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リク 利くんが動物になってしまう話

 またもや満月の夜だった。土井が裏山の小屋に着くと、案の定そこには茶色い毛並みの山犬の姿があった。
「利吉くん……『また』なのか」
 土井の呆れたような声に、山犬は申し訳なさそうに耳を伏せた。しかしすぐに土井の機嫌を取ろうとするように、そっと近づいてきて土井の口元をぺろぺろと舐め始める。
「誤魔化そうとしてるな」
 土井はそう思いながらも、必死な様子が可愛らしくて思わず笑ってしまった。月明かりに照らされた山犬の姿は、どこか健気で愛らしい。
 ふと悪戯心が芽生えた土井は、今度は自分から山犬の口元に顔を近づけ、舐め返してみた。
 すると山犬は驚いたように目を見開き、一瞬動きを止めた。耳がぴんと立ったり寝たり、尻尾も固まったように静止している。
「なんだ、その反応」
 土井は面白くなって、さらに山犬の鼻先や口元を舐めていった。山犬はますます困惑した様子で、後ずさりしようとしたり、首を傾げたりと落ち着かない。その戸惑いぶりが余計に土井の興味を引いた。
「どうしたんだい? いつも君が私にしていることなのに」
 土井が悪戯っぽく笑いながら、また山犬の口元を舐めると、山犬は「クーン」と困ったような声を出した。
 そういえば、以前聞いたことがある。犬にとって口元を舐めるのは、目上のものへの親しみと服従の現れなのだと。そのため、目上のものから舐められると、立場が逆転したように感じて困惑してしまうらしい。
「なるほど……君は私を立てていたわけだ」
 土井は納得したように頷いた。山犬は相変わらず困惑した様子で、土井の顔を見つめている。その瞳には、人間の利吉と同じ知性と感情が宿っている。にも関わらず犬の本能に従って行動してしまう様子に、土井はいとおしいような気の毒なような気持ちにとらわれた。
「ごめんごめん、からかいすぎたね」
 土井は山犬の頭を優しく撫でた。すると山犬は安心したように、そっと土井の膝に頭を乗せてきた。
 小屋の窓から差し込む月光が、静かに二人を照らしている。虫の音も次第に少なくなってきた秋の夜は、ひんやりとした空気が心地よい。
「さて、今夜も一緒に過ごそうか」
 土井の言葉に、山犬は小さく鳴いて応えた。もう困惑した様子はなく、いつもの甘えた表情に戻っている。土井は山犬を促して、小屋の中へと入っていった。満月の光が二人の後ろ姿を優しく見送っている。

 遠くで梟の声が響き、風が木の葉を揺らす音が聞こえる。しばらくすると、山犬の姿がゆらりと揺らぎ、人間の利吉の姿に戻っていった。いつものことながら、戻った直後は全裸なので土井は少々気の毒に思う。
「寒いだろう。ほら」
 土井は山犬がいつも荷物を隠す場所から利吉の着物を引っ張り出し、むき出しの肩に羽織らせてやった。利吉は礼を言いながら、まだ少しぼんやりとした表情で着物の襟を合わせる。
「ありがとうございます……」
「いや、いつものことだからね」
 土井はつい犬にするようによしよしと頭を撫でてやりながら、ふと問いかけた。
「君、山犬になってる間はどういう感覚なんだ? さっき私が口元を舐め返したら困っていたけど」
 利吉は帯を結びながら、少し考えるように視線を泳がせた。
「そうですね……意識ははっきりしているんです。先生のことも分かっているし、何を言われているかも理解できます。ただ、感覚が少し違うというか……」
 利吉は言葉を選びながら続けた。
「完全に犬の心になるわけではないのですが、感覚や本能は山犬のものになります。だから、先生が口元を舐めてくださった時は、立場が逆転したような……どう反応していいか分からなくなってしまって」
 利吉は少し恥ずかしそうに頬を染めた。
「犬にとって、目上の方から口元を舐められるというのは、かなり特殊な状況なんです。普通はあり得ないことなので、混乱してしまいました」
「なるほどね」
土井は納得したように頷いた。
「でも、今は人間なので……舐め返されると嬉しいですよ」
 利吉はそう言いながら、期待するような目で土井を見つめた。その素直な様子に、土井は少し意地悪な笑みを浮かべる。
「うーん……どうしようかな。山犬のときの方が君は可愛げがあるからな」
 わざと困ったように言うと、利吉は不満そうに唇を尖らせた。
「先生、それはひどいです」
「冗談だよ」
 土井は笑いながら利吉の頬に手を添えた。
「山犬の君も、人間の君も、どちらも可愛い」
 土井は利吉を抱き寄せながら優しく笑った。月明かりが小屋の中を静かに照らし、二人の男の影が壁に大きく映っている。秋の夜は、まだ続いていた。