すだち
夏の夕飯といえばそうめん、そうめんと言えば夏の夕飯である。
ぱっと茹でてぱっと食べられる、って言うても、まあ茹でるのとか水で冷やすのでガス台の前に待ってる時間があんねんけどな。
入道雲がもくもくと空に浮かんでいるようなクソ暑い時期に、冷やしうどんを乾麵から作るて、お前はあほか、と麦茶を飲みながら同居人の背中を見ていると、出先からそのまま着替えもせずに夕飯を作ってる男の尻ポケットからは、最近買い直したばかりの黒い財布が顔を覗かせている。
「おい、こないだ神戸行ったときの切符の払い戻しとホテルの領収書早く出してくれ、て若狭が言ってたぞ。」
雨で電車止まりました、てこいつが言うて来たのが先週の話やから……と壁掛けのカレンダーを見上げる。
あ、もうそろそろ月またいでまうな。
「今から葱切るので手が離せないですから、僕の財布から好きに取ってってください。どっか探したら出て来ると思います。」
好きに取って、て、お前なあ。
「それセクハラやぞ。」
「何でですか?」
「何でて、」
(お前、財布ん中にいっつもゴム入れてるやんけ。補充されてなかったら、それはそれで嫌やて思てまうし、……メシ食うときにまでそないなこと考えたないぞオレは。)
とか、言えるかいな。
「……財布、尻ポケットに入ってんぞ。」
「一緒に暮らしてて、尻くらいどうもないでしょう。それともついでに尻触ってく腹積もりでもあるんですか?」
「ないわ!」
人が料理してるときにどうこうしたいて言うドアホはお前くらいじゃい。
「それならええやないですか、包丁使う前にはよ取ってってください。」と言って男は背を伸ばした。
「……兄弟子を好きに使いよって、」とぶちぶち言ってポケットから財布を引っ張り出すと、四草の手元からは、そこそこリズミカルな包丁の音が聞こえて来た。こいつが子どもが出来てからえっちらおっちら自炊を始めて何年経ったか。
折財布の中身は、まあレシートやらなんやら金額の小さいのはほとんど外で捨てて来とるからか、スカスカしてて確かに分かり易い。
いい年して折財布なあ、とは思うけど、長財布ていうのもなんでもほいほい入れられるのが逆に後からめんどい話になるていうか、邪魔っちゃあ邪魔やねんな。
引っ張り出したレシート、と思ったのはなんや形が真四角のキラキラしたカードやった。
「……なんやこれ。」
どっかの店のスタンプカードにしてはえらい金掛かってそうやな。
財布から角っこ持って引っ張り出したら出て来おった。
「コレ、オヤジの写真と違うか……?」
まごうことなき、日暮亭のロビーに飾ってあるオヤジの写真である。ホログラムみたいな加工がされててなんや別人に見えるけど。
「……それ、今年から新しくなった会員証に付けて渡すんやそうです。若狭から試しに刷ったのを貰ろたんで、財布の奥に戻しといてください。」
「いや、お前、なんでこんなもん財布に仕舞てんねん。」
「師匠の写真ですよ。失くしでもしたらゲンが悪いやないですか。」
「そらま、そうですけどぉ。」
子どもの写真もオレの写真も入れてへんのに、毎日オヤジの顔は見てるんか~~~~い!
あんまりこういうの言いたないけど、お前、草若て名前が付いたらほんまはなんでもええんとちゃうんか?
そう思ってもオヤジの顔のシールは破けへんし、財布に戻してから他の中身をぽいぽいと外にうっちゃってたら、やっと例のホテルの領収書が出て来た。
ホテルの名前もシティホテルていうよりラブホみたいな名前で、どっかで女引っ掛けて来たんと違うか、と勘繰ってしまうのが妙に腹立たしい。
「これ、預かっとくぞ、後で若狭に渡しとくわ。」
「草若兄さん、そんな子どもみたいに膨れんといてください。すぐにうどん出来ますから。」
おい、オレはただ腹減ってんのとちゃうぞ、と言おうとした途端にぐう、と鳴った。
格好付かんなあ、もう。
「そもそも、オレにはそのカードの話来てへんで。」
「カードていうか、シールらしいですよ。締め切り前に急いでひねり出したアイデアで草若兄さんには許可取ってへんかったから、一番上出来に仕上がったヤツで黙っといてくれ、て言ってましたよ。」
喜代美ちゃん……。
もしかしてこいつの口止めの仕方、世界一上手いんと違うか。
「師匠の肖像権の分や、て言って、後で百万くらい貰っといたらええんと違いますか?」
「百万て。それだけ取ったら日暮亭に回せる金のうなってしまうで。日暮亭の年会費かて、お客が入会しやすいようにて、高くはしてへんやろ。」
「そりゃまあ、大阪のしわい客が相手ですからね。」と四草も分かったような口を利く。
「あのロビーの写真使ってんなら、うまい事撮れてたし、オヤジも日暮亭のためなら一肌脱ぐて言うと思うから、まあそれはええんやけどな。」
前に会った時に、底抜けステッカーに代わるグッズ新しいのが作りたいけど何がええですか、って相談もされてたしな。
そもそも、こんなもんを四草がオレに隠して持ってんのが問題なんや。
この浮気もんが。
「そういえば、兄さんまた若狭と会うてきたんですか。」
あ、こいつ誤魔化しよった。
「お前ほんまにしつっこいな~、オレが若狭と会うのはデートとちゃうて言ってるやろ。いつまでそれ言い続けるつもりや。」
「あっちが言わないから僕が言ってるだけです。草々兄さん、あれで草若兄さんは甘いですからね。」
そんなわけあるかい、と思ったけど、そう言えばあいつこのごろ何も言うてこんな……。
自分の奥さんが今でも見るたびに可愛いなってんのに、あいつの目はどこに付いとんのや?
「あいつほんまにアホちゃうか。」と言うと、四草がこっちをじろっと睨んで来た。
……おい、しぃ、お前も腹減ってんのと違うか?
「まあええやんか。喜代美ちゃんが振込みに掛かる手数料また高なって、ていうから取りに行ったってるんや。ついでやついで。」
「振込の手数料より高いもん食うてたら意味ないんと違いますか。」
「そらまあそうかもしれんけど。だいたい、お前が仕事の日程をそこのカレンダーに書いとくのをちょくちょく忘れてるからこないなことになってるんやで。」
「なんで僕の仕事の話が、若狭と外で会う話になってるんですか。」
「天狗座で若狭とお前の仕事の日どりの話なんかしたら、若いヤツらが『やっぱようけ仕事あるのはイケメンなんや~!』て妬むやないか。」
「それやと草若兄さんが兄弟の中で一番イケメンやて話になるんと違いますか?」
嫌味かいな。
まあオレが見たとこでは、顔だけならお前より草々のがモテるんとちゃうか、て思うけどな。あいつ暑苦しいからな。
「で、僕の仕事の話が何です?」
「お前、カレンダーに先に仕事書いたら、その後で日程変わったとか新しい仕事入ってあってもその後で何もいじらんやろ。」
「何も、て。平日の仕事はなるべく書き直すようにしてますけど。」
「抜けてる日もあるやろが。」
「年に何回かの話じゃないですか。」
「だから、その何回かでおチビに何やあったら困るから、こうしてオレと若狭が話するようになってんやんか。海が見たいて言って書き置きだけ残して、あっちへフラフラ~、こっちへフラフラ~。残されたオレとお前がふたりで火サスの家出少女を探す親みたいにして街をさまよい歩いて、『これでいなくなった子どもを見つけてください。』て金積んで警察内部にコネがありそうな探偵にお願いにいかんとならんのやぞ。」
あ、これ、火サスより土ワイに近いんか?
まあええわ、と思ってたら、うどんをざるに上げて湯切りをしていた四草がこちらを睨みつけて「こないだも呑気に保護者と銭湯行って口の周りに牛乳でヒゲ作ってるような子どもが、世の中が嫌になってふらっと海見に行くとかありますか? 万一そんなことになったとしても、最終的に小浜の若狭の母親に捕まって、あのうちの客間で三日目のカレー、うどんに掛けて食ってたて話になるんと違いますか。」
お前はお前で妙に信ぴょう性ある想像してるやないか。
「お前、それ上手い事まとめよったな。創作落語の才能あるで。」
「誰かさんが似たようなことしでかしてたのが記憶に残ってるもので。」と言われてずっこけそうになった。
十年も前のこと、どんだけ根に持ってんねん……。
口笛吹いて誤魔化そうにも、四草が冷蔵庫からあおぎりの蜜柑を小さくしたようなちっこい柑橘を出して輪切りにし始めたんで、何も言えんようになってもうた。
「……で、兄さんは若狭とそれ以外の話もしてるんと違いますか?」
そこに戻るんかい!
「そらまあ、会うたら会うたで草若兄さんのお悩み相談室になることもあるわな。き……この間も、祝日やら土日の天狗座での師匠方や兄さんらの独演会となるべく特別興業の日程が被らんようにて気を遣うてるんやて。」
危ない危ない、昨日も、て正直に言うとこやった。
「大変やで~、日暮亭のおかみさん家業は。オレだけやのうて、あのカラスヤマともまだ連絡取り合ってるらしいで。」
「あいつまだ天狗にいるんですか?」
ざるにあげたうどんを流水で冷やしながら四草が言った。
「おるねん。現場から離れてしまってても、まあまだお目付け役みたいなことしてるみたいでな。若狭に大きな独演会の予定とか流して情報交換してるらしい。まあオレらみたいな色もんが並みいる師匠方の日程と被ったところでどうもないて話かもしれへんけど。」
「それ、若狭の仕事の便ていうより、あっちが、玄人に人気の師匠方に何かあった時に声掛けやすい人間のリストアップしてるだけと違いますか。この間も、草々兄さん、柳宝師匠の芸歴五十周年記念の会に呼ばれてたでしょう。」
「オレは尊建がサウナで脱水になったときの代打やったけどな。」
「まあそういうこともありましたね。あの頃は仕事があるだけでええわ、て言ってたじゃないですか。」
まあ、そうやけど。
あ、ざるうどんなら冷蔵庫からおつゆ出さんとあかんか。
器にあけると「あ、これお願いします。」と言いながら四草が皮を剥いたショウガを渡して来た。
薬味が小口葱に生姜なあ……ほんまこのラインナップ、ほとんど素麵やんけ。
四草は平たいガラス皿の上にうどんをくるっと丸めて並べた上に氷を乗せている。
輪切りの柑橘は葱や生姜より一回り大きな器に入れられてあるのをちゃぶ台に並べてみた。
ちょっといい匂いやな、それ。
「なあ、その青い柚子みたいなん。」
「すだちですね。」
「そのすだち、高かったんと違うか?」
「草々兄さんとこの弟子の実家から送られてきた、って言うから貰って来たんです。日暮亭の楽屋で配ってたんで。」
「なんや、ロハかいな。」
道理でぎょうさんあるはずや。
「上に散らしたら夏らしゅうてええでしょう。こういうのおかみさん好きでしたね。」
「………おう。」
「腹減りましたね。」
「そうやな。」
「それ食ったらプールから子どもが戻って来る前に昼寝しましょう。」
「そうやな。………て、何で昼寝?」
「昼は明るいから嫌やて誰かさんが怒るからと違いますか?」
「……おい、今からメシ食うとこやぞ、ドアホ。」
「それで、昼寝だけでええんですか?」
メシの前にやらしい聞き方すな。
「……食ってから片付けながら考えるし。」と言うと、それなら早く食ってしまいましょう、と言って、四草は箸に手を伸ばした。
いつもの若狭塗箸が、妙にキラキラしてみえる。
夏やなあ。
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