3-1 月に叢雲
桜が全て散る頃、村は再び静寂を取り戻していた。新しい芽が芽吹き、風に揺れる草木は命の息吹を感じさせていた。
仁美里は、何も変わらない日常の中に、心地よい平和を見出していた。ここ数日、鳳子が学校に来なくなり、村でも彼女を目にすることがなくなったからだ。
村人たちの苛烈な態度や、鳳子が受けていたいじめ。それらを目の当たりにするたびに、仁美里は心のどこかで引き裂かれるような思いを感じていたが、鳳子がいなくなってしまえば、それもなくなる。鳳子の存在が消えたことで、村は以前の静けさを取り戻し、仁美里もまたその平和を享受していた。
しかし、それと同時に、鳳子が今どうしているのか、仁美里の心の片隅で気になってはいた。だが、自らが彼女に何をしてきたのかを考えると、どうしても尋ねる気にはなれなかった。
ある朝、仁美里はいつもの通学路を歩いていた。通学路は村の自然に囲まれた穏やかな道だった。ふと、どこかの民家の庭先で村人が話しているのが耳に入ってきた。無意識に立ち止まり、話の内容に耳を傾ける。
「なあ、知ってるか? 鳳子んとこに母親が戻ってきたって話だろ?」
「そうそう。東京から何人かの男連れてきたって噂だ。何やら厄介なことになりそうだなぁ」
「ほんと、よそ者が村に来るとろくなことがねえな。あの女、いっつも問題ばっかり持ち込んでくるんだからよ」
「まったく、勘弁してほしいもんだ」
村人たちは不快そうに言葉を続けていた。本当か噓かもわからない話が、まるで事実かのように憶測で広がっていく。それを聞いた仁美里の胸に、ふと嫌な予感がよぎった。宵子が鳳子をずっと放っておいたのに、突然帰ってくるなんて、何かが起こるに違いない。
その予感が、胸の奥でざわざわと広がり始める。考える間もなく、仁美里の足は自然と動いていた。向かう先は学校ではなく、鳳子の家だった。
冷たい風が通学路を吹き抜ける中、仁美里は気持ちを振り払うかのように、ただひたすら鳳子の家へと走っていった。
やがて鳳子の家が視界に入るころ、数台の車が鳳子の家の敷地から出てくるのが見えた。黒い窓越しに見える男たちの無表情な顔が、一瞬仁美里の背筋を冷たくする。それでも足を止めることなく、鳳子の家の扉までたどり着いた。
仁美里はその家を目の前にして、思わず困惑する。
(なんてボロい家なの……)
鳳子の家がボロ屋だという噂は聞いていたし、遠目に見かけたこともあった。しかし、こうして目の前に立つと、それがどれほどまでに朽ちているのかを実感せずにはいられなかった。古びた木材がところどころ腐り、窓はひび割れていて、風が吹くたびに屋根がきしむ音が響いていた。仁美里には、鳳子がこんな家で一人で暮らしているとは到底想像できなかった。
訪問を知らせる呼び鈴は壊れていた。仕方なく、仁美里は直接声をかけることにした。
「ねぇ、私よ。いるんでしょう? 中に入れて」
返事はない。それでも、微かに家の中に人の気配を感じた仁美里は、少し悩んでから意を決して扉に手をかけた。
「入るわよ」
小さな声で断りを入れながら、仁美里は扉を押した。鍵がかかっているかもしれないと思っていたが、驚くほどあっさりと扉は開いた。不用心なのか、それとも鍵すらも壊れてしまっているのか、いずれにせよ、その手間が省けたことに仁美里は少しだけ安堵した。
扉を開けた瞬間、仁美里の前にはまるで別世界のような暗い空間が広がっていた。外の光が届かないほど、家の中は冷たく陰鬱な空気に包まれている。鳳子がいるのはこの家の中のはずなのに、どこか別の場所に連れて行かれたかのような錯覚を覚えるほどに、恐ろしいほど静まり返っていた。
中へ一歩踏み出すと、目に飛び込んできたのは、散乱したゴミや雑然とした家具。足の踏み場もないほどに乱れた部屋の光景は、人が住んでいるとは思えないほど荒れていた。
仁美里は立ち尽くし、玄関の境目で足を止めた。この先に進めば、今まで自分が見て見ぬふりをしていた鳳子の得体の知れない何かを知ってしまう気がした。
(私は……一体、何をしているの……?)
胸の中で葛藤が渦巻く。自分にとって重要なのは、心を殺して全てを受け入れること。今まで他人と深く関わらないようにしてきたのは、こうして心を乱されることを避けるためだった。 だが、鳳子が来てからというもの、少しずつその平穏が崩れていく。
(あの子のことなんて、気にしない方がいい……このまま帰ってしまえば、またあの平和な日常が戻ってくるんだから……)
仁美里の背後には、暖かな春の光が広がっていた。それなのに、眼前には暗く冷たい世界が広がっている。ここに足を踏み入れるべきなのか、迷いが仁美里の足をすくませた。
「……帰ろう」
決意を固めた仁美里は、これ以上踏み込むことを思いとどまる。
「あの子なら、きっと大丈夫よ。どんな時だって、へらへら笑っていたんだから……きっとそのうち、また……」
自分に言い聞かせるように呟き、立ち去ろうとしたその瞬間。
「仁美里ちゃん……?」
か細い声が耳に届き、仁美里は驚いて振り返った。
そこには鳳子がいた。暖かな春の日差しに包まれ、黒髪が風に揺れている。しかし、その瞳には光がなく、どこか遠くを見つめるような焦点の定まらない目をしていた。いつも笑顔だったはずの鳳子が、今は無表情で立っている。
まるで、月が雲に隠れてしまったかのような、奇妙な違和感を仁美里は感じた。
そんな姿を見て、鳳子に何もなかったなどと考えられるほど仁美里は愚かではない。直感的に、何か大きな変化が彼女に起こったことを理解していた。気づけば、仁美里は鳳子の手をそっと握り、その瞳の奥に潜む暗闇を覗き込んでいた。
「何があったの?」
仁美里は鋭く、低い声で尋ねた。けれど鳳子の瞳は困惑の色を浮かべたまま、視線を泳がせているだけだった。言葉を発することなく、彼女は仁美里の問いを避けているようだった。 仁美里は、さらに追及の言葉を投げかけようとしたが、その衝動を抑えた。彼女が話す準備ができるまで待とう、それが今できる唯一の配慮だと感じたからだ。
しかし、長い沈黙の後に鳳子が発した言葉は、仁美里が期待していたものではなかった。
「放っておいて」
それは、仁美里の背筋を凍らせるほど冷たく、恐ろしいほど低い声だった。まるで何もかもを拒絶し、誰にも触れさせないという強い意志を持ったその言葉に、仁美里は驚いた。彼女が今、自分を完全に突き放そうとしていることが理解できた。
――放っておいて。
それは、まさに仁美里が他人を拒絶するために使ってきた言葉だった。仁美里自身、いつも心の奥にある孤独を隠し、誰にも触れさせないために、同じように冷たく言い放ってきた。どんなに辛い状況でも、誰にも頼ることなく、ただ一人で全てを耐え抜いてきた。
あの冬の夜、教室で倒れた時でさえ、自分を守るためにそう言い放ったのだ。
だからこそ、今の鳳子の言葉に強い違和感を覚えた。まるで、自分自身を見せつけられているようで、恐怖すら感じた。これは自分の知っている鳳子ではない。愚かで、無邪気で、頼りなくて、どんくさいばかりだったあの鳳子ではない。
いつもなら、隠そうとする鳳子を無理にでも話させようと考えていた。しかし、この時だけはその手段すら浮かばなかった。鳳子が差し伸べられた手すらも拒絶することを、痛いほどに感じ取っていたからだ。
仁美里は鳳子をしばらく見つめた後、強く心を奮い立たせた。今、目の前にいる鳳子が、彼女がかつて知っていた鳳子ではないとしても、ここで手を放すわけにはいかなかった。何故なら、あの日の教室で、鳳子は拒絶する仁美里を見捨てず、救い出してくれたのだ。今度は自分が鳳子を救わなければならない。
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