6-5 ともだち

 鳳子は、いつしかあの古い神社に辿り着いていた。かつて、炎の蝶を見かけた場所だ。片手には、仁美里の目を盗んで奪い取った燼滅刀を握りしめている。村の有事に、清弥がこの刀を持ち出したのには理由がある。神主が使うもの――それは何か重要な力を秘めているのではないか。そう考えた鳳子は、藁にもすがる思いで神社に保管されていた古い書物を漁り始めた。

 古びた紙の匂いが漂い、指がページをめくるたびにかすかな音が響く。見覚えのある一節に目が止まる。

【その身に宿りし神の意志、火と共に荒び出で、鋼によりて焼き尽くされん。されど、巫女に宿りし者を討つも、復たその憎悪を呼び覚ますを忘るべからず。すべては燼滅刀にて、全き終焉に至らしむ】

 その難解な文言に、鳳子は思わず眉を寄せた。

「これ……じんめつとう、って読むのかな……。ま……? ぜん……? 終わりって言う漢字はわかるけど……」

 必死に解読しようとするが、どうにも意味が掴めない。さらにページをめくり、何か手掛かりはないかと探すと、挿絵が目に飛び込んできた。そこには炎の中を舞う巫女、異形の存在を刀で切り付ける場面、そして巫女をその刀で斬りつける場面が描かれていた。

「……やっぱり、この刀で斬るしかないの……? ……わ、わかんないよ……こんなのじゃ……!」

 鳳子の焦りが、心の中で膨れ上がる。彼女の頭の中を駆け巡るのは、清弥がこの刀を持ち出したという事実だ。それは、仁美里を斬ることで何かが変わると信じての行動だったのか。いや、清弥は燼滅刀を使って、仁美里を救おうとしたのではなく、殺そうとしていたのか?

「この刀で、にみりちゃんを斬れば……救えるの……?」

 その問いが頭を離れない。鳳子は唇を噛みしめ、混乱の中で必死に答えを探し続ける。しかし、その思考を打ち砕くように、床が軋む音が背後から響いた。反射的に振り返ると、そこには仁美里が立っていた。微笑を浮かべて、じっとこちらを見つめている。

「鳳子、探したのよ。だめじゃない、私から離れちゃ。その刀は危ないわ。いい子だから、私に渡しなさい」

 その声は甘く、優しい。だがどこか冷ややかで、不気味な何かを含んでいた。

「にみりちゃんなの……?」

 鳳子は、目の前の仁美里が彼女ではないと感じながらも、確かめずにはいられなかった。仁美里は小さく肩をすくめて微笑んだ。

「あたりまえじゃない。それとも、私が別の何かに見える?」

「見える……」と言いたかった――あなたはにみりちゃんじゃない、と。しかし、その言葉を飲み込んだ。目の前にいる得体の知れない存在を怒らせたくはなかった。

「じゃ、じゃあさ……もうこんなことはやめようよ。私たちで、この村を出よう? 誰も知らない場所で、二人でずっと一緒にいようよ。ね? にみりちゃん……」

 鳳子は、村の崩壊が止まらないことを理解していた。それでも、彼女はまだ助けたいと思う命があった。仁美里と、どこか遠くで静かに暮らせればそれでいい――そう信じたかった。しかし、その瞬間、仁美里の表情が変わり、恐ろしい低い声で返事が返ってきた。

「こんなことをやめろ、ですって?」

 その声は、鳳子の全身を芯から震え上がらせるほどに低く、暗い響きを持っていた。

「やめられるわけが、あるか!!!」

 仁美里の叫びが、夜空に轟いた。その声はまるで大地を震わせるかのように響き、彼女の周囲に渦巻く炎が激しく燃え上がる。瞳は憎悪に満ち、炎の赤がその奥で揺れていた。狂気に満ちた笑みを浮かべ、続けざまに言葉を吐き出す。

「何度だって蘇って、何度だって焼き尽くしてやる!! 何百年も、何千年も、何万年も……この世界が終わろうとも、その先の果てまで、私は貴様らを呪い続ける!!」

 燃え上がる炎は村を焼き、すべてを灰に変えていく。仁美里の周囲を包む冷たい狂気と、地獄のような熱気が混ざり合い、彼女の叫びは憎しみそのものだった。

「『おまえたち』が犯した罪を、『我らは』決して許さない!! 忘れない!! 海を越えて逃げようとも、地獄の果てまで追いかけ続ける!!!」

 仁美里が叫びながら腕を振り上げると、目に見えない力が鳳子を捉え、彼女の体を宙へと投げ飛ばした。鳳子は境内の石畳を転がり、咳き込みながらも何とか体を起こす。彼女の瞳は混乱と痛みを含んでいたが、それでも仁美里を見据える。

 社殿の前に立つ仁美里の姿は、もう人間ではない。擬蟲神が彼女の体を支配し、凄まじいオーラを放っている。空気は歪み、周囲の温度が一気に上昇していた。

 鳳子は深く息を吸い込み、空を見上げる。月は雲に覆われ、わずかに光を漏らしているだけだ。しかし、その微かな光が希望のように思えた。彼女は瞳を閉じ、一度ゆっくりと息を吐く。

「……にみりちゃんは渡さないよ」

 刀をしっかりと握りしめ、鳳子は決意を胸に擬蟲神に立ち向かった。

 擬蟲神も、その変化に気付く。鳳子の瞳には、先ほどまでの怯えや迷いが消え、代わりに強い覚悟が宿っていた。

(所詮は人の子よ……)

 擬蟲神は手を横に伸ばし、その指先から炎を生み出した。彼女の指揮に従うように、炎は意思を持ったかのように鳳子へ向かって飛びかかる。炎は彼女を包み込み、焼き尽くす――はずだった。

 しかし、鳳子はその炎の中を駆け抜けていた。燃え盛る炎の壁を潜り抜け、まっすぐに擬蟲神へと向かっていく。彼女の目には決意が宿り、刀を振り上げた。

 擬蟲神はその動きを捉えていたが、避ける余裕はなかった。彼女は咄嗟に両脇に炎を出現させ、その熱で鳳子を怯ませようとした。しかし、鳳子は炎に怯むことなく、刀を振り下ろした。

「うっ……!!」

 鳳子の刀は、仁美里の右肩から腹部にかけて切り裂いた。だが、その傷は浅く、致命傷には至らなかった。それでも、擬蟲神は妖刀の力に苦しめられ、体を歪めて叫び声を上げた。

 鳳子の着物に炎が燃え移り、彼女はふらつきながらも近くの池へ飛び込んだ。冷たい水が彼女を包み込み、燃える痛みを消し去る。池の中で息をつき、顔を出すと、擬蟲神の視線が憎しみに満ちて彼女を見下ろしていた。

「……お前、友達じゃないのか? 何の躊躇いもなく切り付けるとはな……。それに……お前はあの時……」

 擬蟲神の声は嘲るようだった。鳳子が刀を下した瞬間、彼女の顔には微かに笑みが浮かんでいたのだ。恍惚としたその表情は、擬蟲神にとって理解しがたいものだった。

「……友達じゃないよ」

 鳳子は水から立ち上がり、髪から滴る水を絞る。そして、次に着物を絞り、体を震わせてから言葉を続けた。

「にみりちゃんは、私の友達にはなってくれなかった。でも……彼女は私にとって、大切な人。愛しい人……だから、お前には渡さない。かみさまが彼女を奪うなら、私が彼女を終わらせる。彼女の最後の瞬間だって、私だけが独り占めするわ」

 鳳子の言葉には、強い決意と、冷たい覚悟が込められていた。彼女の瞳は、もはや躊躇することなく、仁美里――いや、擬蟲神を見据えていた。

 鳳子は再び燼滅刀を構えた。その黒い刀身に映る自分の姿を見つめ、胸に広がる複雑な感情を押し殺そうとする。初めて仁美里を見た時から、彼女を求める強い欲望があった。それは歪んでいることも自覚していた。鳳子は、痛みでしか他人と絆を結ぶことができなかったから、その欲望がいつか仁美里を壊してしまうのではないかと、恐れていた。けれど、それが彼女の本心だった。

 しかし、仁美里が鳳子を受け入れてくれたその日から、鳳子は自分の居場所を見つけたように感じた。善悪の区別も、他人の目も関係ない。「世成鳳子」として、本当の自分でいられる。それができたのは仁美里がいたからだった。

 ――にみりちゃんが全てなんだよ。

 その言葉が静かに口をつくと同時に、鳳子の体は自然に動いていた。足元の土を蹴り、全身で風を切りながら、擬蟲神に向かって一気に駆け出す。黒い刀身が冷たい光を放ち、まっすぐに仁美里の胸元へと狙いを定めた。その瞬間、擬蟲神が何かを感じ取ったのか、空気が一瞬で張り詰めた。擬蟲神の金色の瞳が鳳子を捕らえ、抵抗するように身を捩じらせた。しかし、その瞬間、仁美里の体は静かに両腕を広げ、無防備に鳳子を迎え入れた。

「にみりちゃん……?」

 鳳子は瞬間的に感じた違和感に戸惑いながらも、刀は勢いを止めることなく、仁美里の胸元に深々と突き刺さった。

 鋭い音が空気を裂き、鳳子の手の感触を通じて、刃が肉を貫く感覚が確かに伝わる。しかし、擬蟲神の暴力的な力はどこにも感じられなかった。逆に、仁美里の体から伝わってくる温もりは、まるで静かに待っていたかのような優しさに包まれていた。

 鳳子が驚きの表情で目を見開くと、仁美里はそのまま、微笑むようにゆっくりと両腕を鳳子に回した。刀を胸に深く受け止めたまま、仁美里はまるで鳳子を抱擁するかのように優しくその体を包み込む。

「……よく、できたわね。ふうこ……えらいわ……」

 その声は、禍々しさとは無縁の、愛情に満ちた仁美里の声だった。鳳子は驚いて顔を上げると、苦痛に顔を歪めながらも微笑む仁美里がそこにいた。胸が締め付けられるような感覚に襲われ、仁美里の命が尽きようとしているのが、痛いほどに伝わってきた。呼吸のたびに血が溢れ、温かな血が鳳子の頬を伝う。

「にみ……にみりちゃん……」

 頭が真っ白になり、現実が飲み込めない。いつから仁美里は意識を取り戻していたのか? それとも、燼滅刀によって擬蟲神から解放されたのか? いずれにせよ、彼女が死にゆく姿を前に、鳳子はどうしようもなく取り乱していた。何か助ける方法はないかと考える暇もなく、仁美里の体は力を失い、その場に膝から崩れ落ちた。

「にみりちゃん!! 今助けを呼ぶから……! 死なないで……お願い、死なないで……いやだぁ……!」

 鳳子は仁美里を抱きしめながら、彼女の呼吸が次第に弱くなっていくのを感じていた。命が徐々に消えゆく無力感に押しつぶされ、息が詰まりそうだった。仁美里は鳳子を優しく抱き寄せ、冷たい地面に寝かせた。その瞳には、まだどこかに優しさが残っていた。

「……よく聞いて……巫女は、擬蟲神を殺すための……器らしいわ……」

 声はかすれて途切れ途切れだったが、仁美里の瞳は変わらず鳳子を見つめていた。温かな愛情に包まれながら、彼女は静かに続けた。

「私が死んだら、今度は……貴方に擬蟲神が宿る……ことになるの……」

 その言葉に、鳳子の心はかき乱された。仁美里は、巫女として擬蟲神を鎮めるための器だった。彼女が命を失えば、擬蟲神は次に鳳子を器に選ぶ――その現実が、鳳子を深い絶望へと引きずり込んでいく。

「ふうこ……貴方は擬羽村の……最後の巫女……として……擬蟲神を鎮める方法を……見つけて……お願い……私が叶えられなかった夢を……叶えて……」

 仁美里の願いは、誰もがもう苦しまないように、巫女を捧げる時代を終わらせること。それを実現するためには、擬蟲神をこの世から消し去るしかない――と、鳳子は理解した。しかし、本当にそんな方法があるのだろうか? 彼女はその答えを見つけられず、困惑しながらも仁美里を見つめ続けた。

「に、にみりちゃんは……どうなるの? もう人間には戻れないの……?」

 震えた声で問いかけた鳳子の瞳には、切実な願いが込められていた。仁美里の瞳は静かに揺れ、月光が淡く彼女の顔を照らしていた。その中には、遠い寂しさが浮かんでいた。

「きっと、もう……戻れない……」

 その言葉は冷たい風のように鳳子の心を突き刺した。彼女の頬を涙が伝い、震える手で仁美里の頬に触れた。まだ微かに温もりが残っていたが、それは消えゆく命の儚い残り火のようで、鳳子の胸をさらに締め付けた。

「……だから、私が完全に擬蟲神になってしまう前に……助けてね……」

 仁美里は、寂しさと切なさを湛えたまま、無邪気な笑顔を浮かべた。その微笑みが、最後の別れのように鳳子の心に突き刺さる。彼女を助けられなかったという現実が、鳳子にとって何よりも重く、逃れられない事実だった。

「ち、誓うわ……! 私が必ず呪いを解いて、神様を鎮める……! そして今度こそ、にみりちゃんを助けてみせる! ……だから、だから……!」

 鳳子は涙ながらに叫び、その言葉を決意に変えた。けれど、その声にはどこか不安が混じっていた。彼女の胸には、自分が仁美里に何もできなかったという罪悪感が深く根付いていた。

 仁美里はそんな鳳子を見つめ、微笑んだ。そして、優しく耳元で囁いた。

「また……隠し事して……悪い子ね、ふうこ」

 その瞬間、仁美里は鳳子の首筋にそっと歯を立てた。鳳子は驚き、微かな悲鳴を上げたが、その痛みは弱々しく、まるで別れの合図のように切なさが込められていた。その痛みが、鳳子に勇気を与え、心の奥に秘めていた本音を口にする力をくれた。

「……にみりちゃん、あのね……」

「なぁに?」

 仁美里の声は、相変わらず優しかった。その優しさに鳳子は胸を震わせながら、言葉を紡ぎ出した。

「私……あなたとお友達になりたいの……」

 ずっと望み続けてきた言葉。どんなに苦しくても、この瞬間だけはその想いを伝えたかった。仁美里が消える前に、最後にこの想いを伝えたかった。

 仁美里は驚いたように目を見開き、次の瞬間、静かに笑みを浮かべた。

「くすくす……私、もうとっくに貴方とは友達だったつもりよ。でも、ごめんね。言葉にしなきゃ伝わらないものよね」

 仁美里は鳳子をそっと抱きしめ、その抱擁は温かく、生きている証のようだった。胸に深く刺さった妖刀の痛みは、もう彼女には届いていないかのようだった。

「お友達に、なってあげる。貴方は私の最初で、誰よりも大切な親友よ」

 その言葉が、仁美里の最後の言葉だった。静寂が訪れ、鳳子の涙は止まらずに頬を伝い続けた。
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