Enantiomer
店を出る頃になっても日は落ちていない。夏のヨーロッパはどこもこうだ。
「リッツでやりますか?」とわざと粗雑な訊き方をしてみると、「いや、左岸で」と簡素な答えが帰ってきた。左岸のどことは訊かなかった。仔細を言わない時点で、なんとなくどこへ行くのかは分かった。このひとなら国外にアパートの一つや二つ持っていてもなんらおかしくないだろうと前から思っていた。
まだ明るい街を歩く。前を歩く男はカルチェラタンの路地へ入って古いアパルトマンへ入っていく。ぼくもそれに続いた。
部屋には必要最低限の家具しかなかったが、その潔さがむしろ心地よかった。
シャワーを浴びて、ベッドの上で彼の肌に触れる。
こうするとき、静脈を探るためにはじめて彼の皮膚に触れた時のことを思い出す。何度か寝ているが、この皮膚に触れると、いつもあの時のことが筆で淡く刷いたように思い出される。あの時、彼の体は二人の間になげだされた公共の体だった。医療という知を実践する場であり、科学的に、客観的に取り扱われる身体だった。
いまこのベッドの上でルート確保のときとは違う反応を返す体に、あのときとは違う関係なんだと実感する。二人の間の公共から、彼ひとりのものに戻った体、一旦遠くなった体に違う関係で触れ直している。それをゆるされている。
「あの」と肌をなぞりながら訊いてみる。
「5000万もらって、死水とか言い出す20そこそこの人間って可愛げありますか」
相手は薄く笑った。
「お前の可愛げはそこじゃねえよ」
ああこういう声でささやかれたらどんな人間でもたまらないだろうなという声。
「あれはな、なんていうか打ちくだかれたような気分だったぜ」「5000万じゃ到底足りねえからもっと寄越せってことだもんなあ、和久井くん」
彼の指が僕の心臓の真上をトンっと軽く突く。
「お前のかわいいところってのは、今こうしてる時に律儀に昔のことを思い出してそうなところだよ」「それから、自分の可愛げってやつを分かってないところもだ」
指先がゆっくりと胸から腹へ移動する。
それから相手は「はやくやろうぜ」と即物的な誘いを口にした。
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