6-4 君を取り戻す
村は炎と混乱の中にあった。突然の雷鳴と炎が村を包み、仁美里が冷たい笑顔で村を歩くたびに、家々は瞬く間に燃え広がっていく。彼女の瞳は異様な輝きを放ち、人々の悲鳴を無視して無邪気に舞い踊る。鳳子はその手を引かれながら、何かが狂っていると感じていた。仁美里の手はあたたかく懐かしいはずだったのに、今は冷たい恐怖が背筋を駆け巡っていた。
村人たちは逃げ惑い、誰も仁美里に近づこうとしない。彼女の周囲に広がる炎は、すべてを拒み、燃やし尽くしていた。彼女は楽しげに、笑いながら炎を操り続ける。まるで、この破壊がすべて鳳子のためだと言わんばかりに。しかし、鳳子にはその狂気が恐ろしいものにしか見えなかった。
「にみりちゃん……」
鳳子は何度も呼びかけたが、仁美里はまるで彼女の声を聞いていないかのようだった。その瞳は、どこか遠くを見つめているようで、もうそこに仁美里の面影はない。村の人々が彼女に立ち向かおうとするたびに、業火が彼らを包み、容赦なく焼き払っていく。鳳子の手から仁美里の手が滑り落ちた。だが、仁美里は気づくこともなく、さらに村を破壊していく。その姿は人の形をしているはずなのに、影はもはや人間ではないもののように揺れていた。
鳳子はその場に膝をつき、無力感に襲われた。仁美里はもう戻らないのだろうか――その時だった。
突然、清弥が現れた。その手に一本の日本刀を握りしめていた。その剣を見た瞬間、鳳子は直感でそれが普通のものではないと感じた。
「にみりちゃんパパ……それ、なにを……?」
鳳子が震える声で尋ねた。
清弥は無言のまま、冷たい目を鳳子に向けて立っていた。そして、彼が手にしている剣をゆっくりと鞘から引き抜いた。漆黒の刀身は、まるで全ての光を吸い込んでしまうかのように鈍く反射し、炎の揺らめきに包まれていた。闇を纏ったその剣は、不気味なほどに重く、神聖さと呪われた力が同時に感じられる。
「これ燼滅刀と言ってな、この村に伝わる神殺しの妖刀だ」
清弥は冷静に語った。
その言葉に、鳳子の胸に小さな希望が灯った。神殺し――それなら、仁美里を操る神を倒せるのではないか? そして、彼女を救うことができるのではないか? その考えが、鳳子の心に一瞬の光をもたらした。
「じゃ、じゃあ……にみりちゃんを乗っ取ってる神様を、殺せるんだね!? にみりちゃんは助かるんだよね……?」
鳳子は戸惑いながらも希望に満ちた声で清弥に問いかけた。
しかし、清弥は無言だった。答えは返ってこない。鳳子は息を詰め、冷や汗が背中を伝う。不安が胸を締め付け、希望が揺らぎ始める。
その瞬間、清弥の冷たく無感情な視線が鳳子を捉えた。そして、無言のまま燼滅刀を鳳子に向け、まるで鳳子自身に対して宣告するかのように低く語り始めた。
「今から起こることは、お前の未来の姿でもある。逃れることは決して許されない。その目に焼き付けて覚悟しておくことだ」
「……にみりちゃんパパ……?」
鳳子の声は震え、嫌な予感が全身を駆け巡った。彼の言葉の意味が、徐々に頭の中で形を成し始める。清弥が言おうとしているのは、神を討つという行為が単純に仁美里を救うものではないということ――そして、彼女自身もまた、その宿命から逃れられないという暗示だった。
胸の奥に広がる不安は、鳳子を言葉を失わせた。清弥の目には確信が宿り、そして再び炎の中で舞う仁美里に視線を戻すと、鳳子の叫びを無視して、燼滅刀を構えた。
「や、やめて……! にみりちゃんを――」
鳳子の声はもはや清弥に届くことなく、彼は迷うことなく刀を振り翳した。その刃は、炎に照らされながら閃光のように仁美里へと向かっていった。
鳳子は無我夢中で仁美里の前に飛び出した。清弥が振り下ろした刀が、鳳子の肩にかすめ、鋭い痛みが走る。体が痺れるような感覚に襲われたが、それでも彼女は仁美里を守るために立ち続けた。だって、仁美里だけは――。
でも、ふと気づく。仁美里は無傷だった。鳳子が守ったから? 違う。刀は、仁美里に届く前に止まっていた。仁美里はその剣を瞬く間に奪い取り、清弥を躊躇なく切り捨てた。
血が飛び散り、清弥は地面に崩れ落ちた。鳳子はその光景を見た瞬間、はっきりと悟った。目の前にいるのはもう仁美里ではない。彼女は、神によって操られているのだ。
「にみりちゃん……! にみりちゃん……!」
何度も叫んだが、仁美里は笑いながら村人を次々に焼き払い、剣を振り回して命を奪っていく。鳳子は、その姿を見ているしかなかった。恐怖と混乱が鳳子を動けなくしていた。
でも、わかっていた。彼女はもう、私の知っている仁美里ではない。目の前にいる彼女の姿は変わらないけれど、その瞳には、あの優しさも温もりも宿っていない。私は何度も、仁美里の名を呼んだ。しかし、呼びかけは虚空に吸い込まれるばかりで、彼女の耳には届かなかった。
――どうにかしなければ――。
鳳子の胸中に、焦燥と絶望が渦巻いていた。しかし、その時ふと閃くものがあった。緋焔蝶――あの不思議な蝶の姿が脳裏をよぎった。いつか学校の帰り道に出会った、幻想的な蝶が導いた古びた神社。あそこへ行けば、もしかしたら仁美里を救う手がかりが見つかるかもしれない。
その瞬間、決意が固まった。鳳子は意を決し、荒れ狂う炎の中で舞う仁美里の姿を一瞥し、すぐさま立ち上がった。そして、燃え尽きそうな村の背後にある、その古びた神社を目指し、一歩を踏み出そうとした。
しかし――
「どこへ行くの?」
背後から、冷ややかで無機質な声が鳴り響いた。その瞬間、着物の襟がぐいっと引っ張られ、鳳子はバランスを崩し、そのまま地面に叩きつけられた。息を呑む間もなく、仁美里が馬乗りになり、その手が無表情のまま鳳子の首に食い込んでいく。喉を圧迫され、呼吸が一気に止まる感覚が全身を襲った。
「に、みり、ちゃん……」
かすれた声が鳳子の口から漏れる。
彼女の目の前には、仁美里の無機質な金色の瞳があった。炎に照らされ、その瞳は不気味な赤い光を反射している。そこには、かつての優しい仁美里の面影はなかった。冷たく、無表情なまま、ただ無言で鳳子の首を絞め続ける。
――やめて……にみりちゃん……。
鳳子は何とかその手を振り払おうと仁美里の腕を掴むが、彼女の手の力は恐ろしいほど強かった。まるで、鋼の鎖が首に巻き付いているようだ。鳳子の目の前が徐々に暗くなり、視界がぼやけていく。意識が遠のいていく中、鳳子の心にある光景が蘇る。
宵子の姿。かつて母に首を絞められ、水底へと沈められたあの日の記憶が鮮やかに蘇った。あの時と同じだ。恐怖が胸を抉り、過去の傷が再び鳳子を締め付ける。あの時と同じように、愛する人の手で命を奪われようとしている――。
(でも……違う)
鳳子の心に、絶望だけではなく、かすかな反発が湧き上がる。かつての宵子の冷たさとは違う。目の前の仁美里の瞳には、まだ何かが残っているはずだ――。このままでは終わらせたくない。鳳子は残りの力を振り絞り、必死に手を伸ばした。
「にみりちゃん……ふうこを、一人にしないで……」
その声が届くかどうか、鳳子にはわからなかった。ただ、仁美里を取り戻したいという想いが、最後の希望となって鳳子の中で燃え続けていた。
冷たい夜風にかすかに揺れる彼女の髪が、苦しそうに喘ぐ息の音に混じって微かに響く。
「……どうして、そんな顔をしてるの?」
仁美里の瞳が微かに揺れて、締め上げる手の力が緩んだ。その隙に鳳子は仁美里の手から逃れ、距離を取る。咳込みながらも、仁美里の様子を伺う。そこには困惑しながらも、怯えた目で鳳子に何かを語り掛けようとする仁美里がいた。その姿を見て、鳳子は仁美里が戻ってきたのだと理解して、手を伸ばした。
「にみりちゃん、わたしがわかる? ふうこだよ……?」
鳳子の手が仁美里に触れようとした時、仁美里は悲鳴を上げながら鳳子を突き飛ばした。目を見開き、何かに怯えるように暴れ回る仁美里。現実と幻想の境界が崩れ、彼女は混沌の中に囚われていた。
鳳子は必死に仁美里を駆け寄り呼び戻そうとしたが、彼女の瞳にはまだ現実が映っていなかった。何かから逃げるように、鳳子を押しのけ、炎の中を無秩序に駆け回る。細い体からは想像もつかないほどの力で、鳳子を突き飛ばす仁美里。まるで彼女を支配する擬蟲神が、その内に神秘的な力を与えているかのようだった。
しかし、鳳子はそんな仁美里を見捨てるわけにはいかなかった。悔しさを飲み込みながら、彼女は必死に古き神社の方へと駆け出した。
powered by 小説執筆ツール「arei」