花の大江戸転生主従パロ 番外 内側の灯
利吉が診療所から土井家の屋敷に戻ったのは、季節が秋になり始めた頃だった。
御側として、という若殿の決め事に従い、利吉の部屋は若君の居室に近い棟に移された。傍仕えの間は六畳の小さな部屋で、庭に面した障子を開ければ植え込みの向こうに若の居室の縁側が見える。──近い。近すぎるのではないかと利吉は思ったが、先代家老が「若殿様のお指図ですので」と淡々と案内するので、黙って荷を解いた。
荷といっても大したものはない。着替えが二組。伊作からもらった膏薬の壺。鶯笛。そして──懐の中の櫛。
利吉は部屋に座り、障子越しに若の居室を見た。明日からはあの部屋に利吉も控えることになる。今はまだ昼過ぎで、若君は公務に詰めている。もしかしたら縁側に出て、こちらを見るかもしれない。目が合うかもしれない。
その想像だけで、耳の奥が熱くなった。
(……何をしている。私は)
利吉は顔を伏せた。忍が──もう公的には忍ではないのだが──主君の居室を眺めて頬を染めているなど滑稽だ。けれども滑稽だと分かっていても、顔の熱は引かなかった。
あの夜から、土井と利吉の距離は確かに縮まった。縮まったのだが──縮まっただけだった。
土井は毎日、利吉の顔を見に来る。寺子屋から戻ると、まず利吉の部屋の前を通り、障子越しに声をかける。
「利吉くん、加減はどうだ」
「ええ、今日も指を動かしました。まだ、薬指が少し……」
「そうか。無理はしないように」
「はい」
──以上だった。
それだけ言って、土井は自分の居室に戻る。利吉も自分の部屋に引っ込む。障子が閉まり、二つの部屋の間に植え込みと夕暮れの空気だけが残る。
あの夜、「傍にいてくれ」と言ってくれた人の声は確かに耳に残っている。櫛は毎日懐に入れて持ち歩いている。けれども日常の中で何をどうすれば良いのかは、全く別の話だった。
利吉にとって、土井は若だ。主君の息子だ。あの夜、自分の想いを受け止めてくださった。それは恋が叶ったということなのだろうか。利吉には分からなかった。恋仲、という言葉を頭の中で転がしてみる。途方もなかった。畏れ多すぎて、言葉の形をなさない。若が自分の気持ちを聞いてくださった。「傍にいてくれ」と言ってくださった。そのことに感謝こそすれ、対等な恋仲として振る舞うなど、想像するだけで手が震えた。
たとえば、手に触れること一つとってもそうだ。
あの夜、土井が利吉の手を取った。それは若からの行為だった。若がこの手を取ってくださったから、握り返すことができた。けれども自分から──利吉の方から手を伸ばして若の手に触れることは、まだ一度もできていない。
触れたい、と思うことはある。
夕暮れ時、縁側で隣に座っている時に。土井の手が膝の上に置かれているのを横目で見て、あの手を取りたいと思う瞬間がある。けれどもそこから先に、壁がある。目に見えない壁だ。それは利吉自身が立てている壁だった。
若に馴れ馴れしく触れるなど、あってはならない。
たとえ想いを受け止めてもらえたとしても、自分は家臣だ。主君の身体に、家臣が許しなく触れることは──。
利吉はそこまで考えて、自分の右手を見た。包帯はもう取れている。皮膚は引き攣れたままだが指は動く。あの蔵の中で若殿を担ぎ上げた手。火の中に突っ込んだ手。この手で若に触れることが、なぜこんなにも恐ろしいのか。
火に飛び込む方が、よほど容易かった。
利吉には日課があった。右手の指の運動を、夕方の縁側でするのが、いつしか習慣になっていた。握って、開いて、また握る。小指がまだ曲がりきらないのをじっと見つめ、もう一度握る。
土井は夕方の公務を終えると、縁側に出てきて利吉の隣に座る。座って、指の動きを見る。
「見せてくれるか」
「はい」
利吉は右手を差し出す。土井がその手を取り、指を一本ずつ軽く曲げて確かめる。伊作に教わった診察の手つきだが、伊作の手とは違う。伊作の手は医者の手で、土井の手はただ大切そうで、温かかった。
親指。人差し指。中指。ここまではいつも滑らかだ。薬指を曲げる時に少し引っかかる。小指は──。
「……痛いか?」
「いえ……。少し、突っ張るだけです」
土井の指が、利吉の小指を包むようにして軽く押す。ゆっくりと、力を入れずに。利吉の指が曲がるのを支えるようにして。利吉は土井の指先を見ていた。自分の指に触れている土井の指を。爪の形、指の腹の柔らかさ。墨が少しだけ残っている中指の第二関節。──この手があの夜、自分の手を握ってくれた。
「どうかしたのか?」
「いえ……」
利吉は目を逸らした。土井が利吉の手を離し、指先が利吉の掌の上をかすかに滑る。その感触が掌に残って、利吉は自分の手を膝の上に戻した後もしばらく握れなかった。
これが日課だった。毎日、同じことを繰り返す。土井が手を取り、指を確かめては離す。利吉はその間じゅう息を止めて、離された後に呼吸を思い出す。
ある夕方、利吉は気づいた。
(──若は、これを口実にしているのではないか)
指の診察は、医者に任せれば済むことだ。三日に一度、御殿医が膏薬を替えるついでに確認してくれる。毎日やる必要はない。ましてや若がやる必要は。
気づいた瞬間、耳が熱くなった。若の方を見ると彼は庭の方を見て何でもない顔をしていた。けれどのその横顔が、わずかに赤いような気がした。
夕日のせいかもしれない。夕日のせいだと、利吉は思うことにした。
ある夜のことだった。
土井が利吉の部屋を訪ねてきた。日課の報告の聞き取りに、という名目だったが、今日の分の報告はしたし追加で報告すべきことは特になかった。ここ数日はそうだった。用がなくても若はこの部屋に来る。用がないことは二人とも分かっていて、それでも二人とも何も言わなかった。
利吉は行灯の前に座り、左手で帳面をつけていた。屋敷の警備についての覚書だ。右手ではまだ筆が握りづらいので左手で書いている。土井が部屋に入ると、利吉は筆を置いて居住まいを正した。
「若。何かございましたか」
「いや、何も。……少し、話がしたくて」
土井は利吉の向かいに座った。行灯の灯りが二人の顔を照らしている。あの夜以来──向かい合って座る時に、利吉はいつも正座だった。膝を揃え、背筋を伸ばし、手を膝の上に置く。家臣の姿勢を崩さず、土井が「楽にしていいよ」と言っても、利吉は「はい」と答えるだけだった。
この夜もそうだった。他愛のない話をした。寺子屋の子供が大きな蛙を持ち込んで教室中が大騒ぎになった話。長次の瓦版屋で奉公しているきり丸が、近所の猫に情をかけて三味線屋に売るのを諦めた話。留三郎が煙を吸った喉で火消しの新入りを叱って声を枯らし、伊作に薬をもらいに来た話。小平太が御用改めに入った先の屋敷で、勢い余って備品を壊して始末書を書いた話。仙蔵が文次郎を芝居を見に来いと誘って、文次郎が毎度無心に仕事をしすぎて忘れる話。
利吉はそれを聞きながら、時折小さく笑った。笑うたびに正座の膝がほんの少しだけ緩む。緩んだことに利吉自身は気づいていないだろう。けれども土井は気づいていた。気づいて、それが嬉しかった。
ふと、話が途切れた。行灯の火が揺れている。
「──若」
「何だ?」
「……手の具合を、見ていただけますか」
土井は瞬いた。いつもは夕方の縁側でやることだ。そしていつもは土井の方から「見せてくれるか」と持ち掛ける。今日もそうやって彼の手に触れた。利吉から──しかも夜に改めて頼むのは、初めてだった。
「ああ。もちろん」
利吉が右手を差し出した。土井はその手を取り、いつもの手順で確かめた。親指から順に一本ずつ曲げて確かめる。利吉の指は少しずつ滑らかに動くようになっていた。薬指の引っかかりも減っている。小指はまだ硬いが、先月よりは曲がるようになっている。
「だいぶ、良くなってきたな」
「はい。伊作くんと、御殿医殿のおかげです」
土井は小指を確かめ終わり、利吉の手を離そうとした。否、離そうとした──その瞬間、利吉の指が動いた。
離れかけた土井の手を、利吉の指が追った。いつものような許しも得ずに、小指と薬指が土井に触れた。まだ十分に動かない二本の指。土井の手の甲にそっと乗ったその指に重さはほとんどなく、触れたというよりは乗ったと言う方が正しい程度の、それはかすかな触れ方だった。
土井の動きが止まった。利吉の目は、彼自身の指先を見ている。土井の手の甲に触れている自分の指先を。顔が赤い、ような気がする。耳も首筋も。けれども利吉は指を引かなかった。引こうとする意識と引きたくない熱が、利吉の指先で拮抗しているように見えた。
いくつ数を数えただろう。長くも短くも感じる一瞬の末に、利吉は指を引いた。指先を膝の上に戻し、そして所在なさげにうつむいた。そうして小さく、消え入りそうな声で、ようやくのように許しを請う。
「──失礼、しました。お許しも得ずに──」
「……利吉くん」
土井は何かを言おうとした。許しを請わなくていい、いつでも触れていい、と、本当は言いたい言葉を慌てて喉の奥で止める。これを言えば、利吉はますます固くなるかもしれないと思った。家臣が主君に「いつでも触れていい」と言われたら、それは許しではなく示唆になる。主君の望みを叶えようとする家臣は──利吉はそれに従うだろう。従うことと自分から触れることは、形は同じでも全く違う。そう思って、だから土井は別の言い方をした。
「……嬉しかったよ」
利吉は顔を上げた。
「手、もう少しで、小指も戻りそうだね」
目を合わせることができずに、土井は話を逸らした。逸らしたことは利吉にも分かっただろう。回復を喜ぶ言葉に紛れさせた本音を、利吉が受け取ったかどうかは分からない。けれども利吉の耳の赤さが、わずかに深くなったように土井には思えた。
土井はその夜、自分の居室に戻ってから、布団の上であぐらをかいたまま自分の右手の甲を見ていた。利吉の指が触れた場所だ。もう感触は残っていない。それなのにまだ、手の甲が温かいような気がした。
(──先は、長そうだな)
指が触れただけであの様子だ。手を繋げるのはいつになるだろう。肩に頭を預けてくれるのはいつになるだろう。抱きしめて、耳元で名を呼んでくれるのは──。
考えるだけで、土井自身の耳が熱くなった。
先は長い。けれども自分はもう百年待った。急がなくていい。今日は利吉が自分から触れてくれた。許しも得ずに。──あの二本の指の重さだけで、十分だった。
土井は右手の甲を、左手でそっと覆った。利吉の指が触れた場所を、閉じ込めるようにして。
そっと部屋の外に目を向ける。内庭を挟んだ障子の向こうには、利吉の部屋の灯りがまだ見えていた。