Enchanted(スパイパロ)





【『氷の微笑』のその後、その日の昼過ぎ、巴家にて】



 本部からの招集に応じ馳せ参じた『Crazy:B』が通されたのはいつもの応接室……ではなく、屋敷の地下にある茨の私室であった。
「やあやあ皆さん、自分の部屋くんだりまでようこそいらっしゃいました! こんな最低野郎のアジトになんぞ足を踏み入れたくないでしょうが、どうかご容赦くださいね〜! ええ、掃除はきちんと行き届いておりますのでご安心を。汚いのはこの部屋ではなく自分の性根でありますから! あっはっは! ささ、どうぞどうぞお掛けください☆」
「……ドーモ」
 よくもまあ、一気にそれだけ喋って舌を噛まずにいられるものだ。入室から一分足らず。燐音は早くもうんざりし始めていた。
「……実はね。今日は、君達以外にもお客さんがいるんだ」
 湯気を立てるティーカップを骨張った指で持ち上げた凪砂が隣を見やる。長い脚を組んでソファに座した斎宮宗が視線に気付き、如何にも不機嫌ですといった風に柳眉を歪めて見せた。
「ようやく揃ったのかね、『Crazy:B』……そこの蛇から聞いているよ、零のところに行くんだってね。不本意だけれど君達の衣装担当はこの斎宮宗だ。良いかね? みっともない身なりであの屋敷の敷居を跨ぐことは僕が許さないのだよ」
「お師さ〜ん? 他人様を指さしちゃあかんで〜」
「うるさいのだよ影片。これは僕の仕事だ、口を出さないでくれたまえ」
 へらりと困ったように笑い、影片みかが「堪忍なあ」と顔の前で両手を合わせる仕草をした。別に気にしちゃいないのだが。
 ともかく、あの裏路地のテーラーを滅多に留守にしない彼らが、わざわざ巴の屋敷まで出向いてきたのだ。一体どんな事情があるのかと思えば、成程。
「宗はん、朔間の次期当主とお知り合いなん?」
「……。旧い友でね」
 こはくの問い掛けに幾らか躊躇う素振りを見せてから、宗はひと言だけ、答えた。珍しく積極的に自分達の仕事にかかずらってこようとするのは、今回のターゲットの知人であるかららしい。
「……今回は、彼から――朔間くんから晩餐会に招致された私と日和くんが、別件でどうしても出席出来ない……という設定。そこで君達の出番」
「左様です! 後継の朔間零氏はかなりの切れ者だと聞き及んでいますからね。代替わり以前の今のうちから縁を結んでおきたい……言わば不可侵条約ですね。古くからこの地に根を張っているあの家と我らが巴家、直接ぶつかることになれば分が悪い。交渉はお得意でしょう、天城氏?」
「おーおー、そりゃまた……責任重大ってヤツゥ?」
 水を向けられた燐音はおどけた表情をつくってわざとらしく肩を竦めた。それからその場に集った面々の顔を順繰りに見回して、ぱちんと指を鳴らし「そーだ」と明るい声を出す。
「なァ、俺っちイイこと思い付いちった♪」
 斯くして朔間家攻略に向けた作戦会議が幕を開けた。



「――それで何故、HiMERUがドレスを着せられているのでしょう……? 説明してくれますか、天城?」
「無粋だねェ。見たかったから、じゃ駄目?」
 燐音はHiMERUを連れて屋敷内の衣装部屋に来ていた。広大なウォークインクローゼットのような室内には豪奢な衣類が隙間なく詰め込まれており、一枚一枚見ていったなら丸三日は時間を潰せるのではなかろうか。アンティークの繊細な造りのドレスから、ファッションに明るいとは言い難い燐音ですらその名を知っているビッグメゾンの最新クチュールまで。色にしたって、人間の目が認識し得る全ての色彩がここに集められているのではないかと思うほど。さながらテーマも時代もまちまちな美術展でも見ているかのようだ。
 しかし貴重で煌びやかな芸術品と並んでも遜色なく、あるいはそれ以上に、燐音の心を惹き付けてやまないのは目の前の男なのである。
「思った通り、似合うな」
「当たり前なのです。俺ですから」
「流石。きゃはは、頼もしいねェ」
 そう言って、不敵に微笑むHiMERUを頭のてっぺんからつま先までしげしげと眺める。つややかな煌めきを放つシルクは、目の覚めるような深緋であっても品の良さを失わない。それは纏っている男の美しさによるものなのかもしれないけれど。
「ん〜、文句ナシに綺麗だけどさ、肌出しすぎじゃねェ?」
「骨格は仕方ないでしょう。幾らでも隠しようはありますし。そこの、毛皮のショールでも巻いておけば」
「そうだけどそういうこっちゃねェンだよなァ」
 正面から抱き締めるように腰に両手を回す。HiMERUのすらりと伸びた細い首はホルターネックのイブニングドレスによく映える。身体の線の美しさを強調するため大胆にカットされたバックデザインにより、白く滑らかな背中と肩は惜しげも無く晒されている。ざっくりとスリットの入ったマーメイドラインが彼の持つ色香を抜群に引き立たせている上、太腿のホルスターに得物も仕込めて万が一奇襲に遭った際の機動力も損なわない、これ以上ないほどのチョイスだと言えよう。しかし理に適っているからと言って躊躇いなくゴーサインを出せるかと言えば、それはまた別の問題であり。
「う〜ん間違いねェンだけど割り切れねェ、複雑な男ゴコロ」
「何を言っ……ああ、そういうことですか」
 何かを察したらしいHiMERUが内緒話でもするみたいに耳元に唇を寄せてくる。――あ、悪巧みしてる時の顔。
「独り占めしたくなりました?」
 吐息をたっぷり含ませて落とされた囁きが燐音の耳朶を擽った。ご丁寧にも情事を思い起こさせる、僅かに掠れた響きを象って。するり、腕が首に回されると凄艶な顔が近付き額同士が触れ合う。
「独り占めも何も。俺のモンじゃねェの?」
「……さあ? あなたが、ちゃんと捕まえておいてくれるなら」
「つれねェなァ。あんまり意地悪言わないでくれる?」
「ふふ。ゆうべの仕返しです」
 彼とふたりきり、周囲を色とりどりの衣装にぐるりと囲われて囁き合っていると、まるで世界を相手に隠れ鬼にでも興じているかのよう。辺りを舞う埃ですらカーテンの隙間から射し込む真昼の光線を受けてちらちらと瞬く。HiMERUを起点として、燐音の視界に映る物はどれもこれも美しく見えてしまう。
「なァ、目ェ瞑って」
「……ん、」
 言われるがままにHiMERUが瞼を伏せる。化粧など施さずとも艶麗なまでの魅力を放つこの男の姿を、己以外の人間の目に触れさせることになるのが口惜しくて堪らない。燐音は彼の顎を高価な陶磁器でも扱うかのようにそうっと掬い、せめてこの場所だけは自分ひとりのものであるように、と祈りを込めて殊更に優しく唇を重ね
「ノンッ‼」
 鋭い声が飛んだ。もしやと思い振り返った先には、涼しげな双眸をキッと吊り上げ顔を真っ赤にした宗と、呆れ顔のみか。
「だから見たらあかんって言ったやんか。お師さん、ほら、あっちいこ」
「Oh là là! 何と嘆かわしい! 神聖な衣装部屋で君達は何を……、き、きき、キスなど! 許されることではないよッ⁉」
「お師さんてばあ〜……も〜邪魔せんとこ、な?」
「影片ッ離したまえ! 僕は畏れ多くも芸術の神に代わって、彼奴らに怒りの鉄槌を下さねばならない!」
 面倒なことになった。いや、10対0で自分が悪いのだが。HiMERUと顔を見合わせ、こくんと頷くのを見るが早いか、燐音はドレス姿の彼を抱え上げて猛然と駆け出していた。宗の怒号がみるみるうちに遠ざかってゆく。堪え切れず腕の中で笑い出したHiMERUに釣られて燐音も吹き出し、ふたりして大騒ぎしながら屋敷の廊下を走り抜けた。通り掛かった使用人達が皆一様に目を丸くして振り向くが構うものか。
「あははっ! ちょ、揺らさないで……、後で、日和坊ちゃんに怒られますよ」
「なァに〜? 聞こえねェ!」
「坊ちゃんに! 怒られますよ! って!」
「わはは、あのひとなら面白がってくれるっしょ!」
 そうしてしばらく走って辿り着いた中庭の植え込みにどうにか身を隠し、誰も追って来ないのを確かめてからようやくそこに腰を下ろした。くすくすと声を抑えて笑うHiMERUの目と目が吸い寄せられるようにぴたりと合うと、黄水晶の瞳が可笑しそうにたわむ。今度は誰にも邪魔されないはずだ。仕切り直すべく改めて目を閉じた彼にゆっくりと顔を近付ける。しかし唇が触れる間際、背筋が凍るほどの殺気を感じ取った燐音はピシリと硬直した。
「燐音はんにHiMERUはん、み〜っけ♪」
 こはくの拳骨が二発、なんとかの神に代わって振り下ろされた。






 晩餐会当日。茨の運転するロールス・ロイスの後部座席では『Crazy:B』が決起会と称したお菓子パーティーを催していた。
「いやあHiMERUくんほんと綺麗っすね。斎宮くんがすごいんすかね? メイクは影片くんがやったんすか? 僕よくわかんないんすけど」
「お化粧もしてはるんやろけど、素材がええんやろなあ。えらい別嬪さんやわ。ドレスもよう似合うとる」
「そう面と向かって褒められると、照れますね。ありがとうございます桜河、椎名」
「お菓子食べ零したりしたら僕が怒られるんすかね〜、うわあ緊張する」
 やいやいと賑やかな歳下三人を尻目に、助手席に座った燐音だけが面白くなさそうな顔をしていた。バックミラー越しに目敏く見咎めた茨が笑いを噛み殺しながら声を掛けてくる。
「天城氏、天城氏。あれ絶対照れてなくないです? 褒められて当然みたいな顔してますよねHiMERU氏」
「……」
「無視でありますかあ〜? 良いですけどね別に。衣装のクリーニング代あなたにつけときますので」
「オイオーイ。そりゃねェっしょ蛇ちゃんよォ。安全運転あんがとネ」
 「なんのこれしき! 不肖七種茨、皆さんの足になるくらいお安い御用でありますよ♪」
 お馴染みの敬礼のポーズをとっていた右手をハンドルに戻した茨が、ふっと呼気だけで笑った。珍しい笑い方だ。
「……しかしまあ、心中お察ししますよ。恋人があんな風に男共に口説かれるところなんて見たくもないでしょうに……でもねえ、〝男女〟のカップルで出向いて奴さんの警戒心を解く作戦、言い出しっぺはあなたですよ天城氏? うちの構成員に悪い虫がついても困るんで、責任持って見張っててくださいね」
「ハッ……相変わらずベラベラとよく回るお口で」
「あっはっはっ! 恐縮です!」
 そうだ。だから今回はニキではなく、HiMERUを相方に指名したのである。宗が見繕った最上級のドレスに、みかが施した繊細なメイクに、磨き抜かれた彼の美貌。そしてエスコート役の色男。後ろに撫で付けた前髪がひと束落ちてくるのを、燐音は鬱陶しげにかき上げた。身に纏うは宗が此度の任務のためだけに仕立てたミッドナイトブルーのイブニングコート。今回ばかりは機能性を捨て置いて立ち姿の美しさを追求したという細身のぴったりとしたシルエットは、着慣れたダークスーツと比べると格段に動きづらい。もし走ることにでもなったらどうしてくれよう(紳士は何があろうと走らないものだよ、とまた宗に叱られそうだ)。日頃第二ボタンまで緩めている襟元をホワイトタイできっちり締められてしまうとどうにも息苦しく、早々に音を上げそうだった。
(あ〜駄目駄目、今夜の俺は完全無欠の紳士……ゴージャスな美女を華麗にエスコートする麗しの伊達男なンで)
 ぐう、と唸りたいのを耐えに耐えて、腹いせに思い切りシートを倒して後部座席のニキを押し潰してやった。



「ンじゃ行ってくらァ。もしもの時は頼りにしてンぜ、こはくちゃん。ニキはイイ子でお留守番しとけよ」
「はあ〜い」
「お気をつけていってらっしゃいませ☆」
 車内から敬礼で見送る三人に軽く手を振り、スワロウテイルを翻す。肘を差し出して促せば白いレースのショートグローブを嵌めた手が控えめに添えられた。漆黒のシルクハットにステッキ、ストレートチップのドレスシューズ。隣には蠱惑的な微笑を浮かべる麗人。どの角度から見ても完璧な紳士だ。
 前を見据えるHiMERUが燐音の袖をくいと引いた。
「――緊張してます?」
「まさか。むしろコーフンしてンよ」
「ふふ、ですよね。あなたの相方の立場というのは新鮮で、俺もすこし、浮き足立っているようです」
 眼前に聳え立つは魔王の城かの如き時代錯誤な洋館――朔間の屋敷である。蔦の絡む門扉が重々しい音を立て、ゲストを歓迎するかのように左右に開いた。蝙蝠が群れをつくり頭上を飛び回る。鴉がギャアと喚く。吸血鬼が棲んでいるという御伽噺めいた噂も、あながち嘘ではないのかもしれない。
「燐音」
「ん?」
「ねえダーリン。世界でいちばん、男前ですよ」
「ぶは、あンだよおめェノリノリじゃん」
 いつもの軽口だと理解はしていても、言葉ひとつで斯くも簡単に舞い上がってしまう単純な男ゴコロ、というやつだ。したり顔で笑う彼(今は彼女)の、顔の横で揺れる大振りのイヤリングを指先でするりと撫で、燐音はその耳元で嘯いた。
「……おまえも。銀河じゅうの星々を余さず掻き集めても、貴女の美しさには敵わない」
「――その調子」
 絡んだ視線から確かな信頼を受け取り、再び正面に向き直ったふたりは、闇色のヴェールを広げる門の奥へと続く階段にいよいよ足を掛けた。



 ごん、ごん、ごん。
 獅子の頭を象ったドアノッカーを三度鳴らせば、「はーい」という声の後にギイと玄関扉が開いた。
「こんばんは。いらっしゃい」
 人好きのする蕩ける笑みを浮かべて顔を出した男は、朔間零本人ではなかった。燐音はステッキでついとシルクハットのつばを持ち上げ、己よりも僅かに背の低いその男の、グレーダイヤモンドの瞳を覗き込んだ。
「ご機嫌よう。この度はお招きに預かり光栄です。僭越ながら巴日和に代わり――」
「あ〜あ〜堅苦しい挨拶はやめやめ! ちょっと待っててね」
 ひとつに括った金糸の髪を揺らし、ぱたぱたと奥へ向かいながら「零くーん、お客さん」と気の置けない様子で呼び掛ける男は、見たところ使用人ではないらしい。しずしずと近付いてきたクラシカルな装いのメイドにハットとステッキを預けてから、彼に従って広間を抜けダイニングへと足を踏み入れる。暖炉に燭台、クロスの掛けられた長テーブルには銀食器が並ぶ、古式ゆかしい装飾の施された絢爛な室内。その最奥に悠々と座し、屋敷の主が待ち受けていた。
「お出迎えご苦労じゃったのう薫くん。客人よ、ようこそ我が城へ」
「……お目にかかれて恐悦至極です、朔間零殿」
 独特な気配を持つ男だった。黙したままにその空間を支配する圧倒的な存在感を放っていながら、人間ならば誰しもが持ち合わせているはずの生気が全く感じられない。蝋人形と見紛うほどに血の気のない真っ白な肌、対して鮮血よりもなお赤い瞳は蝋燭の灯りを映して爛々と輝いている。少々気圧されつつ、燐音はゆっくりと口を開いた。
「今宵は、従兄弟の日和と凪砂がご招待に応じることが出来ず、とんだ失礼を。代理で参りました私、リンネと申します……彼女は私の連れ合いでございます」
「ご機嫌麗しゅう、朔間さま」
 HiMERUがドレスを摘んで恭しくこうべを垂れる。零は値踏みをするようにルビー色の目を眇めた。ぞくりと肌が粟立つ。ただただ不快な感覚が燐音の背を這っていった。
「良い良い、我輩はそちらの斎宮くんと違って、型に嵌った格式やら伝統なぞは好かんのじゃ。肩の力を抜くがよい」
「はあ、しかし……」
「巴くんと乱くんに会えぬのは、まあ確かに残念じゃが、おぬしらとこうして知り合えたのも何かの縁。永きを生きる我が身には、退屈こそが何よりの悲劇――友人が増えるのは喜ばしいことじゃて」
「零くんはこう見えてちゃらんぽらんだから、ほんとほんと。気なんて遣わなくていいからね。わざわざ正装で来てくれたとこ悪いんだけどさ」
 薫と呼ばれた彼に促されるまま椅子に腰掛ける。零が指を鳴らすと、深紅の液体が純銀製のゴブレットへなみなみと注がれてゆく。「血だと思ったかえ?」男がさも可笑しそうに言う。思考を読まれているようで居心地が悪い。
「葡萄酒じゃよ。くくく、我輩吸血鬼じゃけど、血を飲むとオエッてなっちゃうから」
「出た出た零くんの吸血鬼ジョーク」
「そこの『彼』も――そう警戒せずともよい。仮面の下のありのままのおぬしで、我輩と友達になっておくれ。麗しき『ご令室』よ」
「っ、」
「……まあ、おぬしらの『仕事』を踏まえると、無理にとは言えんが」
 そう宣う零の瞳は明らかにHiMERUを捉えている。この男はどこまで知っているのだろう。一瞬泳いだ彼の目が何とか言えと訴えてくる。――いや、もうどうしようもねェだろ、バレてンだから。
「……いつからお気付きで?」
「はじめからだよ〜。俺、女の子は匂いでわかるもん。確かに物凄い美人さんだけど、男でしょ? その子」
「ついでに言っておくが、『従兄弟』と言うのも嘘じゃろ? 血の匂いでわかるぞい」
「きゃはは、御明答。こいつァ参ったねェ」
 こりゃ相手が悪い。ふうと溜め息を吐き、HiMERUに視線で〝諦めろ〟と合図を送った燐音は、もうどうにでもなれと相好を崩してタイを緩めた。
「騙くらかそうとしたのは悪かったっしょ。悪気はねェから、許してくれっと助かる。……だがな、まるっきり全部嘘ってワケじゃあねェ」
「……ほう?」
 興味深そうに目を瞬かせた零、その眼光を真正面から受け止め、見せつけるようにHiMERUの肩を抱いて引き寄せた燐音は薄い唇を歪める。不敵。まさにそう形容するほかない笑みだった。
「こいつは正真正銘俺っちのモンなんで、指一本でも触らせやしねェよ。たとえあんたであってもな。一度はこの街の全てを手中に収めた『魔王』、朔間零」
「は⁉ ちょっ、この馬鹿……!」
 薫が「わお」と感嘆の声を上げ、零が「ふはは」と愉快そうに手を叩いた。テーブルの下ではHiMERUがハイヒールの踵で燐音の靴を強めに踏み付けていた。
「若いのう。いや結構。おぬし名はなんと言う?」
「燐音。天城燐音だ、賢いオツムで覚えてくれよ」
「言われずとも忘れんよ。知り合えて嬉しいぞい、天城くん」
「どういたしまして」
 ゴブレットを掲げた零が綺麗に微笑む。魔性と暴君の邂逅である。
「そんじゃあ、仕切り直して……俺っち達の今宵の出会いに」
「うむ。乾杯」
 四つの盃が、ちんと涼やかな音を鳴らした。







 時は流れて、半年と少し経った頃。今度こそ正式に零からの招待を受けた『Crazy:B』は、朔間家のサロンにて盛大に催されたパーティを思い思いに満喫していた。以前は事情が事情であっただけに正礼装で臨んだけれど、今回はロイヤルブルーのディナージャケットに黒のカマーバンドという出で立ちで出席することにした。こちらの方が幾らか肩肘張らずにいられる。
「――ああ、こんなところにいた」
 バルコニーで一服しながら夜風に当たっていた燐音の元を足音もなく訪れたのはHiMERUだった。ジャケット、タイ、ウエストコートを艶やかな黒で揃えた彼は、一切の色を排したシンプルな装いであるのに、洗練されて優美だった。
「今夜も別嬪だねェ、『ご令室』」
「あの女装には二度と触れるなと言ったはずですが?」
「ウッソ、あの晩結構燃えたじゃん? 女のカッコしたおめェを抱くのも案外悪くねェモンだなと思ったンだけど?」
「記憶にありませんし、俺を抱いて悪かったことが一度でもあったのですか?」
「ええ〜、ねェけどォ、俺っちもう疲れた〜つったのに三回戦オネダリしてきたのは誰、あでっ、ぎゃはは!」
  HiMERUのオックスフォードのつま先が燐音の向こう脛を鋭く抉った。くつくつと笑いながら新しい煙草を懐から取り出し、咥える。マッチを擦って火をつけたところで、横から細い指が伸びてひょいとそれを取り上げた。
 紫煙を吐き出す唇に目を奪われる。煙は風にさらわれて真っ暗な空へ溶けていくが、煙などよりもよっぽど儚げな容姿をした美貌の男の輪郭は、なおも鮮明にそこに在った。
 ――ああ、なんだろう、これは。ひどく擽ったい。だって、ようやく心を通わせることが出来たのだ、つい先日の誘拐騒ぎの後に、彼と。
「……何を笑っているんですか、気持ち悪い」
「ン〜? ふふ、珍しいなァと思って」
 もう一本取り出した煙草を口に挟んだまま顔を近付ける。意図を察した彼がこちらへ顔を向け僅かに首を傾げた。火種を潰してしまわないよう柔らかく、殊更慎重に先端同士を触れ合わせ、すうと空気を取り込む。ジジと紙が焼ける微かな音がして、やがて夜闇に浮かぶ橙色の火の玉がその熱を分け合い、ふたつに割れた。
「ほんと、めずらし。どした?」
「――別にどうということはありません。すこし、人に酔ったのかも」
  そう言って甘えたように肩に擦り寄ってくるHiMERUを甘んじて受け止めれば、平常時よりも高い体温が触れたところからじんわりと伝わる。次いで鼻をつくアルコールの匂い。……さては酔っ払ってやがるなこいつ。
「……ヘーキ?」
「俺はいつでもへいき、です。ねえ、燐音」
 舌っ足らずに自分を呼ぶ甘い声。待て待て、嬉しいけど今じゃない。ここは外で、朔間零の屋敷で。大きなガラス窓を隔てたサロンにはニキもこはくちゃんもいて。こんな場所じゃキスのひとつも出来やしないではないか。どうしてやろうかと迷って、ほんの少し屈んで顔を覗き込む。頬を火照らせたHiMERUはその瞳に燐音を映すとふにゃりと蕩けそうに双眸を緩め、両手を伸ばして首に抱き着いてきた。
「うわッ火! あぶね、もお、おっまえなァ〜! こンの酔っ払い、ここ座れ!」
「ひっく、酔って、ない……」
「あァ⁉ 酔ってますゥ〜! 座った? 水持ってくっから絶対ェここにいろよ⁉」
 さっさとその手から煙草を取り上げて自分のと一緒に靴裏で揉み消す。彼が大人しく座ったのを見届けてから身を翻し、急ぎサロンへ戻るべく足を進めた。丁度燐音がガラス戸のノブを掴もうとした瞬間だった。不意にドアの向こうから飛び込んできた人影と、危うくぶつかりそうになる。
「わっ、燐音くん⁉ よかった、探してたんすよ〜!」
「ちょお、ドアんとこで詰まるなやニキはん! なあなあ燐音はん、HiMERUはんどこ?」
「あ? なんだおめェらか。メルメルならバルコニーにいるけど」
「集合や、はよう!」
 血相を変えたこはくにただ事でない空気を感じ取り、燐音はすぐさまバルコニーで待つHiMERUの元へ踵を返すこととなった。
「どしたンだよ、何? トラブってる?」
「ヤバいんすよ〜っ、なんか急に襲われて、全然ご飯食べてる場合じゃなくなっちゃって! もうせっかくのディナーが台無しっす!」
 ニキが両手に空っぽの平皿を乗せてめそめそ嘆く。これまたただ事ではなさそうだし、この様子だとどうやらサロンへは戻れないらしい。
『あ、あー、ヘイ、ヘイ、ヘイ……』
 そしてそれは藪から棒に。
『チェック! ワンツー、ワンツー、ツーゥウウ〜、チェッ、チェッ! ハロー、ハー、ロー、ロゥ……ハッ、ハッ!』
 耳に仕込んだままだった通信機から漏れ聞こえてきた流れるようなマイクテストは、よく見知った人間によるものであった。
『あー、おほん! 御機嫌よう『Crazy:B』の皆々さま、パーティをお楽しみのところ失礼致します! こちら七種!』
「いきなりうるせェぞてめェ、用件は何だコラ」
『おっと喧嘩腰はいけませんねえ! 頭に血が上ると判断力が鈍ります、天城氏五点減点』
「げ、減点? って何なんすか七種くん、僕らにもわかるように説明して⁉」
『ああ、ええ、そうですねえ〜……、良いニュースと悪いニュース、どちらから聞きたいですか?』
 燐音は仲間達と顔を見合わせた。誰もが一様に怪訝な表示を浮かべていた。
「う……ほな……良いニュースで」
『アイアイ! 朔間零は無事です』
「何て?」
 聞いたところで依然として状況が飲み込めない。混乱する『Crazy:B』の元へ、顔面蒼白の零と薫がすっ飛んできた。この上更に事態をややこしくしそうな人間の合流だ。
「天城くんこれどうなっとるんじゃ? なんか招待客達が暴れ出したんじゃけど」
「とりあえずバルコニーに避難して来ちゃったけど、ここからどこに逃げるの俺達? やばくない?」
 頼みの綱であった零ですら事情を把握していないようで、いよいよ現場は混迷を極めた。
「オイ、悪いニュースは⁉」
 燐音が叫ぶように問い掛ける。無音のまま数秒の時が流れた。すう、と茨が息を吸う音の後に、耳を疑う言葉が飛び出した。
『そのバルコニー、落ちます』
 ドン。
 バルコニーの真下で火薬の爆ぜる大きな音がした。石を積み上げて建築された足場はがらがらと音を立て、見る見るうちに崩れ落ちてゆく。
「うっ……そだろォ……‼」
 埋め込まれた時限爆弾によってばっくりと口を開けた奈落が、重力に抗うべくもない憐れな男達を次々に飲み込む。そして後には不気味な静けさだけが残されたのだった。



「皆さまに特別任務を与えます。朔間零を守りきり、追手から逃げおおせたならあなた方の勝利。簡単だと思いましたか? いえいえ、そうは問屋が卸しません! あなた方の言動の隅々まで、本部の我々が常に目を光らせております。我らが巴家所属の一流エージェントに相応しくない振る舞いにより減点が続き、持ち点が0になった場合はその場で失格、即刻クビであります! 試験は既に始まっておりますよ、自分は高みの見物……失敬、皆さまのご武運をお祈りしております! ――、こんなものでしょうか」
 茨がマイクをオフにして振り返る。満面の笑みを向けられた凪砂、日和、ジュンは揃って苦虫を噛み潰したような顔をした。
「やりすぎだね。後で朔間くんに謝るのはぼくなんだけど?」
「殿下。お言葉ですが、近頃の天城氏は腑抜けていると思いませんか?」
「あ〜それは正直……うん……久しぶりに手合わせして感じたっすよぉ、オレも。腕が鈍ってるっつうか、迷いがあるっつうか」
「……。原因は、ひとつ。……恋だね」
 凪砂が静かに口にした単語に一同うんうんと頷き合う。どうやら先の騒動をきっかけに燐音は、かねてから恋慕を抱いていたHiMERUと想いが通じ合ったようなのだが。その事実は結構、心の底から祝福してやりたいと日和は思っている。家族として幸せを願ってもいる。しかし。
「腕利きのエージェントが恋愛にかまけてドジを踏んだりなんかしたら、もう誰を恨んだらいいのかわからないね」
「……うん。彼らには、試練が必要」
「ええ、ええ、そういうことです! 生易しいぬるま湯を脱し、早々に目を覚ましていただかねば!」
「スパイっぽくて良いと思いますけどねぇ、恋に夢中でうっかりピンチに陥る~みたいなのも……。ま、頑張ってくださいよぉ~天城さん」
「……」
 そりゃ、多少は腑に落ちない部分もある――他所の家の人間を巻き込むな、とか。けれどこれも親心なのだと自分を納得させ、日和はモニターを真っ直ぐに見据えた。彼らの命運を見届けることもまた、主たる己の使命と信じて。





(この話はここで終わりです。次ページはワンライで書いたスパイパロの蛇足)
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