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リク現パロ 高校生利くんの青春 ~鈴の鳴る図書館~

 町の小さな図書館は、川沿いの道から一本入ったところにある。かつて薬局だった建物を改装したらしく、正面のガラス戸は少し波うち、午後の光を柔らかく取り入れる。入るとドアに付いている鈴が鳴り、紙とインクの匂いがする。天井の扇風機は夏も冬もゆっくりと回っていて、この建物が歩んできた時代を思わせる。
 返却カウンターの奥には、いつも若い司書の男が座っていた。貸し出しカードに押される担当印は土井。淡い色のカーディガンに、よく通る優しい声。
 利吉は放課後にそこへ通う。自習室はないが、窓際の机に参考書を広げると、外の白い雲が紙面を明るくした。三十分ほど勉強してから本棚に向かい、短い本を一冊だけ選ぶ。返却期限のゴム印が鳴るたび、時間が区切られる。カチンという音が、心のどこかを整える。

 手紙を添え始めたのは、夏のはじめだった。理由はうまく言えない。本を返すとき、貸出カードのポケットに小さなメモを一枚入れる。
 ──この小説の、階段を降りる場面が好きでした。
 それだけ書いて、自分の名前は書かない。けれどもカードの欄にある借り手の番号で、調べさえすれば相手にはすぐに分かる。知ってほしいような、ほしくないような。胸の内側で灯が少し高く燃えた。

 次に本を借りたとき、背表紙をめくると、カードポケットに小さな返事があった。青いインクで丁寧に書かれた字。
 ──足音の描写がすばらしいね。段差ごとの息の上がり方まで聞こえるみたいで。
 署名はない。けれども土井の字だと分かる。カウンター越しに見る手の動きがそのまま線になっているかのような、それはきれいな文字だった。
 嬉しさは音にならない。リュックの底で、真新しい鉛筆が転がる。受験生になるからと、気合いをいれて買った鉛筆。

 それからは、週に一度のやり取りが続いた。利吉は読みながら気づいたことを短く記す。
 ──この言い回しが古くて美しい。
 ──喫茶店の匂いがページからする気がした。
 ──最後の一行に救われた気持ちになった。
 土井は、借りるときに返事を挟んでくれる。
 ──古い言い回しには景色が宿るから。
 ──匂いの記憶は意外に長持ちするんだ。
 ──救う一行を書く人は、誰かに救われた経験がある。
 言葉はどれも静かで、けれども手触りがよかった。触れると粉のようなきらめきが指先に残る。利吉はいつのまにか、本の内容よりも本を読んだ後に書く一言の方を気にするようになった。

 秋が来た。制服の上にカーディガンを重ねても、日が落ちると手が冷える季節。模試の判定は上の下くらいで、お前なら余裕だろうと誰しもに言われても不安は丁寧に増えていく。利吉は、机に突っ伏しそうになる夜の手前で図書館へと向かった。今日行かなければならない訳ではなかったけれど、今日行かなければ駄目になる気がした。扉を押すと、鈴が鳴る。土井はいつもの場所にいて、いつもの調子で本を受け取る。指先がほんの少しだけ触れる。面白かったですと礼を言うと、土井の目元が柔らかくなった。貸出台の上に置かれたゴム印の影が夕方の色をしている。たったそれだけのことに、ほっとしている自分がいた。

 冬のはじめ、雪が一度だけちらついた。利吉は、短歌の入門書を借りた。手帳の最後のページに、鉛筆で三十一音をまねして書いてみる。うまくいかない。あきらめて、メモにはこう書いた。
 ──勉強が苦しくなると、ここに来てしまう。
 返事はすぐに入った。
 ──苦しくなるところまで勉強しているのがえらい。息抜きは、なるべく文字の近くだと嬉しい。
 読んだ瞬間、胸が温かくなった。図書館の空気がほんの少し甘くなったような。そういう錯覚は長くは持たないが、薄れるたびに利吉はそのメモを読み返した。

 年が明け、早春の空気が硬くなる。制服の襟元が冷たい。合格発表の日、利吉は午前中に学校の掲示を見に行き、午後にいつものように図書館へ来た。その日は借りる予定はなかったが、習慣が足を運ばせた。入口のマットで雪を払い、カウンターへと進む。土井と目が合って挨拶をした。本当に挨拶をするだけにとどめようとして、けれども「合格しました。東京に行きます」と言葉はほどけた。土井は笑っておめでとうと言い、利吉はそれ以上を言わなかった。言葉は少ないほうが、今日に限っては正しい気がした。棚から短い本を選ぶ。カードを差し出す。ゴム印の音が雪のように静かだった。

 その日、ポケットには、土井からの短いメッセージが挟まっていた。
 ──本が好きな君がここへ来てくれるのは嬉しかった。合格おめでとう。元気で。
 読み終えて、胸の奥で何かがほどけた。メモ用紙を取り出し、丁寧に字を書く。書き直しはしない。言い訳を足さない。言葉は短いほうが、きっと届く。
 ──本が好きで来はじめたけど、いつのまにか、あなたが好きでした。
 紙を畳み、表紙裏のポケットに収めると、メモの角がわずかに覗いた。返却期限は二週間後だ。返却ポストにいれてしまえば、もう顔を合わせることもない。受け取りのとき、土井はこの紙を読む。そのとき自分はもうここにいないかもしれない。そう思うと図書館の光がいつもより白く感じられた。窓辺の光を浴びて見える埃が、雪の欠片のようにきらめいていた。

 結局それが、最後の貸し出しになった。利吉はその本を返し、もう新しい本を借りなかった。駅前のバス停で、雪解け水の音を聞きながら新しい街の地図にピンを立てる。背中のリュックは軽く、代わりにポケットの中の鉛筆が重い。誰にも見せない短歌や詩が、手帳の最後のページに短く並ぶ。図書館の鈴の音が耳の奥で鳴っている。扉を押す感触だけが、今でも何度も反芻される。

 春になり、図書館にも風が入るようになった。土井はカウンターの引き出しに、白い紙を一枚入れている。返事は貸し出すときにする習慣だった。もう幾度も読み返したメモ用紙を読むと、鉛筆の線が少しだけ揺れて見える。指先でメモの縁をなぞる。ゴム印の横に置かれた青いペン先は、ひどく静かでもう使われることもない。
 ──いつのまにか、あなたが好きでした。
 扉が開くたび、鈴が鳴る。今日も誰かが本を借り、誰かが帰って行く。いつでも返事は書ける。書くべき紙も、言葉も用意がある。それなのに、渡す機会だけがない。

 夕方、窓際の机に陽が伸びる。埃が光を飲んで小さく光っている。カウンターの上で白いメモが薄く透けて、古い柱時計が時刻を打つ。利吉の番号が書かれた貸出カードは、もう棚の奥にはない。カードも電子式に代わり、貸し出された記憶の置き場所すらも移り変わる。けれども土井はその続きのために、いつもどおりの場所に座って扉が開く音を待つ。たった一人の鈴の余韻が、春の風のように長く耳の奥で鳴っている。