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リク 利が土を諦め、離れて新しい一歩を踏み出すという時に土が頑張る話

 初夏の朝、忍術学園には涼しい風が吹き抜けていた。
 石畳に残る水撒きの跡が、朝日を受けて濃い影を作っている。敷地内にある桑の葉は、生物委員が蚕を育てているせいで虫食いだらけだ。土井は鐘楼の朝の鐘を聞き、眠たげな一年は組のよい子たちの顔を見回しながら小さく微笑んだ。

 その時、ふと風のような気配がした。
(利吉くん)
 旅装のままの彼が、薄く埃をかぶった顔で立っていた。
「土井先生」
 短い挨拶。利吉さんだ、と子供たちがざわめき始める。いつものことだった。
 土井は胸の奥で何かが締め付けられるのを感じながら、平静を装った。
「ちょうどいいところに。実は山田先生がご不在で手が足りないことがあって。手伝ってくれる? バイト代は出すよ」
「無料でお請けしますよ。きり丸には内緒で」
 利吉は月に一度か二度、こうしてふらりと忍術学園を訪れた。依頼の合間に子供たちの相手をし、時には講師代わりをし、夜には外の話を聞かせてくれて、そのまま何事もなかったように風の向きへ帰っていく。
 土井にはわかっていた。それは自分のせいだ。彼から伝えられた想いのたけをきれいにかわして、はぐらかし続けていたのは土井だった。手を伸ばせば届く距離なのに、伸ばさない。伸ばしてはいけないと、自分に言い聞かせ続けている。
(いずれ、熱も醒める)
 そう思った。思おうとした。だが季節がひと巡りしても、利吉は変わらなかった。ただ、告げる言葉が減っていっただけだった。けれども──今日は何かが違っていた。

 昼餉の後、職員室で二人きりになった。薄い茶の香りが漂う中、利吉が正座を直す。
「一年……いえ、おそらく一年半は戻れません」
 土井の手が止まった。湯呑を静かに盆に置く。
(そうか)
 頭の中で、引き留めるためのいくつもの案が浮かんでは消えた。臨時の仕事を頼む。行事の手伝いが必要だと言う。あるいは──。
(みっともない)
 土井は自分を叱りつけた。深く息を吸い、教師の顔を作る。
「立派だね」
「立派なんかじゃありません」
 利吉は苦笑を浮かべた。
「先生が……何も言ってくださらないから、でしょう」
 土井の喉が鳴った。今まで必死に保ってきた距離が、音を立てて崩れそうになる。
「……いつ発つんだ?」
「十日後です。丹波から北へ」
「そうか」
 それ以上、何も言えなかった。ぬるい茶。動かない光。重い沈黙が二人の間に横たわる。
 利吉が暇を告げようとしたとき、ようやく土井が口を開いた。
「必要なものは? 何かあれば私が──」
「ありがとうございます」
 その短い礼は、明確な拒絶だった。利吉は立ち上がり、縁側へ出る。蝉の声を聞きながら、土井は言えない言葉を飲み込んだ。
(行かないでくれ)
 たった一言が、どうしてこんなに重いのだろう。

***

 別れの日は、雨の予感がする午後だった。

 門の外で、利吉が旅支度を整えている。遠く校舎の陰からは、子供たちがこっそり覗いている。
 土井は意を決した。もう、体裁など構っていられない。
「利吉くん」
 利吉が顔を上げる。
「行かないでくれ」
 風が止んだ。
「先生……」
「君がいないと困るんだ。山田先生はますます家に帰らなくなるだろうし、そうなると奥方が突撃して来るだろう。仲裁に入るのは私の役目だ。学園長先生だって、使い勝手のいい君がいなくなると、益々こちらに無茶を言うに決まってる。それに、」
 自分でも子供じみた言い訳だとわかっていた。でも止められない。
「……私が、困るんだ」
 喉が熱い。
「君がいてくれないと、寂しい。だから──」
 利吉は黙って聞いていた。やがて一歩、土井に近づく。
「ありがとうございます」
 深く頭を下げた。
「それでも、行きます」
「……もう、私では……だめなのか」
「先生がだめなんじゃありません。私が、だめなんです」
 利吉の目に、痛みのような光が宿った。
「ここにいると、私は弱くなります。全部が心地よすぎて。あれこれと理由をつけて、結局離れられなくなる。だから今は、行きます」
 土井は思った。正論だ。美しい決意だ。止めようもないほどに。
「……どのくらいに戻る予定なんだ?」
「順調なら、再来年の春には」
「無事でいてくれよ」
「はい」
 雨の匂いが濃くなる。土井は最後の言葉を絞り出した。
「……どうしても、置いていくのか」
 利吉の表情が揺れた。
「置いていくのは……今だけです」
 それは約束ではなく、ただの願いだった。

「では、行ってきます」
 利吉は礼をして、背を向けた。振り返らないまま、道の向こうへ消えていく。
「……元気で」
 土井の声は、掠れていた。

***

 三月後、北の港町。
 利吉は雇い人から貸し出された小さな長屋の一室で、針仕事をしていた。実家に帰らなくなって真っ先に身に染みたのは母のありがたさだった。それでも、この町の暮らしにも随分慣れてきた。味噌も、茶葉も、全てがこの土地のものに変わっている。

 ふと、戸を叩く音がした。
「お客さんだよ」
 隣人の声に、利吉は手を止めた。この気配は──。
 戸を開けると、旅姿の土井が立っていた。
「先生……」
「やあ」
 土井は笑ったが、額には汗が浮かび、着物には泥がついていた。いつもの穏やかな笑顔の奥に、旅の疲れが見える。
「どうして──ここが」
「忍の教師だからね」
 土井は微笑んだ。
「必死で仕事を片付けて、十日だけ休みをもらったんだ」
「子供たちを置いて?」
「託してきたよ。大丈夫、ちゃんと回る」
 土井は少し間を置いて続けた。
「君に会いたかったんだ」
 利吉は胸を打たれた。この人が──よい子たちよりも自分を選んで来てくれたなんて。
「……信じられません……」
 声が震えた。土井は困ったような顔をする。
「十日だけだ。十日だけ……君の暮らしに混ぜてほしい。君の選んだ方角を確かめに来ただけだ」
 利吉は口を開きかけてはやめ、目を閉じた。まぶたの裏に、学園の門の影が蘇る。別れの日のあの湿り気と、言葉の重さ。
「……来ないでほしい、とは……思いませんでした」
 絞り出すように言って、利吉は笑った。負けを認める笑いだった。
「ただ、戻せなくなるのが怖かったんです。先生がここにいて、『十日だけ』が『もう少し』になって、『もう少し』が『この冬のあいだ』になるのが」
「わかってる」
 土井は一歩、部屋の中へ入り、戸をそっと閉めた。狭い長屋の不揃いな板間に、柔らかな音が落ちる。
「十日のあいだだけ……君の邪魔にならない何かでいるからいさせてほしい。もう一度だけ君の顔を見たかった。本当に、それだけだ」
 利吉は俯いた。俯いてから、首を振った。それだけな筈がない。それだけのために、この人が十日も休みを取ってここにいる筈がないのだ。
「十日のあいだ……邪魔であってください」
 土井は目を細めた。旅の埃の向こうで、その笑みは不思議と滲んで見える。
「……うん」
 窓の外で、海の方から風が上がる。新しい町の匂いがふたりの間を抜けた。
 十日しかない。それで十分だった。十分過ぎるくらい、それだけでは足りない。その両方が、同じ重さで胸に落ちた。