覆水、盆に返らずとも




「―――太公望」
「はい?」

 廊下をゆく折、聞き覚えのある声に呼び留められて振り返る。そこには眩い程の白衣を纏う、褐色の肌をした黒髪の男性が穏やかな笑みをして立っていた。

「……おや、これはこれは。アルジュナ殿じゃありませんか」
「今、時間はあるだろうか? ……あ、忙しいのであれば結構だが」

 古代インド神話を綴った長編叙事詩マハーバーラタに登場する、大英雄アルジュナ。太公望とは出典地域も活躍した時代も異なる、まるで接点のない男性だ。辛くも彷徨海を脱出したカルデアに喚ばれ未だ日の浅い太公望ではあるが、この御仁にはやたらと話しかけられることが多かった。生憎サーヴァントとしての性能も少々噛み合わない為、任務を共にすることも殆どないのだが……本当に何故か、よく話しかけられる。

(僕は彼に、これといって佳いことをした憶えが無いのだけど)

 なんとも人懐っこい御仁だと太公望は思っていたのだが、他のサーヴァントたちにこのことを話すと、一様に目を丸くされた。人見知りするタイプではないとはいえ、断じて誰にでも気さくな御仁ではない……らしい。不思議なものだ。

「勿論、暇ですよ。暇すぎてシミュレーターを借りて釣りをしようか、四不相くんと一緒にお昼寝をしようか……などと平和に悩んでいた次第です」

 あまりに気軽に話しかけられるものだから不思議に思い、太公望は彼について電子ライブラリ内のマテリアルでも一通り調べていたことを思い出した。パーティ編成を同じくせずとも、ブリーフィング等で彼の戦働きも聞き及んでいる。身の丈程もある巨大な神弓を軽々と引き絞り、ミサイル級の速度と威力を誇る矢を一度に数十発と放つ、凄まじい膂力。射手としての技量は勿論のこと、時間間隔操作まで可能とする『眼』の力もあり、その命中精度は極めて高い。傍から見れば瞬きよりも早く矢を放っているというのに、当人は毎度慌てずゆっくり狙いを定めて弓を引いているというのだ。それはもう、ほとんど魔眼のようなものである。それでいて方術等によるバックアップは一切行使されておらず、その矢に加算されるのはあくまでも彼が元々保有しているスキルである魔力放出の威力のみ。まったく古代インドの英雄とは恐ろしい。

 そしてどうやら彼は『軍師』や『指揮官』という存在に親近感を抱く傾向があるらしい。ギリシャ神話の英雄にして多くの冒険者を率いたアルゴー号の船長イアソンとは、特に仲が良いようだ。いつかの微小特異点で任務を共にした記録が残っていた他、太公望も食堂で彼らが一緒に居る姿を頻繁に見掛けている。……人類史においては著名なのはイアソンよりもその友であり兄弟弟子でもある、ヘラクレスの方だろうか。此方は雷神ゼウスと人間の間に生まれた半神半人にして、最強とも謳われた大英雄だ。弓使いとしても知られている為、アルジュナとの共通点はヘラクレスの方が多そうだが……カルデアのヘラクレスは|狂戦士《バーサーカー》として召喚されている。同じ弓兵としてならオリオンとは交流があるらしいことを鑑みると、やはりヘラクレスと交流を図るのは些か難しいのだろう。
 聞けば太公望のボードゲーム仲間であるオデュッセウスも、アルジュナとは仲が良いようだ。此方は同じギリシャ神話でもイアソンより更に後の時代、長編叙事詩イーリアスやオデュッセイアに綴られる冒険家だ。トロイア戦争にて奇計を用い、トロイアを陥落せしめた稀代の軍師。その奇策は世界的にもあまりに有名な、トロイの木馬。

 聖杯の寄る辺こそないものの、二十一世紀という|時間《タイミング》に喚ばれた為に現代知識は一通り頭に入っている。無論、その知識の中には此処に集う英雄たちの出自も全て、あらすじ程度は含まれている。いっそ危うさを感じる程の好意的な彼の視線の中には、憧れのようなものも含まれているのかもしれない。マハーバーラタの英雄アルジュナが慕う指揮官や軍師と言えば、二人しかいないだろう。

 一人は正法を司る神ダルマの血を継ぐ、実兄ユディシュティラ卿。
 パーンダヴァ陣営の総大将であり、クルクシェートラの大戦争では数多の陣形を駆使しパーンダヴァを勝利に導いた聖王だ。

 そしてもう一人は英雄でありヴィシュヌの第八化身でもある、クリシュナ卿。
 アルジュナにかの有名な|神の詩《バカヴァット・ギーター》を説いた師であり、無二の親友でもある。
 兵法のみならず邪竜退治をはじめとした退魔や武術、舞踊や横笛の奏者などの芸能者としても優れ、此方で言う方術に近い術……|幻力《マーヤー》にも長けたという、万能の|人《神》。

 これだけ情報が揃えば大凡察しはつく。事それなりに何でも熟せる自負がある太公望としても少々むず痒いが、要はこの二人に少し重ねられているわけだ。性能や立場を鑑みれば、太公望に近いのは彼の親友の方だろう。とはいえ古代インド神話は世界的に見てもスケールが桁違いに大きい。この身が|魔術師《キャスター》としての冠位召喚であったなら、ひょっともしたら、かの人にも届くのかもしれないが。

「実はこれから、マスターとお茶の約束をしているんだ。もし良ければ、貴公も共にと思ったんだが」

 彼はそう言って持っていた小さなバスケットを見せてくれた。クッキー、ドーナツ、マカロン、チョコレート、月餅、どら焼き、モーダカと、様々なお菓子がこれでもかというくらいぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
 彼が甘党であるという話は聞いたことが無い。むしろ激辛料理を好んで食べているようだが、これはもしや授かりの英雄よろしく道中で人に会う度にお菓子を詰め込まれてきたのではないか。それこそ、お賽銭の如く。
 誘ってきたのはこのお菓子の消費も加味してのことらしい。確かにマスターと二人だけでは、とても食べきれない量だろう。

「それは行かねば損というもの、ぜひご相伴にあずかりましょう!」
「良かった、マスターも喜ぶだろう」

 暇を持て余していた身としては、渡りに船だ。マスターの休息を兼ねているなら一石二鳥。カルデアの古参らしい彼との親交を深められるという意味も含めれば、一石三鳥である。楽しいお茶会へに期待に胸を膨らませ、太公望はアルジュナに付いていく。
 新参者故にカルデアが置かれている状況把握の為、現在はブリーフィングやリソースの回収任務には積極的に参加しているが、それは太公望のサーヴァントとしての仕事に限った話だ。同じくそこに関わっている所長を始めとした各スタッフの仕事は、それだけに留まらない。先達としての助言こそ出来るが、其方は結局のところ今を生きる者たちが知恵と技術を絞るべき領域だ。死者、或いは己の様な俗世を離れた影法師達が手を出していい仕事ではない。第一カルデアに霊基登録され、現界を果たしている英霊自体は実に三百騎を超えている。任務も御鉢が回ってくる機会はそれだけ少なくなる。……となれば、必然的に時間は余りがちになってしまうわけだ。
 無論、太公望がその能力をフル活動しなければならない状況など、間違いなくカルデアの危機。生きるか死ぬかの瀬戸際だ。そんなもの、無い方が良いに決まっている。

「ところで貴方、どなたかと僕を重ねていたりします?」

 二人並んでストームボーダーの長い廊下を行く中、何の気なしに太公望は問う。理由など無く、思ったことをそのまま口に出してしまう性質であるが故の問であった。頭では考えていても口に出してはならない事など山ほどある。その所為で対人トラブルが絶えないというのも分かってはいるのだが、聞きたくなってしまう以上どうにもならない。太公望はそういう、ろくでもない類の男だった。この性質が影響して同じ中華圏の軍師である諸葛孔明の依代をしているエルメロイⅡ世には露骨に嫌な顔をされ、説教を喰らったこともある。太公望の問いかけに、果たしてアルジュナの足はぴたりと止まってしまった。

「……ええと、やはりわかるだろうか」

 少し気まずそうにちらりと視線だけを寄越した彼に、聞き方が悪かったことを悟る。太公望は責めている訳ではないという意味を込め、にこにことした笑みを返した。この笑みの返し方も、本当はあまり良くない遣り口なのだろう。ツングースカでは現マスターに胡散臭いと疑われていたことを思い出した。とはいえ他意も裏もないことに変わりは無いので、太公望としてはそのように返すしか術がないのだが。

「ええ、それはもう。僕を見る貴方の目はとてもあたたかく、柔らかい。貴方の大切な人に、僕はそんなに似てます?」
「その……そう、だな。認めましょう。貴公は私の友、クリシュナによく似ている。顔や見目ではなく、その内面が。……ああ、これでは貴公に失礼だな、謝罪する」
「いえいえ! かの偉大なる英雄、神霊とも称されるクリシュナ殿を思い起こしてもらえるとは! 悪い気は全くしません! 冠位召喚ではないので現行の能力では彼ほどとはいきませんが、僕も大体なんでも出来るので……むしろどんどん頼りにして欲しい!」

 此方としてはむしろ光栄なくらいなのだが、やはり気分を害したと思われていたようだ。何せ彼の大元であるヴィシュヌ神は白紙化前の地球上でも十一億もの信仰を集めていた世界三大宗教、ヒンドゥー教三大神の一角。のみならずクリシュナといえば単独の英雄兼神霊としても絶大な人気を誇る存在だ。時代の流れと共に三国志を代表する猛将関羽に武神としての信仰を奪われてしまった太公望にとっても、憧憬を抱かざるを得ない人物だった。

「フフ、僕と重ねるとは、貴方の友はさぞかしよく出来た人物なんでしょうねぇ」
「そういう所も含めて、だな」
「ん? ……もしやあまり褒められていない?」
「勿論。人の姿をしてはいたが、彼は本来神だからな。いくら友でもちょっとどうかと思う位には、人でなしな所もあるさ。けれどいつだって周りを景気づける程陽気で、自信家で。実際本当に、なんでもできて―――」

 余程アルジュナには気に入られているらしい。というよりも、余程太公望は彼の友に似ているようだ。彷徨海に逃げ込んでいた時よりも更に前……人理修復時は南極に基地があったという旧カルデアの記録では、かなり他人との距離があったらしいということも目にしている。ずけずけと聞いたのは太公望の方だとはいえ、パーソナルスペースがかなり広めである彼が会って間もない太公望にここまでプライベートに踏み込んだ話をしてくれるとは。

(―――あ)

 じじ、と嫌な音が脳裏に走った。
 途端、ノイズのように彼の顔が揺らぐ。
 隣にいる彼は相変わらず穏やかな笑みで話をしているのに、太公望の眼には違うものが視える。
 それはここにあるが、そこにないもの。視るべきではないもの。

(拙いな、これは)

 お菓子と楽しいお茶会にまんまと釣られて、気が緩み過ぎていたらしい。それとも彼の親友の話を聞いたことで、縁に引っ張られたのか。
 ざざ、と視界にノイズが満ちる。穏やかに笑う彼の顔はもう全く見えない。代わりに無遠慮に視界へと流し込まれたのは、荒廃する大地だった。ここまで来てしまうと目を塞ぎたくともそれは視えてしまう。……当たり前だ、そこに無いのだからそれは眼球に映る光景ではない。網膜を通して浮かび上がる像ではないのだから。

 幾万もの戦士や動物たちの血が河を作る、悍ましい光景。因果は応報する、怨嗟と呪いに満ちた戦場。
 死肉を求めて悪鬼羅刹が蔓延る、地獄絵図。 
 そんな中|御《・》|者《・》|の《・》|居《・》|な《・》|い《・》戦車に乗り、弓を引く彼の姿があった。
 
「例え全てが見えたとしても。視えた|実像《もの》を、見える|虚像《もの》を、決して否定しない。……貴公も、そういう御仁だろう?」
 
 縁を通して視える光景にはまるで不釣り合いな、彼の優しい声が重なった。
 音は現実、されど視えるのは何処までも広がる、地獄の如き彼の心象風景。
 血に濡れた彼の貌が、色鮮やかに映る。口角を吊り上げて嗤う、それは。

 太公望が心の底から『うつくしい』と思ってしまうような、魔貌だった。

(―――嗚呼、貴方は。否、君はもしや)

 何も指揮官や軍師に限ったことではない。
 怪物と恐れられていたヘラクレスを友と呼んで船員に迎え入れ、王に成るべく冒険を繰り広げたイアソン。
 オデュッセウスがトロイア戦争で用いた木馬は、トロイア兵を欺き城内に運び込ませた所で木馬に隠れていた兵を放つという仕掛けだ。それは此方で言う、埋伏の毒にも似ている。
 彼と交流があるオリオンは、本来なら冠位の資格を有している弓兵。太公望同様『獣狩り』のスペシャリストである筈だが、本来の霊基であるらしい大西洋異聞帯での彼はビースト討伐に必要だった冠位を自ら返上してまで、機神アルテミスを撃ち落としている。
 他者が持って生まれた性質に恐れることなく堂々と信頼を預け、対等であろうとする者。世に悪が満ちていることを知りながら善であろうと努め、己がなすべきことを成す者。……例え自らが傷つこうとも、誰かの為に全力を尽くして戦う者。
 ここでの彼が交友を持った英雄たちには皆、彼が信ずるに足るだけの理由があった。

 アルジュナの父神であり五兄弟の化身ともされる雷霆神インドラは、古代インドに侵入・支配していたアーリヤ人のヴェーダ信仰に基づくバラモン教の古い神だ。ヴェーダ神話でこそ、最も多くの賛歌を捧げられた偉大な英雄神だった。しかしバラモン教からヒンドゥー教へと移り変わる際、多くの神威を奪われその信仰は失墜している。インド古来の土着神であるシヴァとヴィシュヌには悪鬼羅刹を滅する退魔神としての権能を奪われ、人々の信仰を集める概念としての英雄神から単なる天候を操る自然神へと零落してしまったのだ。最も知られているヴリトラ退治の功績は辛うじて残されたものの、リグ・ヴェーダにおいてはヴァジュラで勇猛に撃ち滅ぼしたとされていた話がヒンドゥー教ではヴィシュヌの加護と計略あってこそ、という話にすり替えられてしまっている。マハーバーラタに記されるクルクシェートラの大戦も、インドラが失った神々の王としての力を五兄弟に擬えて転生させ、神としての権力を取り戻す為の大儀式であったとされた。

 ――ーしかし全てが逆転しているとなれば、話は大きく変わってくる。

 インドラという神の起源を辿れば、答えは明白。インドラはヴェーダ神話と同じアーリア人信仰を起源とする古代ペルシャ神話において、善悪共に対応する神性を持つ。数多の宗教に多大な影響を与えたとされる世界最古の創唱宗教、ゾロアスター教の英雄神|ウルスラグナ《ヴリトラハン》。同時に|悪の側面《インドラ》として、七大魔王にも名を連ねている。しかしその魔王、元は一つの悪神であったという。善悪二元論に基づいて二つに分かれた、光と闇の創造神の片割れ。二元というからにはこの世に善は一つしかなく、悪もまたこの世に一つのみ。

 その正体は人の|怨嗟《いのり》を束ねて還す―――原初の呪い。即ち、|この世全ての悪《アンリマユ》だ。

 いつの時代、何処の世界であろうと、歴史とは勝者が作り上げる。その最たる例がかつての汎人類史であり、今カルデアが直面している人理漂白だ。アルジュナは確かにマハーバーラタの大英雄だが、それは全てが終わった後で定まった事象。彼ら兄弟は元々、まとめて排斥される筈の存在だったのではないか。人が生きる為に必要な、あらゆる罪業や理不尽を押し付けられる『生贄』という名の悪として。太公望が視てしまった彼の本性が|あ《・》|れ《・》なら、大地の負荷を取り除く為に当初犠牲となる|予《・》|定《・》|だ《・》|っ《・》|た《・》死者は、実際にマハーバーラタに記されている死者の数より遥かに少なかった筈だ。

「……参ったな」

 それは太公望がかつて悍ましくもうつくしき宿敵に対して抱いてしまった、祈りにも似ていた。成すこと叶わず、成してはならぬと悟り、それでもと願い求め続けた遠き理想。それをかの人は、偽り隠すという形で。全てを逆しまにすることで成し遂げてしまったのか。

「其は人の為でなく、また神の為でもない。貴方の友はただ|貴《・》|方《・》|の《・》|為《・》|だ《・》|け《・》|に《・》、その道を選んだのか」

 それはほんの僅かな、時間にして一秒にも満たない刹那。現実に引き戻された太公望の口からは、知らずと感嘆の声が漏れていた。
 
 彼は、当たり前のように識っている。
 自分の為に全てを擲って身代わりになった、最愛にして運命であった友の所業を。嗚呼そうとも、彼らの名は共通していた。『二人のクリシュナ』とも、呼ばれていた筈だ。だったら生まれ持った性質により引き起こされる悲劇を、神が人々に与える処遇、天罰へとすり替えてしまえる。元より神とはあらゆる災厄を巻き起こす理不尽と脅威の象徴であり、鎮める為に形作られ、崇められるもの。それこそが古来より続く究極の|詐称《イカサマ》、『同じであるなら干渉し合える』という類感魔術の真髄。彼らはまさに、共犯者だったのか。
 反英雄を正英雄に仕立て上げる。それは想像するに難くない、あまりに険しい道のりだろう。万能でありながら多くの苦悩を抱え、多くの後悔を抱き、多くの犠牲を払ったに違いない。それこそ彼が得てしまった、運命だったのだ。全てを棄て、ただ一つを選び、世界すらも騙し果せた。その結果としてインドラという神も英雄神に返り咲き、その後大陸に渡りその先の島国でも東方の守護神として広く信仰される神となった……ということか。

 アルジュナは太公望を好意的に見てくれているが、とんでもない。自分とかの人は似ても似つかないものだ、同じ欲張りでも欲張りの規模が違いすぎる。それはどうあっても太公望には実現できない、出来る筈も無かった最果ての理想。太公望はどこまでいこうと人の為に在る英雄だ。人を脅かす悪を悪として排するのが太公望の英雄たる所以であり、それが人の世を護る者の宿命。あの悍ましさをうつくしいと思う心はあれど、あのうつくしき獣と宿敵の関係であることとは全く別の話だ。|篭絡《ほだ》されるなどあり得ない。故に中国の歴史は殷から次代の周に継がれ、その代償として太公望はこの世で最もうつくしいと思う獣に、今尚呪われ続けている。

 それでも、だからこそ、彼らが羨ましいとは口が裂けても言えなかった。その悪性を抱えたままに生き残れる道を示すという彼の所業に、追い求めた理想のカタチの一つを太公望は確かに視た。けれど太公望にはその果てに失われたであろう多くを無視することだって、出来はしないのだ。道士といえど所詮根本は人間、それが出来る程太公望は強くない。そんな重さには、とても耐えられない。それができたのは、かの万能の人がその時代を生きた人間でありながら、神でもあったからに他ならない。一つの山さえも指一本で支えてみせたという、彼にしか背負うことのできない重責だろう。

「……すごいな。隠していても俺……いや、『私』が視えるものなのか」
「あはは……ああいや、これは僕だからですよ」

 授かりの英雄と呼ばれるその人は、驚きに目を瞬かせていた。

「安心してほしい、それは貴方が自ら相手に見せるか、特別覗き視る力でもない限り、他人には視えない筈です。貴方の友は、余程|上《・》|手《・》|く《・》|や《・》|っ《・》|た《・》らしい。僕はそこの所……ちょっと、鈍くて。視てはいけない領域が、うっかりすると視えてしまう。困ったものです」

 しかし彼が隠していたものを視てしまったというのに、彼の顔色に焦燥や憂慮の色は一切見えなかった。つまるところ彼は『太公望にならば見られても問題ない』と考えているか、この性質を生前の友人以外にも見せているということになるのだが……何か拙いことを言ってしまったのだろうか。
 よく見るとアルジュナの顔が、微かに紅潮している。濃い褐色の肌でも分かる程だ。これはちょっとどころではなく、ものすごく、照れているのでは。案の定彼は太公望からふい、と顔を逸らして手で口元を押さえてしまった。

「あの時の私は、思った以上にあの人に絆されていたのか。いや、絆を結ぶというのはそういうことなんだな……それならもっと早く貴公と会いたかったものだ」
「あの時? えっ、ソレ誰かに見せちゃったことがあるんです?」
「ああ。……丁度今、お茶の約束をしている方に」

 いたく彼に気に入られていた理由は、ここにもあったらしい。奇しくもマスターは太公望と同じ属性、中立・善である。ツングースカでの影たる己が感じたとおり、程度の差はあれど境遇もものの考え方もそれなりには近い。
 けれどそれだけでなくあのうつくしい笑みを、我等がマスターはなんの加護も無しに見てしまったのか。道士であるから平然と立っていられるが、彼にも話した通りあれは本来視てはいけないものの類だ。本人も意図して隠しているのだから、猶更である。直視すれば即死レベルの呪詛が飛んでくるような、危険極まりない代物。……当の本人は赤面しているが、只事ではない話である。

「見せるつもりなんて、微塵も無かったんだ。むしろ距離が縮まる程見られたくない、見せたくないとさえ思っていた筈なんだが」
「いや、それは可笑しい。だって貴方の振舞いは完璧だ。それは貴方が|見《・》|ら《・》|れ《・》|た《・》|く《・》|な《・》|い《・》|と《・》|思《・》|う《・》|程《・》|視《・》|え《・》|な《・》|い《・》ようになっている。そうでなければその術式は成立しないんです。妖精眼や淨眼といった、真実を視る眼を持つ者でない限りは。貴方の友がその調整をしくじるとは考えられない。見られることなど、普通ならあり得ない筈です」

 太公望が喋れば喋る程、アルジュナの顔は赤くなっていく。健康的な褐色肌の色が、もう耳まで濃くなっていた。耐えきれなくなったのだろう、とうとう片手で目を覆って俯いてしまった。

「ああ私は『俺』を、認めて欲しかったんだ……。それじゃあ貴公の言う通り、自らあの人に曝け出してしまったんじゃないか……」

 ……最悪だ。
 太公望は今になって漸く、とんでもないやらかしに気付いた。遅い、あまりにも遅い。

「ッッッ心の底から、貴方に謝罪を! ―――本当に、申し訳ない!」

 何でも出来る癖に、大事な所で盛大にしくじるのが太公望である。一体何度こんな失態を犯せば気が済むというのか。

「僕は貴方の慕う友ではなく、貴方の信ずるマスターでもない! 僕は貴方に、未だなにもできていない! 僕は貴方と、何の絆も結べてはいない! それなのに僕は貴方の|深淵《やみ》を勝手に覗き、暴き出しまった……!」

 ……思うにアルジュナは、太公望が視たあれと今話をしている彼自身を、別人として切り分けていたのではないか。それが彼の言う、『俺』なのではないか。
 生きる道は友が示してくれただろうが、人の世であの性質そのままになど生きられるはずがない。友と出会う前までなら猶更、あの性質にたった一人で耐えていたということになる。だから彼は、彼らは、人として生きる為に心を分けるしかなかった。父たる神のように、善と悪を担う二つの人格に己を分かち、|自分《だれか》の所為にして折り合いを付けるしかなかった筈だ。
 血の気が引いた。ああそう考えればどれだけ大変なことをしてしまったのか、痛感する。元々分けていたものを態々我が身の事として言い直すということは、その悍ましい顔もまた自分であると、彼は潔く認めているということだ。それでは最早、顔を分ける意味など成さない。その意味を、彼は自ら壊したのだ。先ほどの光景や平素の立ち振る舞いからしても、これがどれだけ彼にとって苦しい選択であったかなど容易に想像出来る。切り分けた善悪の垣根を壊すという大きな決断をさせたきっかけこそ、我等がマスターだったのだ。
 互いの関係を崩壊させるどころか命すら奪いかねない窮地を、アルジュナとマスターは二人で乗り越えたのだろう。だからこそ今こうして彼は、嬉々としてマスターの元に向かっている。定められた運命に逆らい、孤立することなく、共に歩むサーヴァントであらんと努めている。そんな絶対不可侵であるべき領域を、己は何もなしに覗き視たばかりか、直接言葉にして彼にぶつけてしまった。傷口を抉った挙句塩を塗り込むような行為だ。これでは人でなしと言われても致し方無い。

「……やはり貴公はマスターに聞いた通りの、誠実な人だな。何も言われなければ分からないというのに」
「意図せずとも視てしまったのは事実! 貴方が周囲を案じて隠している事柄である以上、知らぬ存ぜぬでは済まされない! 特に僕は盛大に人違いをした挙句、戦略の為とはいえ勝手に女性の裡を覗き見たなんていう、大きな前科がありますから……!」
「では、お互い様ということで。私も勝手に私の友と貴公を重ね見るという、失礼な真似をしてしまったのは事実だ。……申し訳ない。貴公は貴公でしかなく、他の誰でもないというのに」

 困ったように眉を下げてすまなそうに笑っていた彼だが、これが己でなかったならどうなっていたかと思うと太公望はどうしてもゾッとしてしまう。この暴挙が許されているのも、太公望が少なからず彼の友を連想させる存在であるからだろう。
 一頻り謝り倒した後、気を取り直し二人並んでマスターの部屋に向かう。着くまでにどうにか顔の熱を逃がそうと手で頬を仰いでいる彼に、ただただ申し訳なくなった。本当に、鈍い上に無粋な男で面目ない。
 起源として定められてしまっている自己の悪性を認めた彼の心が、もしもふとしたきっかけで大きく揺らいでしまったら。意図せず周囲に呪いをまき散らしてしまわないか、心配にもなった。
 ……そう、思っていたのだが。

「……それに絆なら、とうにあるとも。例え貴公の|我儘《エゴ》であるとしても、私はツングースカでの貴公の選択に、最大限の好意と敬意を抱いている。それだけで、十分では?」

 一緒に廊下を歩きながら、彼が照れくさそうに言う。嗚呼、ようやく合点がいった。太公望と仲良くなりたいと思ってくれた一番の理由は、これだったのか。彼もまた、同じように記録を読んで太公望がどんな人間なのか、どんな英雄だったのかをしっかりと見定めていたらしい。太公望が他のサーヴァントとは少し違うということにも、彼は気付いている。だから信頼と親しみを持って、接してくれる。こうして気軽に誘ってくれるわけだ。
 本当に、途方もない程に彼は周囲から深く愛されたのだろう。愛されたからこそ、自身の悪性が周囲にどんな影響を及ぼすか、彼は酷く恐れている。だから友として付き合える相手を、慎重に選ぶのだ。呪わなくていい、恨まなくていい。僅かな心の揺らぎで悪意が膨れ上がってしまわないよう、心の底から安心できる相手を。心の底から、自分を信じてくれる相手を選ぶ。それが友や近親者に近い性質を持った者達だったのだ。

 それは自らの性質で、不用意に周囲を傷つけない為の配慮。以前は他人との接触を極力控えていたというあの記録はつまり、そういう理由だったのだろう。そしてその行動は、普通の人と何ら変わりのない行動だ。友人なんて選り好みでいいに決まっている。それは他人を傷つけないことと同時に、自分の心を傷つけないことにも繋がるのだから。
 
 友の選択を知り、友の導きに従って、大戦から生還した|奇跡の英雄《イレギュラー》。友の決死の選択に深い感謝と愛情、崇敬を示しながら、同時に酷い罪悪感にも苛まれたに違いない。顔を二つに分けていなければ、全てを自分ではない|自分《だれか》の所為にし続けなければ、立っていられないほどに。性質に逆らい自らを罰するように、正しき英雄であれと我が身に厳しい戒めを科していたのだろう。そんな彼が生前とは違った運命を得たことで、自分を少しだけ許せる程になったのか。

 二人分の靴音が止む。目の前にはオートドア。呼び出しのブザーを鳴らせば、明るい声と共に我等が主人が迎えてくれた。

「アルジュナ、いらっしゃーい! ……あれ? 太公望も一緒?」
「お茶会と聞きまして。お邪魔しますねマスター」

 アポ無しの飛び入り参加にも関わらず、主人は嬉しそうに笑っている。

「勝手ながら彼も誘ったのです。……この通り、職員やサーヴァント達から、二人だけでは食べきれない程のお菓子をいただいてしまったので」
「うわっほんとだいっぱいある! やったねアルジュナ! 太公望、ティーカップもう一つ用意するから、ちょっと待ってね!」
「フフ、ありがとうございます」

 此処でも彼は、沢山の人に愛されている。彼はきっと、少しずつ気付いている。どうしても許せなかった自分を少しくらい受け入れたって、案外世界は変わらない。これなら心配など、無用だろう。そうして選んだ道に時々悩んで迷って苦しみながら、それでも生きていくのがどこにでもいる人間の姿なのだから。
 さて、折角のお茶会だ。これから何の話をしようか。直接聞いてみるのもいいかもしれない。新参者である太公望が知らない、記録には記されていない二人が出会った頃の話を。仲良くなった、きっかけの話を。だってここまで視てしまうともう気になってしょうがない。彼らがどのようにして心を繋いだのか、方術も無いのにマスターはどのようにしてアルジュナの分厚い心の壁を壊したのか。火傷しかねなかったというのに全く凝りていない己は、やはりどうしようもないろくでなしなのかもしれない。








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