2-4 呪縛
鳳子が帰宅したのは、日が沈みかけた頃だった。彼女の体はふらふらと頼りなく、頬には鈍い痛みが残っていた。家に入ると、ゴミや散乱した物が視界に広がるが、もうそれを気にする余裕すらなかった。
彼女はまっすぐに洗面所へ向かい、水を出して顔を洗った。冷たい水がほてった顔にしみわたり、瞬間的な心地よさを感じたが、すぐに痛みが甦る。鏡に映る自分の顔をじっと見つめた。頬の外側には赤く腫れた痕が残っている。仁美里の手のひらが何度もそこに触れた感覚が、まだ鮮明に蘇ってきた。
「……痛い……」
小さく呟いて、鳳子は口を開いた。鏡越しに自分の口の中を確認すると、頬の内側にほんのりと血が滲んでいるのを見つけた。打たれた瞬間、歯が頬に当たったのだろう。それが原因で、ずっと嫌な痛みが残っていたのだと、ようやく納得する。唇を閉じ、鳳子はゆっくりと息を吐いた。
洗面所を出た後、鳳子はリビングに向かった。そこは相変わらず散乱したゴミに埋もれ、雑然とした空間だった。宵子が去った後、一度もまともに掃除がされたことのないこの場所は、彼女にとって居心地が悪いはずなのに、どこか落ち着く場所でもあった。無秩序の中に存在する小さな自分、それがこの場所にフィットしているように感じていた。
彼女はぼんやりと床に腰を下ろし、何をするでもなく、ただ時間を潰していた。外からは遠く、祭りの音が微かに聞こえてくる。村人たちは神事の後の祭りで賑わい、笑い声や太鼓の音が夜空に響いていた。
鳳子はその音を聞きながら、無意識のうちに窓の外へと視線を移した。窓からは暗い村の景色が見えるだけで、祭りの明かりや光景は見えなかったが、耳を澄ませば楽しげな声が仄かに聞こえてくる。その声が、遠くの世界の出来事のように感じられた。
彼女も本当は、あの賑やかな祭りの中に身を置きたかった。だが、罰を受けた後、仁美里から「もしも祭りに近付けば、もっとひどいことをする」と言われていた。その言葉が、彼女の心に重くのしかかり、祭りの場へと足を向けることはできなかった。
だから鳳子は、窓辺に佇みながら、祭りの音に耳を傾けた。まるで自分もその場にいるかのように、心の中で祭りを想像する。笑い声、太鼓の響き、屋台の匂い……彼女の心は遠くの祭りに参加していた。しかし、実際には、ここにいるのは一人ぼっちで、静かに佇む鳳子だけだった。
それでも、鳳子は笑顔を絶やさなかった。仄かな笑みを浮かべたまま、窓越しに夜の村を見つめ続けた。心の中で祭りに参加しながら、彼女は自分を少しでも楽しませようとしていたのだ。
――笑って、鳳子。
母親の冷たい声が耳元に蘇る。無意識に、鳳子の思考は過去へと引き戻されていく。
幼い頃、鳳子が母親と過ごした日々――それは決して優しいものではなかった。宵子は、感情を外に出すことを嫌い、いつも冷淡で無機質な目をしていた。母のその無表情に、鳳子はいつも怯えていた。しかし、母が唯一露わにする感情があった。それは、鳳子の暗い顔を見るときだった。
――あなたのその顔が、不気味で不愉快なのよ。
その言葉は、鳳子の心に深く刻み込まれた。母は、鳳子の無表情が誰かに似ていることを嫌っていた。そして鳳子が悲しそうな顔をすると、まるで自分の感情を映されるように不快感を抱いたのだ。母が感じるその嫌悪感は、鳳子に対する叱責や体罰として返ってくることが多かった。
ある日、鳳子が泣きそうな顔をしていると、宵子は無言で彼女を浴槽の水へと沈めた。何の前触れもなく、ただ一言「笑え」と命じた。もし従わなければ、宵子はいつまでも鳳子の頭を水中に押し込んだ。そうして、鳳子は笑顔を作ることを学んだ――それが、彼女にとって|理想を演じる自分《えがお》の始まりであり、同時に初めての自殺だった。苦しみに耐え、涙を堪えながら、鳳子は母親の望む「理想の姿」へと生まれ変わった。宵子の機嫌を損ねないため、そして生き延びるためには、そうするしかなかったのだ。
遠くで聞こえる祭りの音が一層大きく響く。誰かの笑い声が鳳子の耳に届いた。その音を背景に、彼女はさらに記憶を辿る。
――ほら、笑って。みんなあなたを愛してるわよ。
母のその言葉もまた、鳳子の心に深く染み付いていた。たとえ罰を受けても、たとえ誰からも孤立しても、笑顔を絶やしてはいけない。鳳子は、笑顔を保ち続ければ、いつか母が自分を愛してくれると信じていた。
「お母さん、いつ帰ってくるかなぁ」
ふと、鳳子はぽつりと呟いた。遠くの祭りの音がふいに止んだその瞬間、彼女は静かに目を閉じ、心の中で微笑んだ。笑顔だけが、彼女にとって唯一の母親との絆だった。鳳子はそう信じながら、窓の外に広がる夜の静寂を見つめ続けた。
冷たい月の光が村を照らし、暗闇に優しく降り注いだ。その月明かりを見上げた時、鳳子の心は、初めて仁美里の演舞を見た時のことを思い出した。
凍てつく空気の中で舞う彼女の姿は、鳳子の目に焼き付いて離れなかった。寒さで凍える村の空気が、まるで止まったように感じられた瞬間だった。仁美里の姿は、美しくも脆い幻のようで、鳳子の心をつかんで離さなかった。それは、彼女の目に映ったのがただの演舞ではなく、雪の中でひらひらと舞い続ける幻想の蝶のように感じられたからだ。
彼女の動きは凛としていたが、その奥には何か張り詰めた苦しみが垣間見えた。彼女はただ、美しいだけではなく、何か壊れてしまいそうなものを抱えている――そんな気がしてならなかった。
鳳子は今、月明かりを浴びながら、ぽつりと呟いた。
「どうして仁美里ちゃんはいつも苦しそうなんだろう」
その言葉は、夜の静寂の中に溶けていった。
◆
演舞が終わり、祭りが静かに消えた後、仁美里は神社にいた。そこでは、彼女にとって最も重くのしかかる時間が待ち構えていた。
仁美里は冷たい床に身を横たえながら、目の前の天井から射し込む月の光をじっと見つめていた。薄暗い神社の中で、ただ一筋の光が彼女を包み込んでいた。その光は冷たく、無機質で、まるで彼女を救い出そうとはしない。ただ、遠くで輝いているだけだった。
体に触れる男たちの手は、まるで冷たい虫の触覚のようだった。彼女の肌を這いずり回る指先は、湿った土の中から這い出てくる蠢く虫たちのように無数に感じられた。それらが彼女の体を這い回るたび、仁美里は体を石のように硬直させ、意識をどこか遠くへと逃がそうとした。
禊という名の下に行われるその行為――それは、神聖とは程遠い醜い儀式だった。男たちは、まるで飢えた虫が死肉に群がるかのように彼女の身体に群がり、その目には隠しきれない欲望が宿っていた。彼女はただ一人、孤独な巫女として、ひたすらその虫たちに身を委ねるしかなかった。
男たちが動くたび、彼女の体はその痕跡を刻まれていく。まるで虫に食い荒らされる葉のように、彼女の心は少しずつ削り取られていった。無感情な顔の奥で、彼女はただ無数の虫たちが自分を蝕んでいくのを感じながら、心を殺していた。
――かみさま。ちゃんとみていて。私は、どんな試練にも耐えられるのよ。
彼女は自分に言い聞かせるように、心の中で何度も呟いた。神になる巫女としての運命――それだけが、仁美里に残された唯一の希望だった。たとえ今、虫に食い荒らされるような日々を耐え続けることになっても、いつか神として目覚める日が来る。それだけを信じて、彼女は月を見つめ続けた。
月光は美しかった。しかし、その美しさは冷たく、どこか残酷なものだった。まるで彼女の苦しみを嘲笑うかのように、静かに夜空を照らしていた。彼女の体の上で蠢く虫たちは、月の光に照らされ、その姿を影のように浮かび上がらせた。
やがて、男たちが手を引き、禊は終わった。仁美里は、静かに横たわったまま、再び月を見上げていた。冷たい月光が彼女の疲れ切った体に降り注ぎ、静かに夜の闇を照らしていた。彼女はその光の中に、ふと鳳子の笑顔を思い出した。
月がまるで遠いところからやってきて、絶望に沈む仁美里に手を差し伸べているように見えた。暗闇に差し込むその光は、あの日、初めて彼女に声をかけてきた鳳子の笑顔そのものだった。どれだけ村人から酷い仕打ちを受けても、笑顔を絶やさない鳳子――彼女の笑顔は、今も仁美里の心に深く刻まれていた。
「……鳳子……あなたはどうして、いつも笑顔でいられるの?」
仁美里は、思わずその言葉を月に向かって呟いた。まるで、その答えを求めているかのように。鳳子の得体の知れない、柔らかで愛らしい笑顔が、彼女の記憶の中で蘇ってきた。冷たく絶望的な現実の中で、その笑顔だけが、月光とともに彼女を包み込んでいた。
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