5-1 体温と熱病

 真夏の太陽が容赦なく校舎の窓ガラスを叩きつけるように照らしていた。教室の中は蒸し暑く、扇風機がいくら回っても、熱気が体にまとわりついて離れない。外からは蝉の鳴き声が絶え間なく響き、まるで真夏の昼休みを際立たせるかのように耳にこびりついていた。

 教室の中では、昼休みの賑やかな声が飛び交い、子供たちの笑い声が響いている。仁美里はその中心にいた。彼女は、鳳子が村の仲間として認められてから、すっかり明るさを取り戻し、以前の寡黙で孤立した姿は見る影もない。クラスメイトたちと笑顔で話し、時折冗談を交わしながら、無邪気に楽しそうに過ごしている。

 しかし、鳳子はそんな輪の中に入ろうとせず、一人でぼんやりと窓の外を見つめていた。窓際の席に座る彼女の目に映るのは、強烈な日差しに照らされた校庭の景色。何も動かず、ただ蝉の鳴き声が反響する静寂な光景だった。

 鳳子は窓から差し込む光のまぶしさに、うっすらと目を細めた。かつては彼女を虐げる者がいたが、今ではもう誰もいない。仁美里がその壁を打ち砕き、村の仲間として認められた鳳子には、いじめや嘲笑はすっかり過去のものとなった。クラスメイトたちも彼女に対して親しげに声をかけることがあったが、鳳子はなぜかその輪に入ろうとはしなかった。

 今も、仁美里がクラスメイトたちに囲まれ、楽しげな声を響かせているその光景を、遠くから眺めるだけにしていた。やがて、鳳子は誰にも気付かれないように教室をそっと出た。しかし、仁美里だけはその姿に気付いていた。

「……ごめんなさい、また後でいいかしら?」

 クラスメイトたちに軽く謝罪をしてから、仁美里は席を立ち、鳳子を追いかけた。鳳子はとにかく人気のない場所へ向かおうと、無意識に校舎の奥の空き教室へと向かっていた。

「ふうこ、待ちなさい」

 鳳子の背中に仁美里が声を投げかけると、鳳子はゆっくりと振り返った。眉を寄せ、少しだけ困ったような笑みを浮かべながら「どうしたの?」と彼女は小さく呟いた。その表情を見た瞬間、仁美里は思わず顔をしかめた。

「ねえ、作り笑顔はやめてって、何度言ったらわかるの?」

 仁美里の声には、ほんの少し強い口調が混じっていた。彼女の笑顔の意味を知ってからというもの、鳳子には本当の自分をさらけ出して欲しいと願っていた。辛い時には辛いと言い、泣きたい時には泣いて、怒りたい時には怒る。そして、心から笑いたい時だけ笑顔を見せて欲しかったのだ。

「ご、ごめん……」

 鳳子は困惑した表情を浮かべたまま、ぎこちなく笑って小さく呟いた。しかし、その笑顔は偽物だと誰の目にも明らかだった。自分を必死に取り繕い、何かを隠そうとするかのような、壊れそうな笑顔。

「ふうこ、こっちについてきて」

 仁美里は鳳子の腕をしっかりと掴み、迷いなく歩き出した。鳳子は戸惑いながらも、仁美里に引っ張られるまま、彼女の後に続いた。

 仁美里は以前から鳳子の心に何か重たい悩みがあることに気付いていた。共に暮らし始めて数週間が経つが、あの日、鳳子が夜に何を話そうとしていたのか、結局聞けないままでいた。鳳子の繊細な心を大事にしたいと思い、ずっと彼女が話すタイミングを待っていたが、最近では鳳子が自ら孤独を選ぶようになってしまった。

(もう、さすがに見過ごせない)

 仁美里は、鳳子がこれ以上悩み続けることも、孤独に閉じこもることも許せなかった。だからこそ、痺れを切らして、彼女の本心を引き出す決意をしたのだ。

 辿り着いたのは校庭にある体育用の倉庫だった。仁美里は無言で扉に鍵をかけ、さらに近くにあった重い物を使って扉を塞いだ。今日は午後に体育の授業は無く、ここを封鎖しても誰にも気付かれないだろう。鳳子は少し戸惑いながらも、静かに仁美里の行動を見守っていた。

 仁美里は扉の封鎖を終えると、静かに振り返り、鳳子の方へ向き直った。倉庫の中は薄暗く、昼間の熱気が重たく漂っていた。体育館の窓から差し込むかすかな光が、積み重ねられた体育道具の影を伸ばし、空気に浮かぶ埃がゆっくりと揺れていた。その中で、仁美里は鳳子を促し、壁際に敷かれたマットの方へと連れて行った。

「ここに座って」

 仁美里は優しく鳳子の肩を押し、鳳子は言われるままにマットの上に腰を下ろした。鳳子の不安げな表情を見つめながら、仁美里はその正面に座り、背後の壁にもたれかかるようにして鳳子と向き合った。

「ねえ、私のこと、嫌い?」 

 静かで冷静な声で、仁美里は問いかけた。倉庫の中に響くその言葉は、異様なほど穏やかだったが、鳳子にとってはその一言が鋭く心を突き刺す。瞳を見つめられた鳳子は、驚きと困惑が入り混じった表情を浮かべた。

「大好きだよ……! どうしてそんなこと、聞くの……?」

 焦りが滲む声で、鳳子は慌てて答えた。仁美里がそんなことを聞く理由がわからず、彼女の問いかけに鳳子は必死に自分の気持ちを伝えようとした。言葉に詰まりながらも、なんとか自分の想いが伝わるようにと、声を震わせて仁美里に向けた。

 もちろん、仁美里は鳳子が自分を好きでいることを知っていた。けれど、だからこそ、この質問をぶつけたのだ。

「あなたが、何も話してくれないからよ。私のこと、信用できない?」

 仁美里の瞳は、鋭さを持ちながらもどこか切なげだった。鳳子が心に抱えたものを打ち明けてくれないまま、日々が過ぎることに、仁美里は焦りと不安を感じていた。鳳子の心の奥に隠された何かに触れたかった。

「信用してる……! 本当に……!」 

 鳳子は大きく首を振り、焦りに満ちた表情を浮かべながら答えた。自分の気持ちが伝わっていないことが怖くて、思わず仁美里にしがみつきたくなった。だが、それでもまだ、心の中で何かを押し留めていた。

「じゃあ、話して。何を悩んでいるの?」

 仁美里の優しい声が、静かに倉庫の中に響いた。暫くの沈黙の後、鳳子は膝を抱えて口を開く。

「にみりちゃんは……いつ、かみさまになるの?」

 鳳子の声はかすれて、静かな倉庫に小さく響いた。仁美里は少し考え込むようにして、優しく答えた。

「正確な時期はわからないけど、『せいたい』っていう状態になったら、次の巫女が現れるってパパが言っていたわ。だから、恐らくその時が、私がかみさまに捧げられる時なんだと思う」

「……せいたいって、なぁに?」

 鳳子は首をかしげ、少し不安げに尋ねた。目の奥に隠された寂しさが、仁美里には痛いほど感じられた。

「さぁ? 私もよくわからないの。少なくとも、大人になる前にその状態になるみたい。だって、神事の正装は全部子供の体に合うように作られているから」

 仁美里は淡々と説明したが、その言葉が、鳳子をさらに寂しくさせていることに気づいていた。鳳子は「そっかぁ……」と小さく呟き、肩を落とし、膝に顔を伏せた。その瞬間、仁美里の胸には焦りと不安が押し寄せた。

(ふうこの悩みがわからない……)

 仁美里はそんな自分の無力さに苛立ちを覚えた。鳳子の背中にそっと手を伸ばしたが、途中で止めた。自分の行動が鳳子をさらに傷つけてしまうのではないかと、仁美里は恐れていた。どこまで踏み込んでいいのか、その線がわからなかったのだ。

「……ねえ、にみりちゃんママって、どんな人?」

 鳳子の小さな声が、膝の上に伏せた顔のまま響いた。どこか儚く、今にも消えてしまいそうなその声は、仁美里の心を締め付けた。

「物心ついた時にはもういなかったの。私を育てたのは乙咲家に仕える使用人の人たち。……ママについて何度か聞いたことはあったけど、誰も教えてくれなかったわ」

 仁美里は少しだけ目を伏せ、寂しげな記憶を思い返した。けれども、その言葉にどこか清々しさもあった。鳳子は何かを言おうとして、申し訳なさで顔を上げた。だが、仁美里の横顔に悲しみは見当たらず、代わりに彼女の強さと決意を感じ取った。

 その時、外から無邪気な子供たちの笑い声が近づいてきた。昼食を終えた子供たちが、校庭で遊び始めたのだ。仁美里と鳳子は一瞬、現実に引き戻された。

「えー、鍵が掛かってて開かない!」

「だから言ったじゃん! 午後は体育ないんだから、閉まってるんだよ! 教室のボールで遊ぼうよ!」

「ちぇー。教室のボール、ぼろいから嫌なんだよなー。めんどくせー」

 扉の前で立ち止まっていた子供たちの声が楽しげに響く。二人は身を潜めるようにして耳を傾けたが、しばらくしてその足音は遠ざかっていった。倉庫の中に静けさが戻り、二人は再びこの閉ざされた空間に包まれた。

 仁美里と鳳子は、その瞬間、この場所が誰にも侵されない二人だけの安全な場所であることを改めて感じた。それは、秘密を共有し合う場所でもあり、心の奥底に隠してきたものを引き出すための場所でもあった。

 今なら、全てをさらけ出せるかもしれない――鳳子はそう感じ、ゆっくりと口を開いた。

「……あのね、にみりちゃん」

 その言葉に、仁美里は息を潜め、真剣な眼差しで鳳子を見つめた。鳳子の声の震えや、目に宿る微かな決意を感じ取ったからだ。仁美里の瞳には、どれほど重い悩みでも、決して見捨てないという強い意志が込められていた。

「私にとって、お母さんの帰りを待つってことは……未来を生きるための理由だったの。……でも、お母さんはもう帰ってこない。私が笑顔でいる理由も、明日を生きる理由も、なくなっちゃった。……ふうこは……何のためにここにいるのか、もうわからない……」

 鳳子の声は次第にかすれ、最後の言葉は、ほんの微かなささやきになった。瞳の奥には深い悲しみではなく、虚しさが満ちていた。その虚無感が、彼女の存在そのものを打ち消しているかのようだった。仁美里は鳳子の姿を見て、彼女がまるで空っぽの器のように感じた。

 仁美里の胸に、鳳子の孤独と絶望が痛いほど伝わってきた。しかし、その一方で、理解に苦しんでいた。鳳子にとって、あれほど酷い母親であった宵子が、どうして生きるための希望になっていたのか。母親の存在は、鳳子にとって苦しみであり、鎖でしかないはずなのに。それでも、鳳子はその鎖に縛られ、囚われていた。

「ふうこ。人はね、生きる理由なんてなくても、生きていていいのよ? 学校の子供たちや、村の人たちを思い返してみて。彼らがどんな運命を背負って生きていると思う? ……何も背負っていないわ」

 仁美里は鳳子の手を優しく取って、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。心の奥底から、鳳子を母親の呪縛から解放したいという思いが溢れていた。自分が支えになれるなら、全力で支える。だが、鳳子の顔にはさらに深い苦しみが浮かび、彼女はゆっくりと視線を逸らしてしまった。

(これも違う……)

 仁美里は一瞬の落胆を覚えたが、すぐに考えを巡らせた。鳳子の内に潜む本当の苦しみは何なのか? どうすれば彼女を解放できるのか? 仁美里は、その答えを必死に探し続けた。もしかしたら、自分が誤って鳳子の心の深い傷に触れてしまうかもしれない。しかし、もしそうなってしまっても、仁美里は全力で彼女を癒すと決意していた。どんなに時間がかかっても、鳳子のために在りたい――そう強く願いながら。

「私が貴方の生きる理由になるわ」

 仁美里の声は凛然と響き、倉庫の一角に深い静寂をもたらした。その言葉には迷いもなく、まるでずっと前から決まっていた運命を告げるような響きだった。

 鳳子はその言葉に驚き、仁美里を見つめた。彼女の瞳は揺らぎ、これまでの世界が一瞬にして塗り替えられるかのようだった。母親を失い、生きる意味を見失っていた自分にとって、誰かが「生きる理由になってくれる」と言うことが、どれほど救いの言葉であるか。それが、彼女の胸に深く響いた。

 一瞬、鳳子の心は温かさで満たされ、仁美里がそばにいてくれるという安心感が彼女を包み込んだ。彼女は望んでいたのだ――正しく生きる為に、誰かに求められること。しかし、その温もりが広がるにつれて、胸の中に封じ込めていたもう一つの感情が、ゆっくりと浮かび上がってきた。
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