Enantiomer
6月のパリで、1ヶ月ぶりに会う。長ければ半年ほど会わないときもあることを思えば、短い別離だった。左岸のサン・ミッシェル広場で落ち合い、適当な店を見繕ってとりあえず腹を満たす、というのが趣旨だった。どうせ二人ともパリにいるのなら。
闇医者が悪魔を倒す大天使の膝元で待ち合わせとは。そう思ったが、下手な観光名所よりは混み合うこともないし、迷うこともない分かりやすい場所にある。ありがたい選択だった。
第2帝政時代に設置された噴水を背にしてパリの街並みを眺める。ベストシーズンを前にして、心なしか町全体が浮き足立っている気がする。
約束の相手は時間通りに現れ、無事に再会を果たした。
腹を満たす店については相手に任せた。ロスなら僕も案内なり提案なりできただろうが、パリでは完全にあちらのほうが先輩だった。予算、雰囲気、料理のジャンルなどすり合わせて、相手は「ビストロでいいだろ」と結論を出した。
シテ島を右手に数分街を歩き、僕らは飾らない普段使いの店のテーブルに着いた。まだ人の入りもまばらで、席にも余裕がある。
「譲介、泡奢れ」
唐突だった。席に着いて、ほんの数秒後、目の前の男はそう言った。
「いいですけど、なんで」と聞き返して目が合ったが、ちょうどウェイターがメニューを運んできてその視線の会合はすぐにほどかれた。そして、彼はメニューを受け取るついでに「Une coupe de champagne,s'il vous plaît.」と言ってあっさりと自分でシャンパンを注文した。
なるほど、代金の了承がとれているのだから、自分で注文したっていいだろう。
答えが宙吊りになったままだ。ウェイターが「Oui, monsieur」と言って去る。
「このagneau?ってなんです?」
メニューに軽く目を通しながら声だけで聞いてみる。ついでにシャンパンの答えが降ってきやしないかと思ったりした。
「子羊」
周囲の会話の声に混じって相手の低い声が耳に届く。オーダーを頭の中で思案しているのが声音にも表れていた。シャンパンについては忘れているかもしれなかった。
だんだんと人も増えてきて、店内には会話と食事のざわめきが満ち始めている。
なにせこの街の人間はよくしゃべる。
カフェで、広場で、公園の芝生で、川沿いのベンチで、暇さえあれば何時間でも、他愛ない雑談から政治議論まで、なんでも、ありとあらゆることを話す。知人・友人と、恋人と、見知らぬ他人と。そういう雑多な街だった。そしてこの雑多な街に、この人はよく馴染んでいた。
いま彼は、目の前でてきぱきと料理を注文している。ウェイターを呼び止める仕草も注文の仕草も迷いが無く、リラックスしてさえ見えた。
混みあう前に入っておいてよかった、と思う。キッチンにはホールから次々と注文が舞い込んでいる。
このテーブルから注文した料理とアルコールはそう待たないうちに運ばれてきたて、テーブルが一気に華やかになる。前菜、メインとして頼んだ鴨のコンフィ、サーモンのフリット、取り分け用の皿が数皿と、件のシャンパン。
「Merci」
サーブを終えたウェイターに軽く言うと、目の前の男は、シャンパンのグラスを持ち、気泡が踊る芳醇なアルコールを一気に飲み干した。そして、その飲みっぷりにあっけにとられている僕を横目に空になったグラスを置く。
「うめえな」「泡を奢るのはあなたとヤりたいって意味だ、この国じゃな」
答えをさらりと投げ出してカトラリーを手にとって食事を始めた。ほんとうに普通の会話の雰囲気だった。
……ああ、あれの答えか、と処理するのに数秒かかった。だけど、またこの人は適当なことを言ってるとわかると笑いそうになった。口許に手を当ててなんとか耐える。ついでに医者の不養生、一気飲みは止めといたほうがいいと思ったと表明するのもこらえておいた。要するにセックスへの誘いであって、奢るうんぬんはでっちあげということだった。
笑いをこらえて体に力が入ったので、ひとつ息をついて僕もカトラリーを手に取った。
「ええと、あなたがいま僕とセックスしたいってのはわかりました。」
意思表示を受け取ったということを示せば、「わかりゃ結構」と短い返事が返ってくる。
目の前の相手はコンフィの解体に取り掛かっていた。しばらくのあいだ、自分の手を止めて相手の手元を見つめる。正確に素早く動く彼の手がここでどう振舞うのか、見ておきたいという好奇心。見たいという欲求を抑える必要もないだろうと判断した。
そして、確かめるまでもなく、彼の手先の器用さはここでも遺憾なく発揮される。
骨に沿って肉をそぎ、ほぐれたやわらかい肉を焼き目の付いた皮とまとめてフォークで口に運ぶ。滑らかで過不足のない動きだった。脂の香ばしさが漂ってきて、僕もその香りを味わった。
一連の動作を見届けた後、「やるっつったってどこでやるんです。僕はホテルは一人分でしかとってないですし」と疑問を口にすれば「どこ取ってんだ」と聞き返えされる。
この質問には正直答えたくなかった。小言がついてくるのが今の時点でわかるから。
逡巡して少し間を空けたあと、「……リッツです」と言うと、案の定「パラスかよ、気に入らねえ」と渋面を作って返された。
「いや、僕だって趣味じゃないですけど」「朝倉さんが半分出すから、せっかくの機会だからって。あー、これ僕も乗り気だったってばれてます?さっき趣味じゃないって言ったけど」
また鴨肉にナイフが差し込まれる。完璧に近い火入れだと見て取れた。僕も自分の目の前の皿の、黄金色の衣に包まれたサーモンの身を崩す。
「ますます気に入らねえな」「こんな若造に贅沢させんなってんだよ」
またも苦言。
この短い会話のなかで2回も「気に入らない」と表明した男に、そんなに気に入らなかったか、と反応を測り損ねたことに意外な嬉しさを感じた。予想外に自分に訪れた感情を乗りこなしながら言葉を続ける。
「あの、朝倉さんのこと悪く思わないでくださいよ、悪いとしたら僕ですから」
手を動かしながら会話は続く。
「言いたいことが山ほどあるが、黙っててやる。金の使い道ができて浮かれてんだろ」
へえ、この人にも朝倉さんの心情を想像しうる、共通する部分があるのかと驚きを感じた。そして同時に、この人からの僕への贈与を思い出す。
「ああ、5000万。」
「それを今言うかよ」
「あれも浮かれてたってことですか?」
「お前なあ、可愛げがないぞ可愛げが。昔は……」
「可愛げなんてアメリカで落っことして来ましたよ」
この人があんまりにも普通のことしか言えなくなっているのが面白くてつい遮ってしまう。そこまで言って自分から笑いだしてしまった。可愛げ? そもそも、自分の胸に突き刺さったナイフを抜くような子供だった僕に、最初から可愛げなんてものがあったんだろうか?
もしかしたらこの人にしかわからない僕の「可愛げ」なんてものがあるのかもしれないと思うといっそうこの関係の奇妙さが面白く思えた。
ひとしきり笑ったあとに彼の前の皿に目をやると、コンフィがおよそ二切れ分残っているのが目に入る。
「あの、もしよかったらそのコンフィ僕にも下さい。とても美味しそうでした」と言うと彼は無言でその皿を差し出した。ささやかな贈与だった。フリットも、あと二切れとってある。
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