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春の日に兎を釣る

 氷ノ山の山田の家に厄介になりはじめてしばらく経った頃。利吉が森へと案内してくれた。高山の春は遅いが、ようやく春も終わりそろそろ夏めいて来ている様子だった。周囲を警戒しながら歩いていると、利吉がどんどん先へ行く。見れば、利吉が仕掛けた罠に兎が一羽かかっていた。
「うまくいきました」
 利吉が笑った。その笑顔は無邪気で、けれど獲物を見る目は冷静だった。罠に掛かった兎と利吉の顔とを見比べて、うまいものだねと言って褒めると、褒められた利吉はもっと嬉しそうに笑った。

 それから数年が経った。利吉は立派な忍者に成長し、フリーの売れっ子として名を馳せていた。仕事で忙しいはずなのに、利吉はちょくちょく土井を訪ねてきた。土井に会うためだけに遠回りをして学園に寄り、土井の好物を持ってきて、土井の話を熱心に聞いた。
 そんなささやかな好意を幾年も重ねられて、いつしか土井は思った。この子は私のことが好きなんだろうな、と。
 利吉の視線の温度で、利吉の言葉の選び方で、利吉の気遣いの細やかさで、土井はそう思った。自分は利吉に大事にされている。尽くされている。そしてその想いは、ただの慕情以上のものだ。土井はそれを嬉しく思いながらも、どう応えていいかわからず、ただ穏やかに接することしかできなかった。
 初秋のある日、利吉がいつもより緊張した面持ちで土井を訪ねてきた。
「先生……どうしてもお話ししておきたいことがあります」
 利吉の声には、どこか決意のようなものがあった。土井の胸は高鳴った。これは、もしかして──いや、きっとそうだ。土井は表面上は平静を装いながら、内心では慌てていた。自分はどう答えよう。まだ心の整理がついていない。けれど、咄嗟に断ろうとは考えなかった。
「何だい?」
 土井は努めて穏やかに尋ねた。利吉は少し視線を逸らしてから、もう一度土井を真っ直ぐに見た。
「実は今度、ご紹介したい女性がいまして」
「……え?」
 土井の思考が一瞬止まった。利吉は少し照れたような、面映ゆげな表情で続けた。
「忍務先で知り合った方なんです。とても聡明で、優しい人で」
 利吉の顔が緩んでいた。土井はその表情を見て息が詰まるような気持ちになった。こんな顔、見たことがない。利吉がこれまで土井に向けていた笑顔など、この顔の前では色褪せた。単なる親しみ、単なる尊敬。それ以上のものではなかった。
「結婚を考えているんです」
 利吉が言った。その声は静かで、けれども幸福感に満ちていた。土井は何も言えなくなった。頭の中が真っ白になって、言葉が出てこなかった。
「あなたに真っ先にお伝えしたかったんです」
 利吉がそう言って微笑む。その笑顔に土井は胸の奥が痛むのを感じた。切なさだった。寂しさではなく、切なさ。土井は自分の心を自問した。なぜ切ないのか。
「そう、か。おめでとう」
 土井は笑顔を作った。利吉は嬉しそうに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「婚儀とかは、考えてるの?」
「ええ。春ごろにしようかと」
 春──。まだ半年以上先だ。けれども、その時が来れば、利吉は誰かの夫になる。ここへ来ることもきっと減り、土井のものではなくなってしまう。いや、最初から自分のものなどではなかったのだが。

 それから、土井は利吉のことばかり考えるようになった。授業中も、職員室での残務中も、夜眠る前も、利吉のことが頭から離れなかった。利吉の笑顔、利吉の声、利吉の優しさ。全てが頭の中で繰り返された。そしてあの見たこともない幸せそうな顔が、土井の胸を締め付けた。
 その間も利吉はずっと優しかった。変わらず土井を訪ね、変わらず土井を気遣い、変わらず土井の話を聞いた。けれども利吉の話の中に、時折あの女性のことが混じるようになった。利吉は嬉しそうに語り、土井は笑顔で聞いた。そのたび苦しかった。
 伝蔵は何も言ってこなかった。利吉が話をしていないのなら自分が先に伝えるのは失礼だと思って、土井からは何も聞けなかった。ただ、時々伝蔵が気づかわしげに土井を見た。そんなに態度に出てしまっているだろうかと土井は情けなくなった。

 冬が来て、雪が降り、また溶け始めた。春が近づいてきていた。土井の胸は次第に重くなっていった。もうすぐ、利吉は誰かのものになる。土井はその現実を受け入れようとしたが、受け入れられなかった。
 早春のある日、利吉が土井を訪ねてきた。いつもと変わらない笑顔だったが、どこか疲れているように見えた。二人で茶を飲みながら、土井は思い切って尋ねた。
「いつ祝言を挙げるの?」
 無理に笑ったつもりだったけれど、その笑顔は上手く作れていなかったかもしれない。利吉は茶を置いて、寂しそうに言った。
「実はあの話は、駄目になってしまって」
 土井の心臓が跳ねた。
「え……どうして」
「色々と、事情がありまして。彼女には別に想う人がいたようです」
 利吉は静かに笑った。その笑顔には諦めが混じっていた。土井はほっとした。胸のつかえが消えたような気がした。けれども同時に、ほっとしている自分に嫌気がさした。利吉の幸せを願うべきなのに、利吉の婚約が破談になったことを喜んでいる。そんな自分が、ひどく醜く思えた。
「それは……残念だったね」
 土井は優しい言葉をかけた。利吉は土井を見つめて、小さく笑った。
「お兄ちゃんは……優しいですね」
「優しいから言ってるわけじゃないよ。君だから──」
 土井は言葉を切った。言ってはいけない。これ以上は言えない。利吉の目は土井を捉えていた。
「私だから?」
 土井は何も言えなかった。ただ視線を逸らして、誤魔化すように茶を飲んだ。利吉はしばらく土井を見つめていたが、やがて穏やかに笑った。その笑顔は、確かにどこかで見たような表情だった。
 ああ、と土井は思った。
 これはあの日、罠に兎がかかったのを見た時の笑顔だ。「うまくいきました」と言わんばかりのあの笑顔。まさか──いや、そんなはずは。けれども利吉の目には確かに何かがあった。それが何なのかは土井にはわからなかった。ただ、利吉が静かに笑っていることだけが確かだった。
 春の風が窓からかすかに吹き込んできている。梅の蕾が、もうすぐ開こうとしていた。