4.幕間-2020-

――なら、ひとところに居なきゃいい。
水木が提案した無鉄砲で非現実的とも思える転居生活。その旅路は、幽霊族の親子の心配をよそになかなか順調な暮らしぶりだった。
鬼太郎たちの挙動不審に勘付いていた水木は、すでに退職準備や住宅の売買など細々とした人間社会の手続きをほとんど終えていた。おかげで半月後には東京の街を出立し、三人は国内南方の離島へと旅立ったのである。
なお、昨年亡くなった水木の母の墓は、この近辺に長く住む妖怪たちに世話を頼んでいた。まだ一周忌も迎えていないのに、墓じまいをするには早すぎたからだ。
「おばあちゃん、いってきます」
引っ越しの日、鬼太郎と父二人はしばらく会えなくなるであろう彼女の墓前に出立の挨拶をした。水木と共に幼い鬼太郎の世話をしてくれた老婦は、良くも悪くも人間らしい感性の女性だった。
たとえば、人間には見えない仲間と話す鬼太郎の様子を不気味がり、目玉の父と初めて相対した際には悲鳴を上げて卒倒している。余談だが、あのときの父たちはひどい慌てようだった。
けれども、鬼太郎は彼女から理不尽に怒鳴られたことや手を挙げられたことは一度もない。「おばあちゃん」と呼ぶことを、家でも外でも決して否定されなかった。
ただの人間が人ならざる子を育てる上では、それで十分すぎるほどだ。鬼太郎としても彼女には感謝の気持ちが大きい。
その息子である水木の引っ越し手腕は、実に鮮やかだった。「社会人」という職業を鬼太郎は完全に理解出来ていないが、その中でも養父はずいぶん優秀な部類に入るのだろう。自慢の人間のおとうさんだ。
若かりし頃の水木が南方地域で悲惨な戦争体験をしたことは、鬼太郎もぼんやりと聞いた覚えがあった。もしかしたら、辛い記憶を蘇らせてしまうのではないか。そう不安に思っていたが、水木は存外苦悩する様子もなく環境に順応していた。
地元住民や現地の妖怪とも上手く付き合っていたし、割のいい仕事と住居もすぐに見つけてくれた。十一月とは思えない夏空の島で、引っ越し祝いにもらった大きな蟹が美味しかったことをよく覚えている。翌月にはポンカンという蜜柑をおすそ分けしてもらい、三人家族はつつがなく年を越したのだった。
水木が人間の仕事に赴く一方で、幽霊族の親子は家事手伝いと妖怪絡みの依頼を引き受ける生活を送っていた。妖怪ポストが発案されたのも、この短期間転居生活が始まってからだ。
そうして二、三年ほど過ごして、また遠方へと引っ越しをする。東西南北の都道府県を渡り歩き、時には妖怪の伝手を使って海外に住んだこともあった。
鬼太郎が願った通り、二人の父はずっと傍にいてくれた。とてもしあわせな日々だったと思う。
本当のところ、水木がこの落ち着かない生活をどう思っていたのか鬼太郎は知らない。実父にも慣れない人間社会での暮らしをさせることになってしまった。
でも鬼太郎は、あの真夜中の墓地で水木が追いかけてきてくれたこと、父が自分の我儘を許してくれたこと――そのすべてが嬉しかった。
避けようのない別れを引き延ばしただけだったとしても構わない。このたった数十年間の生活は、鬼太郎の中で掛け替えのないものとなったのである。

 ◇

「ただいま」
「おかえり、鬼太郎」
「ご苦労じゃったの」
鬼太郎がおつかいから帰って来ると、養父と実父がコタツの一角にぎゅうぎゅう詰めで座っていた。何故か水木の背中を父が抱き込む背面座位の体勢だ。もちろん、いかがわしいことは一切していない。
「寒かったろう。早うこちらに入ると良い」
「はい……。あの、なにしてるんですか?」
手洗いうがいをしっかり終えた鬼太郎は、奇妙なくつろぎ方をしている大人たちに尋ねた。
「鬼太郎、お前からも親父に言ってくれ。こいつの図体でくっつかれると圧死しそうだ」
「何を言う。お主がやれ腰が痛いとうるさいから、座椅子代わりをしてやってるのじゃろうが」
そう言って父が少しだけ前方に傾くと、水木は「重てえよ」とちっとも辛くなさそうな声で笑った。
「馬鹿言うな。腰はマシになっても、お前の体温じゃ凍えちまう」
「ふむ。老体には堪えるというやつかの」
「俺より爺さんがなに言ってんだ」
今日も父たちの軽口の応酬は絶好調らしい。仲が良くて結構だが、自分のことも忘れないでほしい。
「……失礼します」
「うおっ。お前もかよ」
「おや、特等席じゃのう」
水木の足の間に無理矢理潜り込んだ鬼太郎は、苦笑する水木と微笑ましげな父の声を背に、先ほど購入してきたコンビニの袋を漁り始めた。
「水木さん、ファミチキです」
「おう。ありがとな」
「父さん、いちごクッキーシューです」
「おお! ありがとう、鬼太郎」
腕を回して背後の父たちに手渡すと、二人共嬉しそうに礼を言って受け取った。
鬼太郎も肉まんの包みを取り出して、ぱくりと一口かぶりつく。やはりこの季節は、コンビニの中華まんとおでんに限る。
「ゲゲ郎……。お前、人間だったら糖尿病になってるぞ」
「ならんわ。お主こそほぼ入れ歯じゃというのに、ようファミチキなんぞ食えるの」
「俺は死ぬまで酒と煙草とファミチキは止めない主義なんだよ」
「なんじゃそれは」
父がくすくす笑う振動が水木の身体越しに伝わってくる。足元のコタツと背中の水木の体温がぽかぽかと心地良い。
「やっぱりすぐにファミチキが食えるのはいいな。最後に戻って来て良かったよ」
「水木……」
養父の名を呼んだ実父は、言葉を詰まらせたかのように黙り込んだ。鬼太郎も掛ける言葉が出てこない。味が分かりづらくなった肉まんを無言で口に押し込む。
「――それにまあ、旅の出発地が終着になるなんて、ちょっと洒落てるじゃねえか」
そう言って、皺だらけの薄く骨張った手が鬼太郎の頭をぽんと撫でた。

――二〇二〇年、東京。未曽有の感染症が大流行する首都で、水木は九十八歳を迎えていた。
傍目には頭も喋りもしっかりしていて、白寿目前の超高齢者にはとても見えない。だが、体力の方は以前と比べ物にならないほど低下しており、もはや近所のコンビニに行くことすら難しかった。
一度は記憶と共に戻った黒髪も、老化でふたたび白く染まっている。昔は男前と評判だった顔ばせには、深い皺が幾重にも刻まれていた。がっしりとしていた筋肉もずいぶん落ちてしまい、か細く縮んだ背中は緩やかに曲がっている。
――最期は東京に戻りたい。
数ヶ月前、年老いた人間一人と不変の幽霊族二人は、日本最西端の島にいた。静かで美しい場所を最後の地にしてやりたいと、父が各方面の知古に頼み込んで用意した場所だった。
水木も穏やかにそれを受け入れていた。だが、いよいよ自身の限界を悟ったのか、ある日ぽつりと東京への帰郷を申し出て来たのだ。
当然、自分も父も即座に大反対した。百歳近い水木の長距離移動が心配なのはもちろん、このような状況下で人口の多い都会など連れて行くわけにはいかない。それはもう数十年ぶりの家族喧嘩となった。
三日三晩続いた口論は、結局水木の勝利で決着が付いた。異様に弁が立つのは、どれだけ年齢を重ねても変わらないらしい。そこに関してだけは、もう少しぼんやりしてほしかったのだが。
その代わり父は、水木にひとつの条件を出した。熊本で入手してきた妖怪の絵を肌身離さず持ち歩くことである。少々かしましいが疫病退散の力を持つとされる妖怪は、今の人間界でも大人気だ。本人直々に渡された絵姿であれば、より強力な守りとなるであろう。
実際、水木は東京に戻って来ても、おそろしい病気とは無縁であった。伝承通り、彼女の力は本物だったようだ――その礼として、父と自分は彼女のお転婆に付き合う羽目になったのだが子細は語らないでおく――。
こうして東京に戻ってきた鬼太郎たちであるが、五十数年前とはなにもかもが様変わりしている。物価や土地代もまったく違うし、都会では肉も魚も野菜も購入しなければ手に入らない。ここ数年は南の島でほぼ自給自足の生活をしていた世捨て人の三人はおおいに驚いた。なんと不便で窮屈な街だろう。
父たちのコネやらで借りた住居は、風呂トイレ付きの昭和産木造アパート六畳二間である。内外共にかなり古めかしいが、立地はそう悪くなく家賃も異常に安い。もちろん、事故物件だ。
そこら辺はサクッと解決出来たので、鬼太郎たちの生活は実に穏やかなものだった。年金で食べるファミチキは美味いと水木が笑い、湿布を貼ったまま風呂に入ろうとするなと父が小言を言って、自分がトントンゴンゴンと二人の肩たたきをする。
にぎやかで楽しくてあたたかい。今までと同じしあわせな暮らしぶりだった。
――水木の刻限がもうそこまで近付いているなんて、鬼太郎にはとうてい信じられなかった。

「そういえば、森の家の方はどうなんだ?」
水木はファミチキをゆっくり食べながら、食後の茶を啜る親子に尋ねた。
「順調じゃよ。家を建てるのに良さそうな大木も見つかったしの」
「はい。材料の方も妖怪たちの協力でなんとかなりそうです」
「へえ、そりゃあよかった」
「ああ。なかなか立派な家が出来そうじゃ」
「いいじゃねえか。鬼太郎、ツリーハウス好きだもんな」
「そうじゃったのう。以前の島でも木の上に秘密基地を作って……」
「ちがいます。べつにそこまで好きじゃないですから」
いつまで経っても子供扱いしてくる父たちに、鬼太郎はうんざり顔でかぶりを振る。
たしかにゲゲゲの森で次なる住処を探している際、ツリーハウスに向いてそうな湖に浮かぶ巨木があったのは事実だ。父にはそれとなく報告したつもりだったが、鬼太郎の本心はちゃんと見抜かれていたらしい。
「今度は長く住むことになるんだ。気に入った家にしろよ」
「……わかってます」
俯いた鬼太郎は小さな声で返事をした。
でも、どんな素晴らしい家に住んだって、もうあなたはいないじゃないか。かろうじて、その言葉は喉の奥に押し込む。
水木が亡くなった後、自分たち幽霊族の親子は妖怪の世界に戻る予定だ。もとより、あちらが本来の古巣である。水木がいない以上、人間界に留まり続ける理由もなかった。
こちらの家に越して以来、鬼太郎が就寝中か外出している間に、父たちは水木の生前整理について密談するようになった。
彼の財産や家財道具一式、人間社会における膨大な手続き、葬式や墓地の管理――水木が明日にでも亡くなることを前提とした話し合いである。
眠っていることになっている鬼太郎は、布団を被った背中越しに漏れ聞こえる会話しか分からない。
父は硬く気丈な声で応じていたが、実際どんな表情で長年共に過ごした人間の死について話しているのだろう。水木はうんと優しげな調子で何度も礼を述べ、鬼太郎を頼むと繰り返していた。
なんだそれは。鬼太郎は唇をきつく噛んで、胸元をぎゅっと押さえる。
自分だけがなにも知らされないまま、父たちは最後の旅路を終えようとしていた。それは、そんなのは――。
「……やだなあ」
「なにがだ?」
「水木さんの湿布の匂い」
「ああ? しょうがないだろ。腰が痛えんだから」
「じゃがのう、風呂に入る前は剥がさんと……」
「わかってるよ」
「そう言って、昨日も風呂場からワシを呼びつけたじゃろ」
父たちの仲睦まじげな会話を聞きながら、鬼太郎は静かに溜息を吐き出した。
いつものように、にぎやかで楽しくてあたたかい。けれども、終わりの足音は着実に近付いている。そしてそれは、ここにいる全員が承知していた。

「あ、こら。冷てえって言ってるだろ」
「鬼太郎や。水木の腹が冷えてしまうぞ」
「背中のお前もだよ」
全部聞こえないふりをして、鬼太郎は背中の温もりになおいっそう寄りかかった。
……やだなあ。

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