SS.世界で最も有名な探偵の宿敵

 私がヨーロッパを股にかける大悪党になった理由を語ったことはなかったかな?
 あれはまだ私が青臭い子供だった頃、確か数学の論文を出して未だに自分は特別などと驕っていた平凡な時代だよ。
 まあ、年老いてくるとそんな頃の自分を振り返っては、微笑ましい気持ちになっていくものだよ。
 それでは語ろうか。
 世紀の大悪党の誕生秘話という奴を。


 僕は大学の廊下を忙しくしていた。研究のためには一分一秒の時間も惜しいのだ。
「モリアーティ君、もう少し落ち着きなさい」
 僕は背後から聞こえてくる授業を終えたばかりの教授の注意を流して、談笑に興じている同級生の壁を掻き分けて進んでいく。その時、手に持った書類が落ちたりするハプニングはあったものの、大抵の人が僕が急いでいる事を察すると道を開けてくれたので、人との衝突で時間のロスを作る事はなかったのは僥倖と言えるだろう。
 僕は肩で息をしながら、教室の扉を開ける。そしてそこに立っている黒髪碧眼の少年に気付く。
「あれ、遅かったねモリアーティ?」
 そう言いながら、彼はクッキーを摘んでいる。その様子に僕は思わず溜息を吐いて、近くにあった椅子に座って書類を広げる。その後、僕は彼に手渡された手作りクッキーの包みをゆっくり解いていく。
「遅かった、じゃないじゃないのだが……。まあ、良いか。リツカ、そこにある計算機を取ってくれないか」
 僕がそう言うと、リツカはニコリと笑って僕に計算機を手渡してくれた。ここ最近、計算機の技術の進歩も進んでいるが、複雑化していくのは御免だ。この道具に必要とされるのは『効率』だ。複雑化すれば作業効率が下がって本末転倒。そんな事になっては意味がないだろう。
「そう言えば、モリアーティは何か目指しているものでもあるの?」
 リツカの唐突な質問に僕は筆を止めてしまった。
「急だな」
「そうだね、急だ」
 僕は一度、研究の足を止めて見つめ直してみた。
「ふむ、妥当に数学者か?」
 僕は考えても出てこない答えに痺れを切らして、無難中の無難な答えをリツカに言ってしまった。
「そっか、確かに君には卓越した頭脳があるからね、それを活かせるのは素晴らしい事だ。それでいて、本人が満足できるのなら万々歳だからね」
 ああ、でも――
「――ああ、でもその上で僕は人を救えるようになりたい」
 君のように、と付けそうになったが、途中で小っ恥ずかしくなって引っ込んでしまった。彼と出会ったのはおおよそ一ヶ月前。その間に僕は随分、彼に絆されてしまったらしい。何せ、彼の善性は最早「物理的に光ってるんじゃないの?」と錯覚させられるほど、眩しく見えるんだから。
 僕が彼に心を開いているのも、その善性の賜物だろう。
「そっか、それは良い夢だ。ロマン、だね」
 彼は口角を上げてウィンクした。
「ふっ……、ふふふははは!ああ、ロマンだ」
 僕もそれに触発されるように、ウィンクを返した。それからも、休憩を挟んで談笑しながら研究を進めていった。そして、帰りに明日はここに居てほしい、と約束を取り付けて解散した。
 何故だろう、彼と一緒に話したりしながら研究をすると捗る気がする。
 僕は学生用のアパートの一室で研究結果を論文に纏めながら、ふとそんな事を思った。
「そんな事、簡単だろう」
 彼と一緒に過ごす休憩時間の居心地が良くて、癒やされるからだろう。だからこそ、自分は一人で黙々と作業するより肩に張っていた力が抜けて、良い感じに集中できる状況を作り出しているのだろう。
「ふっ……、完成だ」
 僕は論文を両手で掴み、天井に向けて大きく広げて掲げた。
「これは僕だけでは成し得なかった。リツカの協力あってしての事だとも!」
 僕は次の日に忘れないように、急いで学校用のカバンに折れないように優しく詰めた。そして、僕は次の日が待ち遠しく、ウキウキとした気持ちで眠りについた。


「さて、これが僕の論文です」
「成る程、拝見させていただきます」
 僕は教授に論文を手渡し預け、その行く末を見守った。読み進めていく手は一枚一枚丁寧で、妙に落ち着かない。僕は唾を飲み込み、グッと拳を握り込む。
 やがて、パタリとクリップで留めていた書類を閉じて、机の上に置く。
「モリアーティ君」
「は、はい!」
 僕は先程から流れる緊張感からか、声が上ずってしまった。審判の時が来たのだ。
 僕が有用か、無用か。
 少しの間が空き、教授の使用する教室には冷たい沈黙が流れる。
 僕に渦巻くのは「早く終わってくれ」と懇願する思いと、「早くリツカに会いに行きたい」という感情だった。
「うん、君の論文だけど――」
「論文だけど……?」
「――とても素晴らしいよ!大絶賛だ」
「やった!」と僕は二十歳にもなって大はしゃぎしそうになるのを堪えて、冷静に教授の言葉を待った。
「君の着眼点は面白いよ、今後とも励みなさい。卒業したら勤め先を紹介しよう」
「あ、有難うございます!」
 僕の頬は紅潮して、心臓の音が外にも漏れているように錯覚する程、興奮の嵐だった。廊下を歩く僕は夕日に照らされて、その赤面した顔を世に晒していた。この夕日が僕にはどうも特別に思えて、急いで何時もの教室へと向かった。
 リツカもきっと僕の論文の事を喜んでくれる!
 僕はそう未来を想像して、幸せな気分に浸っていた。
 このまま、浸っていられたら良かったのに……。
「入るぞ」
 僕が扉を開く前に断りを入れるが、何故か返事がなかった。
「?入るからな!」
 僕がそう叫ぶように言うと、中は蛻の空だった。
 困惑した。
 リツカは約束を破るような人間じゃないはずだから、きっと何処かで面倒事に巻き込まれているに違いない。
 そう僕は結論付けて、物は散らかっているのに何故か寂しく感じるこの教室で待ったが、どれだけ経っても彼はやってこない。
「あの、先生。リツカは何か用事だとか言っていましたか?」
 僕は仕方なく、僕とリツカ共に面識のあるつい先程論文を見てもらった教授を訪ねた。
「ん?リツカ、とは誰かね?そんな生徒は居なかった筈だが。もしかして、論文を書く時に根を詰めすぎて疲れているのかね?それならゆっくり休むと良い」
 リツカが、居ない……?
 そんな馬鹿な話はないだろう、と教授に抗議の声を上げようとしたところで、教授の顔を見る。その顔は冗談を言っているようにはどうも思えないのだ。
 僕は渋々、帰ることにした。もしかしたら明日になれば、彼がいるかもしれない。
 そしたら、彼に対して昨日なんで来なかったんだ、って問い詰めるんだ。そして、リツカは困ったように笑いながら「人助けをしていたからいけなかったんだ」って理由を話してくれるんだ。ふっ……、我ながら完璧な未来予想図だ。


 しかし、それから在学中にリツカが現れる事はなかった。老いてからあの忌々しいシャーロック・ホームズの隣に彼と同姓同名の瓜二つな存在が居たときには憤慨したものだが、今思えばあれもリツカ――藤丸立香という人物で間違えなかったのだろう。
 まったく、怒るに怒れない。あれではまるで、人理の”奴隷”ではないか。
 カルデアで再開した時、僕は――私はもう二度と唯一無二の友人を失わないと誓ったとさ。
 と、いうわけでどうだったかな?満足がいったなら良かったんだが、ネェ。
 ん?肝心の悪党に落ちた理由を聞いてないって?
 考えてみれば解ることだヨ!
 まあ、要点を掻い摘んで話すと、光を失った人間は暗闇に落ちていくことしかできなくるという事だあネ。
 さて、今回はここまでにするとしよう。諸君らも若気の至りには気をつけ給え。
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