大江戸転生主従パロ 手を放す 12 ~帰還~
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※死に纏わる少々凄惨な描写があります
街道を進むにつれて、辺りを取り巻く臭いがおかしいことに土井は気づいた。
昼を過ぎた空は晴れている。それなのに江戸の方角だけがどこか霞んでいる。そしてこの臭い──煙だ。煙の臭いが、屋敷町のある方角から風に流されている。
供の者が何か言ったが聞こえなかった。土井は馬の腹を蹴った。屋敷の門が見えた時に、最初に感じたのはやはり臭いだった。焦げた木と漆喰の臭いが風に混じり、門の手前から鼻を突いてくる。馬が首を振って嫌がり、土井は手綱を引いて降りた。門は閉ざされていた。平時であれば昼間に門を閉めることはない。供の者に声をかける前に門番が中から顔を出し、土井の姿を認めて目を見開いた。
「若──お帰りなりませ。実は昨夜……」
門が開く。土井は一歩踏み込んで足を止めた。渡り廊下がない。母屋と奥の棟を繋いでいたはずの渡り廊下は、焼け落ちた梁と柱の残骸だけを地面に晒して心許なく佇んでいた。焼けた瓦が砕け散り、焦げた木材が折り重なる隙間からはまだ所々薄い煙が立ち昇っている。蔵筋の方角を見れば白壁の漆喰が煤で黒く染まり、手前の蔵の扉は炭化して半ば崩れている有り様だった。
土井の視線は庭を横切り、人を探した。家人たちが片付けに走り回っている。若殿の姿は見えないが、母屋の一角から指図する声が聞こえる。奥方の居室のあった棟は壁が焼け、侍女たちが荷を運び出していた。門番が駆け寄って来て何かを報告して来る。昨夜の火事のこと、複数箇所から出火したこと、若殿と奥方は無事であること──。土井の耳にはその言葉の断片しか届かなかった。視線が忙しく焼け跡の上を走る。けれども探しているものが見つからない。
「利吉は──」
思わず声が出た。門番が言葉を継ごうとしていたが、土井はそれを待たなかった。
「利吉はどこだ」
庭を横切る足が早まる。家人の一人が土井の前に出て頭を下げかけたが、土井はその肩を掴んだ。
「山田利吉はどこにいる! 答えろ」
家人が怯んだ顔で口を開く。
「山田殿は、昨夜の火事でお怪我を」
「どこだ!」
「町方のお医者のところに運ばれたと聞いております。善法寺という──」
土井は家人の肩から手を離し、門に向かって走った。背後で複数の視線が交わされるのが分かった。国許から若君がこの屋敷に来て以来、人前で声を荒らげたことは一度もない。あの穏やかな四男坊が、忍の名を叫びながら走っている。家臣たちの目に映るそれが何を意味するか──土井も頭の隅ではそれを理解していた。理解していて、止められなかった。
土井は門を出て通りに飛び出し、供の者が追いかける声も振り切って伊作の診療所がある方角へと向かった。足がもつれる。息が上がっているのは走ったせいだけではなかった。喉の奥が詰まり、呼吸のたびに胸の底から何かが込み上げてくる。着物の裾が乱れるのも構わず、帯刀したまま町人の間を縫うように駆けていく。自分がどんな顔をしているのか分からない。けれどもきっと、すれ違う者が振り返るほどの形相なのだろう。
(また──)
その言葉が脳裏を叩いた瞬間、土井の足は石畳を蹴っていた。
伊作の診療所は、本所の路地を二つ折れた先にある小さな町屋だった。土井が引き戸に手をかけようとした時、中からちょうど伊作が顔を出した。土井の姿を見て彼は一瞬目を見開き、すぐに戸を大きく開けて中に通してくれた。
「土井先生」
「利吉くんは──」
「……こちらへ」
屋内に入ると、薄暗い奥に布団が敷かれ、右腕から肩、背中にかけてを白い布を幾重にも巻かれた男が横たわっていた。俯せに寝かされ横を向いた顔の目は閉じられ、薄い掛布の下でかすかに呼気をしていることが分かる。
「……利吉くん」
膝が揺れ、絞り出すように彼の名を呼んだ。辛うじて立ってはいるが指先の感覚がない。利吉の顔を見たまま、土井は動けなくなってしまった。伊作がそっと屈み込んで利吉の脈を測る。
「今は……まだ何とも言えません」
伊作の声は静かだったが、揺るぎを含んだ静けさだった。町医者が患者の家族に語りかける時の声──嘘はつかないが、言葉を選ぶ声。
「火傷がひどいんです。右腕と背中が特に。背中は焼け落ちた梁を受けたそうで。腕は……おそらく火の中に手を突っ込んだんでしょう。範囲が広いので──」
一拍、伊作は間を置いた。
「昨夜からまだ半日しか経っていません。これだけの火傷は、最初の二、三日が一つ目の山になります。身体が熱の痛手に耐えられるかどうか……。それを越えても、五日目あたりから傷が膿む怖れがあって、膿まなくても半月は気が抜けません」
伊作は土井の目を見た。
「僕にできることは全部やります。ですが先生……楽観はできません。正直に言います」
土井は利吉の枕元に膝をついた。畳に沈むように座り、利吉の左手を──火傷を免れた方の手を両手で包む。冷たい手だ。指先が氷のように冷え、爪の色が紫がかっている。それは火傷を冷やしたせいなのだろう。それでも脈は打っていて、手首の内側に当てた指の腹にかすかな拍動が伝わってくる。生きている。心臓がまだ動いている。
土井の手は震えていた。利吉の指を包んだまま、どうしても震えを止められなかった。
「……先生?」
伊作の声が遠くに聞こえる。土井は首を振った。振って、利吉の手を額に押し当てた。冷たい指が額に触れ、こめかみに汗が伝う。
(また──失うところだった)
その思考は、土井の中では百年前から繋がっている、消えない一本の線だった。
──桜はすべて散り終えて、まるで雪のように彼の身体を包んでいた。
あの日は花冷えの寒い日だった。山あいの道を数日歩いた先。いくつもの死体が転がる山中の開けた場所に、土井は立っていた。忍務に出たまま戻らない利吉を土井が探しに出たのは、桜が散り始めた頃のこと。利吉が最後に目撃された山里への道を辿り、村人に尋ね、街道沿いの茶屋で聞き、峠を越えた先の沢筋を下って──ひどく晴れた日の朝に、彼を見つけた。
利吉がいたのは、桜の大樹の根元だった。春の冷え込みが残る山中で、桜の枝を見上げるように仰向けに横たわって事切れていた。刀は血濡れたまま傍らに転がっていたが目は閉じており、顔は幸い穏やかだった。穏やかだったが──それ以外は、全く穏やかではなかった。
土井の目は、見たものを一つずつ記録していった。感情はその時にはもう動いていなかった。動くものが枯れたのか、あるいは動く前に凍ったのか自分でも分からなかった。春の冷え込みは彼の身体の腐敗を遅らせていたが遅らせただけだ。腹部は獣に裂かれ、腸が引きずり出された痕があり、周囲の土が黒く変色していた。けれども胸から上はほぼ無傷のまま残っていた。腹から下は喰われているのに、顔と胸は損なわれていない。獣がそこだけ避けたのか。──違う。そんなことがある筈がない。
土井は利吉の唇の色を見た。紫を通り越して黒ずんでいる。歯の隙間にも黒い染みがこびりついている。服の襟元に嘔吐の跡。そして傍らに転がった──小さな紙包みの残骸。
利吉は毒を飲んでいた。忍が携帯する致死性の毒。服めば半刻と保たない。利吉はそれを服んだ上でここに横たわった。桜の木の根元を選んで、仰向けに目を閉じて。毒が全身に回った死体を獣は本能で避ける。内臓は免れなかったが、顔と胸と腕は利吉が最後に選んだ毒のおかげで形を留めていた。
最期に彼が、何を考えたのかは分からない。ただ、顔を残そうとしたのだとは思った。見つけた者が誰であるか分かるように。あるいは──見つける者の目に、できるだけましな姿を残すために。
──あなたに、見つけてもらえたら──。
その思考が利吉のものだったかどうかは永遠に分からない。けれども土井はそう受け取った。そう受け取って、桜の根元に膝をつき、冷たい手を取った。
(──あの時と同じだ)
冷たい手を取ったまま、土井は震えが止まらなかった。
伊作の診療所には、既に夕暮れが落ちていた。
土井は利吉の枕元から何刻も動かなかった。伊作が何度か声をかけたが首を振るだけで、伊作は白湯を一つ置いて奥の部屋へと下がった。患者の家族にはそうするしかない時がある。町医者はそれを嫌と言うほど知っている。
利吉の呼吸は浅く、時折苦しげに顔を歪めた。火傷の熱が身体の芯に籠もっているのだろう。手足は氷のように冷えているのに額に汗が浮き続け、伊作が朝から冷やし続けている布もすぐに温くなる。土井は伊作から布を受け取っては替えることを繰り返した。新しい布を絞り、利吉の背中に敷き詰める。それだけのことを何度も繰り返した。
やがて夜になった。行灯の灯りが利吉の顔を照らしている。そのときふと、利吉の唇が動いた。土井は耳をそばだてる。ひとつも聞き漏らすまいと思った。
「……札……」
掠れた声だ。火に焼かれたしわがれた声。目は閉じたまま、意識があるのかないのかも分からない。
「……木戸……番替え……」
譫言だ。熱に浮かされて、覚醒と眠りの境目を漂っている。漏れ出る言葉は断片的で脈絡がなかったが、土井の耳はその一つ一つを拾っていた。札。木戸。番替え。利吉は火事の夜に何かを掴んでいたのだろう。忍の目で屋敷の穴を見抜いていたのか──けれども譫言はそこで途切れた。しばらくの沈黙があり、利吉の呼吸だけが暗い部屋に満ちる。
やがて、利吉の瞼がうっすらと開かれた。焦点の合わない目がぼんやりと周囲を見ている。行灯の灯りに照らされた柱の木目を追うように彼の黒い瞳はゆっくりと動き、土井の顔を捉えて、その唇はまた動いた。
「──先生」
その言葉を耳にした瞬間。土井の背筋を、冷たいものが走り抜けた。
『先生』──これは、誰の呼び名だ。利吉はいつも自分のことを「若』と呼ぶ。今生で利吉が『先生』と呼んだことはだだの一度もない。先生と呼んでいたのは前世の利吉だった。かつて忍術学園で教鞭を取り、その後は孤児院の運営をやっていた土井のことを利吉はずっとそう呼んでいた。
利吉の目は、土井を見てはいなかった。視線はこちらを向いているが土井を──若君を見る平素の彼の目ではなかった。この部屋の柱も、行灯の灯りも、おのれの状態すらも今の利吉の目には映っていないのだろう。彼の瞳の奥にあるのは、ここではないどこか別の場所だった。
「……先生……」
もう一度、同じ呼び方が繰り返される。声は掠れていたが、そこにはここにいるはずのない人間の声があった。土井は瞬きもせずに利吉の顔を見つめていた。これは、誰だ。これは──。
「……櫛を……」
土井の手が、利吉の指を握ったまま強張った。
「……渡せなくて」
声が消える。利吉の瞼がゆっくりと閉じ、呼吸が再び浅い寝息に変わる。譫言は終わっていた。土井は動けなかった。利吉の手を握ったまま、長い間そこに身じろぎもせずに座っていた。
櫛のことを、土井は思い出していた。
あの桜の木の下で利吉の遺体を引き取り、山を降りた後のことだ。遺体を荼毘に付した後、土井は利吉の持ち物を整理した。刀。手裏剣。忍の道具一式。そして彼が最期に握っていた、真新しい簡素な黄楊の櫛。
何の変哲もない品だったが、片面に彫り物が施されていた。蛇と稲穂。素朴な手彫りの意匠で、職人の手によるものというよりは街道沿いの露店で買ったような品だった。
土井はその櫛を手に取って、しばらく眺めた。利吉は母親を大事にしていた。街道で買った母親への土産物だろうと見当をつけたが、確証はなかったので山田家には結局渡さなかった。そうして利吉の遺品を整理する中で、土井はその櫛だけは手元に残した。利吉が使っていた忍の道具は父に、替えの衣は母に返してしまって、彼が遺したと言えるものはその櫛くらいしかなかったのだ。
それでも、全てを両親に渡さずになぜその櫛を残したのか。いつもの自分であればきっと全てを渡しただろう。理由は──分からなかった。分からないまま、厨子に供えた。
それきり、櫛の意味を考えたことはなかった。蛇と稲穂の意匠が何を指すのかも調べなかった。母親への土産。もしくは彼自身の髪を梳くのに使うつもりだったのかもしれない。ただそれだけの品だと思っていた。
けれども──。
土井の手が、自分の懐に伸びる。利吉の手を離さないまま片手で帯の内側をまさぐる。指先に硬い感触が触れ、布に包まれた小さな塊を取り出した。膝の上で開くと、漆塗りの櫛が行灯の灯りを受けて鈍く光る。黒地に金の稲穂。白蛇の螺鈿細工。視察の際に、露店で目に留まって買い求めた品だ。
蛇と稲穂。
あの時利吉が持っていた櫛と、同じ意匠だ。
露店の主人が言っていた。クシナダヒメの櫛。縁結びの品として、想い人に贈るのが流行っているのだと言う。苦しい時も死ぬ時も共にあろうという、誓いの品でもございます──と。
土井は思い出していた。どこかで見た意匠だと思っていたのだ。管轄地の献上品の資料の中にも、確かあの意匠についての文書があった。縁結びの品であるのは遥か昔のことからだと言う。蛇は脱皮を繰り返すことから、生まれ変わりの象徴とされる。櫛は「奇し」──不思議な、稀なるもの。まれなる縁が絶えず続くようにと、そういう祈りが込められた品。
『──櫛を、渡せなくて』
利吉の声が甦る。先生、と、呼んでいた。彼のその呼び方を忘れるくらい、久々に聞く響きだった。忘れたくなくて何度も何度も思い出して、擦りきれた手紙のようにもう元の声とは違ってしまっているかもしれないほどに抱き締め続けた呼び方だった。先生、と利吉は呼んだ。あれは自分を呼ぶ呼び方だ。櫛を、利吉は渡そうとしていた。母親への土産ではなかったのだ。あの簡素な黄楊の櫛は──利吉が土井に贈るつもりだった品だった。苦しい時も死ぬ時も共にあろうとそう言って渡すつもりで、街道の露店で買い求めて、懐に入れて忍務に出た。
渡せなかった。
渡せないまま、山の中で毒を飲んで、桜の木の下に横たわって、獣に腹を裂かれて、それでも顔だけは残るようにして死んだ。懐に櫛を入れたまま。
(私に……)
土井の視界が歪んだ。
(渡そうとして)
懐の中で、利吉は最後まで櫛を持っていた。忍務の最中も、敵に追われている間も、これが最期と悟って毒を選んだ時も。
あの穏やかな顔を思い出す。桜の下で目を閉じていた利吉の顔。彼が最後に何を思いながらあの場所を選んだのか。なぜ桜だったのか。土井は今更のように理解した。
孤児院の庭にも桜があった。毎年二人で花見に行く場所もあった。花の頃には戻りますよ、と。利吉はそう言って忍務に行った。あれは帰ったら花見をしようという意味だった。利吉が帰りたかったのは、本当はあの桜の下だったのだろう。帰る場所として選んだのだ。帰れないと分かった時に、せめて同じ景色の中で目を閉じようとした。共に見るはずだった桜。あの木の下で──渡すはずだった櫛を懐に入れたまま。
声が出なかった。
出そうとして、喉が塞がった。唇を噛んで、それでも堪えきれずに息が漏れた。小さな、壊れたような音が暗い部屋に落ちた。
土井は利吉の手を額に押し当てたまま、前に屈んだ。肩が震え、背中が丸くなり、声を殺して泣いた。百年分の涙が──いや、涙などという言葉では足りなかった。利吉の冷たい指を握りしめて、額を利吉の手の甲に押しつけて、声にならない声を飲み込み続けた。
膝の上では、螺鈿の櫛が行灯の灯りを受けていた。蛇と稲穂。前世の櫛と同じ意匠。露店で見た時、どこかで見た気がすると思った。そう間違いなく自分は見たのだ。献上品の資料としてだけではない。利吉の懐から出てきた、あの簡素な黄楊の櫛で。
百年前に、気づくべきだった。
母親への土産だと思った。深い意味があるとは思わず、厨子に供えて、それきり考えなかった。考えたくなかったのかもしれない。考えてしまえば、失ったものの大きさに自分は耐えられなかったのかもしれない。けれども利吉は覚えていた。この世に生まれ変わって、前世の記憶を持たないはずの利吉が、熱に浮かされた意識の底で櫛のことを口にした。先生に、渡せなかったと。
──苦しい時も、死ぬ時も、共にあろう。
その誓いを、利吉の魂はまだ抱えている。渡せなかった悔いを百年経っても手放していない。手放さないままでいてくれている。今も、まだ。
「……利吉くん……」
土井の涙が、利吉の指を濡らした。
利吉は目を覚まさなかった。浅い寝息を繰り返しながら、熱に浮かされた夢の中にいる。夢の中で利吉は何を見ているのだろう。桜の下か。縁側か。子供たちの声が聞こえる、あの場所だろうか。
土井は顔を上げられなかった。けれども利吉の手は離さなかった。行灯の油が減り、灯りが小さくなっていく中、土井はずっとそこにいた。蛇と稲穂の櫛に炎が映えて揺れて光る。生まれ変わりと、稀なる縁。前世で利吉が渡せなかった櫛の代わりに、今世で土井が買った櫛がここにある。同じ意匠。同じ祈りだ。百年の時を隔てて、二つの櫛が同じことを語っている。
そして渡す相手は、まだ生きている。
その事実が、土井の手を利吉の手に繋ぎ止めていた。
伊作が様子を見に来たのは、丑の刻を回った頃だった。
襖を細く開けてそっと中を覗き、すぐに閉じた。灯りはほとんど消えかけていたが、土井が利吉の枕元にいることは分かった。利吉の手を握ったまま、額を押し当てるようにして動かない。眠っているのか、起きているのか。
伊作は新しい行灯の油を持って、そっと部屋の隅に置いた。土井は顔を上げなかった。伊作もそれ以上何も言わずに、部屋を出た。
襖の外で足を止め、伊作は小さく息をついた。診療所の土間に戻り、薬研の前に座る。明日の膏薬を擂っておかなければならない。生薬を入れ、把手を握って擂り始める。単調な手仕事の中で、頭だけは別のことを巡っていた。
利吉は土井の傍仕えだ。それは前から知っていた。寺子屋で土井先生の側でいつもあれこれと雑用を言いつけられていて、当時は土井のことを商家の御大尽だと思っていたから利吉のことは丁稚か何かだろうと思っていた。
昨夜、火事の報せを聞いて走った。土井の住まいを具体的に知っている訳ではなかったが、あの辺だと聞き及んでいたのと近い界隈で武家屋敷が燃えていると聞けば、駆けつけないわけにはいかなかった。そして屋敷の裏門で利吉を受け取った時、門番が告げた屋敷の名は──土井家だった。
把手を握る手が止まった。
土井家──西の大名。
昨夜はそれどころではなかった。利吉の火傷を診て、留三郎と運んで、膏薬を塗って、容態を見守って。名前の一致を深く考える余裕などなかった。だが今考えれば、利吉が土井家の屋敷に仕えているということは、利吉の主は土井家の人間だということになる。そして利吉の主は──。
伊作の手は、薬研の上で止まったまま動かなかった。
土井は寺子屋の住職には「商家の四男」と名乗っていた。けれども別の筋からは、先生は西の藩のご家中だという噂が聞こえてきてもいた。商家の四男なのか藩のご家中なのか、どちらかが違う。伊作はその食い違いに気づいていて詮索はしなかった。事情があるのだろうとそれ以上は考えないことにしていた。
寺子屋の柱の材は上等だった。格子の造りは武家屋敷に似ていた。思えば不思議な人だと、ずっと思っていた。
(先生は──土井家の方なんじゃないだろうか)
商家の四男ではなく。ご家中でもなく。土井家そのものの。そう考えれば、全てが繋がってしまう。寺子屋の不釣り合いな造りも、利吉との関係性も。
伊作は把手から手を離しかけ、気を取り直して、また挽き始めた。
先生が何者であっても、利吉の火傷の深さは変わらない。自分にできることは同じだ。けれども──襖の向こうで利吉の手を握り続けているあの背中には、町医者として何人の患者を看取ってきた伊作ですらも見たことのない重さが乗っていた。
伊作は把手を握る手に力を込めた。夜はまだ長い。今はただ、目の前の患者を救うことだけが考えるべきことだった。