帰還
一九六二年 モスクワ
包平が学生生活最後の口頭試問を終えて寮の部屋に帰ったのは午後四時頃のことだった。
「ただいま」
同室の光世にそう声をかけたが、机に向かって鉛筆を走らせる音がするだけで答えが返って来ることはない。集中しているときの光世はいつもこうだ。包平も慣れたもので、特段気にすることもなく窓枠に体をもたれかけさせて一服した。五月のモスクワは日が長い。冬ならとっくに辺りは暗くなっているはずだが、まだ僅かに日が傾いた程度で、開けっ放しの二重窓からは昼の日差しが射しこんでいた。
モスクワ大学の学生寮は新築だった。スターリン肝煎りで建設された巨大建造物。モスクワ大学が誇る文化宮殿。あまり知られていないが、高層の中央棟から四方に城塞のように配置された低層部分は数千人の学生を擁する学生寮だった。包平の部屋はその一角の六階で、ちょうどモスクワ川に面していたからレーニン丘からモスクワ市街までが一望に見渡せた。すぐ下の広場では試験終わりの学生たちが集っている。ひらめく女学生のスカートが花のようだった。
かさりと紙のこすれる密やかな音がした。同室になってすぐの頃、光世は頻繁に部屋の床に紙を撒き散らしていたものだが、一年に渡る包平の教育的指導の結果、使った紙は机の上で重ねるということを身に付けていた。今も紙を机に重ねる音だった。
光世と同室になってもうまる二年になる。入学当初、包平は同じ法学部の学生と二人用のこの部屋を使っていたのだが、途中で同居人が学生結婚をして夫婦用の寮に移ってしまったのだ。その空いたスペースにやって来たのが光世だった。レニングラードからの編入生で―確かに彼のロシア語はペテルブルグ訛りだった―自身の恵まれた体躯を隠すように猫背で立つ、声の小さい男だった。初めて部屋で出くわしたときは「何だこいつ」という感想が先立った。得体が知れなかった。
皮肉なことに光世は人と接するのが得意ではなく目立つことも嫌っていたが、それでも彼にはその場にいる人間の目を引き付ける何かがあった。この男はただの陰気な唐変木ではないと思わせるものだ。そして実際、光世は天才揃いの数学科の中にあって、ずば抜けた天才だった。新学期に入ると他学部の包平の耳にまで光世の噂が届くほどだった。
とはいえ当初の包平にとって光世は厄介な同居人以外の何者でもなかった。まず生活リズムが違う。包平は早寝早起きで光世は宵っ張りだった。その上、酒はやらないかわりに四六時中煙草を吸っている。包平も人並みに喫煙するが、誰が好き好んで他人の煙草で煙い中で寝たいものか。同室一日目にして説教だった。意外なことに光世は口答えもせず、神妙に話を聞いていた。だからといって治ることもなかった。
「貴様、直す気はあるのか!」
一向に生活態度を改める気配のない光世に我慢ならなくなったのは、一週間も経った頃だった。
「悪いとは思うが、直し方が分からない」
呆れたあまり、絶句した。
それから包平の教育が始まった。中等教育時代の軍事教練さながらに光世に規則正しい生活を仕込んでいった。まだ新学期が始まる前だったのが幸いして、お互い時間はあった。毎朝光世を起こし、無理やり朝食を食べさせた。時間がないときは黒パンと牛乳で、余裕があればブリヌイだとかオムレツを手早くこしらえた。材料代はきっちり払わせた。最初の二三日は寝ぼけまなこを擦りながらの朝食だったが、一週間もすれば光世は自分で起きるようになった。随分と包平の料理を気に入ったようで、それ以来、掃除と洗濯は光世の担当ということにして、朝食は包平が作ってやっていた。
包平が大家に訴えて同室を解消しなかったのは、このまま光世を放って新たな犠牲者を出すのが忍びなかったというのもあったが、なんだかんだ言ってこの男に好感を持っていたからだった。頭の回転も速く、金に汚くもない。生活態度さえ改善されれば、話し相手として申し分なかった。
窓辺の光で本を読む。鉛筆がざらつく紙の上を滑っては止まる音だけが聞こえていた。光世が使っているのは藁半紙のようなものだろう。包平の読んでいる本の紙も質の良い藁半紙程度のものだった。すでにところどころ紙は焼けて変色しているし、数十ページごとに使っている紙が異なっているせいで、小口が縞状に違う色になっている。
鉛筆の音が完全に止まった。木の椅子と木の床が擦れる音がする。
「終わったのか?」
「ああ……」
「もう試験終わっただろう」
「暇だったから」
世の中には暇潰しや楽しみのために机に向かう者がいるが光世もその口だった。包平も学問に面白味を感じるが、その一部の人間にとっては学問こそが生きがいなのだ。光世の生きがいも学問だった。
「あんたこそ読書中だったんだろ」
「前に読み終わったものだ」
本を閉じてベッドに置いた。なんとなく会話を続けたい気分になって、光世の隣の椅子に腰を下ろした。包平は卒業し、光世は大学に残る。同室はもうすぐ解消される。試験も終わり勉学から解放されたせいか感傷的な気分だった。
「卒業しても、お前はここにいるんだな……」
「あんたは内務省か」
「ああ、この前決まった」
そういうことになっていたが、光世は包平の言葉を信用していないようだった。目を眇めながら細く煙を吐き出している。別にそれで構わなかった。実際のところはつい先日KGBから採用を打診されたところだった。言葉と内実が伴わないことには二人とも慣れていた。
光世の表情には失望が滲み出ていた。ほんの少し眉間に皺を寄せているだけなのだが、元が端正な癖に陰気な顔つきのせいで一層暗く見える。
「おめでとう」
祝いの言葉には皮肉と僅かな嘲りが宿っていた。
光世はチェキスト嫌いの共産党嫌いだった。もちろん公言することはなかったが、党の話や政治の話題が出たときの光世はほんの僅かに嫌そうな顔をする。付き合いが長く、光世と余程親しくなければ分からないだろうが、それは嫌悪の表情だった。二年間、衣食住を共にした包平が感じるに、光世は国が無能だとか、資本主義の方が優れているからという論理的な理由で嫌っているわけではないようだった。素朴に、感情的に嫌いなのだろう。
それを正そうという気にはなれなかった。包平は祖国を愛し、正義のために国家で働くことに決めたが、若く善良なテロルを知らないインテリであることに変わりはなかった。確かに光世は理想的なソ連人民ではないが、反体制派でもないのだ。
吸い終わった煙草を机の灰皿の上で潰した。新しく口にくわえ、マッチを取り出そうとすると光世の顔がずいと前に迫って来た。包平が机に置いていた手に手が重ねられる。長時間鉛筆を握りしめていた手はほの温かかった。光世の煙草から火を貰った。包平の銘柄よりも癖の強い匂いが一瞬鼻をかすめ、すぐに自身の煙草の匂いに取って代わった。
「この夏……」
一瞬聞きたくないと思った。そしてそう思う己の弱さを叱咤した。光世が全てを言い終わる前に包平はゆるゆると頭を振った。重ねるだけだった手が掴まれる。
「行かない」
そっと光世の手を引き離した。
モスクワ近郊の田舎町に光世の母方の家族が残したダーチャがあった。去年の夏休み、二月丸々を光世と包平は二人きりでそこで過ごした。二人とも両親はいなかったから里帰りする先もなかった。木造の平屋で、大戦前に農家を買い取って改築したものと思われた。見た目の古さに反して丈夫で、雨漏りしている箇所もなく、最初の一週間だけ掃除と修理に費やした。
ロシアの短い夏を二人は満喫した。昼間は日焼けするくらい近隣の川で泳いだり釣りをして過ごし、夜はしゃべりあかした。いつまでいたって飽きることはなかった。二人とも知的好奇心が旺盛で、ちょうど得意な分野も違ったから話は尽きなかった。雨の日は地下出版の小説を耽読し、晴れた夜は屋根に登って天体観測をした。家に置いてあったピアノとヴァイオリンを即興で弾いてみれば、ピアノはところどころ調子が外れていたせいで不意打ちで素っ頓狂な音を鳴らす。ドとファが外れるベートーベンには吹き出さずにはいられなかった。
それでも光世は突然発作のように何日も机にかじりつくことがあった。基本的には同居人に合わせて規則正しい生活を営めるようになった光世だが、この発作が来ると駄目だった。衣食住も最低限にして数式の世界に没頭する。こういうときは何を言っても無駄なので、包平も邪魔はせず好きに過ごした。
そのときも光世は数式に没頭して、包平は先に寝ようとしていた。ところがいつも寝つきが良いのに、その日は目が冴えて眠れなかった。
寝室の目の前は白樺林だった。夏の短い夜。日が暮れてからも空は白んだままで、漸く訪れた暗闇だった。寝室の明かりを消しても隣が光世の部屋だったから、部屋から漏れ出た光に白い木の幹が浮かび上がる。
開け放した窓から夜闇に冷えた涼しい風が吹きこみ、洗い立ての白いカーテンを揺らしていた。それをぼんやりと見ていた。隣室のランプは時折揺らめいては白樺に様々に影を落としていた。
「寝ているか?」
密やかな声が窓から流れてきた。
「起きてる」
「そっち行っていいか?」
「いいぞ」
灯りが落ちて、白樺が闇に沈んだ。木のドアが軋んで木の床の上を歩む音がする。寝ている背後のドアが開いた。用があるのかと待っていたら、光世は無言でベッドに入って来た。あっと思った。こんなことは初めてだった。
光世はベッドに横たわる前に包平の髪をかき上げ、逡巡するように一瞬止まってから頬に指を滑らせた。人差し指が唇をかすめた。鉛筆の芯の鉄っぽい匂いがする。何も尋ねることができなかった。黙りこくったまま何往復か頰を撫でてから、光世も横たわる。注意深く様子をうかがっていると、ほどなく穏やかな寝息が聞こえてきた。
触れる素肌が温かい。じんわりと熱を伝える。その上を涼やかな風が撫でていた。月明かりも木の枝に遮られて遠く、光世の寝顔は見えない。体をずらしてそっと隣の体を引き寄せると光世は包平の肩口に頭を置いて、変わらずすうすうと寝息を立てている。
ずっと何かに急き立てられるように生きてきた。世界は騒々しく、するべきことを、正しいことを教え、包平がそうあるように期待していた。それを立派に勤めあげることが役目だった。その色鮮やかで騒がしいものが一切消えてなくなってしまった。残されているのは傍らのぬくもりと窓辺で揺れる亡霊のように白いカーテンだけだった。密やかな息づかいに合わせて時折そよ風が流れこんでいた。全てはぴったりと調和し、満ち足りていた。だからこんなにも静かなのだ。二人がたった今ここで同じぬくもりを共有しているのはとても自然なことだった。
ひと夏の間、同じベッドで眠った。モスクワに帰る頃には何となく来年もあのダーチャで夏を過ごす気持ちでいた。来年だけでなくその次の年も、そのまた次の年も、二人であそこに行くと思っていた。光世もそうだろう。
「行かない」と言ったきり寮の部屋には沈黙が落ちて、いたずらに煙草が燃えて紫煙が立ち上るだけだった。
「いつ来るんだ」
「来ないと言って……」
「いつ来るんだ」
光世の強い目線に気圧された。離した手を掴まれる。
「行かない」
「待ってる」
初夏の日差しは冬の弱々しさを補うように、鋭い光線となって降り注いでいた。不必要なほど全てはくっきりと光の中に照らし出されていた。
光世がなぜこの国を嫌うのか包平は察していた。光世の両親は物心つく頃に収容所に送られている。密告だった。父はシベリア、母はムルマンスクに行ったようだと光世は語っている。もしかしたら父母の行き先は逆かもしれない。もしかしたらレニングラード近郊に収容されていたのかもしれない。不明なことだらけだが、国家反逆罪という寒々しい字の羅列だけが両親を定義づけていた。
光世を育てたのは祖母だった。その祖母は光世を隣人に預け、三日に一度は囚人への差し入れの長い行列に並びに行っていた。光世の覚えている一番古い記憶は隣人に祖母が迎えに来るところだ。人見知りが激しかったから他人の家に預けられるのは幼い光世にとって苦痛だったが、一方で駄々をこねて祖母を困らせるには敏すぎた。だから祖母の帰宅はいつも待ち遠しいものだった。
老いた祖母がのろのろと玄関のコート掛けに古びた毛皮の上着を引っ掛けている。光世の背後から、もう遅いから夕飯を食べて行きなさいなと声が聞こえた。祖母は空の袋を握りしめて―大きな茶色いしみがあって、鼻を近づけるとかすかに玉ねぎのようなすえた臭いがしている―お世話になるわと返事をしていた。
光世が学校に上がる頃にその留守番は唐突になくなってしまった。行列に並ぶ必要がなくなったのだ。ある日家を出て行ったときとまるきり同じ姿で帰ってきた祖母は、隣人の誘いを断り光世を連れてさっさと家に帰ってしまった。だからといって何をするわけでもなく、緩慢に台所の椅子に座り、ぼんやりと窓の外を見やるだけだった。
家族に囚人がどうなっているか通告されることはない。差し入れを持って行き、受け取られれば生きていて、受け取られなければ死んでいるということだった。成長していくにつれてそういった知識も身に付いていく。光世はそのとき漸く、両親はあのとき死んでしまったのだと悟った。
かく言う包平も父はテロルで三八年に亡くなっていて写真でしか顔を知らない。母も戦死し、遺体は見つかっていないから広大な白ロシアの大地のどこかで埋まったままなのだろう。二人の境遇は決して珍しいものではなかった。この国の人間で、テロルか、飢饉か、戦争か、あるいはその全てで身近な人の死を経験していない者はいなかった。
「絶対に待つな」
光世はいつか亡命するだろう。本当は今すぐにでもこの国を出て行きたいのかもしれない。国を捨てる強さも、他の国で生きていける能力も彼には備わっていた。包平が持つ強さとはまた別のものだ。今思えば、深い仲になったのも何かの冗談のようだった。同室であること以外二人の間に共通点はなかったのだ。包平の先祖は革命の闘士だし、光世の家は元は帝政時代のブルジョワだ。思想も信条も何もかもが異なっていた。
光世が生理的な感情でこの国を嫌うように、包平は素朴な感情で愛していた。包平は親のいない己を育てたこの国が好きだった。
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