帰還
一九九二年 ペトゥシキ
列車を降り、コンクリート打ちっぱなしで屋根のないホームに降り立った。ホームは除雪されていたが、凍っていて滑りやすい。転ばないようにしっかりと地面を踏みしめ、慎重に歩いた。冬の太陽はすぐ沈む。駅には辛うじて街灯が一本立っているものの、そこを過ぎれば線路沿いに灯りはない。懐中電灯をつけて、雪道を歩いた。吐く息は白い。ロシアは一月が最も寒いのだ。雪の表面は凍っていて、踏むとざくざくという音がした。一月七日、奇しくもその日はクリスマスだった。
暫く歩けば森に右折する道があるはずだったが、思い出の中の距離より遠く感じる。最後に来たのは夏だったから今より格段に歩きやすかっただろう。それに包平も若かった。右に曲がった道の突き当りが光世のダーチャだった。毎年夏と冬の休暇を光世は自身のダーチャで過ごしている。退職届を出す前に職場のデータベースから光世の調査書を盗み見たのだ。包平の部局とは異なっていたから、これが新聞以外で初めて知る光世の情報だった。
ドアベルがなかったので扉を叩いた。勢いあまってドンドンと品のない音になってしまう。窓から光が漏れているから在宅しているはずで、調査書には一人きりで過ごしているとあった。この家には光世以外誰もいないはずだ。だがもし誰かがいたら、と急に思い至った。何も考えずに来てしまった。
ドアはすぐに開いた。光世はドアを開けると包平の顔をじっと見つめ、上から下まで視線で何往復もしてから漸く「入れ」と言った。包平もざっと三十年ぶりになる再会になんと言えば良いか分からず、「邪魔する」とだけ言って入った。
防寒具を一揃い脱いでソファに腰かける。光世は黙って温かい紅茶を出してくれた。戸棚にアルコール類は一本もないのに、テーブルの灰皿に吸い殻が山となっていて、変わらないなとかすかに笑みが零れた。三十年前、この家に来て間もないときは今座っている二人がけのソファが包平の定位置だった。ひと夏を過ごすうちに光世が隣に座るようになった。至近距離でよく見つめてくるものだから気恥ずかしかった。
「よく来たな」
光世は向かいのソファに座るとそう言った。全く表情を変えないから歓迎されている気はあまりしない。だが光世から香る紫煙はかつてと同じ匂いがしていた。部屋の調度も記憶そのままだ。まるで時が止まったかのように、大学時代から何も変わっていなかった。
「もう会えないだろうと思った」
はきはきと答える。身構えていたからか如何にも軍人らしい口調になってしまった。座りながらも背筋がすっと伸びていた。
「同志とでも呼びかけられそうだな」
光世は膝を組んだ上に肘をついているせいで、心持ち上目遣いで包平を見ていた。
「癖だ……」
「尋問に来たのか」
「ちがっ……、会いに来たんだ」
「会って、それでどうするつもりだったんだ」
暫く沈黙が落ちて、「分からない」と唸るように言った。光世はそれに対して何とも言わなかった。ただ無言で包平を見つめるだけだ。
列車の中で幾度も考えた。引き返すこともできたが、ここまで来てしまった。もうすぐ会えなくなるから、というもっともらしい理由もあったが、それは体の良い言い訳に過ぎない気がした。確かに光世にはアメリカの大学から招待状が来ているはずだった。間もなく彼は新大陸に旅立って二度と帰って来ることはない。だから別れを告げに来たのだろうか。今更? 三十年前に別れたきり、一度も連絡を取らなかった相手と?
「都合がいい」
光世は片眉を上げて、口元を歪めて言った。
「何がだ」
「あんたもアメリカに行くんだろう?」
「え?」
「向こうの大学に言えば家族用の家くらい用意してもらえるさ」
ボストンはここより過ごしやすいと光世は何でもないように言った。
「どうしていきなりそういう話になるんだ!」
鋭い声が部屋の空気を切り裂いた。光世は平気な顔をして紅茶に口を付けた。腹が立つくらい落ち着きはらっている。自分ばかりがやり込められているようで、それを振り払うように問いかけた。
「他に大切な相手がいるんじゃないのか?」
「『内務省』勤務なら知っているだろ」
「……俺の担当じゃない」
「ここに俺がいることを知っていたのにか?」
目線を逸らしてしまった。調子が狂う。煙草をくわえた。
「盗み見ただけだ。この別荘がまだ使用されていて、お前はもうすぐアメリカに行く。それしか知らん!」
「あんたは?」
「は?」
「あんたは家族いないのか」
「……一人だ」
「ずっと?」
「そうだ……!」
あまりに包平に女の影がないから局内で男色家の噂が流れたことすらあった。半分正解だったしかかずらうのも面倒で放っておいたら、いつの間にか「結婚できないくらいプライベートでは甲斐性のない男」に噂が変わっていた。
「どうしてだ」
「答える義務は……」
「あるだろう」
「ない」
じりじりと睨み合った。だが光世はあっさりと睨み合いを放棄した。
「ずっと後悔していたんだ」
カップを手に持ったまま彼は言った。
「あんたが卒業するときに無理やりにでも連れ出して逃げるべきだった」
「付いて行くわけない」
「あのときはな」
光世は過去に思いを馳せるように目を細めた。
「だからあんたがここに現れたら、連れて行こうと決めていた。それに仕事、辞めただろ」
息を飲んだ。包平が引き留める上司や部下や同僚を振り払って職場を去ったのは、解党した翌日のことだった。まだ一月も経っていない。
「誰から聞いた」
「さあな」
それだけでは密告者は分からなかった。包平の退職は局内でも話題になりすぐに広がったからだった。何件もの大きな汚職を摘発し、厳しくも清廉潔白な職員として包平は一目置かれていた。
「チェキストは嫌いだったんじゃないのか……!」
「利用しないとは言ってない。なああんた、なんで会いに来たんだ」
繰り返されるなぜに追い詰められていく。答えを包平は知っている。
「国がなくなったからだろ」
答えは光世が自ら導き出した。顔が強張り、ざっと血の気が引いたのが自分でも分かった。だがおそらく彼は最初から気づいていた。
「怒らないのか」
「あんたは人が良すぎるんだ。どんな気分だ。恋人を捨ててまで選んだものがなくなって」
「性格悪いぞ」
「恋人がひどい男だったんだ」
「お前こそどうしてこの国に残ったんだ」
別れたときの予想に反して、光世はこの三十年、亡命をするどころかその素振りを見せることもなかった。西側で開催される国際会議にも滅多に出席しなかったし、科学アカデミーから打診があってもソビエト連邦から出ようとしなかった。要人が国外に出る際には警備と監視がつくが、それでも亡命は決して不可能なことではなかった。
「あんたがいなかったらとっくに亡命していただろうな」
光世はうっそりと微笑んだ。
「すぐに出て行くと思っていた」
「あんたつくづくひどいな」
くっくっと光世は喉奥で静かに笑った。
「俺すらいなくなったら、あんたこの国に殉じただろう。きっと今も国のためにあんたは生きていたはずだ。名前を変えたって結局ここはふるさとなんだからな。だから行かなかった。あんたの献身が裏切られるのを待った」
「随分自信があるな」
「実際あんたは家族もいないし、勲章の一つもなしにここに来た」
「待つなと言った!」
カッとして言い返した。
「待ったのは俺の勝手だが、ここに来たのはあんただぞ」
「アメリカに行くのは」
「渡米の話を受けたのは賭けだった」
「会いに来なかったかもしれないだろう!」
「そのときは反故にしたんだろうな」
遠い目をして光世は自嘲した。
「紙と鉛筆さえあれば、どこででもできるから……」
「馬鹿だ!!」
思わず叫んでいた。包平は別れを告げたことに言い訳をするつもりはない。詰られるのも甘んじて受け入れるつもりだ。光世より国を選んだが、無責任でも、それでも幸せを願っていた。
「お前は……本当に……! 何年無駄にしたと思っている!」
「あんたまで奪われるのは我慢ならなかった!」
端的な言葉に深い恨みが宿っていた。シガーを持つ指は皺が刻まれている。老年にはまだ早い。だが二人を隔てた年月は長かった。
「俺はここに来るつもりはなかったんだぞ!」
「でも来たじゃないか!」
哄笑だ。物静かな光世が声を上げて笑っている。
「国を失って、俺を頼った」
「失ったわけじゃない!」
「なら辞める必要なかっただろう」
余裕ありげに煙を吐き出す光世を睨みつけた。
「俺の役目は終わったんだ」
党が解散したくらいで国も人も死んだりしない。それでも己にとっての故郷はソ連だった。ときに嘲笑しながらも頭に叩き込んだマルクスとレーニンは魂にまで染み付いている。ソビエト連邦がなくなるという事実に体の真ん中に穴が開いたような心地になった。
「それにうちは革命前からコミュニストだったからな」
冗談めかして笑った。笑って言えた。きっと引きつって、無理につくった笑いだろう。それでも笑えたことに安堵した。
「奇遇だな。うちは代々反共だ」
唇の左端だけを上げて光世は言った。軽口を叩くときの癖だった。
「泊まって行くだろう?」
「顔を見るだけで」
もう列車がないことも他に寒さをしのげる場所がないことを知りながら、口をついて出たのは帰ることだった。
「泊まって行け」
有無を言わせぬ調子に沈黙が落ちた。目を伏せると冷めた紅茶に疲れた顔の男が映っている。一息に紅茶を飲み干した。
職を辞すことは長いこと考えた末の決断だった。予兆は感じていて、去年の怒涛の動きに押されるように仕事を辞めていた。だが光世に会いに来たのは衝動だった。気がついたら列車に飛び乗っていた。学生時代だってこんな無鉄砲な行動はしなかった。まだ混乱のただ中にいる。己はきっと正気ではない。傷心で昔の恋人に会いに行くなんて安っぽいメロドラマのようだ。吐き気がするくらい陳腐だ。だが陳腐ついでに思うことは、結局忘れられなかったということだ。学生時代の己に語りかけた。あのとき二人で亡命することを考えたこともあったじゃないか。
「分かった。世話になる」
光世は深くため息をついた。
「俺だって馬鹿だと思っていたさ。待つなと言ったあんたが正しい。あれもあんたなりの優しさだったんだろう。そう思ったのは結構後だがな」
話す口ぶりは落ち着いていた。海の底のように静謐だった。
「でも正しいことだけできるわけじゃない」
光世はソファから腰を上げた。
「あんたのベッドを整えてくる」
「待ってくれ」
咄嗟に立ち上がって引き止めた。
「それより……話さないか?」
「何を」
「……これまでのこと、いや、これからのことを」
光世は薄く笑みを浮かべ、包平の指から吸いさしの煙草を奪った。
「今度はあんたが紅茶をいれてくれるなら」
「構わないが、ポットと茶葉はどこだ」
「前と全部同じところに」
そう言うと、包平が座っていたスペースの隣に腰を下ろして、ぷかりと煙を吐き出した。
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