3.承

今年の梅雨明けは、例年よりもずいぶんと早く短かった。鬱蒼とした木々が生い茂るゲゲゲの森の頭上にも、久しぶりに明るい青空が広がっている。見事な快晴だ。これからの酷暑を予想させる蒸し暑さは感じるが、墓掃除にはそれなりに適した日和だった。
この森に住む幽霊族の男は、息子の鬼太郎や妖怪の仲間たちと連れ立って、今やすっかり日課となった友人の墓掃除に来ていた。男にゲゲ郎という奇妙な名前を付けた人間は、とある事情によりゲゲゲの森の一角に眠っている。
「――水木よ。見ておるか」
友の墓掃除を終えたゲゲ郎は、線香の煙が立ち上る墓前でそこに眠る男へと語りかけた。
「いや見ておるもなにも、兄サン地獄でピンピンしてるし……」
「ねずみ男、うるさいぞ」
「いっでぇ!」
ゲゲ郎の横で手を合わせていた鬼太郎が、父の言葉に茶々を入れる悪友を肘で軽く小突いた。墓掃除を手伝ってくれた仲間たちとは先ほど解散しており、今は幽霊族の親子とお供え物目当てのねずみ男しかこの場に残っていない。
「これ。喧嘩は止さぬか」
「すみません、父さん」
聞き分けのいい息子はスンとした顔で短く謝罪した。普段はのんびりしているが、時折妻に似た好戦的な面が覗くところはやや心配の種である。もっとも根は心優しく賢い子なので杞憂だとは思うが。
「しっかしまあ……」
小突かれた脇腹を擦りながら、ねずみ男がお供え物のファミチキと缶ビールから墓石へと視線を移す。
「こんな馬鹿みたいな墓立てられちゃ、おちおち極楽にも行けねえよな」
彼はほとほと呆れ返った声で呟き、巨大な大木のように天高くそびえる墓石を仰ぎ見た。
三人の眼前に高々と直立する黒い墓石――幽霊族親子の恩人とも言える人間の水木の墓である。その規格外な高さはおおよそ十メートル。一般的な路線バスの全長とほぼ一致する。そんな常識外れのクソデカ墓石など、多磨霊園とか調布市内の寺だとかに建墓できるはずがない。様々な条例、土地問題、金銭面から見てもゲゲ郎たちが人間の土地に水木の墓を建てるのは、とうてい現実的ではなかった。
この墓石の下に納めた水木の遺骨だって、もともとは調布の管理自治体からこっそりパクってきたものだ。当然のように埋葬許可証もない。さらに水木の母や先祖が眠る墓地は、生前のうちに水木がきっちり墓じまいを済ませている。
そうなるとやはり人間の土地以外に建墓するほかなく、水木の新たな終の棲家として選ばれたのがゲゲゲの森だった。ここなら土地代とか管理費とかも関係なかったので。
しかし人間が立ち入りできぬ広大な森林とはいえ、その巨大さはおおいに迷惑かつめちゃくちゃ邪魔だ。おまけに墓の主が人間とくれば、当然ゲゲゲの森在住の妖怪たちが黙っていない。いざ建墓する際には、それなりに揉めることとなった。だが、「ここに愉快な墓があれば、追善供養と称して毎晩酒盛りできるぞ」という幽霊族の一声により、最終的に水木の墓は無事建立されることとなったのである。
「ようやく大往生したと思ったところにこれはきっついわ……。兄サンも気の毒に」
「むしろこれのおかげで極楽行きになったと聞くがの」
「へっ。俺にゃあ、あの世のお偉方の判断基準が理解できないね」
ねずみ男は冷めたような口調で言って、軽く肩を竦めた。そして彼の不潔な指先が墓前に供えたファミチキにそろりと伸びる。
「こら。勝手に取るな」
「ギャッ!? だから痛いって鬼太郎ちゃん!」
行儀の悪い指が触れる直前、鬼太郎が不届き者の白いひげをちょいっと引っ張る。鬼太郎はすぐに小さな手を離したが、ねずみ男の片ひげは妙ちくりんな針金アートみたいになっていた。
「いでで……。俺様の自慢のひげになんちゅー非道なことを……」
「では、ワシは水木のところに行ってくるからの。帰りは遅くなるやもしれぬから、あとを頼むぞ鬼太郎」
「はい、父さん。いってらっしゃい」
「聞けよ!」
喚くねずみ男を放置して、掃除道具や線香皿を墓石から少し離れた場所に移動させた鬼太郎は、そのまま二十メートルほど後方に下がった。いつもの「アレ」を始めるらしい。
「げっ……」
鬼太郎が懐から古びた野球ボールを取り出すのを見たねずみ男は、慌てて水木の墓石から距離を取る。ゲゲ郎も息子の邪魔にならぬよう、少しだけ横に避けた。
そして肌身離さず着用している霊毛ちゃんちゃんこを左手にぐるぐる巻いた鬼太郎が、平素の静けさとは真逆の大声を張り上げる。
「水木さん! いきますっ!!」
鬼太郎は野球ボールを握った右腕を大きく振りかぶり――大恩人である養父の墓石に向かって全力投球した。
ズガアアアアン! 墓場どころか森一帯に凄まじい轟音が響き、その衝撃でゲゲ郎たちが立っている地面や木々が激しく揺れる。とてつもなく大きな地響きだった。衝撃に驚いた野鳥たちがけたたましい鳴き声を上げながら、いったいなんだと言わんばかりに木立から羽ばたいている。
一般的な墓石であれば、木端微塵間違いなしの過剰投球――オーバープレイボールだった。
しかし幽霊族の末裔渾身の投球を受けた水木の墓は、ギュルルルルッと強烈な音を立てるボールを無傷でキャッチしている。溶接現場のような赤い火花が散ってはいるが、その表面にひび割れは一切見えない。浮金石という国産高級石材と砂かけばばあの技術を借りて作った水木の墓は、息子とのキャッチボール程度ではびくともしなかった。「ナイスボール鬼太郎!」と親指でも立てていそうな余裕の構えである。
息子の全力投球を受け止めた水木の墓石が大きく軋み、次の瞬間、爆風と爆音を立ててボールを返球する。こちらも普通の人間に当たれば粉々になってしまうのは明白だ。だが、鬼太郎は慌てず騒がず左手に巻いた霊毛ちゃんちゃんこ、もとい霊毛ミットを構え、養父の墓石から放たれた剛速球を難なく受け止めた。ミットに戻ってきたボールは、まだ猛烈な回転がかかっている。焦げ臭い白煙と火花を散らしていたが、ボール自体の原形は綺麗に保たれていた。この硬式ボールの縫い糸には鬼太郎の髪が使われており、ボーリング球より丈夫な異常球体と化しているためだった。
「ひょえぇー……。いつ見ても罰当たりでやんの……」
「これも鬼太郎の孝養じゃよ。水木も草葉の陰で喜んどるわい」
「……兄サンがいるのは草葉の陰じゃなくてトリキだろ」
息子と友人の心温まるキャッチボールをほのぼの眺めるゲゲ郎に、ねずみ男の胡乱そうな声は聞こえていない。
実際、冥府では鬼太郎のワイルドピッチが追善供養の一種として判断されたらしい。生前は叶わなかった幽霊族の息子と人間の養父による本気のキャッチボール。子供の見目でも身体能力は人間の大人を遙かに凌駕する鬼太郎の剛速球を受ければ、水木の身体は風通しがとてもよくなるか爆散するかの末路しかない。そういうわけで、墓石相手とはいえ双方怪我なくキャッチボールが出来る状況に、おとうさん子の鬼太郎はとても嬉しそうだし、墓石じゃない方の水木も「えっ……もう死んでるんだし本体の俺とやってくれよ鬼太郎……」とメガジョッキ片手に嬉し泣きしていた。すべて丸く収まってウィンウィンである。
「鬼太郎や。水木とのキャッチボールが終わったら、ファミチキとビールは二人で分けて食べなさい」
「はーい」
墓石水木の荒々しい返球をキャッチしながら、楽しげに笑う鬼太郎がのんびり返事をする。
我が子の笑顔を見たゲゲ郎は、罪悪感のよるかすかな胸の痛みを覚えた。
――やはりこの子にはまだ話せない。
書類上とはいえ実父と養父の関係が一晩であらぬ方向に変わったことをどう説明すればいいのか。本来ならもう一人の当事者も交えて三人でじっくり話し合うべき問題なのだが、その変化した関係について今すぐどうにかすべき危機が迫っている。そちらを解決しない限り、鬼太郎に話しても混乱させてしまうだけだろう。
すまん、倅よ。心の内でだけ詫びて、ゲゲ郎は唯一無二の友――今後は書類上の伴侶となる予定の男が待つ地獄へと向かった。

 ◇

いつものように地獄へ通じる大岩を蹴飛ばして入獄したゲゲ郎は、各地獄の横を通り抜けて獄卒たちの居住区にやって来た。カラコロ下駄を鳴らし、今となっては昔懐かしい雰囲気の木造長屋街に足を運ぶ。そして、すっかり通い慣れた一軒の長屋の前で立ち止まった。
「おおい。水木や、邪魔するぞ」
そう言って、勝手知ったる友人の家とばかりにインターホンも押さずに無礼入室する。ここは地獄滞在中に水木が借りている賃貸物件だった。
「水木」
「…………おう」
ゲゲ郎が居間に踏み入ると、ちゃぶ台に突っ伏していた水木がわずかに頭を上げた。手狭な六畳一間の室内に、アルコールの匂いがぷーんと充満している。
「お主……。やはり飲んだくれておったか」
「飲まなきゃやってらんないだろ……」
水木は死人らしくどんよりした目つきで、片手に握っていた缶ビールをぐいっと煽った。
一晩でどれだけ飲んだのか、ちゃぶ台と畳の上にはビールの空き缶がごろごろ転がっている。比較的強靭な精神力を持つ水木でも、昨夜の出来事は酒で忘れたくなるほどのものだったのだろう。
「水木よ。気持ちは分からんでもないが、いい加減しっかりせんか。今はそんなことをしている場合ではなかろう」
「そんなの分かってるさ……」
頭痛をこらえるような仕草で頭に手を当てた水木は、「それ以上言うな」とばかりに片手の手の平をゲゲ郎に向ける。怪我や病気とは無縁な亡者のくせに二日酔い気味らしい。
ゲゲ郎は小さく溜息をつき、持参したビニール袋をちゃぶ台の上に置いた。長い付き合いにより、彼にはこの状況も予想済みだった。
「ほれ、水と液キャベじゃ。あとしじみ汁とガリガリ君も買ってきたぞ」
「すまんゲゲ郎……」
「まったく……。早う顔でも洗って来い」
水木にミネラルウォーターのペットボトルと液キャベを渡したゲゲ郎は、ビニール袋を持って台所に向かう。冷凍炒飯やパスタやらが詰まった冷凍庫にガリガリ君二本をねじ込み、電気ケトルを軽く濯いでからお湯を沸かし始めた。もちろん水木に飲ませるしじみ汁のためである。
彼にはさっさと頭をすっきりさせてもらわないと困る。今から悪質極まる偽装結婚計画の作戦会議をしなければならないのだから。

――偽装結婚。現世の人間界では、刑法一五七条一項「公正証書原本不実記録罪」にあたる犯罪行為だ。この罪を犯した者は、五年以下の拘禁刑又は五十万円以下の罰金に処されることになる。
要はまともな結婚生活を送る意思もないのに婚姻届を出して、公務員に不実の記録をさせたら駄目だろという罪だった。
当然ながら地獄においても偽装結婚はれっきとした犯罪であり、法律を悪用する許されない不正行為である。
マジでそれだけはやっちゃいかんのだが、強制送還寸前の水木を地獄に在留させる方法は現状これ以外になかった。
「それにしても……」
ようやく普段の思考力を取り戻した水木が、ちゃぶ台の上を見て複雑そうな表情を浮かべる。彼の視線の先には一枚の書類と一本のボールペンがあった。
「これはどんな意図でデザインされたものなんだ……?」
「最近の書類は洒落ておるのう。華やかで良いことじゃ」
暢気に顔を綻ばせるゲゲ郎が地獄の役所――獄所で入手してきた書類は、現世の仕様とはかなり趣が異なるデザインだった。
用紙自体はごく一般的なものだが、何故かどす黒い血液色でべちゃりと全面印刷されている。不吉で不気味な印象しか与えない最悪の特殊インクだった。
さらに右下の空いたスペースには「Congratulations!」と流麗な筆記体で叫ぶしゃれこうべが描かれており、記入欄の左上におどろおどろしい古印体で「婚姻届」と印字されている。
イラストとフォントが内容とまったく一致していない。少なくとも、現世の役所では絶対に採用されない方向性の婚姻届だった。
「え、華やか……これが……?」
「水木。今はそれより婚姻届の記入じゃ」
デザインの多様性にドン引きしている水木の肩を叩き、ゲゲ郎はボールペンを右手に持った。見本用紙に従い、婚姻届の記入欄を埋めていく。
ちなみに地獄の住人には雌雄の区別がない者も多く、意思疎通の取れない相手以外であれば誰でも入籍できる制度だ。よって、極楽籍亡者男性の水木と無職幽霊族男性のゲゲ郎の結婚も可能だった。
「ほれ。お主も自分の名前を書くんじゃ」
「ああ」
ペンを渡された水木が、「伴侶になる者」と印字された記入欄にペン先を走らせる。
ところでゲゲ郎の名前は幾つかあるのだが、ここでは最近すっかり呼ばれ慣れている「ゲゲ郎」で記入した。最もその名を呼ぶ男が書類上の伴侶なのだし、そちらの方が端から見ても自然だろう。
本人はずいぶん適当に名付けたらしいけれども、響きが良かったので息子の名前にも使っている。これは幽霊族の夫婦だけの秘密だった。
「書き終わったぞ」
「うむ。それでは、本格的な作戦会議といこうかの」
しじみ汁のついでに煎れたほうじ茶をひと口啜り、ゲゲ郎は偽装結婚による水木地獄在留計画の説明を始めた。
「まずこの陽気な婚姻届じゃが、獄所の窓口に提出する分には問題なく受理されるじゃろう」
「俺に極桃未食の罪があってもか?」
少し不安そうな表情の水木が、部屋の片隅で豊潤な香りを漂わせている植木鉢に視線を向けた。
この部屋に来てから数年間、埃まみれの観葉植物と化していた極楽政府支給の極楽桃の木である。
「ああ。極楽は慶事を尊ぶ風潮がかなり強いからのう。軽犯罪かつ初犯であれば、恩赦が与えられるはずじゃ」
恩赦とは、国家刑罰権を消滅もしくは軽減させる制度のことだ。現世で恩赦が行われる理由や状況は様々だが、極楽でもそれとほぼ同様の制度が存在する。極楽亡者の慶事の際には多少の罪があっても勘弁してあげましょうという、いくらなんでもガバガバすぎる法律だった。
とはいっても、もちろん無制限にガバっているわけではない。「恩赦が与えられる対象は極楽亡者に限る」というべらぼうに難しい必須資格が前提条件である。地獄の亡者や住人の場合は、余程のことがなければ恩赦は存在しないに等しい。
前章でも先述したとおり、基本善人しかおらん極楽亡者の扱いは、とてつもなくゆるゆるのゆるゆるだった。
「そもそも極桃未食罪というのは、向こうでもそれほど重い罪ではない。強制送還されたところで禁固刑などには処されないじゃろうし、せいぜいしばらく食事メニューの報告義務がある程度のようじゃぞ」
「俺が言うのもなんだが、こんなにチョロくて極楽の司法は大丈夫なのか……」
「今まで大丈夫だったから、ワシらが悪用できるんじゃよ」
「それはまあ……。というか、ゲゲ郎。今更だが、お前たち幽霊族の本籍って地獄になるのか?」
「正確には少し違うがの……。だいたいそんな感じじゃ」
怪訝そうな水木の質問に、ゲゲ郎は微妙な返事をした。
彼ら幽霊族は、第一期人類とも呼ばれる霊的存在だ。ゆえに地獄も天国も自由に行き来が可能で、特に地獄では上は閻魔大王から下はファミマのバイト店員まで顔見知りも多い。地獄政府的にも市民ならぬ獄民扱いらしく、地獄に在住する者たちとほぼ同等の福利厚生を利用することができる。
「幽霊族にとって、地獄は第二の故郷みたいなもんじゃからの。言うなれば、重国籍ってやつじゃ」
「へえ……。そういう扱いなんだな」
「その代わり、面倒事を頼まれたりもするんじゃぞ」
ちょっと渋い顔をしたゲゲ郎は、やれやれと首を振った。
「まあ、そういうわけでじゃ。ほぼ地獄住民のワシと結婚しておる限り、お主もこちらに残留できるじゃろう」
偽装結婚の目的でよく上げられるのが、外国人が当該国の国籍を持つ者と婚姻し、その配偶者として在留資格を取得するパターンだ。今回二人がやらかそうとしているのも、まさにそれである。
散々書き連ねてきたが、天国住人への対応はものすごく緩い。何の問題も抱えていない極楽亡者であれば、現世では面倒な手続きや審査がある配偶者ビザも申請当日に取得できてしまうのだ。
「じゃが、さすがに強制送還を食らっているお主の場合は、すんなり発行はされぬじゃろうな。そして、ここからが面倒になってくる」
「入管からの調査、だよな」
現世の人間界と同様に、地獄にも入管――出入国審査や在留管理を行う出入国在留管理庁と呼ばれる行政機関がある。そこには在留審査に関する業務を扱う「永久審査部門」という部署が存在している。
本来ならこの審査なしで配偶者ビザが発行されるはずだが、今回のゲゲ郎たちの婚姻は、まず間違いなくそこから派遣された担当官による実態調査が行われる予想だった。
「そこをなんとか切り抜けられたら……」
「お主は極楽に戻らんでも済むじゃろ。それを通過するのが一番の難関なんじゃが……」
なにしろ強制送還が出された直後の結婚である。誰がどう考えたって偽装結婚をまず疑う。大幅なマイナス心証からのスタートだ。
「とにかくじゃ」
ゲゲ郎は残ったほうじ茶を啜り、希望と不安が入り混じった水木の顔を見据えた。
「婚姻届の提出と配偶者ビザの申請をした後、早急に入管の実態調査に備えねばならぬ」
配偶者ビザの実態調査では、おもに婚姻の信憑性を調査される。その調査内容は、調査担当官との面談や周辺住民への聞き取り調査などだ。二人の出会いの話やデートの証拠、婚約指輪の領収書の提出まで求められる場合もあるらしい。なかなかに厳格な調査となるようだ。
「そうか、婚約指輪……。指輪がないと不自然に思われちまうか」
「付けておらぬ者たちも中にはおるはずじゃが、ワシらは面談までに購入した方が良いじゃろうな。たしか『ふんどしぃ』という金物屋が若者に人気じゃと、ねこ娘たちから聞いたことがあるぞ」
「それ絶対違う名前のブランドだろ……」
「はて、そうじゃったか」
呆れたような水木の呟きを聞き流しながら、「そういえば」とゲゲ郎はごく最近見かけた指輪のことを思い出した。
「つい先日、幽霊市場通りの中古屋で指輪らしきものを見かけた気がするの」
「中古屋というと、あの青くて静岡っぽい店のことか?」
「ああ」
二人の脳裏に浮かぶ真っ青な看板の店は、おもにアニメグッズや家電などを取り扱っている中古買取ショップだ。正確にはもっと幅広く買い取りを行っているのだが、ここでは割愛する。
「なんじゃったか……『一生一緒に死んでくれ指輪』みたいなやたら重い商品名じゃったぞ」
「そんな名前なのに中古屋で売られてるのか……」
そこに至るまでの経緯を想像すると、他人事ながら暗澹たる気持ちにさせられる。
「まあ今回は急場凌ぎじゃ。結婚指輪はもっと良い品を贈るつもりで、こちらは節約したとかなんとかで誤魔化せるじゃろ」
「それで誤魔化されるのはお前くらいじゃないのか」
「よし、水木よ。ガリガリ君を食べたら、獄所と静岡屋に行くぞ」
「はあ……。また不安になってきた……」
実際、この水木の不安は思いっきり的中するのだが――アイスの当たりはずれに一喜一憂している今の二人は知る由もなかった。

 ◇

婚姻届を提出してから数日後。予想通り、水木の強制送還は一旦見送りに。そして婚姻届の受理はしたが、配偶者ビザの申請には実態調査が行われる旨の通達が届いた。なお、この調査における面談は、複数回行われるとのことだ。
その間に必要書類を揃えたり、質問書の提出など出来る限りの偽装準備を整えた犯罪者二人は、水木の長屋で調査担当官たちとの初顔合わせを迎えていた。
「出入国在留管理庁の永久審査部門から参りました七一〇番と申します。本日はよろしくお願いいたします」
「同じく七九四番です。よろしくお願いします」
自己紹介をして軽く頭を下げた担当官たちに、ゲゲ郎と水木もぺこりと会釈を返す。個人情報保護のため、地獄の入管職員たちは全員番号で呼ばれているとのことだった。
「ふむ。〝ナント〟さんと〝ナクヨ〟さんじゃな」
「おい、勝手に語呂合わせで呼ぶなよ」
「ただの番号より呼びやすいと思ったんじゃ。駄目だったかの?」
ゲゲ郎は担当官たちの方をちらりと見る。七一〇番と名乗った女性担当官が、にこりともせず「お好きな呼び方で構いません」とやや早口で言った。外見年齢は二十代前半、淡いピンクのロングヘアに真っ白なロリータファッションの単眼女性だ。眉上で切り揃えた前髪が桃色の一つ目をより強調している。地獄入管の服飾規定は、現世よりもずっと寛容らしい。
「自分も大丈夫っす。いつもアリクイさんとしか呼ばれないんで、なんか新鮮っす」
「ああ……まあ……そうでしょうね……」
細長く伸びた吻端を揺らして笑う七九四番――ナクヨに、水木が何とも言えない表情を向ける。本人(?)の自称通り、どう見てもアリクイそのままの姿をした職員は、おっとりしていそうな見た目に反して少々軽薄な印象だ。
「すまんのナクヨさん。あいにく蟻の茶請けは用意しておらんのじゃ」
「あー、気にしないでください。手持ちの蟻があるんで、お茶だけいただくっす」
そう言ってナクヨは、自分のビジネスバッグから黒いビール瓶を取り出した。瓶口は黒い布と輪ゴムで封がされている。持った時に水音はしなかったので、中身はビールではないようだ。
そして人間の数倍優れた視力を持つゲゲ郎には、その中身もよく見えた。詳細は省くが、アリクイの一日の食事量は約三万匹の蟻らしい。
「あの……申し訳ないのですが、ここでは仕舞っていただけると……」
「あ、はい。すんません」
若干顔色を悪くした水木の言葉に、長い舌をぺろりと出したナクヨがオーガニック百%のおやつを鞄に戻す。どうやら水木も瓶の中身を察したようだ。多少の虫程度で脅える男ではないが、万が一ここで中身をぶちまけられたときの惨状を考えると、心中穏やかではいられないのだろう。
「……コホン。それでは、これより面談を始めさせていただきます」
小さく咳払いをしたナントが実態調査の開始を告げる。蟻瓶に引き気味だった水木も背筋を伸ばし、ゲゲ郎は膝の上でぎゅっと両手を握った。
「では、まず……」
二人が事前に提出した質問書の回答用紙を手に取ったナントは、顔面の半分を占める大きな単眼を細めて続けた。
「ゲゲ郎さん。結婚相手の方を『水木』と名字で呼ばれているんですね。ずいぶん余所余所しいように思えますが」
「え……」
いきなり答えにくいことを聞いてくる。ゲゲ郎と水木の顔が同時に引きつった。――それは考えてなかったんだけど。
水木の生前に鬼太郎も交えて三人で撮った写真や家族として親密なメールの記録など、実体を伴った結婚である証拠はそれなりの量を用意できた。あとは二人の出会いや長年の同居生活を語れば、案外いけると思っていたのだ。
それがまさか呼び名から突っ込まれるとは。二人共まったく予想だにしていない事態である。
たしかに、彼女の指摘はもっともだ。簡素な名字での呼び方は、友人同士であればなんら問題も違和感もない。だが、これから一生を共にする伴侶の呼び名としては、いささか他人行儀すぎる。
けれども実際、二人は至って健全かつ家族のような友人関係だ。そこに恋愛感情は存在しない。
今回のようなのっぴきならない事情でもなければ、偽装結婚などという非倫理・反社会的犯罪行為に手を染めることもなかったはずである。
しかし、すでに二人の手は不吉な特殊インク色に染まっている。水木が地獄に永久在留するために、もはや後戻りはできなかった。
「……――っきー……」
「はい?」
ゲゲ郎のもごもごとした呟きに、無表情のナントがこれまた無感情な声で聞き返す。可愛らしい格好と声音に反して、彼女の態度は冷静かつ厳正そのものだ。おそらく生半可な小手先三寸が通用する相手ではない。
だがしかし、こちらも幽霊族の末裔としての意地がある。ご先祖様にとうてい顔向けできない犯罪行為に加担していることはさておき、恩人であり大切な友人の力になってやりたいのだ。
覚悟を決めたゲゲ郎は、隣に座る水木のガッシリとした肩を抱き寄せた。そして渾身のガチ惚れ顔で真っ赤な虚偽説明を続ける。
「……『ずっきー』じゃ。本当は水木ではなく『ずっきー』といつも呼んでおるんじゃよ」
「ずっ……きー……?」
異常伴侶呼称を聞いた女性調査担当官は、呆然とそれを繰り返した。一方の男性陣、アリクイと水木は、石化した子泣きじじいのように身動きひとつしない。言葉を失っているようだ。
「そうじゃ、質問書や人前では恥ずかしくて隠しておったがの。普段はこの呼び方なんじゃよ。のう、ずっきー♡」
瞬間、室内は八寒地獄よりも冷え切った空気になった。ナント、ナクヨ、そしてずっきーの表情も凍りつく。声に出さずとも彼らの顔には「気でも狂ったんかこいつ」という言葉が有り有りと書かれている。
――あ。やらかしたっぽい。人並みに空気が読めるゲゲ郎は、すぐに己の失態に気付いた。じわじわと視界が滲む。
「……ずっ……水木さん、事実ですか?」
怪訝そうな声でナントが水木に尋ねる。硬直していた水木は、後悔と羞恥でぷるぷるしているゲゲ郎をちらりと見やって曖昧に頷いた。
「は……、まあ、そうですね……。『名乗らないならずっきーとでも呼ぶぞ』と言っていたかもしれません……」
「それワシが言われたやつじゃ……」
「お前は黙ってろ」
今度は水木がゲゲ郎の肩をヤケクソ気味に抱き寄せた。婚姻関係の信憑性のアピールおかわりである。端から見ると肩を組み合うただの仲良しおじさんたちの図だ。
「……そうですか」
桃色の単眼に疑いの色は浮かんだままだが、ナントからの更なる追求はなかった。かといって、ゲゲ郎たちの小芝居に騙されているようにはまったく見えない。おそらく彼女の心証はより悪い方へ傾いている。
「……そうじゃ! この婚約指輪を見てくれ」
このままではまずいと思ったゲゲ郎は、左手の薬指を担当官たちの眼前に突きつけた。せせこましい偽装工作の一環として、静岡っぽい名前の中古店で購入した婚約指輪である。
「ふふん。ずっきーがワシと一生一緒にエンゲージしたいと買うてくれた指輪じゃ。見よ、このガラスっぽい石の輝きを……」
「うわっ!?」
蝶をモチーフにした特徴的な指輪を見た途端、突然立ち上がったナクヨが威嚇のポーズを取った。両手を広げた仁王立ちの可愛らしいやつだ。
「なんすかそれ! 例のアレじゃないすか!」
「例のアレ……?」
ゴーッと鼻息荒く警戒するアリクイに、ゲゲ郎と水木は揃って首を傾げた。
「自分の口からは詳しく言えないっすけど、婚約指輪の対極みたいなヤベェ代物っすよ!」
「そんなにですか!?」
「そんなにっすよ! なに考えてこれ買っちゃったんすか!?」
なにも考えずにヤベェのを買っちゃったから、今すごく困っている。真っ当な購入理由の言い訳は考えていたが、まさかいわく付きの指輪だったなんて。これもめちゃくちゃ想定外だ。
しかし、それを正直に伝えるわけにもいかず、二人は冷や汗びっしょりでしどろもどろに弁解する。
「いやぁ……、その、実はこいつの趣味がそういったろくでもない物を集めることでして……」
「そ、そうなんじゃよ。敢えて不気味な品々を揃えるのが好きというか……。逆張りってやつかのぉ……」
「……………………」
「……そっすか」
――あ。またやらかしたっぽい。空気は読めてもアドリブが下手クソすぎるゲゲ郎は、今度こそ赤い両目から大量の涙を流した。
結局、その後の質疑応答もぐだぐだとした微妙な雰囲気で終わり、最後までナントの寒地獄のような無言無表情の圧力とナクヨの不味い蟻でも食べたっぽい態度は変わらず仕舞いだった。
手応えがないことの手応えしかない面談だ。当然のことながら、やはり悪行なんてしでかすべきじゃなかったのだろう。

「……ずっきーよ。極楽に行っても元気での」
「早々に諦めるな……。まだなにか……なにか……、ううっ……」
最初の実態調査終了後、二人は反省会と称して鳥貴族に駆け込んでいた。いつも以上にしょっぱいポテトフライと苦いビールを流し込み、狭い二人掛けテーブルで項垂れる。アピールポイントの諦めの悪さはどこかに行ってしまったらしい。
そんな哀愁漂うおっさん共にトリキ店員たちも同情的な視線を向けるが、完全なる自業自得の自棄酒だった。

 ◇

「ただいま……」
閉店の朝四時まで鳥貴族でくだを巻いていたゲゲ郎は、すっかり空が明るくなった頃、ようやくゲゲゲの森に帰ってきた。
水木とは、ひとまず次回の実態調査までに他の対策案を各自考えてくるということで一旦解散した。それにお互い頭を冷やす時間も必要だろう。
「父さん。おかえりなさい」
「まぁた兄サンと夜通し飲んでやがったのか」
幽霊族の親子が住むツリーハウスの簾をくぐると、仏壇のお供え物を交換している鬼太郎とまたもやお零れを期待しているねずみ男の姿があった。
仏壇の主は水木、水木の母、ゲゲ郎の妻の三人である。毎朝新しい水と白米、それにファミチキか酒を供えて線香を上げるのが残された父子の日課だった。
「遅くなってすまんかったの、鬼太郎」
「いえ。僕はだいじょ……っ!?」
ゲゲ郎が左手で息子の頭を撫でようとした途端、鬼太郎の頭頂部の髪がピンッと突き立った。もちろんお馴染みの妖怪アンテナである。
「父さん! 強力な妖気です!!」
「ぶべえっ!?」
鬼太郎は水が入ったグラスを放り投げ、すぐさま霊毛ちゃんちゃんこを右腕に巻いた。本気の臨戦態勢だ。背後でびしょ濡れになっているねずみ男のことなど一瞥にもしていない。
「よ、妖気とはこの指輪のことか?」
「つめて~……って、げげぇ!? なんちゅーヤベェもん付けてんだよ親父!」
「やはり重い因果を背負った代物なんじゃな……」
良からぬことにも情報通のねずみ男が、ゲゲ郎の左薬指で輝くエンゲージリングを恐ろしげに見つめている。どうやら自分たちが思っていた以上に、複雑ないきさつを抱えた指輪らしい。
「父さん……。いったいどうしてそんな物を?」
「それは……」
無闇に事情を話したところで、きっと困惑させてしまう。そう思って、水木との偽装結婚のことは息子に黙っていた。だが、もはや隠している方が鬼太郎を混乱させてしまうようだ。
「すまん。実はのう……」
観念したゲゲ郎は、今までの経緯を洗いざらい鬼太郎たちに話し始めた。
そうして三十分後、鳥貴族の味付煮玉子が今日も美味かったというくだりで、呆れ顔のねずみ男が盛大な溜息をついた。
「……あんたら馬鹿なの?」
「おい。はっきり言うな、ねずみ男」
「き、鬼太郎……?」
ゲゲ郎は信じられない気持ちで、息子の名を呟いた。
気のせいだろうか。今まったく倅からフォローしてもらえなかったような。もしや世に言う反抗期? まだ百歳にもなっていないのにそれは早すぎる。
あっちもこっちもワシはどうしたらいいんじゃ……。パニックになりかけたゲゲ郎の目に涙が浮かぶ。決壊寸前の父親の涙腺に気付いた鬼太郎が、慌てて首を横に振った。
「あっ、いえ。水木さんのためですし、僕も父さんたちに協力するんで」
「鬼太郎……。ううっ、お前にも迷惑を掛けてすまんの……」
「僕は平気ですよ」
そう言って、鬼太郎は控え目に微笑んだ。なにか釈然としないものはあるが、息子の笑顔に嘘はないと思いたい。ゲゲ郎は指輪を嵌めていない右手で、小さな頭をぽふりと撫でた。

「つーか、ただの茶番じゃねえか……」
ちゃっかりお供え物のファミチキをパクったねずみ男の呟きは、親子の耳には届いていなかった。

 ◇

大失敗の第一回実態調査から二日後の昼過ぎ。ゲゲ郎は沈んだ足取りで水木の長屋に向かっていた。主人の心情に影響されたのか、下駄のカラコロ音もなんとなく元気がない。
あれから丸二日掛けて知恵を絞ってみたが、上手いこと調査担当官たちを騙くらかす妙案は浮かばなかった。協力を申し出てくれた息子も運悪く外出が重なり、相談らしい相談は出来ずじまいである。
偽装結婚がお手軽犯罪として跋扈しても迷惑なので、治安や司法的には好ましい状況だろう。だが偽装する側のゲゲ郎たちにとっては、たいへんに悩ましい事態だ。
そもそも何を以ってして、婚姻の信憑性の証明となるのか。卑劣な偽装工作に煮詰まったゲゲ郎は、原点に立ち返って思案した。
まず、第三者から真実の愛による結婚だと定義される境界線はどこなのだろう。その判断基準とやらが実に難解だった。だって、一般的に伴侶の証明とされることは、ほとんどクリアしているのだから。
水木を一人の友や家族として信頼する気持ちに嘘偽りはない。それはきっと、彼も同じように思ってくれているはずだ。本当の交際期間ではないが、水木と共に過ごした時間も数十年間に渡る同居生活の実績があった。そして彼が黄泉の国に旅立った現在も、ゲゲ郎が地獄に通うかたちでの半同居生活を送っている。
これだけ揃えば、実体を伴った結婚の証明には十分だろう。ただ、お互いに恋情や性愛を抱いていないだけで、実子の鬼太郎と同じく自分の命よりも大切な家族であることには変わりない。
それでは駄目なのだろうか。駄目だからロリィタ娘とアリクイに胡散臭い結婚だと疑われているのが現実だ。
真実なる婚姻の偽装がこんなに難しいとは。既婚者二回目であるゲゲ郎は、がっくりと肩を落とした。
あの日、強制送還の沙汰に落ち込む水木に、偽装結婚の計画を持ち掛けたのはゲゲ郎だ。水木との別離を二度も味わいたくない――そんな身勝手な感情で、思わず犯罪行為の提案をしてしまった。
なんという愚かなことを。これが他人事なら、いくらでもそう言えた。
万人が遵守すべき法に背き、それで得た安寧に価値を見出てはならない。悪事に手を染める前の自分であれば、きっとそんな達観したふうな苦言を呈していただろう。
けれども、情というのは綺麗に割り切れるものばかりではないのだ。ひどく醜悪で触れることも躊躇するようなおぞましい姿を取るときもある。今回の――いや、ずっと以前からそれを知っているはずなのに、また愚行を犯してしまった。
どうしていつも、きちんと手を握ることも離すこともしてやれないのだろう。自分の臆病さと浅ましい執念が情けなくて、地獄の暗い道にぽたぽたと雫が落ちた。
一度水木の元を去ろうと決意したときも、息子の涙と水木の言葉に根負けして突き放すことが出来なかった。それでも彼が人間として生を全うするまでは、約束通り傍に居させてもらおうと覚悟を決めた。だから一度目は見送れたのだ。
でも二回目は? もしあのまま水木が強制送還されていたら、本人の意思とは関係なく早々に転生させられていただろう。極楽の天上人は寛容で慈悲深いが、良くも悪くも公明正大な振る舞いが求められる場所だ。
たとえ極桃未食の罪は重罪でなくとも、絶対的善人である極楽亡者が罪を犯してしまったことには変わりない。ならば、とっとと魂を浄化して生まれ変わらせてしまおう――。そんな非情な善後策が取られていたに違いなかった。
そういう臭い物に蓋をする感じのやり口がゲゲ郎は気に入らないし、第一期人類とかいう太古の顔パスを使い倒す幽霊族のことをあちらも快く思っていない。いわば冷戦状態の両者だった。
自己弁護のようになるが、不安定で正しくない一面はどんな聖人だって持っている。だからこそ自分や他人の心には、大切に向き合っていきたい。それが愛というものだと、ゲゲ郎の内で永遠に輝く女から教えてもらった。
だというのに、どうしてこんなことに……。お前が偽装結婚を企てたせいやろがい、という正論は今のゲゲ郎には刺さりすぎるので聞こえないふりをする。死んだ友人を悪の道に引きずり込んでしまった罪悪感は、浮かれぽんちの水木に縋りつかれた夜からずっと消えていないのだ。

そうして何の打開策も思いつかないまま、ゲゲ郎は水木の長屋に辿り着いた。
「……ずっきー。入るぞ」
近隣住民にも行われる聞き取り調査に配慮して、ゲゲ郎からの水木の呼称はふざけたネーミングのままだ。
いつものように玄関の引き戸を開けて、家の中に上がり込む。カーテンを閉め切った居間には、ちゃぶ台に突っ伏している水木の姿があった。
めちゃくちゃ既視感のある光景だ。前回と違うのは、ビールの空き缶が転がっていたりアルコール臭が充満していないことくらいである。
「みず、ずっきー。どうしたんじゃ」
「……………………」
そっと背中に触れてみるが、水木が顔を上げる気配はない。寝息は聞こえないので、眠っているわけではないようだ。
「すまん……。ワシが不甲斐ないばかりに……」
ゲゲ郎の目にふたたび涙が浮かぶ。偽装結婚などという浅はかな思いつきの発端は自分だ。なのに実態調査を上手くやり過ごすことも出来ず、これでは友にぬか喜びをさせてしまっただけである。
「みず……っきー……」
妙なゆるキャラみたいな呼び名を涙ながらに呟き、ゲゲ郎はぐすんと鼻を啜った。すると、甘く瑞々しい芳香が鼻先に届く。そういえば、今日はずいぶん桃の香りが近いような――。
「――ゲゲ郎」
「へあっ!?」
突然がばりと飛び起きた水木が、ゲゲ郎の両肩を無遠慮に強く掴んだ。
「ゲゲ郎……」
「ど、どうしたずっきー……」
二日ぶりに見た水木の顔色は、死人感に全振りしたような青白さだった。髪もひどくボサボサだ。しかし眼力だけは正気っぽくない熱を帯びており、無駄にギラギラと燃えている。
「その……」
「うん」
謎の熱意を漲らせている水木は、言いづらそうに口ごもった。珍しい。常日頃からゲゲ郎相手には言いたい放題の男なのだが。いったいどうしてしまったのだろう。
ゲゲ郎が不思議がっていると、水木はすうっと深く息を吸い込んだ。そして切腹前の武士のような覚悟を決めた表情で続けた。
「ゲゲ郎、キスするぞ」
「は?」
ゲゲ郎のクソ長い生涯の中でも、五本指に入りそうな特大の「は?」が出た。
「キスだよ、キス。分からないか? 接吻とか口付けとか……」
「いやいやいやいや」
「えっ、これでも伝わらないか。あとはチュー、ベーゼ……」
「そこではない! キスの意味くらい知っとるわ!」
ゲゲ郎は首がもげる勢いでぶんぶん真横に振った。本当に水木はどうかしてしまったらしい。
「ずっきーよ……。ワシを恨みたくなるのも当然じゃが、いくらなんでもこんな悪ふざけは……」
「悪ふざけじゃねえ」
蒼白な表情を引き締めた水木は、いやに真面目くさった声でゲゲ郎の言葉を否定した。
「ゲゲ郎、俺は考えたんだよ。俺たちの偽装工作になにが足りないのかって」
水木の青い双眼が嫌な感じに光る。不吉な予感しかしない。この先は聞きたくなかったが、ゲゲ郎の肩を掴む水木の力は強く、鯖折りとかにしないと抜け出せそうにはなかった。
「それで……なにかわかったのか?」
水木を鯖木にするのは諦め、仕方なく続きを促す。本人の知らないうちに鯖木を免れた水木は、ニヤリと悪人っぽい笑顔を浮かべた。
「恋人らしさだよ」
「こ、恋人……?」
また普段の水木なら言わないどうかしている単語が飛び出てきた。二日会わない間にアルコールの飲み過ぎとかで脳細胞が破壊されてしまったのだろうか。
「ああ。今の俺たちは友人だった頃となにも変わらない。それじゃあ、結婚する意味があるのかと疑われても仕方ないだろう」
「だ、だからキスでもして恋人らしい雰囲気を身に付けようと……?」
「応!」
「応じゃないわ」
いくら切羽詰まっているにしたって、さすがに短絡的すぎやしないか。乱心したとしか思えない友人の発想に、ゲゲ郎は呆れ返ってしまった。
「何故だ。俺の吸いさしを吸ったり、缶ビールの回し飲みも出来るんだし、キスもいけるだろ」
「そういう問題ではなかろう」
「じゃあなにが問題なんだ。他に代案はあるのか」
「うっ……」
めっちゃ詰めてくるなこいつ。どういうわけか、水木は友人との偽装接吻にひどく乗り気だ。もともと押しに弱いゲゲ郎は、返事に困ってしまった。
「た、たしかに妙案は思い浮かばなかった。じゃが、だからと言ってこんなやり方は……」
「ゲゲ郎、俺とキスするのは無理か……? やっぱり奥さんに悪いもんな……」
「ううっ……」
急にしおらしくなった水木が、やたらと切なげな声と眼差しを向けてくる。自身の武器を有効活用しまくる卑劣なやり口だ。そんなふうに言われたら、もはやゲゲ郎に水木の提案を拒否し続けることは不可能だった。
「……わかった。キスをしよう」
流刑を告げられた罪人みたいな顔で、ゲゲ郎は不承不承に頷いた。こうなれば仕方がない。水木の異様な圧力に負けたのもあるが、偽装結婚計画の主犯として責任は取らなければならないだろう。
「我が妻は、聡明で情の深い女じゃった。きっと今回の事情も理解してくれるじゃろ。お主が負い目に感じる必要はないよ」
「そうか……」
そう言ってゲゲ郎が微笑むと、水木はほっと息をついた。狂った偽装工作を提案してくる割に、こういう面では相変わらず律儀な男だ。
「じゃあ、ゲゲ郎……」
「うむ……」
双方共にカモフラージュキスの合意は取れた。改めて居住まいを正した二人は、ぎこちなく向かい合う。さながら童貞と処女の初夜のような小恥ずかしい空気感だ。実際はおっさん二人が唇をくっつけ合うだけだというのに、めちゃくちゃ気まずい。
「……目閉じてくれ」
「ああ……」
気を遣ってそれっぽい雰囲気を作ってくる水木に、こちらもつられて心拍数が上がる。我ながら状況に流されやすくて情けない。偽装工作接吻で高鳴るチョロい胸を押さえ、ゲゲ郎は言われた通りに両目を瞑る。ひやりと冷たい亡者の手が左頬に添えられた。
水木が顔を近づけてくる気配、それと同時に彼の愛煙する煙草と何故か桃の香りが強くなる。
「……っ」
ふに、とゲゲ郎の唇に少しかさついた人肌が押し当てられた。なんの意図も感慨もなさそうな本当に触れるだけのキスだ。そのまま十秒ほど待つ。
「…………おい」
「どうした、ゲゲ郎」
目を瞑ったままゲゲ郎が声を出すと、水木の唇はあっさりと離れた。ゆっくりと閉じていた瞼を開く。一秒でキスを再開出来る距離に、男盛りの精悍な顔立ちがある。見慣れた友人の顔をゲゲ郎はじとりと睨みつけた。
「先ほどから思っておったが、お主やたらと桃臭くないか……?」
不審顔でくんと鼻を鳴らすゲゲ郎に、水木は苦笑しながら言った。
「あー……。今日も極桃食ってたからなぁ」
ちらりと向けられた視線の先には、極楽政府から支給された桃の植木鉢がある。成っている実の数はいつでもひとつだが、収穫した一分後には新たな実が成る奇跡の木だ。
どうやら先日の実態調査での失敗を受け、せめて心証回復をしようと食べ始めたらしい。
「ここ二日はあの桃しか食ってないんだ。それで匂いがきついのかもな。悪かったよ」
極楽桃を食べた亡者は、その効能により陽の気――活力に満ち溢れるという。水木はそれを短期間で過剰摂取したため、キスだのなんだの言い出したのかもしれない。方向性はともかく、活気づいているのだけは間違いない。
「いや……。むしろそんな偏食をして、お主の体調は大丈夫なのか?」
「ゲゲ郎、俺はもう死んでるんだぜ」
さも当然の如く言って、水木がにかりと笑う。その瞬間、ゲゲ郎は左胸が締め付けられるような感覚に陥った。心拍と呼吸がヒュッと一瞬止まる。「心臓が止まるかと思った」という人間たちの冗句は、これのことだろうか。だとすれば、本当に悪趣味な冗句だ。
「まあ、こっちには煙草や酒もあるしな。甘ったるい後味が残らずに済んでる。地獄万歳、だ」
「そうじゃな……」
気落ちした返事をするゲゲ郎の顔に、水木の手の平がふたたび戻ってきた。在りし日の人間らしい温もりは、そこにはもう感じられない。
「……続き、いいか」
質問ではなく確認の響きだった。ゲゲ郎はこくんと一度頷き、再度瞳を閉ざす。それとほぼ同時に、氷のような体温の唇が強く押し付けられた。
「ん……」
唇が重なった瞬間、最初のキスとはまったく違うと思った。お互い微動だにしなかった先ほどのものとは異なり、水木の冷えた唇は明確な意思を持って触れてくる。
「ふ……んあ」
引き結んだ上下の唇を啄ばむように、何度も口付けが重ねられる。まるで本物の恋人に施すような欲を帯びた愛撫だった。
「はっ……ん……っ」
執拗なキスに堪らず、ゲゲ郎は切ない声を漏らした。それでも水木は口付けを止めてくれない。ちゅっ、ちゅっと耳を塞ぎたくなるような恥ずかしい音を立てて、ゲゲ郎の薄い唇に吸い付いてくる。
「みず……ッ!? ん、んっ……!」
ちょっと待ってくれ。そう告げようと開いた唇の隙間から、水木の分厚い舌が捩じ込まれてきた。思わず身動ぐゲゲ郎の身体を、いつの間にか後頭部と背中に回っていた水木の手が抱き寄せてくる。
「ふぁ……んむ……ッ」
ひんやりとした舌先と共に、桃の甘味と煙草の苦味が口内に広がる。食い合わせ最悪のディープキスだ。にもかかわらず、ゲゲ郎はわずかな嫌悪すら抱かなかった。未知の高揚感と甘い疼きがじわじわと湧き上がってくる。
「んふっ……あ……やめ……っ……うんっ……」
偽装工作の一環とはいえ、さすがにここまでするとは聞いていない。焦ったゲゲ郎はゆるゆると首を横に振ろうとするが、水木のキスはより大胆かつ過激なものになっていく。
舌と舌を絡ませ合い、上顎を擽り、歯列の裏までなぞる。鋭く尖った八重歯の切っ先すら、冷たい舌先で丹念に嬲られた。口内を荒らす舌も吐息も凍えるような温度なのに、ゲゲ郎の身体は徐々に熱を宿していく。
「ふ、っ……あ……ッ……ま、まてっ……!」
軽く舌を噛まれた辺りで、痺れるような快楽が全身を駆け巡った。びくびくと大袈裟に身体が震え、目蓋の裏に悲しみではない涙が滲む。
――これ以上は駄目だ。ゲゲ郎は震える手で水木の首根っこを掴み、自分の唇から無理矢理引き剥がした。
「っはぁ……ちょっと待てっ……と言うておるじゃろ……」
荒い呼吸のまま、濡れた唇を手の甲で乱暴に拭う。潤んだ瞳で目前の男に怒りを向けると、彼はひどく気まずげに項垂れていた。
「すまんゲゲ郎……。無体なことをしちまった」
水木は握った両手を膝に置き、がばりと低く頭を下げた。友人の平身低頭の姿に焦ったのはゲゲ郎の方である。慌てて彼の両肩を掴み、顔を上げさせた。
「そ、そこまでせずとも良い。頭を上げてくれ、水木」
「許してくれるのか……?」
「もちろんじゃ」
ゲゲ郎は笑顔で頷いた。もとよりキス自体には合意していたし、水木も桃の食いすぎでつい盛り上がってしまっただけだろう。そのように考えたゲゲ郎は、彼の謝罪を快く受け入れた。
すると、頭を上げた水木がぱあっと顔を輝かせて言った。
「じゃあ、またしてもいいか?」
「は?」
ゲゲ郎のクソ長い生涯の中でも、五本指に入りそうな特大の「は?」が出た。本日二回目である。
「え、何故……」
「何故って、そりゃあ偽装工作のためだろ」
「それはそうなんじゃが……」
でも別にこれ以上やらなくてもいいんじゃないかの……。俯き加減のゲゲ郎がごにょごにょ言うと、水木は両目をかっ開いて低く唸った。
「甘い……! お前もあの一つ目女とアリクイの冷え切った態度を見ただろ。次回の面談で実体が伴った婚姻の雰囲気を見せつけていかないと、俺たちは破局だ」
「破局て」
たしかに書類上では事実だが、なんか釈然としない。
「大丈夫だ、ゲゲ郎。ディープキスまで実践済みなら、どこからどう見ても実体と真実しかない結婚だ」
「虚実と偽装しかないの間違いじゃろ」
水木らしくもない穴だらけのガバガバ論である。極桃の効能で生まれた陽の気は、思考の方もぽかぽかさせてしまうようだ。
「ゲゲ郎……」
「うっ。そ、そんな顔と目で見るでない!」
「頼む。俺ともう一度ディープキスしてくれ」
「……深いやつでないといかんのか?」
「ああ。公衆の面前で五時間ディープキス出来るくらいじゃないと、入管の連中を欺けないだろ」
「結婚とはそんなに卑猥で過酷なもんじゃったかの……」
自分の経験した婚姻とは、慎み深さも難易度もずいぶん違う。それに五時間もあんなことをされたら、本当に身体と精神が持たない。
先ほどの口付けで生まれた小さな快楽の炎は、まだゲゲ郎の内側に灯ったままだ。行為を再開した後のことを考えると、恐怖とは別のなにかで背筋が震える。
「さすがに五時間は盛り過ぎだが親密な雰囲気をさり気なく装うためにはやはり肉体的接触が手っ取り早いんじゃないか」
まためっちゃ詰めてくるなこいつ。ふたたびゲゲ郎とディープキスするまで、水木に折れる気はまったくないらしい。本来なら長所となり得る前向きさと積極性が、全部間違った方向に作用している。
「もう一度だけじゃぞ……」
「ああ……!」
結局、ゲゲ郎は二回目のディープキスも許してしまった。完璧な偽装工作のためとはいえ、またもや水木の唇と舌を受け入れるしかない。
「五時間もしないから安心しろ」
「当たり前じゃ」
水木の軽口に呆れつつ、ゲゲ郎は渋々両目を閉じた。何度触れられても馴染まない死人の手が、するりと頬と腰に回る。煙草と桃の香りが近付き、そして二人の唇が重なった。
「ん……ふっ」
三度のキスですっかり湿った水木の唇は、相変わらず寒々しい感触だ。しかし触れ合った箇所からは、じんじんと疼くような熱が伝わってくる。その温度がひどく心地良い。
角度を変えて幾度も貪られるうち、ゲゲ郎の肉付きの薄い唇が開いた。
「ふぁ……っ……」
ゲゲ郎の唇を割るようにして、水木の舌が内側に侵入してきた。冷温の分厚い舌は、まるで別の生き物のようにゲゲ郎の口内を這い回る。先ほども嬲られた粘膜を愛撫され、鼻にかかった甘い吐息が漏れた。
「ん……んは……っ、ふぁ……ン」
水木の硬くがっしりとした手の平が、ゲゲ郎の丸い後頭部を乱暴な仕草で引き寄せる。細い白髪がわずかに引っ張られたが、その痛みを感じているゆとりはなかった。
口付けはますます深くなり、二人の唇の隙間からくちゅくちゅと淫らな水音が鳴った。互いの唇の感触を味わうように舌が絡み合い、その度に響く音がゲゲ郎の鼓膜を犯す。
思わずびくりと総身を跳ねさせると、水木の両腕に力強く抱きしめられた。冷たい手指が耳朶を優しく擽る。そんな些細な触れ方ですら、強烈な快楽として感じ取ってしまう。
「あ、ん……っ、ふ……んう……ぁ」
逃げ場のない熱と淫蕩な口付けに翻弄され、悩ましい吐息と濡れた声がひっきりなしに漏れ出る。だんだんと頭の芯が痺れるような心地になり、煙草と桃の風味や香りもよく分からなくなってきた。今のゲゲ郎に分かることは、書類上の伴侶となった男が自分の口内で思うがまま熱く昂ぶっている。ただそれだけだった。
「ん、む……ッあふ、ぁ」
混ざり合った唾液が唇の端から溢れるが、ゲゲ郎も水木もそれを拭う余裕などない。おそらく口の周りは二人共ひどい有様だろう。見た目も実年齢もいい年をした男二人がするには、あまりにも滑稽なキスだ。けれども、この男との口付けはこうして重ね合うのが最良のように感じてしまう。
――これはただの偽装工作。蕩けた理性がそう告げても、本能は水木によって与えられる快楽を求めて止まない。何度も口付けを繰り返した所為か、もはや思考が麻痺しつつあるようだ。
「……っはあ……、は……」
互いの唾液で濡れた唇を甘噛みされ、舌先を軽く吸われる。潤んだ赤目を薄らと開けた先、興奮に染まった青い瞳とかち合う。途端、大きな震えがゲゲ郎の全身を駆け抜けた。
「んん、ん……ッ!?」
まるで電撃を浴びたかのような鮮烈な痺れ――喉の奥から心臓が飛び出してしまいそうなほど鼓動が激しい。ゲゲ郎は思わずぎゅっと両目を瞑り直した。水木から向けられる情欲の眼差しだけで、頭がおかしくなりそうだ。
「……ゲゲ郎?」
びくびくと身体を痙攣させるゲゲ郎を見た水木が、唾液で濡れそぼった唇を離す。くちゅりと淫靡な音を立てて、互いの唇を繋げていた銀糸が切れた。
「どうした」
「あ……っ」
低く掠れた声が耳元を擽る。吐息の冷たさに反して、その声色は湿度を帯びて艶やかだ。たった一言――それだけでも快感を感じてしまい、ゲゲ郎は小さな嬌声を上げた。
「な、なんでも……ない、ぞ……」
「……そうか」
「ああ……」
ゲゲ郎は無理矢理作った笑顔を浮かべ、なんとか平静を装った。しかし、身体の熱も胸の動悸も一向に治まらない。たかがキスだというのに、いったいどうしてしまったのだろう。快楽に蕩けた思考ではなにも考えられない。
「…………」
「…………」
荒々しい吐息が掛かる至近距離で、しばし無言のまま見つめ合う。探るように互いの瞳の奥を覗き込み、そこに隠しきれない快感と劣情の色を見た。どちらともなく、ごくりと喉が鳴る。
ゲゲ郎を抱きしめる水木の手に力が入り、酸欠と脱力感でぐったりとした身体が、ゆっくりとちゃぶ台の上へと押し倒される。双方の身体がより密着し、衣服越しに下半身が触れ合った。――はっきりと反応を示している。わざわざ言葉や表情に出さなくても、相手が気づいているであろうことは互いに分かっていた。
「っ、あ……」
ゲゲ郎の上にのしかかる水木が、組み敷いた男の股座に自身の兆しを押し付ける。敏感な箇所をぐりぐりと刺激されて、またあえかな声が漏れそうになった。
水木の体温は冷え切っているはずなのに、重ねた唇と同じくたしかな熱をそこに感じさせる。安穏を良しとする不変の極楽亡者とは程遠い、狂おしい官能を帯びた温度だった。
「……ゲゲ郎……」
「み、ずき……」
目蓋を閉じた水木の顔がまた降ってくる。掴まれた両手首も柔く押される下半身も、優れた身体能力を持つゲゲ郎であれば容易く退けられた。
けれども、抵抗する気力や不快感はまるで湧き上がって来ない。むしろその先にある淫靡な愉悦を期待する自分がいた。
もっともっと水木から与えてほしい。一緒に気持ちいいことがしたい。ゲゲ郎は恍惚とした表情で自身も瞳を閉ざし――。

――チャラララララン チャララララ~♪

突如としてファミリーマートの入店チャイムでお馴染みの曲、正式名称は「メロディーチャイム№1 ニ長調 作品一七『大盛況』」が湿った空気の室内に大音量で流れた。
「は?」
ゲゲ郎のクソデカ「は?」、本日三回目の天丼である。
「水木さーん! 書留でーす」
「あっ……。はーい!」
玄関先から聞こえた郵便局員らしき声に、ゲゲ郎の身体から離れた水木が大声で返事をする。その瞳にもう情欲の熱は灯っておらず、彼は握った拳で汚れた口元をぐいっと拭った。
「……悪かった」
水木はぽつりと呟き、畳の上にあった粗品タオルをゲゲ郎の横に置いた。そして玄関の方へ足早に向かっていく。
ちゃぶ台に寝転がったまま残されたゲゲ郎は、呆然と木目の天井を見上げた。
「……そういえば、ファミマの音に設定しておったの」
数年前、宅飲みでおおいに酔っ払った際の悪ふざけで、インターホンを例のチャイム音に設定した覚えがある。律儀に呼び鈴を鳴らす客が少ないので、すっかり忘れていた。
ゲゲ郎は手の甲で目元を覆って、大きな溜息をつく。こんなことなら、もっと静かなオルゴール調の音色とかにしておけば良かった。そうすれば今頃――……今頃、なんだ。

「……は?」
四度目の一文字は、蚊の鳴くような小声であった。
次へ

powered by 小説執筆ツール「notes」