4-4 Eclipsed Dawn
暗闇に包まれた体育館は、静かでありながら張り詰めた空気に満ちていた。観客たちは息を潜め、まるでその瞬間を待ち焦がれるように、無言の期待を抱いていた。鳳子はステージの幕の向こうで、その視線と静寂の重みを感じながら、心の中で深く息をつく。
(この歌は私の感情……私の心……本物の私が、ここにいる)
鳳子の心は重たい過去の影に囚われていたが、その瞬間、内側から沸き上がる強烈な何かが彼女を支えていた。黒いゴシック調の衣装を揺らしながら彼女はステージの中心に立つ。瞬間、ドラムとギターが静寂を破り、鳴り響く。観客たちの心を一気に掴む音の波が、体育館中を揺らした。
鋭い光がステージを照らし出し、鳳子の背後にはバンド名である「Eclipsed Dawn」と描かれた映像が映し出される。光が熱を帯び、彼女のシルエットがその中に浮かび上がる。暗闇から一歩踏み出すと、不思議と鳳子の心は高揚に満たされていた。
力強く、鋭いロックのリズムが響く。鳳子はその旋律に自分の叫びを奏でた。まさに、彼女の心に潜む感情――声帯を奪われた本心は、ついに解放されるように。
すぐ隣では、純白のロリータファッションに身を包んだ蝶野がギターを操る。彼女の指先から生まれる音が、鳳子の声と混ざり合い、完璧なハーモニーを生み出していた。
体育館の後方に立つ和希は、静かにステージを見つめていた。観客の歓声が遠くで響く中、彼の視線は一点に集中している。暗いステージが照明に照らされ、彼女の姿が浮かび上がるたびに、和希の心は不安定に魅了され揺れ動いていた。
その時、暁の手が彼の肩を叩く感触が伝わった。ドローンレースがお目当ての彼は、時間を潰す為に鳳子のライブを観に来たのだ。鳳子は一曲目を歌い始めた途中だった。暁は無言で和希の隣に並び、二人でステージを見つめた。
「やはり、宵子に似て、容姿に恵まれていますね。あの美貌があれば何処へでも高値で売れるでしょうね。……あの傷さえなければ」
暁の囁くような言葉が和希の耳に届く。和希は表情を変えないまま、心の奥でその言葉を噛み締めた。暁の言葉が和希の胸に突き刺さり、彼は無意識のうちに拳を握り締めたが、外見上は平静を装ったままだった。
(まるで別人……いや、これが本来の鳳子なのかもしれない)
ステージの上で、鳳子はこれまでとは全く違う姿を見せていた。これまでの鳳子は、どこか虚ろで、心ここにあらずといった雰囲気を纏っていた。彼女の赤い瞳は常に曇り、重たい影を背負っているだけだった。しかし今、ステージで歌う彼女はその過去を振り払ったかのように、力強く、堂々と、全てを支配していた。その姿は、まるで命を吹き返した少女のようだ。彼女の強さと美しさが、和希の目に突き刺さるようだった。
(かつての宵子も、こんなにも強かで、堂々とした女性だったな……)
だが、認めると同時に、和希の胸の奥から苛立ちが湧き上がってくる。鳳子が強く、輝かしい存在であればあるほど、彼の中に潜む焦りと苦しみが一層浮かび上がる。彼女が形を取り戻していくほどに、遠い存在になっていくようで、手の届かない場所に行こうとしている感覚が、彼を苛んでいた。
(こんな鳳子を見たかったのか……それとも、見たくなかったのか)
和希は心の中で自問する。しかし、答えは見つからず、ただ目の前で輝き続ける鳳子の姿に圧倒され続けた。
◆
鳳子の眼前に広がるのは、醜く蠢く虫たちだった。観客の一人ひとりが、人ではなく、ただ不気味に這い回る生き物にしか見えない。以前はその姿に怯え吐き気すら覚えたが、今ではもうすっかり慣れた。空間を照らすライトがステージに向けられているのが唯一の救いだった。鳳子は、意識を音楽に集中させる。ドラムのリズム、ギターの旋律。それらが心の奥に潜む本音をかき立て、彼女の声をさらに強く、力強くさせた。
一曲目を歌いながら、鳳子の思考は遠い過去へと引き戻されていた。頭に浮かぶのは、家庭裁判の間に収容された孤児院での思い出。厳しい規律を並べられ、その列を乱せば恐ろしい罰が与えられる。自分を人間扱いしない周囲に、「人を殺した」鳳子の居場所など、最初から存在していなかった。誰も理解してくれず、導いてくれる人などいない。ただ、道具のように扱われるだけの日々だった。
(本当は悔しかった。幼い私を悪い子と言い放ち、懇願の言葉さえ遮る大人たちが、許せなくて、憎くて、それから、それから……!)
鳳子の指が無意識にマイクを強く握りしめる。感情が溢れ出し、言葉にそのすべてが込められていく。彼女の声は鋭く響き、まるでその過去を一つ一つ吐き出すように、観客に叩きつけられる。目の前に見える虫たちも、歌に圧倒されているかのように感じた。
ラストのサビを歌い終えると、照明が一度暗転し、息を切らした鳳子は深く天井を見つめた。感情も、思考も、自我さえも混乱し、心が解離しているような感覚が彼女を襲う。それでも、誰かに認められたいという強烈な欲望が心の奥にあるのを感じた。今まで、誰かの正義によって、和希によって、そして鳳子自身の手で殺してきた「本当の自分」の存在を、誰かに認めてほしかった。
次の瞬間、青白い光が照らし出され、蝶野のギターが前奏を響かせた。まるで水中にいるかのような幻想的な演出が広がり、空間を包む。鳳子は大きく息を吸い込み、その声に心を込めた。彼女はわかっていた――この歌は誰にも理解されないし、誰にも届かない。ただの楽曲として消費されるだけだと。それでも、鳳子は歌い続けた。悲鳴を、叫びを、嘆きを、喜びを、苦しみを。痛みと夢、そして否定され続けたその心を解放するために。
それはまるで、砂に埋もれていた彫刻が本来の姿を取り戻し、修復されて再び命を宿すような感覚だった。鳳子の心は高揚し、鳴り響く音に全身を委ねながら、内側から溢れ出す「自分」という存在を解き放ち続けていた。
気がつけば、曲は三曲目に差し掛かっていた。金色の光がステージ全体を包み込み、照明が天井から降り注ぐように輝いていた。まるで空気そのものが金色に染まっているかのように、光は柔らかく鳳子の姿を照らし、彼女の動きに合わせて微かに揺れていた。鳳子はその光の中で、自然と足が軽やかにステップを踏み始めていた。これは本来、打ち合わせにはなかった動きだったが、音楽の中で自然と身体が反応してしまったのだ。舞うように滑らかに踊りながら、彼女はその即興のステップに身を任せていた。
衣装の黒いフリルが舞うたびに、照明の反射がきらめき、一瞬一瞬が視覚的な魔法のように観客を引き込んでいく。音楽に身を委ね、リズムに乗るたびに、鳳子は今この瞬間だけが現実だと感じていた。束縛されていた感情も過去の痛みも、この音楽の中で解放されていく。彼女は自分がなぜこれまで自分を押し殺して生きてきたのか、一瞬だけ疑問に思った。しかし、その疑念はすぐに、旋律に遮られ、体中に広がる解放の快感に押し流され、儚く消えていった。
(幸せ……私は、今とても幸せだわ……!)
ステージ上で舞い踊る鳳子の姿は、まるで光の中に溶け込むように、黒いゴスロリ衣装のフリルが軽やかに揺れ、金色の照明がそのシルエットを際立たせる。美しく、可憐でありながら、その背後に秘められた力強さと蠱惑的な魅力が、観客たちを一層引き込んでいく。
鳳子の表情は真剣そのものでありながら、時折見せる笑みが妖艶さを漂わせ、彼女がステージ全体を支配しているかのような錯覚を与えた。リズムに合わせてステップを踏む足元からは、微かな埃が舞い上がり、照明の光に反射して銀色の粒のように輝いた。
さらに、鳳子の肌に滲んだ汗が、照明に照らされて小さな煌めきを放つ。それはまるで宝石のようにきらめき、彼女の動きに合わせて光を反射し、ステージに幻想的な雰囲気を加えていた。汗が頬を伝い、首筋に流れる様子までもが、彼女をより魅力的に演出しているかのようだった。まるでその汗の一滴一滴が、ステージそのものの演出の一部となり、鳳子の存在感をさらに際立たせていた。
楽曲が終わり、金色に彩られたステージが再び暗闇に包まれる。即興のダンスパフォーマンスで体力を消耗した鳳子は、足元に置かれたペットボトルを手に取り、一気に水を飲み干す。息を整え、額に滲んだ汗を拭いながら、彼女は残り二曲を思い浮かべた。どちらも激しい曲ではない。蝶野が少し心配そうな目でこちらを見ていたが、鳳子は右手でピースを作り、軽く微笑んでみせ「大丈夫」と、示した。
やがて、次の曲が静かに流れ始めた。照明は抑えられ、ステージ全体がモノクロの世界に包まれた。観客もステージも、すべてが淡い陰影の中に沈み込んでいる。ただ一つ、鳳子にだけは色とりどりの光が当てられ、彼女の姿を鮮やかに染め上げていた。マイクを握る手に力を込め、鳳子はぼんやりと観客席を見渡しながら、次の歌い出しの瞬間を待っていた。その時――。
(――先生だ!)
鳳子の視線が体育館の一番後ろにいる和希を捉えた。もっと前の方に座っていると思い込んでいたから、一度は見落としていたが、群衆の中から彼を見つけるのは鳳子にとっては容易なことだった。歪んだ視界の中でも、和希の姿だけは鮮明に見える。彼女にとって信頼、あるいはそれに値するに近い人間は、不思議なことに他の人々と違って、正常に見えるのだ。まだその理由や条件ははっきりしていないが、彼女の中でそれだけは確信に近い感覚だった。
(ねぇ先生、私は信じてるよ――)
鳳子は歌に込めた嘆きを奏でながら、静かに心の中で呟いた。
(――先生だけは私の味方で、いつか私を助けてくれるってことを)
脳裏に浮かぶのは、和希の腕の中で途絶えた、数えきれない夜の記憶だった。鳳子の心が壊れそうになるたび、和希は鳳子を「殺す」。鳳子が正しくあれなかった時も、和希は彼女を「殺す」。それは、心が崩れかけた彼女を再び立て直すための儀式のようなものだった。夜の中に閉じ込められた鳳子は、朝が来ると空っぽの傀儡として目を覚ます。そして、そんな真っ白で空虚な彼女を、和希は過去を示す色で染め上げていく。まるで彼女に、誰もが持つべきものを与え続けるかのように。しかし――。
――私が視ている世界なんて、あなたには理解できないくせに!
その瞬間、後方で鳳子の演奏を聞いていた和希の胸に、いつか鳳子が放った言葉が蘇った。彼女の冷たい声、心の奥から絞り出されたような苦しみが、その言葉には滲んでいた。和希はいつだって彼女の望むものを与えようとしてきた。だが、彼女に絡みつく苦しみや痛みを、自分が代わりに受け取ることはできない――その無力さが、和希の胸を締め付けた。
ステージ上の鳳子の歌声は、次第にその感情が溢れ出すように震え始めていた。まるで彼女が涙をこらえながら必死に歌っているかのように、その声は切なく、痛々しい。和希の耳には、それが救いを求める叫びにしか聞こえなかった。何もかもを押し殺して歌うその姿に、彼女が抱える孤独と絶望が、痛いほどに伝わってくるようだった。
powered by 小説執筆ツール「arei」