4-4 夢の終わりに
仁美里が鳳子の手をしっかりと握り、乙咲家の屋敷の長い廊下を進む。鳳子は息を切らしながらも、その瞳は驚きと興奮で輝いていた。どの部屋も見たことがないような広さと荘厳さを持ち、心の奥から喜びが込み上げてくる。
「ここが、私たちが暮らす場所よ。どう? 立派でしょ?」
仁美里が微笑みながら振り返ると、鳳子は無邪気に頷いた。
「すごい……こんなに大きいお部屋、見たことない……!」
鳳子はその広さに圧倒され、胸が高鳴るのを感じた。自分の家とはまるで違う、広くて重厚な廊下に、きらびやかな装飾が施された部屋。すべてが夢のようで、彼女の心は喜びに満たされていく。
「私たちはこれから一緒にいられるのよ」
仁美里が優しく声をかける。その言葉は鳳子の心に深く響いた。
「一緒に……」
鳳子は仁美里を見上げながら、その言葉をかみしめた。ずっと一人だった彼女にとって、「一緒に」という言葉は特別な響きを持っていた。これからは、仁美里と一緒に過ごせる。彼女の家族になれるのだという喜びが、胸いっぱいに広がった。
けれど、その喜びの影に、ふと寂しさがよぎった。仁美里がいずれ神様になるという運命――それは、鳳子にとってとても遠い存在になってしまうことを意味していた。今は一緒にいられても、いつか仁美里がその運命を受け入れ、神として昇華してしまう日が来る。鳳子の心は、その運命を知ることで、ほんの少し寂しさを感じていた。さらに、宵子がもう二度と戻らないという現実を突きつけらた今となっては、鳳子は夢を見ることすらできなくなった。明日を生きるための希望は、すべて消え去ってしまったのだ。
「ふうこ、こっちよ」
仁美里の声が鳳子の思考を引き戻した。彼女は笑顔で鳳子を手招きし、さらに奥へと進んでいく。
「どこに行くの?」
鳳子は尋ねたが、仁美里は振り返らずに廊下の奥へと向かった。
たどり着いたのは、かつて仁美里が鳳子の為に祈りを捧げた場所――擬蟲神が祀られている神聖な部屋だった。重い扉が静かに開かれ、厳かな空気が二人を包み込む。
「かみさまに会わせてあげる」
仁美里は静かに語り、部屋の中央に据えられた擬蟲神の御神像に向かって歩み寄る。
鳳子は息を呑み、その姿をじっと見つめた。厳粛な雰囲気に圧倒されながらも、仁美里が神様になる運命を強く感じ、胸が締め付けられるような思いが募った。仁美里は確かに特別な存在であり、彼女と共にいられる時間が限られていることを、鳳子は改めて感じていた。
「ふうこ、ここで一緒に神様にお祈りしましょう。これからも私たちが無事に暮らせるように……そして、あなたが幸せでいられるように」
仁美里は微笑んで、鳳子にそっと手を差し伸べた。鳳子はその手を握り返し、二人は静かに御神像の前で頭を下げた。
しかし、鳳子の心は、何も祈ることが出来なかった。冷たい床を見つめながら、仁美里の祈りが終えるのを静かに待った。
◆
夜が訪れ、二人は入浴と食事を終え、寝支度に取りかかっていた。鳳子は仁美里から手渡された和服を着せられている最中だった。部屋には静かな空気が漂い、灯りの柔らかい光が和やかな時間を照らしていた。
「驚いたわ。あなたってセーラー服以外は何も持っていないのね」
仁美里はふと呟くように言いながら、器用な手つきで鳳子に着物を着付けていた。
「うん。お洗濯するときはね、いつもベビードールのまま、乾くのを待ってるんだよ」
鳳子の無邪気な返事に、仁美里は一瞬きょとんとして、その後ため息交じりに笑った。
「なにそれ? お人形? これからはちゃんと服を着るようにしなさい」
「はぁい」
鳳子は返事をしながら、おとなしく着付けが終わるのを待っていた。心の中では、仁美里の手が自分に触れるたび、温かさが広がり、少しだけ心が落ち着いていくのを感じていた。
やがて着付けが終わり、仁美里は鳳子を姿見の前に立たせた。そこには、自分とは思えないほど美しく整えられた鳳子が映っていた。彼女は思わず小さな吐息を漏らした。
「これが、ふうこ……?」
鏡に映る自分の姿があまりにも見違えるほど綺麗で、鳳子は目を見張った。セーラー服しか知らなかった彼女にとって、和服に包まれた自分はまるで別人のように見えた。
「思った通り、とても似合うわね、ふうこ。綺麗よ」
仁美里は後ろから少しだけ顔を前に出し、鳳子のほっぺたにそっとキスをした。その瞬間、鳳子の心に温かな感情がふわりと広がる。
「私もね、実は通学用のセーラー服以外は全部和服なのよ。神事用の正装は貸せないけど、プライベート用の和服なら好きに着ていいわ」
「ほんとう? その時はにみりちゃんがまた着付けしてくれる?」
鳳子の目が輝き、まるで子供のように無邪気な笑顔を浮かべた。
「別にいいけど、貴方が覚えるまでよ。私だって暇じゃないんだから、毎度面倒なんて見られないわ」
仁美里は冷静に言葉を返したが、どこか照れくささも感じていた。鳳子と過ごす時間が、どれだけ心地よいものであるか、自分でも気付いてしまったからだ。
その言葉に、鳳子はくるりと振り返り、勢いよく仁美里に覆いかぶさった。そして、そのまま体重をかけて、後ろに敷かれた布団へ二人とも倒れ込む。
「やぁだ。ずっと、にみりちゃんに着付けしてもらう! にみりちゃんの手で、私を綺麗にしてよ」
鳳子は柔らかい微笑みを浮かべながら、仁美里に甘えるように囁いた。
その瞬間、仁美里の心は不意に高鳴り、鼓動が速くなるのを感じた。髪が顔に触れる感触や、鳳子の息づかいがすぐそばにあることに、無意識のうちに緊張が走る。距離はあとわずか数センチ、鼻と鼻が触れそうなほど近い。今にもその境界を超えてしまいそうな緊張感に、仁美里は視線をそらした。
「……バカね」
仁美里は、言葉を振り絞るようにしながら、鳳子をそっと押し返す。しかし、その手には優しさが込められていた。
仁美里の心には、これまで感じたことのない感情が渦巻いていた。それは友情とも、恋心とも区別がつかない、どこか焦がれるような感情だった。彼女はその感情に戸惑いながらも、鳳子と共に過ごすこの瞬間を大切に感じていた。
「そうだ。パパに頼んで、お揃いのワンピースを買ってもらいましょう。休日は二人でそれを着て、お出かけするの。どうかしら?」
仁美里はふと、鳳子に寄り添いながら、静かに提案した。その声は柔らかく、どこか夢を見るような響きを帯びていた。肩と肩が触れ合うだけで、鳳子は心が甘く満たされるのを感じた。
「ん……にみりちゃんパパは、買ってくれるかな……?」
鳳子は少し不安げに囁いた。
「どうかしら。でも、頼んでみるわ!」
「それなら、ふうこも一緒に頼みに行くね!」
二人は微笑み合い、その期待に胸を膨らませたまま、布団の中へと潜り込んだ。仁美里が部屋の明かりを消すと、静寂と共に、月明かりが薄く部屋の中を包み込んだ。銀色の光がふわりと差し込むその瞬間、鳳子はまるで夢の中にいるような感覚に包まれた。だが、甘いひとときの中に不安がよぎる。
本当にこんな現実が許されていいのだろうか?
鳳子の心には小さな疑念が芽生え、孤独が顔を出そうとする。それを打ち消すかのように、彼女は布団の中で手探りしながら、仁美里の手を求めた。やがて、指先が仁美里の手に触れた瞬間、彼女は微かに震えるような感触を感じた。仁美里の方から、そっとその手を優しく包み込む。
「ねえ、にみりちゃん……」
「どうしたの?」
「私ね……」
鳳子の胸に浮かぶ不安は、言葉にするのが難しかった。彼女は喉を詰まらせ、言葉を探していた。すると、仁美里は静かに鳳子の方を見つめ、もう片方の手を彼女の頬にそっと当てた。その手のひらは温かく、優しさが伝わってきた。
「心配しないで。私はあなたの味方だから。何でも言って……?」
その声は、鳳子の心の奥まで響き渡り、不安を優しく包み込んでいた。仁美里はさらにその手を頭の後ろへ回し、自分の胸元へと鳳子を引き寄せた。
鳳子は仁美里の胸の鼓動を感じながら、その手が自分の頭を優しく撫でる感触に、胸が熱く締め付けられるのを感じた。その優しさは、鳳子にとってこれまで感じたことのない特別なものであり、仁美里の温もりがあまりに愛おしくて、彼女は涙がこぼれそうになった。
「にみりちゃん……このままこうして、くっついて寝てもいい?」
声が震え、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えながら、鳳子は仁美里の胸に顔をうずめた。
「うん。このまま寝ましょう。また、話せる時が来たら、聞くわ」
仁美里の声は優しさに満ちていて、その言葉に鳳子は少しずつ安心していくのを感じた。
仁美里の腕の中で、鳳子は不安や孤独が消えていくのを感じた。仁美里もまた、鳳子の温もりを感じながら、自分の心の中に確かに芽生えた感情を自覚していた。それは、深い絆が二人を結び、二人だけの特別な時間を共有することで、確実に形作られていく。
――この瞬間が、永遠に続けばいいのに……。
二人はそのまま静かに眠りに落ちていった。生まれて初めて感じる真の温もりに包まれながら。今まで満たされることのなかった心が、少しずつ満たされていく――そんな甘く切ない瞬間を共有しながら、二人は共に夢の中へと沈んでいった。
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