっくりと沈んでいく。もう、そこに光はない。



「ねぇ先生……私には、ずっと一緒にいた女の子がいた気がするの」

「そう……それはどんな子だったんだい?」

「……思い出せないの。でも、何よりも大切な存在だったはず。きっと、生まれた時から一緒にいた気がするわ」

「君は生まれた時から一人だったよ。お母さんとはいつも二人で過ごしていただろう?」

「……そう、お母さんと二人で、色んな場所へ行ったわ。だけど、過ごした時間は一人でいることが多かった気がするわ」

「そうか。君のお母さんはきっと忙しい人だったんだろうね」

「……お母さんは今どこにいるんだっけ」

「少し遠い場所にいるよ。一日でも早く君の元へ帰れるように、頑張っているはずだ」

「いつ帰ってくる?」

「ごめんね。僕にはそれがわからないんだ」

「……そう。じゃあ『良い子』にお留守番してないとダメだわ」

「…………鳳子、どこに行くんだい?」

「帰るのよ、お家に。お母さんが帰ってくるのを待っていないと……」

「君のお家はここだよ。どこへ帰ろうとしたんだい?」

「…………にみりちゃんのお家」

「にみりちゃん? それは誰の事かな?」
「………………」
「鳳子」
「………………」
「君は生まれた時から一人だった」
「………………」
「だけど、君のお母さんは君を愛していたし」
「………………」
「箱猫に来る前の村でも、君はみんなから愛されていたよ」
「………………」
「暁さんも、血の繋がりは無いけれど、君を愛しているはずだ」
「………………」
「そして僕も、君を、愛しているよ」
「………………」
「だから鳳子。また初めからやり直そう」

 鳳仙先生が、ゆっくりとこちらを見ているのが分かる。その表情は穏やかで、いつもと変わらない笑顔を浮かべている。しかし、なぜかその笑顔が嘘のように思えた。記憶が混濁する中で、彼にすがるしかない自分がいた。だからこそ、私は再び問いかける。

「……みんなが愛してくれた私は誰?」

 答えを求めるように、虚ろな目で鳳仙先生を見上げる。彼は少しの間、私を見つめ返し、そして静かに口を開いた。

「……君は、……世成鳳子は君しかいないだろう?」

 鳳仙先生の声は穏やかで、嘘のようには聞こえない。それでも、どこか不自然な感覚が心の中に残る。彼の言葉が、水のようにゆっくりと私の中に流れ込んでくるようで。しかし、それはまるで水面の泡のように掴みどころがなく、実感が湧かない。彼の言う「世成鳳子」という言葉が、何か違う存在に思えた。鳳子……私が鳳子?

「鳳凰という神鳥の伝説を知っているかい? 死期が訪れると灰に還るんだ。しかし、やがて火に包まれて再生する。まるで君のように……」

 鳳仙先生は優しい声で続ける。

「僕はね、君こそがその神鳥なのだと信じているんだ。だから、君は何度だって生まれ変われる。理想の姿を手に入れられるんだ。望むものがあるのなら、僕が何だって与えよう」

 彼の話はまるで、誰かが作り上げたおとぎ話のように感じた。冷たく重い水の中で、真実と嘘の境界線がどんどん曖昧になり、私はただその声にすがるしかなかった。だが、何かが引っかかる。違う気がする感覚。

 その瞬間、混濁していた意識の中で、肌に微かな振動が伝わった。スカートのポケットに入れていたスマホが震え、ピコンという軽やかな通知音が耳に届く。その音はまるで水面に浮かんだ泡が弾けるように、私の意識を朧気な現実へと引き戻した。

 私はスマホを手に取り、画面を点灯させる。そこには、榎本先輩からのLINEメッセージの通知が表示されていた。その瞬間、ぼんやりしていた意識が急速に鮮明になり、胸の奥で何かがかすかにざわめくのを感じた。

 すぐにそのスマホを操作して、榎本先輩からのメッセージを確認する。

▼------------------------▼
【LINE】  
To:世成 鳳子
From:榎本 沙霧 

依頼は君の記憶と友人を見つけることで良かったか?
ここ最近は忙しかったのだが、幸か不幸か時間が余ってしまってな。
年末までで良ければ君の依頼に尽力しよう。

報酬については気にしなくて良い。
年末までの私の退屈凌ぎという事にしてくれて構わないよ。

添付ファイルに目を通したらまた連絡する。
▲------------------------▲

 そのメッセージが間違いなく榎本先輩からのものだと確認すると、私はスマホを強く握りしめた。涙で視界がぼやけるけれど、心にはじんわりと安堵が広がっていく。足に集中させた重心が、踏んづけたガラスの破片を再び思い出させ、その痛みが現実感を強めていく。

(夢じゃない……! 妄想じゃない……! これは現実だわ……!)

 心の中で強く呟く。まだ榎本先輩の居場所はわからない。でも、彼女が確かに存在していることを感じたその瞬間、乱れて闇に沈みかけていた心が少しずつ安定していく。不安はまだ残っている。それでも、私は自分が解決部であることを再確認した。

 ――依頼は、謎は、必ず解決する。私は、解決部だから。

 さっきまで朧げだった意識がはっきりとし、気づけば、いつの間にか目の前にあった扉の前で立ち止まっていた。そこには鳳仙先生が無言で立っていた。

「先生。もう私は大丈夫よ。心配させてごめんなさい」

 私は柔らかな笑顔を浮かべ、鳳仙先生に囁いた。彼は壊れる寸前だった私を助けようとしてくれていたのだ。だからこそ、その感謝の気持ちを込めて、心の底から笑顔を見せた。だが、鳳仙先生は一瞬だけ表情を曇らせた。

「……誰から、連絡が来てたんだ?」

 その質問に、私は戸惑いを隠せなかった。鳳仙先生が何故そんな質問をするのか、その理由がわからない。私は不思議に思いながら、彼を見上げた。

「……? どうして?」

 彼の表情に潜む意図を読み取ることができず、思わず目を見開いた。まだ鳳仙先生は私を心配しているのだろうか。そう思い、彼から買ってもらった大切な白いスマホを胸元でぎゅっと抱きしめ、無邪気に微笑んで、もう一度繰り返した。

「私はもう大丈夫よ、心配しないで。先生が言った通り、私は貴方に愛されている。だから、私も愛する|解決部《もの》の為に行動したいの」

 そう言って、私は床に転がっていたスクールバッグを手に取り、「少し出かけてくるわ」と言い残し、自室を飛び出して玄関へ向かった。無言だった鳳仙先生が気になり、家を出る直前に廊下へ向かって声を掛ける。

「夕飯までには帰るから! いってきます!」

 そう言って玄関の扉を閉めると、外はすでに夜の闇が静かに広がっていた。
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