そうじゃなくても



 昨日は多少暖かいなと思ったはずだが、今日はまた風が強くて冷たい。
 身震いしながら店の鍵を開けて暖房のスイッチを入れる。
 三十年もやっていればさすがに馴染むが暖房のコンパネと店側の照明回りのコンパネが入口を入ってすぐのところにあるのは最初は随分慣れなかった。
 居抜きだったテナントの内装や外観を整えるのはケチってほとんど自分達でやった。中でも何でも屋なだけあって、電気系統の工事にも明るかった朔夜に配線を変えたいと相談していた矢先の事故だったこともあり、そのまま十年、更に二十年、使い勝手の悪いコンパネは個性としてここに居着いてしまった。
 普段は何とも思わないのに、久しぶりにそんなことを思った。まあ、人はきっかけなどなくともふとした拍子に昔を懐古してしまう生き物だ。ここ数年で確信していた。
 決して忘れているわけじゃないのに、過去のことは思い出すと言うしかないのは歯がゆい。ただ、忘れているわけじゃない、とは自分にいいきかせているだけなのかもしれないけれど。
 やれやれとマフラーをほどいて本当に何気なく足元を見たらぎょっとした。
 きちんと閉めなかったらしい入口の隙間。年季の入った古い板張りの床に、栗色というのか薄茶色、黄土色とも言える大きめの毛玉がころころ転がりながら背中をこすりつけていた。
「おいおい……」
 咄嗟に飲食店の衛生観念からなるべく早く外に出さないとという気持ちに陥って慌てて近寄って気がつく 。野良にしては逃げないし、毛艶が良いような気がする。そっと首元に触れてみたが首輪をしていたような形跡もなかった。
 今どき飼い猫なら首輪ぐらいしている。捨て猫だろうか。逃げて来たのだろうか。それとも、随分でかいしどこかでたらふく餌付けされている裕福な野良か。
「…………」
 一瞬悩んだがどちらにせよここには置いておけない。
 ここには勝手口というものもないし、入口はひとつ。変に餌付けしてまた勝手に入って来られても困るからとドアを開けて、おいで、と声をかけた。
「ごめんな」
 猫は、床に寝そべったまま耳をピンと立ててこちらをじっとみつめたまま微動だにしなかった。
「……おーい」
 人通りもあるが、背に腹はかえられないとしゃがんで手招きをしてみたり呼びかけてみたが一向に動く気配がない。
 こうなれば、あまり気は進まないが強制的に外に出すしかない。特に野良猫は身体に触れられるのを極端に嫌がることが多いと認識しているので多少の怪我は覚悟する。
「しつれ~しますよぉ……」
 びっくりして飛び出てくれでもしたら結果オーライ。まずは頭を撫でてみるが気持ち良さそうにするので恐る恐るふわふわの脇の下に手を差し込んだ。
「…………」
 猫は変わらずこちらをじっと見つめたままで、うんともすんとも、ニャアとも言わず、されるがままに大人しく持ち上げられた。
 柔らかい。熱い。触れている部分が脈打っている。よく見たらシッポがころんと丸かった。
 ふと開けっ放しのドアの外を見た。
「………………」
 環状線の交差点付近の交通量は昼も夜も変わらず多い。タクシーや乗用車、トラックにバイク。
 単純に今、手の中にある熱がいのちだと悟った瞬間、ぎくりと固まって動けなくなった。
 朔夜はおよそ三十年前、青信号の横断歩道で右折車にはねられて死んだ。
 忘れていたわけじゃないのに、いつも頭の片隅にあるはずの事実を人は毎日毎秒考え続けていることは出来なかった。
 長い間心の奥底に溜まっていた悲しみの沈殿が勢いよく掻き回されて鮮烈にフラッシュバックする。
 忘れていたわけじゃない。いのちは時に残酷なほど簡単に失われる。賢く複雑な思考や心が宿っている媒体とは思えないほど、生き物とは脆く、弱く儚く柔い。
 気付けば急いでドアを閉め、いのちの熱を腕の中に抱きしめてその場にへたりこんでいた。いやな汗が全身にじっとり滲み心臓がバクバクと脈打つ。
 今ここで猫を外に出したら、向こうに渡ろうとして道路を横切るかもしれない。上手くいけばそれでいい。でももしも〝運悪く〟車に轢かれてしまったとき、自分はそれを運が悪かったと受け入れられるだろうか?
 運が悪かったから、朔夜は死んだの?
 ならば何度この問いを暗闇に問いかけただろう。ふざけるな。運悪く、たまたま、人が死んでたまるかよ。
 何度この問いに憤り恨んだだろう。
 堪らず一人で声をあげて涙した。いつぶりだろうか。こんなに感情的に朔夜のことを思い出したのは。
 その間も猫は腕の中でじっとしていた。
 温もりも、柔らかな身体の感触も、初めての感覚だった。
 
 
 
 
 
 
 
 齢五十を半分過ぎたが、まだまだ先は長そうだ。
 もう衝動的に死にたいと思う余裕も少なくなってきて日に日に増す身体の衰えに終わりの片鱗を感じてはほっとする。
 ちなみに、死にたくないと思ったことはあの日からは一秒たりともなかったが、もしもいのちの続きがあって、もしもそれがここに還ってきたのなら。
「ただいま。ちゃんと飯食ったか」
 相変わらず無口なオス猫だったが、その後自宅に厳重に囲いこんで仕舞ってある。猫らしく鳴くことはごく稀なのんびり屋の雑種。
 年齢は八歳前後だろうということで、余生を共に過ごすにはちょうど良さそうだ。
 どうぶつは人間の言っていることが理解出来る場合があるらしいので口には出さないが、同じベッドで寝る前には必ず胸の中でこう唱えた。
 今度はちゃんと、一緒に死のうな
 まあ、さすがの自分も、この猫が朔夜だとは思っていない。
 でも、朔夜の大きな片鱗だとは、ちょっとだけ思っていた。
 だから、これからは出来るだけ痛い思いも怖い思いもしないようにここでゆっくり生きていって欲しい。


>>>そうじゃなくても(終)

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