君がいた(下巻)サンプル
Act3. September――──Ryoto
ピコン、とスマホが着信音を奏でた。特徴のあるこの音は、チャットアプリのそれだ。
机の上のスマホを横目で見やると、ロック画面に幹の名前がある。タップしてアプリを開くと、前置きなしに書籍を写した画像が目に飛び込んできた。スワイプで拡大してよく見ると、僕が彼に〝宿題〟として渡した問題集だった。
『ちょっとわかんないとこあるんだけど』と、メッセージが続く。
『なに?』とレスすれば、『問3』としか返ってこない。
『問3のどこが、どんなふうにわからないんだ?』
しばし間が空いて、幹がメッセージを返してきた。
『問3の文章の意味が、わかんねー』
その内容に、くすっと笑みが洩れる。
僕は、幹がわからないという文章にざっと目を通しながら、細かく問いかける。それに対してのレスを見て、どこでつまずいているのか見当をつけながら、説明をする。途中で、何度か質問を投げられた。はっきりした回答はせず、ヒントだけ与えて考えてもらう。
しばらくすると『なんとなくわかった』というレスが来た。
『なんとなく?』
『ウソ。ちゃんとわかったって! わかりました!』
そのあとで『大丈夫!』『OK!』というスタンプが続く。そこで思わず、声を出して笑っていた。
先月の終わり頃から、僕と幹はずっとこんなやり取りを続けている。
幹は、僕が通う国立大学の工学部を志望していた。だけど、夏休み前に受けた模擬試験の結果はC判定で、このままの成績では確実に合格することが難しい。
無理もない。彼が本格的に受験勉強の態勢に入ったのは、夏のインターハイが終わって部活を引退してからだ。
そこで、幹は僕に家庭教師を頼んできた。しかも、とんでもない交換条件を突きつけて。
『俺は、兄貴になる』
あのときの幹のセリフが、僕の脳内でリフレインする。
いったい何を考えて、そんなことを言うのか。最初はそんな疑問が浮かんでばかりだった。
でも、よく考えてみたら、これも曲解した僕への脅しの言葉のひとつなのかもしれない。
だって、彼は僕を憎んでいるはずだ。兄を死なせた『ヒトゴロシ』だと、俊哉が死んでからずっと、幹は僕に言い続けてきたのだから。
俊哉の形見分けをしたいと、彼の母親から連絡を受けて、秋山家へ出向いた日。僕の迂闊な行動で、俊哉と恋人として付き合っているのが、幹にバレてしまった。
そのあとの展開が脳裏に次々とよみがえって、カーっと頭に血が上る。それを振り払うために頭を左右に振ってみたが、ダメだった。
あのときの幹の声、吐息、体温。五感のすべてで思い出してしまって、しかもそれがざわざわと僕にまとわりついてきて、にわかに何かの熱が身体を巡りそうになる。
いけない、気分を変えなくては。入試を控えているのは、僕も同じだ。
ノートパソコンを閉じて、ゆっくりと立ち上がりキッチンへ向かう。電気ケトルに水を注いでスイッチを入れた。お湯が沸くまでに、コーヒーを淹れる準備をする。
最初はやんわりと、大学院入試を控えているからと家庭教師を断ろうとした。
とはいっても、僕の場合は所属する研究室の教授が推薦する学部内進学だ。準備は大変だが、試験当日は一般入試よりも楽だといえる。幹は、それも事前に調べていたんだろう。僕が断ろうとする気配を察して、まるで逃げ道を塞ぐように指摘してきた。
それに少しむっとした僕は、逆に引き受ける条件を出した。
引退したバスケ部に復帰してウィンターカップまで続けることと、進路について母親にちゃんと話すことの二つだ。
特に、受験のことについては、母親と少し行き違いがあった幹にはハードルが高いだろうと思っていたのに、彼はあっさりとそれをやってのけて、しかも家庭教師の件まで話を通してしまったのだ。
ここまでされたら断るのも難しくなって、結局引き受けることになった。
でも、不思議だ。
僕に無理やり家庭教師を引き受けさせるなら、他に方法はあったように思う。たとえば、僕が俊哉の親友ではなく恋人だったことを自分の親にバラすと脅す、とか。
いや。そもそも、家庭教師を引き受けること自体が、交換条件だったかと思い出した。
マグカップに注いだコーヒーを口にする。鼻をくすぐる芳ばしい香りに、ほっと息を吐く。手にしていたスマホの画面に視線を向けて、先ほどの幹とのやり取りを遡っていった。
あれ以来、僕らのやり取りで『ヒトゴロシ』という言葉は消えていた。チャットでもそうだし、面と向かって話をするときにも、彼は一切その単語を口にしない。
僕をずっと縛り続けていた言葉。そして、幹との縁を繋げてもいた言葉。
僕らの間からこの言葉がなくなって、これからどうなるのだろう。
不安に似た気持ちが胸の奥をひっかくけれど、それをあざ笑うかのように、現実はどんどん進んでいく。
家庭教師を引き受ける際、各教科の模試の結果や成績表を見せてもらったが、幹は高校時代の僕と同じで、得意と苦手に差があるタイプだった。特に、日本史と英語が苦手だ。理系コースのクラスに所属しているから、全体的に理系より文系が苦手な傾向はあるが、この二教科が顕著に現れている。
国立大学の理系を志望する場合、共通テストは五教科七科目を選択して受けなければならない。日本史は地理歴史の選択科目だから、日本史以外の科目を選択することが出来るが、問題は英語だ。必須教科科目だから、除外することはできない。予備校でも進路指導でも、全体的に点数を上げるように指導されたそうだが、英語の点数は伸び悩んでいる。
そこで、僕は自分が使用していたTOEICの問題集を利用することにした。
TOEICとTOFELは、大学院入試において必須項目だ。すでに僕は試験を受けていて、どちらも入試合格ラインのスコアを取っていた。
特にTOEICは共通テストと同様、リスニングとリーディングのみだ。問題集は基礎的な英語学習の底上げになるし、解答集の説明も丁寧だ。
僕は解答集だけ手元に残して、問題集の本だけを幹に手渡した。家庭教師の日までの宿題として、ある程度の範囲の問題をやってくるように言った。それと同時に、リスニングはその問題集のアプリをダウンロードして通学時にやるよう告げた。
わからないことがあれば、その都度チャットアプリで答えるからと、付け加えて。
「鬼かよ」と、幹に言われたが、気にしない。
幹が家庭教師を頼んだのは『A判定を取れるようにしてほしい』なのだから、受験までの残り時間を考えたら、優しい方じゃないかと思う。
幹と互いに相談して、家庭教師の日は毎週土曜の午後になった。
聞けば、予備校も夏期講習が終了したら、週二日にするか、週三日にしようか迷っていたという。それならと、僕は週二日コースを勧めた。平日一日と、土曜日の午前中三時間みっちり受講するコースだ。
「は? 土曜にカテキョすんじゃねーのかよ?」
僕の提案に、幹は不機嫌を隠さずに問いかけてきた。
「予備校は、午前中だけだろう?」
「げ。じゃあ、土曜日は丸一日勉強かよ」
そう言って、幹は嫌そうな表情になる。国公立大学志望でA判定を狙うなら、最低でも週一日はみっちり受験勉強しないと間に合わないと思うのだけど。
それに、平日は僕も大学がある。後期に入れば、卒業研究に本腰を入れなければならない。土曜日は一コマしか講義を入れてないので、ちょうどいい。
ついでに、部活は平日に週三日もしくは四日、日曜日は休日として空けておくことを提案した。
「なんで?」
また幹が怪訝な表情になる。
「休日は一応必要だし、日曜日は模試があるからね」
そう答えると、幹は不承不承ながらも、その提案を受け入れてくれた。
残暑というよりも、まだ真夏の気配が去りそうにないまま、九月になろうとしている。それとともに、僕と幹の新しい関係が始まろうとしていた。
■□■
僕は提案をしただけだったが、幹はちゃんとバスケ部に復帰して、毎週月曜日から水曜日と金曜日の週四日練習に参加して、木曜日の放課後は予備校に通っている。ということを、彼の母親である秋山夫人からの連絡で知った。
家庭教師に関して、僕はボランティアでノーギャラのつもりだった。なのに、秋山夫人はきちんと教えてもらうのだから、ちゃんとアルバイトとして家庭教師の代金を支払うと言って譲らなかった。
「こういう場合は、きちんと仕事として報酬を受け取るほうが、逆にお互い負担にならなくていいのよ」
秋山夫人の大人としての助言に、僕はそれ以上固辞せず受け取ることにした。以来、勉強の成果報告もあるので、彼女ともチャットアプリのIDを交換して連絡を取り合っている。
進路のことで、幹と色々とあったことを相談したその日のうちに解決した(ように見えた)僕を、秋山夫人はすっかり信頼して何かとこまめに連絡をくれる。こちらが聞き出さなくても、普段の幹の様子を完全な善意で教えてくれる彼女に、後ろめたい感情を抱いてしまう。
家庭教師の場所を、自宅である秋山家ではなく一人暮らしの僕の部屋にしたいと言い出したのは、幹だった。
理由のひとつは、僕の足が不自由で秋山家へ通うのは家の立地的に大変だろうということ。もうひとつは、予備校と僕の部屋がとても近いことだ。たしかに、幹が通う予備校は僕の部屋の最寄り駅から電車で二駅しか離れていない。
でも、それらは真の理由を隠すためのカモフラージュに過ぎないことを、僕が一番よくわかっている。
『兄貴になる』
その言葉をちゃんと守るために、誰の目も届かない二人きりになれる場所が必要だった。僕の部屋は、まさにおあつらえ向きだったのだ。
毎週土曜日の午後。予備校の授業を終わらせた幹が、部屋を訪ねてくる。
その日も、チャットアプリで『予備校が終わった』と連絡を受けた。大学が終わって部屋に戻ったばかりの僕は、早速準備に取り掛かる。
連絡が来てから二十分後。エントランスホールの呼び出し音が鳴った。カメラを確認してオートロックを解除してしばらくすると、玄関のドアを開ける気配がする。廊下へ顔を出すと、幹が無言でぺこりと頭を下げて中へ入ってきた。
「昼めし、まだだろ?」
「ああ」
「何か、買ってきたとか?」
「いや。アンタが『メシ作ってる』ってチャットで言ってたじゃん」
「そっか」
廊下を抜けてリビングに入り、幹にソファへ座るよう促すと、予め作っておいたおかずをキッチンから運んでローテーブルに並べる。
「これ食べたら、今週やってきた分見せて」
「ああ」
ソファに座った幹の隣に僕も腰かけると、「いただきます」と言って並んで食べ始める。
二人がけ用だから狭くはないんだけど、肩が時折ぶつかったりすることもあって、そのたびに「ごめん」とどちらかが謝ったりするのが面映ゆい。
白飯もおかずも、けっこうな量を盛ったというのに、幹はいつもペロリと平らげる。横目でいつも見てるけど、一口サイズの量が僕の倍以上はあるんじゃないだろうか。見ていて気持ちがいいくらい豪快な食べっぷりだ。
「――なんだよ?」
僕の視線に気づいた幹が、メシを口に頬張ったまま横目でにらんでくる。僕はなんでもないと首を横に振って、食べ終わった食器を手に持ってソファから立ち上がった。
「なあ」
まだ食べ終わっていない幹が、キッチンにいる僕に声をかける。
「なに?」
振り返って返事をすると、幹はリビングを見渡しながら問いかけた。
「初めてこの部屋に来たときから思ってたけど、ここって一人暮らしにしては広いんじゃね?」
「ああ……」
その問いかけに、苦い笑みが浮かぶ。
「車椅子対応のマンションだから、だね」
僕の住むマンションは、自治体から紹介された身障者や独居老人対応の賃貸マンションだ。広さは、六畳の洋室と十二畳のリビングダイニングのある1LDKで、玄関の上り框の段差すらない完全なバリアフリーだ。玄関ドア以外の出入口は、すべて吊戸式の引き違い戸になっている。トイレやバスルームも広めに造られていて、キッチンも立って使用できるだけでなく、車椅子でも使用できるように高さ調整ができるのだ。
当然、家賃もそれなりに安くはないのだが、親――特に母親が「ここに住まなければ、一人暮らしは絶対にさせない」と頑なだったので、渋々住んでいる。
その点を除けば、確かに住みやすい。大学も歩いて行ける距離なので、通学時に誰かの手を煩わせることもない。
僕の答えに、幹は特に気を遣う様子もなく「なるほどね」と相づちを打つ。
「じゃ、参考になんねーか」
「参考?」
「一人暮らしのだよ」
そう言いながら、幹も自分が食べた食器を持ってキッチンへとやってきた。シンクにそれらを置くと、水を出しながらスポンジを手にして洗いはじめる。
これも最初は「いいよ」と遠慮していたのだが、断ってもやり通すので好きにさせている。僕はといえば、彼の隣で食後のコーヒーの準備をしていた。
「大学受かったら、一人暮らしするのか?」
僕が問いかけると「まあな」と幹が返事する。
「ばーちゃんの介護のために、家を改築するからな」
「ああ。その話なら、お母さんから聞いたけど」
「改築してる間は、一年くらいよそで仮住まいしなくちゃなんないから、ついでに一人暮らしをしてみたらどうかって、父さんに言われた」
「そうか……」
「家賃は親が払うからさ、できれば負担にならないようにしたいじゃん。でも、アンタの部屋はあんまり参考にならねーなって話」
「まあね。僕の部屋は、ある意味特殊だから」
そこですべての皿を洗い終えた幹に、アイスコーヒーのグラスを手渡した。
事故で怪我をしてからというもの、冷房で足が冷えやすくなって、僕の部屋は室内で不快でないギリギリの温度で冷房を設定している。だから、ちょっとした家事でも汗だくになることも多い。皿洗いをしただけで、幹の額にはうっすらと汗がにじみ出ていた。
その場でグラスのコーヒーをごくごくと飲み干すと、幹は手早くコップを洗って洗いカゴにしまう。
「じゃ、始めようか」
「ああ」
幹は頷くと、ソファの側に置いたリュックを持つと、リビングの奥の窓際にある机まで移動する。そして、机の上にルーズリーフを挟んだバインダーと、問題集、そして電子辞書を取り出した。
「先週出した宿題の分は?」
「これ」
僕の問いかけに、幹は数枚のルーズリーフが入ったクリアファイルを手渡した。
「じゃあ採点するから、今日はこのセクションの問題をやってみて。三十分で」
「アンタ、本当に勉強に関しては鬼だな」
こっちは午前中ずっと勉強漬けだったのにと文句を言う幹に、くすっと笑みがこぼれる。
「Aが取りたいんだろ? やらないのか」
「やらないとは言ってないだろ!?」
「それじゃ、始めて。あ、わからない単語は電子辞書で調べてもいいけど、ちゃんと調べた内容をメモしておけよ」
「わかってるって!」
ブツブツ言いながらも、幹はシャーペンを手にするとすぐに問題を解き始めた。シャーペンが紙の上で文字を紡ぐ音を聞きながら、僕はソファへ移動する。クリアファイルに入ったルーズリーフを取り出して、ローテーブルに並べた。解答集を見ながら、幹がやってきた宿題の内容に赤ペンで○×をつけ始める。
最初の頃の幹は、言い渡した三分の二しか進めていなかったけど、家庭教師の回数を重ねていくごとに言われた範囲まで解けるようになっていた。
たぶん、地頭はかなりいい方だろう。正解率もかなり上がってきている。でも、どうしてもつまずいてしまう所が何箇所かある。
解答の採点が終わり、ふと顔を上げて机に向かう幹の横顔を見つめる。真剣な表情で書き進めるも、時々単語が思い出せないのか、電子辞書に手が伸びる。該当する単語を見つけては言いつけた通りにそれをメモして、また問題集に視線を戻して解き始めた。
そんな横顔は、たしかに兄の俊哉と似ている。でも、以前のように胸がかき乱されるようなことはない。
たぶん、現在のこの状況が、今までで一番頻繁に顔を合わせているからだろう。眼の前にいるのはたしかに幹であって、俊哉と似ているけれど、生前の彼とうり二つかというと、そうでもなかったりする。
それなのに。
ふと、幹が顔を上げてこちらを見た。視線がかち合って、そらすこともできずに見つめ合う。
――ああ。これだ。
この、真っ直ぐ僕を射抜くように見る熱い視線。これだけが、どうしても俊哉のそれと重なってしまう。
「……できた?」
物思いをごまかすように、幹へ問いかける。幹は黙って頷いた。壁にかけてある時計に目をやれば、あれから二十分以上が経過している。三十分まで、もう少しというところか。
僕はゆっくりと立ち上がり、机の側まで近づく。そして、彼の背後からノートをのぞき込んだ。セクションのおさらい的な練習問題だから簡単なものだったが、やはり何箇所か間違っている。
「ここ。この表現で間違ってるわけじゃないけど、別の表現のほうがいいな」
「どんな?」
「ほら、例文をよく見て。これを応用した問題だから、ここは――」
説明しながら、幹がノートに書いた文章に赤ペンで書き入れる。それを、彼はじっと目で追っていた。
教えていることに夢中になっていたけど、互いの顔がかなり近くにあることに気づいて、急に頬が熱くなる。赤くなっていないか気にしながら最後まで説明し終えると、さり気なく彼の斜め後ろの位置に移動して上半身を起こした。
「今の説明で、わかった?」
「まあ、だいたい」
僕が聞くと、こちらを振り返ることなく幹が淡々と答える。
「そっか。じゃあ、次は宿題の答え合わせを――!?」
見られていないことに内心ホッとして続けると、クリアファイルを机の上に置こうと伸ばした手首をいきなり掴まれる。幹の方に視線を向けると、今度はこちらをじっと見つめ返していた。
「な、何?」
動揺しながらも聞き返すと、にっと意地悪い笑みを浮かべる。
「マジ、顔赤いけど。大丈夫? 熱でもあるんじゃねー?」
わかっていて、空惚けた問いかけをするのが、小憎らしい。
「……べ、べつに。何でもない」
「そうか?」
「うるさいな。ほら、さっさと答え合わせやるぞ!」
強く言い返してごまかしたけれど、たぶんごまかせてない。その証拠に、答え合わせをして解説をしている間、ずっと幹の視線を横顔に感じていた。なるべく素知らぬフリをして授業を進めるけど、一度気になったらどうにもやりづらい。
「――ここまでは、わかった?」
「ああ」
「じゃあ、この間違えた問題の答えを踏まえて、同じ表現を使って短文を五つ作ってみて。問2と問3と……問6」
「わかった」
「時間は、三十分で」
「オッケー」
ちらっと横目で幹を見やると、案の定こっちをじっと見つめていた。
やっぱり、そうだ。
顔や声が俊哉と似ているけれど、それらは細かい差異ですぐに別人だと認識できる。でも、この視線だけはちがう。僕を正面から強く見つめて絶対にそらさない。
居たたまれなくなって、目を背けてしまうのはいつも僕の方だ。
「ほら、早く解いて」
「わかった」
幹は頷くと、机へと向き直って問題に取り掛かる。僕はそっとため息を吐いて、リビングのソファーまで戻って腰を下ろした。
俊哉のときは、先に好きだと告白されたので、あの強い視線が何の意味を持っていたのか理解できる。
でも、幹は? 彼のあの強い視線はいったい、どんな感情を秘めているというのだろう。
似ているからといって、まさか幹も俊哉と同じだとは思わない。
幹が今まで僕に言っていた言葉を否定しても、僕らの間にフィジカルコンタクトがあっても、彼が僕にそういう感情を持ってるなんて、思い上がったことは考えていない。
ただ、あのひとことが気になる。
『俺は……アンタが好きだった兄貴になる』
自分は兄と違うと、きつい態度を示したくせに、僕と俊哉の関係を知りながらあんなセリフを言ってくる幹の意図が見えない。
そして、それを受け入れてる僕自身の気持ちが、一番わからない。
俊哉だけが特別だと思っていたけれど、それは単なる思い込みだったのか。それとも、その『特別』の中に幹が入ってしまったのか。それとも──。
答えが見つからないまま、ぐるぐると様々な考えが頭の中を巡る。そこで、幹が「終わったぞ」と声をかけてきて、それは中断された。
──いけない。家教の真っ最中に、何を考えているんだ。
内心で戒めて、幹のもとまで近づく。ノートを見ると、指示した通りにちゃんとできている。特に赤入れが必要な箇所はない。
「できんじゃん」
「そりゃ、何度も同じようなことを繰り返し説明されたからな」
ムスッとした横顔で、幹が答える。
「英語だけじゃなくて、語学は反復練習が大事なんだよ」
「そういうもんか?」
「……幹。お前、苦手だから英語は授業を受けるだけで終わらせてるだろ?」
そう指摘すると、すっと視線をそらした。図星か。
「もしかして、テストも一夜漬けで、宿題も家でやらなくて誰かのノートを移したクチか」
「なんで、それを──っ!?」
言いかけたあと、幹はハッとした表情になり慌てた様子で掌で口を覆う。僕はたまらず、吹き出して笑ってしまった。しばらく笑いが止まらない僕に、幹がバツの悪そうな表情でボソリと呟く。
「赤点さえ取らなきゃ、部活に支障をきたすことがないから、ずっとそのままだったんだ」
笑うのをやめて幹を見れば、完全にこちらに背を向けてそっぽを向いている。だが、肩越しに見える横顔は完全にすねていた。
その横顔は、大人っぽい容貌なのに妙に幼く見えて、彼が小学生の頃にゲームで一緒に遊んでいた頃を思い出した。
──なかなか勝てなくて負けが続くと、いつもこんなふうにこっちを見ようとしないで、ムスッとしていたよなあ。
懐かしさで、胸がほっこりと暖かくなる。
壁の時計を見ると、昼食をとってから二時間が経過していた。キリもいいし、そろそろ終わろうかと思っていたとき。
幹がデスクチェアの座面をくるっと動かして、僕の真正面に身体を向ける。そして、座ったまま僕の腰に両腕を回して抱きしめてきた。
「アヤ……」
今日、顔を合わせてから初めて呼びかけられる。とても低くて、優しい声で。
それに応えるかのようにして、僕は両手を幹の肩に乗せた。
段々と顔が近づいてきて、重なる唇。舌先で口唇を舐められてそれを開けば、するりと肉厚な舌が侵入してきた。それで歯列を存分に撫でられ、さらに奥でおとなしくしていた僕の舌を捕らえて絡めてくる。
口端からどちらのかわからない唾液が溢れる頃には、僕の身体もぐずぐずになって力がうまく入らなくなっていた。
ゆっくりと、互いの顔が離れる。名残惜しそうに二人の唇の間を唾液の糸がつうっと伸びていた。こちらを見上げる幹が目を細めながら手をのばして、親指で僕の口元を拭った。
「アヤ……」
かつては、俊哉しか呼ばなかったあだ名。あの頃の彼と同じトーンで、幹がそれを口にする。
彼がこんなふうに僕のあだ名を口にする。それが、始まりの合図。
そうしようと示し合わせたわけじゃなく、自然とそうなっていた。だから、家庭教師の授業の時間、幹はけっして僕をこの名で呼ばない。
いつも「アンタ」とか「なあ」とか、そんなふうにしか声をかけない。
だって、これは俊哉だけの呼び名だったから。
──いや。
何度も呼びかけられ、寝室へと促されながらキスを交わす。ベッドに腰掛けながら、思い出していた。
昔、俊哉がまだ生きていた頃。幹も、兄に倣って僕をそう呼んでいた。俊哉が彼の前で呼ぶから、自然とそうなったのだろう。だけど、俊哉はなぜかそれを嫌がっていた。
『幹。ちゃんと〝斎木さん〟と呼びなさい』
何度かそう言って、弟を窘めていた。でも、当時から少し生意気なところのある幹は、ちっとも改めようとはしなかった。
「だって、アヤはアヤじゃん」
ニッと、いたずらっ子丸出しの笑顔を見せる幹。その無邪気さに、つい笑いを誘われていた。
「──何か、考えごとしてる? アヤ」
そう言って、幹が僕の項に舌を這わせた。
「……あっ」
「他のこと考える余裕あるんだ?」
吐息混じりに耳元で囁きながら、幹が僕のTシャツの裾から手を差し入れ直接肌に触れる。掌で撫でながら、だんだんと指が胸元へと這っていき、そして乳首をきゅっと摘んだ。
じんじんと、痛みとは違う感覚がそこから全身へと駆け抜けていく。
強く摘んだ乳首は、今度は優しくこねられた。右側をこねながら、もう片方の左側をぴんと弾く意地悪な指。緩急織り交ぜながら刺激されて、それに合わせて乳首が硬くなっていくのが、自分でも感覚でわかってしまう。僕の身体はたまらず前のめりに傾いでしまう。
それを、幹は後ろから優しく抱き起こす。だけど、乳首を弄る指の動きは止めてくれない。
「んっ……、やっ……」
「嫌じゃないんだろ?」
ほら、見て。そう言って、幹はTシャツの裾を首元までまくり上げた。
目に入ってきたのは、貧弱な僕の身体に触れている大きな掌と、節の目立つ長い指。そして、それらに弄ばれてツンと赤く尖った僕の乳首。
見せつけるようにして、幹の指先が両の乳首を引っ張ったり、輪を描くようにくるくるとこねたりしている。
目に飛び込んでくる光景と、そこから伝わる刺激が完全に合致して、ぞくぞくと背中に快感の痺れが走った。
「ああっ! いやだ……それ、イヤ!」
「どうして?」
気持ちいいくせに。そう囁かれて、耳朶をぬるりと舐められ吸いつかれる。同時にピチャ、と直接鼓膜へと響く水音。それらがすべて混じり合い、快感で脳が焼けて溶けそうになり、体温が上がって身体が熱くなっていって居たたまれない気持ちでいっぱいになる。
でも、本当に居たたまれないのは、もっと触ってほしい場所があるのに、触れてもらえないもどかしさだ。
再度、身体が前のめりになる。動かない膝をどうにかすり合わせて、形の変わったそこを隠そうとした。
すると、幹はベッドにそっと僕を押し倒して、深く唇を重ねる。顔の角度を何度も変えて何度もキスを仕掛けながら、大きな掌で紙や背中を優しく撫でてくる。高まる快感でもどかしい身体をなだめすかされ、嵐のように翻弄された心が凪いでいくのがわかった。
ゆっくりと顔が離れて、正面から視線が合わさる。
幹は、微笑んでいた。柔和で、優しげな眼差し。
それは、あまりにも俊哉にそっくりな笑い方で、胸がズキンと痛くなる。
『俺は……アンタが好きだった兄貴になる』
その言葉の通り、幹は俊哉になりきろうとしている。声のトーンや喋り方も、兄に寄せていた。
ちょっと真似ただけで記憶にある俊哉と重なって、僕の頭は軽く混乱する。
でも、俊哉と決定的に違うと感じるのは、僕の身体への触れ方だった。
なんていうか、幹のそれはすごく手慣れている感じがする。僕の経験が俊哉だけだったせいかもしれないけど、キスも、そこから身体へ触れてくる流れも、すべてがあまりにも自然で、僕は彼のなすがままに喘ぎ悶えるばかりだ。
──バスケ一筋ってわけじゃないのか。背も高いし、モテるんだろうな。
そう考えて、胸の奥がチリチリと焼け付くような気がした。
「また考えごと? アヤ」
微笑みながら、幹が頬を撫でてくる。僕は首を横に振って否定する。
考えごとなんか、していない。する余裕なんてないのに。
幹の掌が下の方へとおりてきて、下半身をゆっくりと撫で回す。そして、ジーンズと下着を一緒に太腿のあたりまで引き下ろした。我慢できないとばかりに、ぶるんと飛び出した僕自身の欲望の象徴である勃ち上がったペニスが、居たたまれない気持ちを加速させる。
「すげ……びしょびしょじゃん」
独り言のようなつぶやきが、幹らしい口調になっていてホッとする。僕は、彼の首に両腕を回して縋りついた。
そんな僕のこめかみにキスを落とすと、幹は僕自身に触ろうとせず、また胸元へと掌を這わせた。
訝しむ僕のTシャツを易々と脱がせると、首筋や鎖骨にキスを落としていく。キスの跡を辿るように舌がなぞっていき、やがてそれは乳暈へとたどり着いた。
肌より少し濃い色のそこをぺろりと舐められて、背中がのけぞってしまう。
「あっ!」
「なに? もっと舐めてほしい?」
「ちが……ん、あっ……」
僕の否定の言葉を無視して、今度は乳首を舌先で左右交互に転がし始めた。時折、ちゅっと音を立てて吸い付いてくる。指先とは違う濡れた感覚に、あられもない声が出てしまう。
「あっ……あ、や、ああっ……!」
「このまま、乳首だけでイきそうだね」
幹の指は、変わらず乳首を弄んでいる。僕は大きく頭を振った。
いやだ。触ってほしい。
でも、それを口にするには、なけなしのプライドが邪魔をする。空いた方の手は耳をなぞったり髪をかきあげたりするだけで、下半身へ下りる気配がない。
そこで、幹は触れていない方の乳首をじゅっときつく吸ってきた。痛みよりも強い快感が電流のように身体を駆け巡って、目の前がチカチカする。
「あああっ!」
「……ほら。さらに濡れてきた」
そう言って、幹はようやく僕自身の先端に触れた。
だらだらと、先走りの露をこぼしているのが、先端をヌルヌルと滑る指の動きでわかる。そこからニチャニチャといやらしい水音が聞こえてきて、恥ずかしさにぎゅっと目をつぶった。
だけど、幹の手は先端を優しく握るだけで、動こうとはしない。時折、先端に指先を食い込ませたりするけど、擦ってくれようとはしない。
イきたくて、自分で触ろうと思ったけど、幹が見ているかと思うとできなくて、もどかしさと焦れったさで無意識に腰が幹の手に擦り付けるようにして動いていた。
「……アヤ」
「み、幹……」
「……乳首だけでイッて」
耳元で意地悪く囁くと、幹は再び乳首に吸い付いた。舌先で転がしたり吸ったりするだけでなく、軽く歯を立ててきたりする。
立て続けに襲ってくる刺激に、もう欲望を吐き出すことしか考えられなくなる。頭を振り、身体をくねらせる僕を、幹が残酷なほど優しく抱きしめてきた。
「ほら、イッて」
「あ、もう……あ、あ、やあああああっ!」
幹が軽く乳首を噛んで、もう片方を指で強く引っ張った。それが、解放の合図かのように、僕のペニスから白濁が溢れ出す。
生温かい液体が腹を濡らす感触と、脳みそまで心臓になったかのような激しい動悸のなか、快楽の波がゆっくりと静かに引いていく。
だけどまだ、荒い息遣いは止まらない。そんななか、幹は僕の汚れた腹部を身体をティッシュで丁寧に拭いていた。ひと通りの後始末をされたあと、僕は礼も何も言わず幹に背中を向けた。
「怒ってんの?」
「……べつに」
本当に怒ってないのに、即座に「うそつけ」と幹が返してきた。
僕は振り返って、背後にいる幹をにらみ返す。幹はといえば、優しく微笑みながら横たわって僕を見つめていた。
そんな彼に、僕は何も言葉が出なくなる。
嵐が過ぎ去ったかのように、部屋の空気は静かで穏やかだった。でも、僕の心臓はまだ余韻を引きずって、早鐘を打っている。それをごまかすために、無言のまま再び幹に背を向けた。
クッっと喉で笑う声が聞こえたかと思ったら、背後から優しく頭を撫でられる。そうしてしばらくすると、幹がベッドから起き上がる気配がした。それに気づいて、僕も上半身を起こす。
「おい」
「なんだよ?」
「どうすんだよ。それ」
それ、と僕が指差したのは、幹の股間だ。ゆるめのカジュアルパンツを履いていても、明らかに欲望の形に変わっているのが見て取れた。
「だから、今からトイレに行こうかと……って、おい」
幹が引き留めるのを無視して、僕は幹のズボンのウエストを広げてそこへ手を伸ばした。カジュアルパンツだから、ウエスト部分は総ゴムだ。あっさりと、幹の欲情する中心を捕まえることができた。
「ヒトのこと、いえるのか?」
ガチガチじゃんと言うと、幹の目元がうっすらと赤くなる。
僕の手の中で、幹のペニスが熱く脈打っている。握った指で上下に擦ると、ピクリと動いて更に大きく硬くなった。
──僕が触ったから、こうなったのか。
そう思うと、胸がきゅうっと苦しくなる。
いや。苦しいというのは、ちょっと違う。
僕と同じように幹も興奮して欲情していることに、気分が高揚していた。
「バカ。そんなこと、しなくていいって……」
「うるさい。さっきまで、お前の好きなようにさせてただろ」
今度は、僕の好きにさせろ。そう続けると、幹は深いキスで応えた。
さっきまでと違い、縦横無尽に僕の口内で暴れ回る舌に、凪いでいた欲情の波が再び荒く高くなっていく。
再び二人してベッドに倒れ込むと、部屋の中は荒い息と互いに触れ合う音で湿度が高まっていった。
ぬるま湯のシャワーが、汗だくになった身体を心地よく流してくれる。髪と身体をひと通り洗ったあと、しばらくぼうっと浴び続けていた。
結局、幹の欲情を煽ったまではいいが、僕もいいようにされてしまった。なんだか、悔しい。
いや。悔しいというのも、ヘンか。
幹と何回か〝こういうこと〟をするたびに、いつも疑問に思うことがある。
──アイツは、どうして最後までしないのだろう。
幹は僕にためらいなく触れてくるくせに、最後の一線を越えようとはしない。僕の性感を高めて絶頂に上って射精すると、さっきみたいに自分一人で処理しようとするのだ。
なんだか対等じゃない気がするから、悔しい気持ちになるのかもしれない。
一晩だけだったが、僕は俊哉に抱かれたことがある。彼は、あの夏休みの旅行に行く前から、積極的にフィジカルコンタクトを取ってくるようになったけれど、それは僕とひとつになるための準備も兼ねていた。
兄の代わりになるとまで言い切ったくせに、幹は僕を抱こうとしない。
でも、僕に触れる唇や指は、どこまでも優しい。まるで宝物を扱うかのようにして触れてくる。十八歳なのだから、もっとガツガツ来るかと考えていたのに、まったく間逆なものだから、余計に戸惑っている。
僕を呼ぶ声も、口調も、すべてが柔らかで優しい。ふとした瞬間に見せる笑顔でさえも。
そういったひとつひとつの仕草を見つめながら、そこまで俊哉によせなくてもいいのに、と思う自分がいる。チャットアプリでのやり取りや家庭教師の授業中の会話が、昔に戻ったみたいで嬉しくなっていたから、余計にそう思うのかもしれない。
だからといって、僕の方から「抱かないのか?」と聞くのも、それはそれで何だか違う気がする。
ああ。なんか頭の中が、ぐちゃぐちゃだ。
コックをひねってシャワーを止める。風呂場をでてバスタオルで水気を拭いて着替えてリビングに戻ると、奥のキッチンで幹が冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出していたところだった。
「飲んでもいいんだろ? これ」
ペットボトルをかざしながら、幹が聞いてくる。僕が黙ったまま頷くのを見て、蓋を開けて勢いよく飲み始めた。半分以上飲み干したあとで、幹はこっちを見て苦笑する。
「髪、まだびしょ濡れじゃねーか」
風邪引くぞと言いながら、僕が首からかけていたタオルを取り上げて、わしゃわしゃと濡れ髪を拭いてくれる。気持ちいいので、抵抗もせずされるがままにしていた。
うつむいたまま髪を拭かれて、ふと思い至った。
──もしかして、幹が僕に触れるのは義務感だからなのだろうか。
──今まで『ヒトゴロシ』と苛んできたことへの罪滅ぼし?
それなら、俊哉のふりをして中途半端に触れてくるのも、合点がいく。義務感なら、兄貴になると言った手前、触れて性感を高めてイかせることはできても、抱くことはできないだろう。
それが頭の何処かでなんとなくわかっていたから、つられて兆している幹に僕は自ら触れようとするのかもしれない。
対等じゃない。悔しい、という感情はどうやらそのあたりが発露のようだと、そんなふうに一旦自分の心を納得させた。
「──あ」
ふと思い出した事があって、声が出る。顔を上げると、幹が怪訝そうに眉を寄せてこっちを見ていた。
「どうした?」
「来週の土曜日は悪いけど、家庭教師を休みにさせてほしい」
「なんで?」
「前にも言っただろ。院の入試があるからだよ」
再来週の木曜日と金曜日は、いよいよ大学院入試だ。準備は進めているが、週末──土曜日の午後に、所属する研究室の教授との打ち合わせがある。打ち合わせがいつ終わるか読めないため、時間をずらすのも難しい。それなら、一週だけ休んだほうがいいだろうと考えたのだ。
僕の話に、幹はあっさりと了承した。
「来週ね……わかった。こっちも、ちょうどよかった」
「何が?」
「来週の金曜と土曜は、文化祭あるから」
俺も休みにしてほしいって言うつもりだったと、幹はそう言った。
「文化祭かあ……」
実は、高校の文化祭に僕がちゃんと参加したのは、二年生までだった。俊哉からいきなり告白されたあの年だ。
文化祭当日は、セーラー服を着せられて好きでもないメイクを施され、給仕のメイドをこなした。俊哉とずっと気まずい空気のまま、一緒に見て回ることもしないで、お互いに淡々と作業をこなしていたのを思い出す。
三年生のときは、すでに俊哉は事故で亡くなっていなかったし、僕もリハビリで休学中だった。留年して二度目の三年生のときは車椅子だったから、迷惑をかけると悪いと思って欠席した。
俊哉と仲良くなったきっかけでもあり、ケンカしてきまずくなるきっかけにもなったイベント。
懐かしさが顔に出ていたのだろう。幹が僕をじっと見て「興味ある?」と聞いてきた。
「や。ちょっと、懐かしいと思っただけだよ」
「ふうん」
「幹のクラスは、何をやるんだ?」
「べつに。テーマを決めて、スマホでとった写真を展示するだけ」
「へえ。そんなのやるんだ」
「当日は交代で受付の当番をしなくちゃだけど、家のクラス進学クラスだから、準備もすげー簡単」
「そっか……」
「──来る?」
突然の申し出に、驚いて目をぱちくりする。
「え?」
今の高校の文化祭って、誰がきても良かったんだっけ? 一応、卒業生だけどOBっていうだけじゃ弱いんじゃないか?
僕の疑問は、全部顔に出ていたようだ。
「父兄枠なら、大丈夫だろ」
何でもないことのように幹が言う。
「え、でも……ご両親は?」
「ああ、土曜日に行くようなこと言ってたな。だから、来るなら金曜日になるけど、学校に来て一緒に回るか?」
金曜日の講義は、二限までだ。お昼ごろには終わる。
「大学あるけど、午後からなら……」
「わかった。学校の受付で3Bのクラス名簿に俺の名前があるから、それにチェック入れれば入れるぜ。受付終わったら、チャットくれ」
「う、うん」
なんか、あっさり決まったけど、本当にいいのだろうか。そう思いながら幹を見ていると、また怪訝そうな表情になる。
「なに? やっぱ、都合悪い?」
「いや。金曜の午後は空いてるし、行けるけど……」
「なら、いいじゃん。じゃ、金曜日に来いよ」
卒業生なんだから場所わかるだろと言われて、僕は何回も頷く。
卒業以来、足を向けたことはないから、高校へ行くのはかれこれ五年ぶりだ。しかも、文化祭は七年ぶりになる。
まさか、幹が誘ってくれるとは思わなかった。
帰り支度を整える幹の背中を見ながら、自分の心臓が明らかに高揚でドキドキしているのを自覚していた。
■□■
チャイムが鳴って、九十分の長い拘束が解かれる。
講師が「じゃあ、今日はここまでにします」と言うのを合図に、学生たちが皆それぞれに立ち上がる。
僕はスマホを取り出して、乗換案内アプリを開いた。母校である高校までなら、一時間弱で到着できるだろう。一応、幹にチャットアプリで『講義おわり。今からそっち向かう』とメッセージを送った。
すると、すぐに既読のマークが付いて『何時くらいになる?』とリプライがきたので、僕はさっき確認した乗換案内アプリのスクリーンショットを送る。そして『大体こんな感じ』と返事した。幹はそれに『わかった』とだけ、返してくる。
──そうか。クラスの出し物の受付交代でやるって、言ってたっけ。
おそらく、僕が来る時間を避けて当番をやるのだろう。事前に連絡しておいてよかった。
何人か集まっておしゃべりしている集団の中で、同じ研究室の子がランチを一緒しようと声をかけてくるけど、「用事あるから」と断って教室をあとにする。
杖なしの僕の足の歩みは鈍く、のそのそとバス停まで進む。
ちゃんと余裕を持ってアプリで確認したのだから、遅れることはない、だいじょうぶ。心のなかで自分にそう言い聞かせていたが、気持ちは急ぐ。大学前のバス停にたどり着くと、ちょうど駅までの路線バスがやってきた。それに乗り込んで席に座る。
窓の外を流れる風景を見ながら、感慨深くなっていた。久々に、自分の足で立ち歩いて高校の校門を通ることができるからだ。
駅前でバスから降りたあと、電車に四十分ほど乗って高校の最寄り駅に到着した。この駅は、僕の実家の最寄り駅でもあるのだが、訪れるのはずいぶん久しぶりだ。僕はゆっくりと、高校の方向へと歩き出した。
この道を歩いて通るのは、事故に遭って以来だ。駅前の店並びはだいぶ変わっていたけど、俊哉とよく寄り道したファストフード店やイートインスペースのあるコンビニは変わらずあって、懐かしく思いながら通り過ぎる。
広めの児童公園を通り抜けたところに建っているのが、僕の母校でもあり幹が通う高校だ。変わり映えのない正門には『◯◯高校文化祭』という手作り感たっぷりの看板が立てかけられていていた。
その看板の隣で、幹が仏頂面で立っている。僕の姿を見つけると、その表情のまま大股で近づいてきた。
「遅え」
ぼそっと、幹が文句をつける。
「あれ。もしかして、待っててくれたのか?」
「アプリのスクショ、送ってきたのはそっちだろうが」
「そうだけど。受付終わったらチャットしろって、このあいだ言ってたじゃないか」
僕が指摘すると「そうだっけか?」と、あさっての方を向いてとぼける。
でも、わざわざ出迎えに来てくれたのかと思うと、胸の奥がくすぐったくなった。
「ごめん。歩くの遅いから、時間かかった」
「杖、持ってきてねえのかよ?」
「持ってても、変わらないよ」
僕が笑うと、ふうとため息を吐かれた。そして、僕の手を取って、自分の腕に掴まらせた。
「受付、こっち」
ゆっくりと歩き出して、幹が校門近くのテント屋根のあるところまで連れて行く。
受付を済ませると、幹と一緒に校舎が立ち並ぶ方へと足を向けた。正面の出入口には、中庭へ抜けることのできる広いピロティがある。普段は何もなかったそこに、いくつかの机と椅子が並べられていた。その中の椅子のひとつに僕を座らせると、幹は「ちょっと待ってろ」と言い残して、立ち去ってしまった。
残された僕は、座ったまま周囲を見渡す。平日のせいか、制服姿の生徒以外の人が通り過ぎるのはまばらだ。さっき受付でもらったパンフレットを見ると、体育館やグラウンドでやる催し物は、明日のほうが圧倒的に多かった。
今日は、在校生だけで祭りを楽しむ意味合いが強いのだろう。目の前を通り過ぎる制服姿の子たちは、みんな楽しそうだ。遠くから、はしゃいだ笑い声も聞こえてくる。
中には、カップルらしい男女二人組もいた。互いが一緒にいて楽しいという空気を醸し出していて、見ていて微笑ましかった。
「おまたせ」
声をかけられると同時に、香ばしいソースの匂いが鼻をくすぐり、自分が空腹だということに気づいた。振り返ると、両手にプラスチックのパックと飲み物を手にしていた幹がいた。
「腹へってるだろ」
そう言って、テーブルの上にそれらを置いて向かい側に腰掛けた。
プラスチックのパックに入っていたのは、たこ焼きと焼きそばだ。たこ焼きにはソースとマヨネーズ、それにかつお節がきれいにトッピングされていたし、焼きそばにも青のりと紅生姜がトッピングされている。見た目だけで、すごく美味しそうだ。パックの蓋を開けると、さっき嗅いだソースの香りが更に強くなって、湯気と一緒に襲ってくる。
「ありがと。わざわざ買ってきてくれたんだな」
僕が礼を言うと、「しょぼいけどな」と返してくる。そう悪態をつかなくてもいいじゃないかと僕が首を傾げると、幹はズボンのポケットから缶コーヒーを取り出して、テーブルに置いた。プルトップを開けながら、幹が話を続ける。
「たこ焼きはレンチンのやつらしいし、焼きそばはバスケ部の出店で、ホットプレートで作ったやつだ」
「そうなんだ」
「本格的にやりたくても、基本的に火を使ったらダメらしいから」
「ああ……そういえば、僕のときもそうだったかも」
でも、ソースの香ばしい匂いは、空腹を刺激する。僕は備え付けの爪楊枝でたこ焼きを刺して、口に運んだ。
「ん……美味しいよ」
僕は、咀嚼しながら正直に言った。マヨもソースも程よい量で、中も柔らかくてタコもある。空腹を満足させるには十分な味だった。
「ホントか?」
僕の言うことを疑わしそうに聞き返しながら、幹もたこ焼きをひとつ口へ放り込んだ。
「どう?」
「……最近の冷食、ハンパねえ」
「感心するの、そこかよ」
幹の言葉にウケて、思わず笑っていた。幹は気に入ったのか、たこ焼きをもう一個頬張った。
「あ。僕に買ってきたんじゃないのかよ」
「うるせーよ。焼きそば食え」
「食うけど、残しとけよ!」
僕がたこ焼きを指差しながら言い返すと、今度は幹が大笑いする。
──ああ。幹の笑顔だ。
ここ最近、幹は笑顔を見せてくれるけど、それは俊哉に似せたものだ。そうじゃない自然な笑顔に、つい見入ってしまう。それに気づいた幹が「冷めるぞ」と、焼きそばを食べるよう促してきた。もう一つのパックにゴムで挟んである割り箸を手にして、蓋を開けて食べようとすると「味の保証はしねーけど」と、余計なことを付け足した。
「それ、食う前に言うことか? てか、お前の部の出店だろ」
「仕切ってるヤツの味覚センスが、ヤバい」
「なんで、そんな子に仕切らせるんだよ……あ、でも意外と美味い」
「マジか?……どれ」
「あ、だから食うなって」
幹に食べられたりはしたけど、おかげで十分に腹が満たされた。持ってきてくれた紙コップのお茶を口にしながら、同じように缶コーヒーを飲んでいる幹の横顔を眺める。
制服姿の幹を見るのは、ひさしぶりだ。家庭教師の日は土曜で学校は休みだから、幹はいつも私服で僕の部屋へやってくる。今では、私服姿のほうが見慣れてしまっていた。
今日の幹は、学校指定の長袖のカッターシャツに制服のスラックスだ。ただ、動き回って暑かったのか、両袖を肘のあたりまでまくっていた。
長い手足は、制服姿もよく似合って目立っている。何人かの女子生徒が、通りすがりにチラ見していた。きっと、学校で人気があるんだろう。
でも、幹はそれを気にしている様子はない。けっこうあからさまに見る子もいたというのに、完全にスルーしている。これが、彼の日常というか普通のことなのか。僕なら、こんなふうにチラ見されたら気になってしょうがないのに。
ふいに、幹が立ち上がった。それをぼんやり見ていると、僕の腕を掴んで立ち上がらせると「行くぞ」と言い出した。僕と腕を組むと、並んで歩き始める。
ピロティから離れて中庭の方へ足を向けながら、幹は「場所、選べばよかったな……」とつぶやく。
「なんで?」
「思ったより、人が通ってくから」
幹の言葉に、ああと僕は頷いた。
「幹のこと見ていく子、けっこういたよな」
「は?」
僕が言うと『何言ってんだ、コイツ』というような表情で、幹が僕を見る。事実を言っただけなのに、そんな反応をされるとは思わなかった。
幹は、僕をまじまじと見つめたあと、はーっと大きなため息をつく。
「ここまで、無頓着だとはな」
「幹?」
「兄貴も苦労したんだろうなぁ……」
なんで、ここで俊哉が出てくるんだろう。怪訝に思っていると、また幹があきれたようなため息をついた。
「あのな」
「なに?」
「ピロティを通ってった女子の連中はな、みんな俺じゃなくてアンタを見てたんだよ」
「まさか。だって、あからさまにお前のこと見てた子いたぞ」
「アレは……っ、俺と同じクラスのヤツら。俺にアンタを紹介してほしかったんじゃねーの?」
「紹介? なんで?」
わけがわからない。単に文化祭を見に来た父兄代わりの僕を、どうして紹介してほしがるんだ?
「マジかよ……」
そこで、幹はがっくりとうなだれた。
「……えーと、幹?」
呼びかけると、うなだれたままジロリと横目で僕をにらむ。こういうふうに機嫌が悪くなるのは久しぶりだ。
「アンタさ」
「僕?」
「自分の顔が良いって自覚、まったくないのか?」
「ええっ!? な、ないよ。そんなもん」
むしろ、顔立ちのことは昔からコンプレックスだった。今でも、大人っぽいとか男らしいという言葉とは無縁で、よく下級生に間違われたりもする。
「僕なんかより、幹のほうがカッコいいじゃん」
正直に言ったというのに「そういうお世辞はいいから」と返されてしまった。
「アンタ、けっこうイケてる方だぞ」
「そうかなあ?」
「じゃなきゃ、女子があんなにジロジロ見るわけないだろ」
「だから、それは──」
お前のほうだろ、と言おうとしたら「あーきーやーまー!」という大声に遮られる。声の主の方を振り向くと、いくつかある出店スペースの一角から背の高い男子生徒が手を振っていた。看板には〝バスケ部名物やきそば〟の文字。幹は、すごく嫌そうな顔をした。
「なんだよ? シバタ」
「いや、さっき焼きそば買いに来た子たちから聞いたんだよ。お前がすげーイケメンと一緒にいるって」
シバタと呼ばれた子は、幹の隣にいる僕の方をじろじろ見ている。その視線で、しっかり幹と腕を組んでいることに気づいて、慌ててぱっと離した。それを見て、チッと幹が舌打ちする。
「この人、カテキョ」
「なに? 予備校だけじゃなくて、カテキョも入れてるのか」
「C大だし、この人」
「あー、なるほどな。志望校の人だからか」
「や。てか、兄貴の同級生だから、そのツテで」
「へー」
しばらく二人でおしゃべりしたあと、シバタくんが僕に向かってペコリと頭を下げた。つられて、僕も会釈を返す。
「もう、行っていいか?」
「ちょっと、秋山ぁー。ちゃんと紹介しろよ」
「十分だろ──ほら、客来たぞ」
焼きそばを買いに来た生徒をシバタくんが接客している間に、幹は僕の手を引いて歩き出す。
「ちょっと、幹……手を」
「なんだよ? べつにいいじゃん」
さっきまで腕を組んでいたのは、僕の足のことがあるからだ。でも、今のこれは──手と手を繋いでるこの状態は、なんかちょっと違う気がするんだけど。
気のせいか。うん、そうかも。さっきと同じで、僕が歩くための介助だよな。
歩きながら、なんかぐるぐると思考が空回りしていた。そんな僕の気持ちなどお構いなしに、幹は僕の手を握ったままだ。だけど、ゆっくりとこちらのペースに合わせて歩いてくれている。パンフを片手に「次はどこ回りたい?」と聞いてきた。
「えっと……幹のクラスの展示が見たいな」
「写真飾ってるだけだぞ?」
「お前が撮った写真もあるんだろ? だったら、見たい」
彼がどんな写真を撮ったのか、すごく興味がある。幹はちょっとだけ考えるような表情のあと、うなずいた。
「わかったよ。職員室前のエレベーターから、四階の三年の教室まで行くか」
そう言って、幹は中庭から渡り廊下を通って、職員室のある校舎へ向かった。
職員室前には、来賓のためのエレベーターがある。車椅子で通学していた頃、僕も散々利用していた。ボタンを押してエレベーターが来るのを待っていると、背後から「秋山。生徒の使用は、荷物の搬入だけだぞ」と注意される。二人して振り返ると、注意した人物が僕を見て驚いた表情になった。
「もしかして……斎木、か?」
「ごぶさたしてます。中野先生」
僕は、丁寧に頭を下げる。声をかけてきた先生は、僕が三年生のときの担任だ。留年した年も含めて二年間世話になった。
「お、まえ……立てるのか? 歩けるのか?」
震える声で、中野先生が訊いてきた。あの頃、僕の足は立って歩くことは難しいかもしれないと医者から言われていて、担任だったこの先生もそれを当然知っていた。僕は、その問いかけに頷いた。
「ええ。少し引きずりますけど、歩けています」
「そう……そうか。すごいな、リハビリ頑張ったんだな」
そう言って、中野先生は涙目になりながら僕の肩を優しく叩いた。思ってもいなかった反応に、どんな顔をすればいいのかわからなくなる。中野先生は目元を拭いながら、僕たち二人を見比べた。
「ああ、そうか。じゃあ斎木は、弟のほうの秋山とも知り合いなのか」
「はい。今は、彼の家庭教師をしています」
「家庭教師……たしか、お前まだ学生だったか?」
「はい」
「──中野先生」
そこで、幹が話を続けようとする僕と先生を遮って、中野先生を呼んだ。
「斎木さん、階段の上り下りはキツいんで、エレベーター使っていいっすよね?」
「おお、そうか。そうだよな……いいぞ」
ちょうど、そのタイミングでエレベーターの扉が開いた。二人で乗り込むと、手を振って見送る中野先生に会釈して扉のボタンを押す。
「……あんなの、テキトーに切り上げろよ」
幹が不機嫌そうに、ぼそっとつぶやいた。
「しょうがないだろ。中野先生は留年した年も担任だったし、世話になったんだ」
「中セン、話なげーんだから」
その言葉に、幹の方を振り向いたら「今の担任」と、苦虫を噛み潰したような顔で言うものだから、また笑いを誘われてしまう。
「アンタ……」
笑い続ける僕に幹が話しかけようとするが、呼びかけた途中で口を噤んでしまった。どうしたのだろうか。次の言葉を待っていると、エレベーターが停止して目的階である四階に到着した。ゆっくりと扉が開く。
「ほら、こっち」と、幹がまた手を引いた。見覚えのある廊下は、制服姿の子たちでけっこう賑わっていた。各教室でいろんな看板や飾りが施されている。
三年B組の教室も、そこそこ人が集まっていた。スマホカメラで撮った写真という身近な題材だからかもしれない。展示のタイトルは『あまたのそら』と、ひらがなで看板に書いてある。
「あまたのそら?」
「ああ。空だったら、どんな天気でも時間帯でもいいって条件で、みんなの画像データ集めて写真にしたんだ」
そのほうが、カメラで撮りやすいだろという幹の説明に、なるほどと感心した。幹の連れということで、特に何もなく顔パスで教室に入る。
その中は、普段はあるはずの机と椅子がすべて取り除かれていた。そのかわりに、いくつかのパーテーションで仕切られていて、くねくねとした通路のようになっている。その壁に、様々な空の写真が飾られていた。通路をとおりながら順番に見ていくようになっている。
写真の大きさは様々で、L判サイズの印画紙から、A3サイズのパネルまであった。今のスマートフォンはかなり画質がいいので、大きなサイズでも十分鑑賞できる出来栄えだった。
「へえ……すごいな」
空を題材にしているけど、どれも同じようでいてまったく違う。青空ひとつにしても、雲ひとつない青一色だったり、いろんな模様の雲を映し出しているのもある。他にも、曇り空や朝焼けや夕焼け、夜空の月と夜景。夕焼けをバックに、背中を向けてジャンプしている女の子たちの写真。
「幹のも、あるんだろ?」
写真を見ながら問いかける。すると「……まあな」と、気のない返事をよこしてきた。
なんとなく、見てほしくないんだろうなと察したけれど、あえて訊いた。
「どれ?」
「あ?」
「お前が撮った写真。見せろよ」
僕がぐっと顔を近づけると、幹は嫌そうに眉間にシワを寄せてこちらを見下ろす。負けじとにらみ返して、しばらく二人とも無言でにらみ合った。
根負けしたのは、幹の方だ。視線をそらして小さく舌打ちすると「こっち」と言って、教室の後ろの方の壁まで歩いていく。そこにも、大小さまざまな空の写真が飾られていた。
「右上の……中くらいの大きさのやつ」
幹が指し示したのは、A4判くらいの大きさのパネルだった。色の濃い空色のほぼ真ん中に、薄く線を引いたような雲が右上がりに斜めに伸びている。
──いや。これは、雲じゃない。
一瞬、ひこうき雲のように見えるが、白く真っ直ぐに伸びているのではなく、鈍色でよれた線が所々波打っていた。
「これって……煙?」
振り返って幹を見ると、彼は無表情のまま頷いた。
「兄貴が、荼毘に付されていたとき、外で撮った写真」
ぼそりと、幹は答えた。
俊哉が亡くなった二日後。葬儀の後に彼は燃され、骨と灰になった。その頃、僕は事故からまだ意識が戻らずにいた。事故の日は朝から大雨だったのに、葬儀のこの日は雲ひとつない快晴だったという。
「俺も、最近見つけたんだよ。空の写真あんまり持ってないし、その頃のスマホの外部データにあった」
幹が話しかけても、僕は何も答えずにずっとその写真から目を離さないでいた。
青い空を横切るようにして上っていく鈍色の煙。僕が、見ることのできなかった景色。
気がつけば、目から涙が溢れてきて頬を濡らしていた。止まることのない涙を拭いながら、それでも幹があの日撮ってくれた写真を見つめ続けていた。
「……幹」
ズズッと鼻をすすりながら、呼びかける。
「ん?」
「……ありがとう」
「なんで、礼なんか──」
いらないと言おうとしたのを、僕は頭を左右に振って止めた。
「この写真を見せてくれて、ありがとう」
「……アヤ?」
戸惑うように、幹が呼びかける。彼自身の口調で。
「俊哉が天に上るところを見せてくれて、ありがとう」
礼を言う僕の肩を、幹の長い腕が包むように抱いてくれる。僕たちはそのまま並んで、俊哉が上って逝ってしまった空の写真を眺めていた。
カフェをやっている教室で、ひと休みする。ちょっと前まで大泣きしたせいか、目の辺りが腫れぼったく感じて、じんじんする。
「大丈夫か?」
向かいの席に座る幹に、僕は笑って頷いた。
そこへ、給仕係の女子生徒が飲み物を運んできた。黒いロングスカートのクラシカルなワンピースに白いエプロンという、本格的でちゃんとしたメイド姿だ。僕が高校生だった頃より、かなりクォリティが高い。
僕は運ばれてきた紙コップに入ったアイスコーヒーを一気に飲み干して、大きく息を吐いた。泣きすぎたせいで、水分不足だったみたいだ。
いい年した大人の男が大泣きするなんてと思ったけれど、気分はいつになくすっきりしていた。周囲の景色の色がよりクリアになったような感じすらする。
そんな僕を、心配そうに見つめる幹がいた。
「大丈夫だって。そんな顔すんなよ」
そう言うと、口をへの字にしてふいと横を向く。
「べつに。大丈夫なら、それでいい」
そう答えて、幹はムスッと黙り込んだ。ちょっとのことで不機嫌そうになるのは、相変わらずだ。
以前の僕なら、これ以上余計なことを言うまいと黙り込むだけだった。でも、今はそんな彼をどこか微笑ましい気持ちで見ることができる。
これも、心境が変化したからだろうか。それとも──。
そこでピコン、とあの特徴的な着信が鳴った。チャットアプリのそれで、相手は遥香から。
『今夜、会わない?』という内容に、『遅くならなければ、いいよ』と返信する。すると、遥香は待ち合わせの時間と場所を送ってくる。そのあと、何もメッセージを送ってこない。
──これは、絶対来いってことか。
「何か、用事?」
スマホとにらめっこをする僕に、幹が問いかけてきた。僕は画面から目を離して、苦笑しながらうなずく。
「夕方から、ちょっとね」
「今から?」
「いや。もう少し遅い時間だけど……」
教室の壁時計を見ると、三時半を過ぎていた。おそらく、文化祭もあと一時間足らずで終わるのだろう。背後で「ラストオーダーでーす」とメイドさんが声をかけている。
「……出るか」
「そうだね」
二人して立ち上がって、カフェの教室をメイドさんに見送られながら出る。慌ただしく走っていく生徒たちもいる中で、僕たち二人だけがゆっくりと、廊下を並んで腕を組んで歩いていた。
■□■
「ごめん、待たせた」
約束の時間に少し遅れて、待ち合わせのカフェにたどり着く。わりと時間に厳しいはずの遥香は、怒るどころか文句ひとつ言わずに、向かい側の席に腰かけた僕の顔をじっと見てくる。あまりにも凝視するので、思わず顔をしかめた。
「なんだよ?」
「院試前で、ピリピリしてるかと思ったけど、そうでもなさそうね」
僕が大学院入試を目前に控えてるのをわかっていながら、会わないかとチャットをよこしてきたくせに。
「いや、けっこう切羽詰まってるんだけど」
「でも、あたしの呼び出しに答えてくれる余裕、あるってことでしょ?」
図星だったので、僕は口を噤んだ。出かけたついでだなんて、言えるものか。
遥香と直接会うのは、幹が研究室に乱入したあの夏の日以来だ。あのときは、ほぼすっぴんに作業着姿だったが、今日は会社帰りらしくきちんとメイクしているし、カットソーとワイドパンツにオーバーサイズのジャケットを羽織っている。メンズライクな格好だが、大ぶりなべっ甲飾りのピアスが耳元で揺れて、柔らかさを引き立てていた。
顔を合わせなくても、遥香とは週に何度かチャットアプリでやり取りしている。だけど前もって『会わない?』と誘ってくるのは珍しいので、こうして待ち合わせ場所まで足を運んだのだ。
気分は、姉に呼び出された弟のそれだ。実際、僕も遥香もひとりっ子だが、お互いの感覚は友人というよりきょうだいに近い。
「こないだよりも、元気そうね」
「そうか?」
「うん。負のオーラが漂ってない」
「なんだよ、それ?」
僕がくすくす笑うと、遥香はまぶしいものを見るかのように目を細める。
「綾ちゃんが笑うの、久しぶりに見たわ」
「そんなことないだろ?」
「そんなことあるわよ」
そう言い返してきた遥香が、真顔になる。
「こないだまでの綾ちゃんは、『笑うことは罪です』って感じだったよ」
そう指摘されて、ドキッとした。
彼女の言う通り、俊哉が亡くなって以来、喜ぶとか楽しむということにずっと罪悪感を抱いていた。
それは、幹の『ヒトゴロシ』という言葉が枷となって、僕を縛っていたからだ。でも、そうじゃないと解放してくれたのも、彼だった。
「今日は、普通に笑ってる」そう続けて、遥香がうれしそうに笑った。
──そんなに、表情がちがうんだろうか。
鏡で毎日見ているけど、変わり映えなんてちっとも感じない。僕は、無意識に自分の頬を触っていた。
「ね、何かあったの?」
興味津々らしく、テーブルに肘をついて前のめりになって、遥香が訊いてくる。
「何かって、何が?」
「だから、綾ちゃんの雰囲気がガラリと変わる『何か』よ」
心当たりは、あるにはある。でも、その『何か』はつい先ほどの出来事なだけに、うまく言葉にできそうになかった。
「今の時期だと、院試と卒研しかないよ」
「もう、そんなんじゃなくって!」
僕が空惚けると、遥香はぷうっとむくれる。その顔が、子供の頃からまったく変わってなくて、僕はまた笑いを誘われた。
「ところで、わざわざ呼び出してどうしたんだ?」
僕のそんな問いかけに、遥香は苦笑する。
「綾ちゃんの様子を、直接見たかったの」
「そんなの、チャットや電話で十分わかるだろ」
「顔見なきゃわかんないことだって、あるでしょ。おばさんにも頼まれてるのよ」
母親のことが話題に出て、思わず眉間にしわを寄せた。
「……母さん、なんて?」
用心深く訊ねる。
「ん? ちゃんと、食べてるかしらとか、大学ってそんなに忙しいの? とか」
おばさんが心配しない程度に教えてるよと、遥香はあっけらかんと返してきた。
「ごめんな」
「悪いと思ってるなら、たまには実家へ連絡しなさいよ」
遥香の言葉に、口を噤んだ。
あの事故で、切断こそ免れたが左足は一生動くことはないだろうと医師に宣告されて、両親は泣き崩れてしまった。
当時の僕は現実感を伴わないまま、それを受け入れていた。あの頃は、自分の状態よりも俊哉を喪ったショックの方が大きかったからだ。
それ以来、両親──特に母親は、ちょっと異常なほど心配性になった。
僕が高校を卒業するまで、母は学校の送迎はもちろん、通院やリハビリ、ちょっとした買い物でもすべて運転や車いすの介助をしてくれた。
仕事をしていたというのに、時短や在宅勤務を駆使して、僕のスケジュールにすべて合わせて生活していた。
だけど、チャットで既読無視したり電話に出ないと、山のようにメッセージを送ったり、時には授業中なのに鬼電されたりもした。
僕の介助や送迎をする母親にありがたみを感じる反面、ちょっと連絡を忘れただけでしつこく電話とかを寄越してくることに、息苦しさを感じるようになった。
何よりも、母の僕への視線が〝かわいそうなもの〟を見るそれになっていたのが、とても居心地が悪かった。
『この子はかわいそうなのだから、自分が守らないと』
何もいわずとも、母からそんな空気をひしひしと感じていた。
そんな感情を毎日向けて干渉してくる母のことが、段々と鬱陶しくなっていく。そう感じる自分にも、嫌気が差していた。
事故によるリハビリのせいで高校を一年留年し、さらに大学受験を一年浪人したことで、母の心配性に拍車がかかった。とうとうそれに耐えきれなくなった僕は、大学入学をきっかけに一人暮らしをしたいと申し出た。
母は、当然反対した。だけど、意外にも父親が味方してくれたのだ。住む場所にあれこれ条件は付けられ、ちょっと閉口したけれど、僕は家を出て一人暮らしをすることができている。
学費や部屋の家賃、そして諸々の生活費も出してくれていることも、僕の不自由な足のことを考えて部屋を選んでくれたのも感謝している。
事故の相手側からの示談金についても、そうだ。保険会社の提示を諾々と受け入れることはせず、両親は弁護士を入れて裁判も辞さないという態度で対応した。それも、僕の|将来《さきざき》を考えてくれてのことだと、理解している。現に、相手側からの多額の賠償金は僕の生活費に当てられ、僕はバイトに明け暮れることなく学業に専念できている。
でも、そこまでしてもらう価値が自分にあるのだろうかという考えに苛まれることもあった。
──だって、俊哉が死んでしまったというのに。僕は、単に生き残っただけだ。それなのに。
その思いもあって、母親とは一定の距離を置いている。彼女が嫌いというわけじゃない。ただ、同情や憐れみの視線に耐えられないだけだ。僕は、そんな感情を向けられる価値がない。
チャットが来ることはあるけど、返事をするのは五回に一回程度だ。僕の方から連絡することは、ほとんどない。だから、僕と連絡を取り合っている遥香に、母は何かと聞いてくるのだろう。
黙り込む僕に、遥香はやれやれといった表情で微笑む。
「たまに、でいいのよ」
「うん」
「ま、その話はいいから」
「うん?」
遥香に視線を向けると、ニッと笑った。なんか、不穏な笑顔だ。
「綾ちゃん、このあと時間あるでしょ?」
断定的な口調に、ちょっと反抗する。
「ヒトを、すげーヒマ人みたいに言うな。明日は、教授との打合せがあるんだよ」
「ごめんって。でも、あたしのために時間作ってくれたんだよね?」
言い方を変えても、このあと僕が他に予定を組んでいない事を、見透かしていた。
「じゃあさ、飲みに行こうよ」
「はあ?」
「いいじゃん、今日は金曜日だし」
明日は、土曜日。遥香は仕事が休みだし、僕も大学の授業はない。だが、午後から教授との院試前の打ち合わせが入っているから、このまま飲みに行くというのは、正直言って気が進まない。
遥香は、そこそこ酒に強いけど、酔っぱらうと面倒なのだ。
「ほら、行こう」
僕の腕を取って、ゆっくり立たせる彼女の手つきは、とても優しかった。
「──パワハラだって訴えたくてもさ、周りが毒されていて『そうだ』って認識できていないと、言いづらくなるのよね。で、メンタルが参っちゃうの」
チューハイの缶を弄びながら、遥香がそう言った。
結局、気兼ねなく飲めるという理由で、コンビニで酒とつまみを買い込んで、僕の部屋で飲むことになった。案の定、二本、三本と飲み進めていくうちに、遥香が盛大に仕事の愚痴をぶちまけている。
僕も飲めないわけじゃないけど、酔っぱらった遥香の介抱をしなくちゃならないから、控えめに飲んでいた。それなのに、遥香はときどき「綾ちゃんも飲め!」って、絡んでくる。
──それって、アルハラじゃないの?
パワハラの愚痴を聞いている最中なので、それは口にしない。
「遥香の部署、パワハラが横行してんの?」
「設計部はそうでもない。今話をしてたのは、施工管理部とか、営業部の話」
「そっか……」
「うちは、部長がその辺に対して、きちんとしてる人だからね」
そう言ったくせに、遥香の表情が曇るのを見過ごさなかった。
「なんか、あったの?」
僕の問いかけにはっとして、遥香はこちらを見る。
「や、あたしは大丈夫だけど……」
「けど?」
さらにつっこんでみると、遥香は口をへの字に曲げた。
「あたしじゃなくて、先輩が、さ……」
「うん」
「セクハラされてるっぽい」
遥香の言葉を聞いて、僕は首を傾げた。彼女は以前、配属が決まったときに直属の上司──チームリーダーが女性だと話してくれたことがある。
それなのに、セクハラ?
「先輩って、女性の?」
僕の疑問に、遥香は黙って首を横に振る。
「先輩は、男性だよ」
「え、じゃあ……」
「セクハラしてるのは、たぶんリーダー」
そう言って、遥香は残りのチューハイをぐいっと飲み干した。
男性がセクハラを受けるというのが、いまいちぴんとこない僕に、遥香が説明した。
セクハラは女性だけでなく、男性も被害者になる場合がある。しかも、女性が加害者の場合、セクハラをしているという自覚が男性より希薄なので、質が悪いのだという。
セクハラを受けているという男性の先輩は、遥香とよく一緒に組んで仕事をしている入社四年目の人だ。
「前から、リーダーのお気に入りらしかったんだよね」
そう言いながら、遥香は話を続けた。
彼女がそれに気づいたのは、この半年くらいのことだ。必要でない残業を、先輩だけが課せられる。しかも、件の上司と二人だけ。遥香が手伝いを申し出ると、その上司から帰れときつく追い返されたという。
それだけではない。
遥香と先輩が一緒に現場調査へ行くのを、何度も変更させられるということもあった。しかも、その担当責任者は先輩だったのだから、何度も予定変更をされた客先から先輩へクレームが来たという。
上司の態度は、だんだんとエスカレートしていった。
みんなの前で不必要に先輩をほめたり、少しのミスなら笑顔で許したりする。それなのに、他のメンバーはほめられることもあまりなければ、先輩と似たようミスをすると厳しく注意されるのだ。
チーム内でも上司への不満が溜まり、その矛先が先輩へ向いていた。現在、彼は職場で孤立しているという。
「──そこまでいくと、問題じゃないか」
遥香の会社は、そこそこ規模の大きいゼネコンだ。コンプライアンス部門だってあるだろう。僕がそれを指摘すると、遥香は顔をしかめた。
「さっきも、話したじゃん。セコカンとか営業のパワハラの話」
「うん」
「うちの会社はね、コンプライアンス部門はいわゆる左遷先みたいなもんなの。つまり、ぜんぜん機能していないわけ」
「そんな……」
遥香は酒を飲み干すと、握っていた缶をぐしゃりと両手で潰した。
「このままだと良くないって、わかってる」
「遥香」
「先輩がメンタルを患って休職するか、会社を辞めるか……たぶん、そこまできてる」
そこまで話して、遥香は俯いてしまった。
遥香も、チームリーダーのセクハラに気づいてから、どうにか先輩の力になりたいと水面下で動いたらしい。
だが、先日。いきなり、遥香に部署異動の内示が来た。
「それって……」
「移動先は、別の設計チームだよ。入社時に、希望していたとこ」
そう言ってみせるが、遥香の表情はそれが不満だと物語っている。
「このタイミングで異動なんて、どう考えても厄介払いだとしか思えない」
遥香は大きなため息をついたあと、僕の方を見て苦笑した。
「ごめんねー、綾ちゃん。これから就職するっていうのに、こんな話して」
「いや、僕は院に進むから」
「でも、遠い未来じゃないよ」
そうだけどと答えると、遥香ふと視線を遠くの方へ向けた。
「助けたいのにね……」
「遥香?」
「そう言ったこともある。でもね、いつも『大丈夫だよ』って言われちゃって」
そう言った遥香の眉が、悲しそうに下がる。
「最近は、コンペで先輩が設計したものが採用されても、同僚から『上司と寝てりゃ、仕事も取りやすいよね』って言われてて……」
それを聞いて憤った遥香は、文句を言おうとしたが先輩に止められた。「君まで孤立することはない」と、そう言われたのだという。
はあ、と何回目かわからないため息をついたあと、遥香は上を向いた。目尻にじんわりと涙が浮かんでいる。そんな彼女の様子に、僕はふと思いついた。
──もしかして、遥香は。
「その先輩のこと、好きなの?」
「え<num>!?</num>」
そのまま口にすると、酒で赤くならない遥香の頬が真っ赤になった。ここまでわかりやすいのも、逆に珍しい。
「そっか。好きなんだ」
「ちょ、綾ちゃん。違うから、気になるだけだから!」
「そっか、そっか」
それしか言ってないのに、だからとか、そんなんじゃないってとか遥香は言うが、言い訳になってない。それに、言えば言うほどますます赤くなったり、普段見せない動揺っぷりが『そうだ』と物語っている。
事故のことがあってから、遥香は僕のサポートをよくしてくれた。大学生時代も、男子学生の秋波に気づかず、僕にかまってばかりだった。
僕がリハビリを頑張ったのも、母親だけでなく遥香の負担になりたくないと思ったからだ。幼なじみで、弟のような存在だからとはいえ、いつまでも彼女に迷惑はかけられない。自分の<ruby>人生<rt>みち</rt></ruby>があるのだ。他人のそれを背負う必要や義務は、ないのだから。
だから、遥香が他の男性に気持ちを傾けるのは、いい傾向だと思う。
話を聞く限り、前途多難そうだけれど。
「あたしのことより、綾ちゃんだよ!」
「え?」
遥香は、ずいっと僕の目の前まで顔を近づける。
「ね、教えなさいよ」
「だから、何を?」
「綾ちゃんが、変わった理由だよ!」
待ち合わせをしたときの話題を、蒸し返してきた。教えろーと、遥香は僕の胸ぐらを掴んで揺さぶる。
ああ、これは大分酔ってるな。
「変わったって、どこがだよ?」
わかんないよと答えて、僕はTシャツの胸元をつかんだ彼女の手をそっと外した。遥香は、そんな僕の顔をじっと見つめている。
「だって、ホントに綾ちゃん……ちゃんと笑うんだもん」
「遥香?」
「秋山くんが一緒にいた頃みたいに……普通に話しても、明るくなったよ」
「そうか?」
「そうだよ!」
そう言われても、本当に心当たりがない。
俊哉のことを忘れたわけじゃない。
抱えていた罪悪感も、消えてはいない。
僕がうーんと考えてると、遥香がつまんなそうな表情になる。
「酒が足りないのかな」と言って、勝手に冷蔵庫を開けて、チューハイの缶を二つ持って戻ってきた。僕の座っている前に缶を置くと、立て続けにプルタブをあけて、そのうちの一つを僕の前に差し出した。
「飲むよ!」
「え、ちょっと遥香。これ以上飲むの、ヤバいんじゃない?」
「綾ちゃんが素面なのが、悪い!」
「えー」
受け取ったのは、僕の好きな味だ。こんなところは、酔っていても外さない。
「かんぱーい」
遥香が、自分の新しい缶を僕のそれに当てたあと、ぐいっと酒を呷る。僕は覚悟を決めて、チューハイの缶に口を付けた。
「遥香、起きろよ」
「うーん……」
何度か肩を揺すったが、遥香に起きる気配はない。壁時計は、九時を少し回っている。教授との打合せは十時半だ。そろそろ、準備して出かけないとならない。
昨夜、酒を飲むだけ飲んだ遥香はとても電車に乗って帰れる状態ではなく、結局泊めてやった。といっても、お互いぐてんぐてんに酔っぱらって、そのままリビングで雑魚寝という状況だ。
遥香は泣き上戸となって、とうとうセクハラを受けているらしい会社の先輩への思いをぶちまけていた。
──僕は、どうだったっけ?
かなり飲んだので、記憶があやふやだ。何を話したのか、ほとんど覚えていない。
起きたとき、頭痛はそうでもなかったけど、起きたらすぐに胃がムカムカしてトイレで吐いた。でも、それでスッキリしたのか、いくらかマシになってる。
ただ、打ち合わせで酒の匂いがしないかが、すごく気になる。
「ほら、起きて。遥香!」
けっこう強めに揺さぶったが、遥香は気持ち良さそうにすやすや眠ったままだ。仕方がないので、ローテーブルに水の入ったマグカップと鎮痛剤、それに胃薬を置いておいた。起きた時に、二日酔いの症状が出ていてもすぐに飲めるようにだ。書き置きのメモも残しておき、僕は出かける準備にとりかかる。
洗面所で顔を洗って歯を磨いて戻ってきても、遥香が動く気配はない。このまま彼女を一人にしたとしても、僕の部屋の玄関はオートロックなので、部屋を出れば勝手に鍵がかかるので問題ない。
一応、チャットアプリにも「起きたら、ちゃんと家に帰れよ」とメッセージを送って、僕は部屋をあとにした。
教授との打合せでは、特に酒の匂いを指摘されることもなく、問題なく終了した。そのあと、何だかんだと雑用を手伝わされたので、大学を出たのは夕方の四時を過ぎていた。
打合せの時間よりも、教授の手伝いの時間のほうが長かったんじゃないかというのは、入試前なので黙っておく。大学院に進んでも、彼が指導教授になるのは変わらないからだ。
これも、パワハラか? と、昨夜の遥香の話を思い出して考えながら部屋に戻る。鍵を開けて玄関のドアを開くと「おかえりー」というのんびりした声が聞こえた。
「お前、まだいたのかよ!」
「いやー、酒が抜けなくってぇ……」
えへへと笑う遥香は、僕のシャツとスエットを借りていた。奥から、かすかに洗濯乾燥機が動いている音がする。自分が着ていた服を洗濯して、乾くのを待ってるんだろう。
「綾ちゃんち、メイク落としとかないから、化粧の残った顔でコンビニ行ったんだよ」
「メイク落としなんて、ねーよ。メイクしねーもん」
「メイクしないのに、そのつるつる肌はずるい」
「何がずるいんだよ。てか、鍵持ってないのに、どうやって出入りしたんだよ?」
「玄関のシューズボックスの上に、スペアキー置いてあったよ」
そうだった。いざというときのために、玄関に置いておいたのを忘れてた。こういうところは、本当にちゃっかりしていて、小憎らしい。
だけど、遥香との会話は遠慮がいらなくて、言いたいことをぽんぽん言い合うのが楽しい。
小さい頃は、お互いの両親から<ruby>夫婦<rt>めおと</rt></ruby>漫才みたいねとか言われていたけど、その感覚がよくわからない。
男女の組み合わせに対して、すぐ『カップル』とか『夫婦』とか決めつける感覚が、だ。
部屋に泊めたのも、泥酔状態の身内を心配するがゆえだ。そこに、下心なんてものは微塵も存在しない。そんなものあったら、遥香のことだ。酔っ払っていても、絶対に泊まらないだろう。
僕はソファで寝転がってくつろぐ遥香を見て苦笑しながら、冷蔵庫を開けて飲み物を取り出そうとした。
「はるか!」
「なによ?」
「冷蔵庫にあったプリン、食べただろ!?」
「いちいち、うるさいなー。今度、デパ地下で買ってきてあげるから」
「ここは、お前ん家じゃねーぞ!」
僕が本気で怒っているのに、遥香はけたけたと腹を抱えて笑っていた。
洗濯していた遥香の服が乾いた頃には、日がすっかり暮れていた。実家暮らしである遥香も、さすがに帰らないとあれこれ怒られるというので、買い物ついでに駅まで送りがてらマンションを一緒に出た。
「朝帰りどころか、夜帰りで怒られないほうがおかしいと思うけど」
「まあ、そのへんは綾ちゃんちに泊まるって連絡してるから、大丈夫」
僕が文句を言うと、親指を立てて遥香がドヤ顔で応える。いや、いいんだけどね。信用されてるってことだよな。うん。
「部署異動って、いつから?」
「来月。だから、あと十日くらいなんだよね──あら」
遥香が立ち止まって、途中の路地をじっと見ている。公園と住宅しかなくて、人通りもない。
「どうした?」
何かあったのかと思って問いかけると、彼女はしばらく立ち止まっていたが、また歩き始めた。
「なんでもない。ちょっと可愛い犬がいたような気がして」
「飼い主もなしに? それって迷い犬じゃないのか?」
見つけて保護しないといけないんじゃないかと心配するが、遥香はうーんと考えたあと僕を見てにっこりと笑う。
「たぶん、飼い主はそばにいるよ」
「そう?」
「うん」
遥香の言葉に首を傾げながら、彼女が見ていた方向へ視線を向ける。そこには犬どころか人影さえもなかった。
〈続きは同人誌で〉