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【原利土1819IF】頸と心1

一 断網の谷底



 空が、砕けるような音だった。
 そう思った刹那、山田利吉は咄嗟に身を伏せていた。天を引き裂くような轟音が谷底に反響し、岩肌を震わせる。雷か──否、この乾いた空気に稲妻が落ちる道理はない。奇妙に思いながら音のした方角へ視線を向けた瞬間、利吉の目は稀有なる光景を捉えた。
 崖の上から、黒い影が落ちてくる。人だ。
 黒装束の男が、まるで糸の切れた操り人形のように宙を舞い、岩壁に何度か身体を打ちつけながら谷底へと墜ちていく。鈍い音が幾度か響き、最後に男は利吉から二十間ほど離れた岩場に叩きつけられ、動かなくなった。
 利吉は息を殺したまま、その場を動かなかった。罠の可能性も排除できない。崖の上の気配を探る。ひとり──いや、二人。
「──裏切り者が!」
 男を追うようにして怒号が降る。崖上から下りてくる影が見える。利吉が現在雇われている国の、敵国の忍装束。
「死んだか?」
「あの高さだ、生きてはおるまい」
「念のため降りて確かめろ。首を持ち帰らねば頭領に──」
 利吉は静かに腰の火縄銃に手を伸ばした。
 敵国内部の仲間割れ。裏切り者として追われる立場の忍。抜け忍か。脳裏で幾つもの断片が瞬時に組み上がっていく。
(使えるな)
 慈悲ではない。憐憫でもない。あの男が敵国から逃げ出した抜け忍であるならば、相応の情報を持っている筈だ。死なれては困る。それだけのことだった。
 追っ手の一人目が岩肌に足をかけた瞬間、乾いた銃声が谷間に轟いた。男は声も上げずに落下する。残る一人が狼狽える暇を与えず、利吉は既に二挺目の火縄銃を構えていた。父譲りの技に自己流を組み合わせた二挺持ち。仕留め損なうことはない。殺しは仕事であり、感情を挟む余地はない。そうして静寂が戻った頃には、あたりに動く影はなくなっていた。

 利吉は素早く周囲を確認しながら、倒れた男の元へ歩み寄った。近づいてみれば予想以上に酷い有様だ。全身が傷だらけで、特に右脚と肋骨の辺りの損傷が酷い。顔は土と血で汚れ、年の頃は判然としないがまだ若い。自分とさして変わらない──二十ばかりに見える。
 男に意識はないが、息はあった。微かに胸が上下している。利吉は小さく息を吐いた。感情のない声で呟く。
「……運の良い男だ」
 利吉は男の身体を検めた。懐に武器はない。逃走の過程で失ったのだろう。首筋に手を当てて脈を確かめると、弱いがまだ保つだろうと感じる。しかしこのまま放置すればじきに死ぬ。この山の谷底の空気は冷たい。体力が尽きるか、冬ごもり前の獣に喰われるか──。
 迷いはなかった。利吉は男を背負い上げると、近場の洞窟へと向かった。この谷間には幾つかの天然の洞穴がある。奥まった場所にある一つを、利吉は緊急時の隠れ家として整えていた。



 洞窟の奥に男を横たえ、まずは手首と足首を縄で縛った。意識を取り戻した時、何をするか分からない。抜け忍であれ追い詰められた獣であれ、同じことだ。
 利吉は淡々と手当を始めた。
 衣を剥ぎ、傷を確認する。右脚の肉は抉れ、出血が酷い。肋骨も二、三本は折れているだろう。全身に無数の切り傷と打撲。だが内臓を損傷している様子はない。手当が適切であれば、生き延びる可能性はある。
 利吉は携帯していた薬を取り出した。水、解熱剤、包帯。野営の備えとして常に持ち歩いている物だ。脚を止血し、深い傷を水で清めて薬を塗り込み、布で巻いていく。手つきに躊躇いはない。ただ黙々と、壊れた道具を修繕するかのように、男の身体に処置を施す。
 作業を終えた頃には、夜が明け始めていた。
 洞窟の入り口から薄い光が差し込み、男の顔を照らす。血と汚れを拭ってやると、思いの外整った顔立ちが現れた。眉は濃く、鼻筋が通っている。苦悶に歪んだ表情の奥にはどこか聡明な気配が見て取れた。
「……まだ死ぬなよ」
 利吉は男の額に手を当てた。──熱い。予想通り熱が出始めている。
 水を汲みに行く支度を始めながら、利吉は冷静に今後の段取りを組み立てていた。この男が目を覚ますまで恐らくは数日。そうしたら出来る限りの情報を引き出す。敵国の内情、兵の配置、城の構造。使えるものは全て使う。そして用が済めば──。
 それ以上は考えなかった。考える必要がなかった。
 洞窟の入り口に向かいながら、利吉は一度だけ振り返った。縛られたまま荒い息を繰り返す男の姿は酷く脆い。
 利吉は視線を切り、洞窟を出た。
 朝焼けの空が、血のように赤かった。


***


 ──熱い。
 それが、男が最初に感じたことだった。
 身体の内側から焼かれているような感覚。次いで、全身を貫く鈍い痛み。肌の表面は氷のように冷たい。相反する感覚が全身を苛み、男は闇の底から這い上がるようにして意識を取り戻した。
 瞼を開くと、辺りは薄暗い。岩肌が見え、洞窟の中なのだと理解するまでに数瞬を要した。自分は確かに崖から落ちた筈だ。天と地が反転し、岩肌が迫り、そして──生きている。
 その事実を、男は奇妙な空虚さで受け止めた。
 身体を動かそうとして、初めて両手が後ろで縛られていることに気づく。足首も同様だ。縄は緩くも固くもなく、逃げられず、しかし血流を止めない絶妙な力加減で結ばれていた。
「……」
 男は無言で周囲を観察した。洞窟は奥行きがあり、入り口は一つ。焚き火が焚かれ、傍らには水の入った竹筒と薬草を包んだ布。そして──。
「目が覚めたか」
 声がした方へ視線を向ける。焚き火の傍らに、一人の若い男が座っていた。手には小刀と、何かの根。薬草を刻んでいるらしい。こちらを見る目は冷たく、そこに感情らしきものは見当たらなかった。年の頃は十八、九だろうか。整った顔立ちだが、その瞳は硬く冷たい。こちらを見ているようで見ていない。まるで物を見るような視線だった。
 若者が立ち上がり、こちらへ歩いてくる。その足運びを、男は熱に朦朧としながらも観察した。重心の取り方。気配の消し方。距離の詰め方。忍だ。それも相当に練れた。
 若者──利吉は男の傍らに膝をつくと、額に手を当てた。
「熱が高いな」
 利吉は刻み終えた薬草を小さな器に入れ、湯を注いだ。その器を男の唇に近づける。
「飲め。解熱と滋養の薬湯だ」
 背中に手を入れられ、男は半ば強引に上体を起こされた。肋骨が悲鳴を上げたが、声は出さない。器が唇に押し当てられ、苦い液体が喉を流れ落ちていく。
 利吉はそのまま、淡々と男の身体を調べ始めた。包帯を解き、傷口を確認し、新しい薬を塗る。その手つきには一切の無駄がなかった。
 男は、利吉の手を見ていた。
 指の腹に薄い火傷の痕がある。人差し指と中指の付け根には長年の摩擦による硬い皮。火縄銃を扱う者の手だ。それも相当な年月だろう。
 傷の処置が終わると、利吉は立ち上がった。
「……礼を言うべきか」
 男が口を開いた。声は掠れていたが言葉は明瞭だった。利吉は振り返らずに答える。
「好きにしろ。別に情けをかけたわけじゃない」
 男は薄く目を細めた。熱に浮かされながらも、その瞳には奇妙な冷静さがあった。
「……忍なら、私を助けたのは正解だ」
 利吉の足が止まる。
「損得で見れば、お前の判断は間違っていない」
「……」
 沈黙が落ち、利吉は振り返った。その顔には微かに興味のようなものが浮かんでいる。
「感謝の言葉にしては、可愛くないな」
「感謝じゃない」
 男は利吉の目を真っ直ぐに見据えた。
「評価だ」
 利吉は瞬きもしなかった。
「……情けで助けたのなら、お前を憐れむところだった。だが、そうではないんだろう。お前は私を情報源として拾った。抜け忍が持つ敵国の内情。それが欲しかった。違うか?」
 利吉の瞳が、僅かに鋭くなる。
「否定する理由がないな」
「それなら正解だ。私には価値がある。少なくとも今のお前にとっては」
 男は苦く笑った。熱のせいで、その笑みは酷く虚ろに見える。
「忍なら、使えるものは使え。私もそうする」
 利吉はしばらく男を見下ろしていた。
 それから、小さく息を吐いた。何かを評価するような、あるいは値踏みするような冷ややかな吐息だった。
「……口の減らない男だ」
「死にかけの捕虜に期待するな」
「期待はしていない」
 利吉は再び入り口の方へ歩いていく。
「だが、お前は馬鹿ではないらしい。それだけで十分だ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「好きにしろ」
 利吉は岩に背を預け、目を閉じた。眠るのかと思ったが、その気配は鋭いままだった。休んでいるふりをしながら常に周囲を警戒している。
 男は天井を見上げた。
 身体は熱く、重い。右脚は動かず、息をするたびに肋骨が軋む。頭だけが奇妙なほど冴えていた。生き延びたことが不思議でならなかった。恐ろしく切り立った崖から自分は落ちたはずだ。それなのに、どうやって。
 記憶を辿ろうとして、男は眉を寄せた。落下の瞬間、天地を裂くような轟音があった。そのあとのことが何も思い出せない。
 ただ──何かがおかしい。
 空気の匂い。風の流れ。草木の生え方。どれもあの崖の周囲で感じていたものと微妙に違う気がする。些細な違和感だったが、忍として培った感覚が確かにずれを感知している。
(……考えても仕方がないか)
 今は、生き延びることだけを考えろ。
 男は目を閉じた。
 気配が、変わらずにそこにある。敵意はない。だが信頼もない。ただ互いを利用価値のある駒として認識している。捕虜と捕獲者。情報源と管理者。それが噛み合っているから自分は生かされた。
 男は自嘲するように口元を歪めた。それでも哀れまれるよりは利用される方がましだ。少なくともそこには対等の打算がある。
(それにしても……あの男──)
 熱に浮かされた意識の中で、男はぼんやりと思う。あの冷たい目。無駄のない所作。必要なことだけを必要なだけ行う徹底した合理性。
(……まるで、自分を見ているようだ)
 意識が、再び闇に沈んでいく。
 最後に聞こえたのは、洞窟の外を吹き抜ける風の音だった。



 男が次に目を覚ましたのは、夜だった。
 焚き火の音がする。薄目を開けると、火の傍らで何かを煮ている気配がした。薬湯の匂いが洞窟に漂っている。
「起きたか」
 振り返りもせずに言う声に、男は掠れた声で答える。
「……ああ」
「飲めるか。粥を作った」
「粥?」
 その言葉に、男は僅かに目を見開いた。何も尋問せずに捕虜に粥をやるなど、男のいた忍者隊では考えられなかった。
「……なぜ」
「死なれると困ると言っただろう」
 利吉は木椀に粥をよそいながら、抑揚のない声で続ける。
「お前は丸三日寝ていた。その態度からすると、どうせすぐには口を割らないだろう。情報を得る前に餓死されたらここまでの労力が無駄になる」
「……なるほど」
 男は薄く笑った。
「合理的だな。……少々甘いが」
 利吉が椀を持って近づいてくる。
「起こすから、暴れるな」
 言うが早いか、利吉は男の上体を起こし、岩壁に凭れさせた。動作は荒くはなかったが優しくもない。粥を口元に運ばれ、男は素直にそれを受け入れた。薄い塩味だが、何日も何も口にしていない身体にはそれが沁みるように美味かった。
「……お前の名は」
 食べながら、男は問うた。利吉の手が一瞬止まる。
「忍が名乗るとでも?」
「では、『お前』と呼べばいいか」
 利吉はしばらく答えなかった。粥を掬う手が止まったまま、何かを考えるそぶりを見せる。沈黙が落ち、焚き火がぱちりと爆ぜる音がした。
「……野良」
「のら?」
 利吉が低く呟くと、男は僅かに首を傾げた。
「野良仕事の野良か」
「ああ。今考えた名だ」
 そう答える声から、感情は汲み取れない。男は頷き、粥を飲み込んだ。
「……そうか」 
 野良。飼い主のいない獣。誰にも属さない者。フリーの忍だろうか。であれば確かに相応しい呼び名かもしれない。男がそう考えているところに、返して問う声がかかる。
「お前の名は?」
「聞いてどうする」
「『お前』と呼べばいいか?」
「名乗るつもりはない。名乗れば足がつく」
「そうか」
 利吉は追及しなかった。予想通りというような響きで続ける。
「まあいい。追々聞き出す」
 立ち上がり、焚き火の方へ戻っていく。その背中を見ながら男は思った。
(この男は、やはり私と似ている)
 他者を信用しない目。感情を削ぎ落とした声。損得の計算だけで全てを動かそうとしているのが伝わってくる。違うのは、この若者にはまだ守るべきものがあるのだろうということ。冷え切った目をする割に、そこに消しきれない焔がある。
 この男は何かを守るために自分を殺している。
 そういった男に拾われたのは僥倖だった。優しくもなければ残虐でもない。そういう者は冷静な交渉ができる。
 粥を食べ終えると、利吉は椀を下げ、男を再び横たえた。
「眠れ。熱が引くまでは大人しくしていろ」
「……逃げるとは思わないのか」
「その脚で逃げられると思うのか?」
 男は自分の右脚を見た。折れてはいないようだが出血が酷かった脚は腫れて痛み、動かすこともできない。
「……違いないな」
「分かったら眠れ」
 利吉は焚き火の傍らに戻った。
「その前に……水が欲しい」
「待っていろ」
 短い返答。けれど確実に要求に応じる動き。情けではない。ただ壊れた道具を修繕しているだけ。それを男は理解していた。理解した上で、その合理性に身を委ねていた。
 竹筒が唇に押し当てられる。冷たい水が喉を潤していく。
「……お前の判断は正しい」
 水を飲み終え、男はもう一度言った。
「私は確かに情報を持っている。忍者隊の内部事情も、城の構造も、兵の配置も、お前が求めるものは、ある程度は渡せる」
「ある程度、か」
「全てを渡せば、私の価値はなくなる。そうなればお前は私を生かしておく理由を失う。違うか」
 利吉は答えなかった。ただ、その沈黙が肯定だった。
「取引だ。お前は私を生かす。私はお前に情報を渡す。互いに利用し合う。それでいいだろう」
「……聡い男だな」
「生き延びるために必要なだけだ」
 男は目を閉じた。熱はまだ残っている。身体は重く、意識の縁が霞んでいく。けれどもひとまずは安全だ。少なくとも今夜は殺されないことが確定している。
 眠りに落ちる前に、男はもう一度だけ口を開いた。
「──野良」
「何だ」
「助けてもらった礼に、一つ教えてやる」
 沈黙が返る。
「お前は、正しい判断をした。私を拾ったことも、生かしていることも」
「……」
「情報は渡してやる。ただ──」
 男の声が、微かに揺らめく。
「信用するな。私を」
 焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
 利吉は答えなかった。答えずにその冷たい瞳だけが、何かを探るように男を見つめた。