大江戸転生主従パロ 手を放す 16 ~調査~
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屋敷に戻った翌朝、土井は若殿に面会を求めた。
人払いを済ませて奥の座敷で若殿と二人きりになると、土井は深々と平伏した。弟の挨拶ではない。額を畳につけて声を落とし、家中が嫡男に向けて言う声音で短く言った。
「──兄上。一つだけ、お許しをいただきたいことがございます」
「何でしょうか」
兄は驚いた様子もなく土井を見ていた。利吉の証言を聞いた弟が何かを求めてくることは予想の範疇だったのだろう。土井は平伏したまま言った。
「屋敷の出入りと、鍵の管理を洗いたく存じます。信任のおける家臣をお一人、お貸しいただけませんか」
若殿は茶碗を置いた。家臣を貸せ、と言うのは、少しばかり予想外だった様子だった。
「……家老殿を通さず、ということですか」
「はい」
土井が顔を上げると、若殿は土井の顔を見ていた。穏やかな顔だ。いつも通りの、物腰柔らかな長男の顔。けれども目の奥に微かに怜悧さがある。長男は静かな声で問うた。
「理由をお聞かせください」
「火事の夜の状況と、町方から集まった情報を突き合わせた結果です。詳細は今は申し上げられませんが、家老殿の周辺に疑わしい動きがあります」
「周辺に?」
「はい。家老殿ご本人かどうかは、洗ってみなければ分かりません。ですが、家老殿を通せば洗えるものも洗えなくなります」
若殿はしばらく黙っていた。茶碗の縁を指でなぞっている。その仕草は穏やかだったが、土井は兄の目の奥に、見慣れないものが据わっていることに気づいた。
「──先代の家老殿に相談なさい」
土井は顔を上げた。先代家老。今の家老殿が就いてからは御役御免となり、屋敷の片隅で隠居同然の身だ。
「この屋敷の今の手続きは、鍵の一本から木札の一枚まで、全てあの方が作ったものです。あの方の目は誤魔化せません」
若殿は一度言葉を切った。
「そして先代家老殿の息子は──あの夜、私と共に蔵にいた男です」
土井の指先が、膝の上でかすかに動いた。供の男。火の回る蔵の中で、焼けた喉で声を絞り出していたという男。あの男は、先代家老の息子だったのか。
若殿の声は変わらなかった。穏やかで、丁寧で、言葉を選ぶ長男の声。けれどもやはりそこには普段と違う何かが宿っており、彼は相変わらず茶碗の縁を指でなぞっていた。
「……あの者は腕と顔に火傷を負い、今もまだ臥せっています。先代家老殿はご心配なさって、毎日息子の寝所に通っています。私の供をしていただけであの目に遭った。父親として黙ってはいられないでしょう」
若殿は土井の目をまっすぐに見た。
「これは私の命として下しなさい。半助の名ではなく。私が蔵の管理体制を見直すよう命じた──という形を取れば、家老殿も表向きは逆らえません」
「……ありがとうございます」
「結果は、直に私に報告してください」
若殿はそう言って、茶碗を手に取り直した。冷めた茶を一口飲んで静かに置く。その一連の所作は穏やかだったが土井には分かってしまった。兄は怒っているのだ。あの夜、煙の中で意識を失い、目覚めた時には何も覚えていなかった若殿。いつも穏やかで物腰柔らかなその兄が、静かに深く怒っている。煙を吸った自分の喉よりも、自分の供の男が焼けた顔を覆って寝ていることの方がこの兄には堪えている。
土井は深く頭を下げた。
先代家老は、白髪に痩せた体躯の老人だった。
この家の総名代として、江戸屋敷の帳場を二十年以上預かった男だ。今の家老が就任した際に御役御免となり、以来、屋敷の片隅で隠居同然に暮らしている。けれどもこの屋敷の手続きはこの男が一から作ったものだった。鍵の受け渡し、木札の管理、番替えの段取り──全てが先代家老の手で整えられ、今もその仕組みの上で屋敷は動いている。
そして今、先代家老の息子は焼けた顔に包帯を巻いて寝ている。若殿の供としてあの蔵に入り、煙と炎の中で声を上げ続け、焼け爛れた喉で「若殿様がまだ中に」と叫んだ男だ。
土井は先代を自室に呼び、襖を閉めて向かい合った。老人の目は据わっていた。呼ばれた理由を、既に半ば察しているような目だった。
「若殿様のお達しにより、蔵の管理体制を洗い直すことになりました。火事の後始末の一環です。お力をお借りしたい」
「承知いたしました」
先代の返事に間はなかった。
「何をお調べになりますか」
「三つあります。一つ、蔵の鍵束の受け渡し記録。火事の前後一月分。誰が鍵を持ち出し、誰に返したか。二つ、番替えの記録。見回りの木札がいつ、誰の手で動かされたか。三つ、蔵筋への出入り。火事の夜に蔵の周辺にいた人間の名を、できる限り」
先代家老は一度だけ目を閉じ、また開けた。
「全て──私が作った仕組みです。どこを見れば何が分かるかは、心得ております」
「二日でできますか」
「明後日の朝にはお出しします。それから若様」
しわがれた声が、わずかに低くなった。
「家老殿には伏せる、ということでよろしいですな」
土井は元々答えを用意していたが、訊かれた方が先だった。先代の目に感情は浮かんでいない。けれどもその目の奥に、息子の火傷を見つめ続けてきた父親としての色合いが確かに積もっていた。
「──お願いします」
老人は一礼をして去った。足音は、かつての総名代のものだった。
***
二日後、先代家老が持ってきた書付は土井の予想を裏付け、更に予想を超えるものだった。
土井は自室の行灯の下で書付を広げ、一枚ずつ読んだ。文字は先代の手による几帳面で読みやすい楷書だった。
鍵の記録については、蔵の鍵束は通常、留守居役の直属の家来が管理しているとある。受け渡しは帳面に記録される。記録によれば、火事の前の一月間に鍵束は三度持ち出されていた。一度目は利吉の棚卸し。二度目と三度目には家老の直属の家来の名が記されている。理由の欄には「清掃」と書かれていたが、調べによれば該当する日に蔵筋の清掃は行われていない。
番替えの記録については、見回りの木札は本来、番替えの刻限に合わせて所定の位置に掛けられるとのこと。屋敷での火事の前の十日間に、木札の位置が三度ずれていたという。ずれた日時は、町で放火が起きた夜と一致している。木札を動かしたのは誰か──聞き取りでは、番替えの直前に蔵筋を通った者として現家老の直属の家来の名が二度挙がっていた。
出入りの記録について。火事の夜、蔵筋に向かったのは利吉だけだった、というのが現家老の説明だった。けれども先代の聞き取りでは別の証言が出ていた。蔵筋に通じる裏手の通用門を、火事の直前に開けた者がいる。開けたのは門番ではなく、現家老の直属の家来が鍵を持ってきて開けたのだと言う。門番は「家老殿のお使いだと言われた」と証言している。
全てのことに、家老の直属の家来の名が出てくる。家来が独断で動いたのではないだろう。清掃の名目で鍵を持ち出し、番替えの隙に木札を動かし、火事の夜に通用門を開ける──それだけの段取りを組める者は、屋敷の運用を握っている人間だけだ。
土井は書付を膝の上に置いた。家老の計画の全容が頭の中で組み上がっていく。領地からの物資の横流しと発注の水増し。長年にわたる横領の記録は全て蔵の帳面に残っていた。先代領主が蔵の管理に無関心だったため次第に額が膨らんでいったのだろう。蔵の管理をしていたのは家老自身だった。
それが若殿の総点検が始まり、慌てて隠そうとした。恐らく家の棚卸しだけであれば正規の帳面を隠すだけで済んだのだろう。けれども若殿は賢明だった。同時に弟に領地の村を視察させ、現場の実態と献上品の目録の控えを調べさせたのだ。帳面の数字と視察の報告を突き合わせれば、いかに二重帳面を用意したところで水増しの全容が明らかになってしまう。だから帰る前に偽も正本も帳面すべてを焼こうとした。土井の帰還がその期限だった。
町で連続放火を起こし、「蔵を狙う賊」という世論を形成し、犯行の際には蔵の防虫香の匂いを意図的に残した。「武家の蔵に出入りした者の犯行」という空気を作るために。──そして利吉に罪を着せた。
蔵の棚卸しを利吉に命じたのは家老の指示だった。他に適任の者がいたにもかかわらず利吉を指名して蔵に出入りさせ、防虫香の匂いを衣に染みつかせた。
家老は土井と利吉の噂を利用しようとした。護衛の任を外したのは土井自身の判断だったが、それを幸いとして縁談を勧め、利吉を土井から引き離しながら蔵との接点を作り、同時に「主君に遠ざけられた忍」という像を屋敷の中に植えつけた。
『主君に捨てられた忍が、腹いせに蔵へ火を放った。』
その筋書きは、利吉がこの数ヶ月の間に味わった苦しみの全てを、犯行動機に読み替えたものだった。護衛を外された時も縁談を突きつけられた時も、利吉はきっと自分が遠ざけられているようで苦しかったに違いない。土井はそれらを理解していて、それでも利吉を手放すためには必要な痛みだと思って受け入れようと──受け入れさせようとしていた。けれども家老の手の中で、それらはすべて利吉の罪の証拠に変えられていた。
土井が戻る前に、家老はすべてを片付けなければならなかった。最終日に若殿が蔵にいたのは家老の計算外だったに違いない。けれども家老はそれを「好機」と見た。扉を外から施錠し、若殿を閉じ込めた。若殿が死ねば総点検そのものが頓挫する。土井は書付のある一行に目を留めた。先代家老の聞き取りの末尾に、小さく付記されたもう一つの事実に目を眇める。
『家老殿は近頃、式部様のもとに足を運ばれることが増えている。』
式部様──土井にとっては二番目の兄にあたる。元服後に式部少輔に任ぜられた次男は、家中ではもっぱらそう呼ばれていた。若殿や四男とは母が違い、側室の息子である彼は家中での立場も異なる。若殿の派閥ではない家中からの信も篤く、若殿が死ねば継承権は次男に移ることになる。家老が次男を支持しているとすれば若殿の閉じ込めは突発的な判断ではない。若殿を排除し、自分の息のかかった次男を立てる。総点検は止まり、不正は闇に葬られる。
土井は書付を畳の上に置いた。
指先が震えていた。それは怒りによってだ。
利吉の孤独を、主から遠ざけられた心細さを知っていて、計算の中に組み込んだ男がいる。利吉の痛みを利用し、利吉の苦しみを犯行動機に仕立て、利吉を駒として使い捨てようとした。
拳が、膝の上で白くなる。土井は怒りを押し込め、熱を奥歯の裏に押し込め、代わりに頭の芯を研ぎ澄ませた。
実行犯は家老の直属の家来だ。家来を揺らせば家老に辿り着く。家来を直接問い詰めれば、家老は先手を打って証拠を消すだろう。だから捕らえるのではなく──動かす。次の一手を打たせて、その現場を押さえる。そして家老が次に動くとすれば「追加の証拠隠滅」か「利吉への口封じ」か、どちらかだ。
土井は書付を丁寧に折り、懐に仕舞った。そして筆を取って短い文をしたためる。仙蔵宛ての文だ。
『──留三郎の火消し仲間、長次の耳、小平太の張り込み。三つが噛み合えば、実行犯を押さえられる。段取りを頼む。』
土井は文を封じ、信任できる使いの者に託して診療所へ走らせた。その男の後を更に別の者に尾けさせる。家老の手の者が別に追跡するかもしれないが、使いに何かあれば尾行した男がそれを知らせる。とは言え家老は既に若殿を葬ることに失敗している。先代が動いていることも恐らくは耳に入っているだろうし、下手な手は打ってはこないだろう。
屋敷の廊下を歩きながら、土井は家老の居室の方角をちらりと見た。廊下の向こうに、家老の部屋の障子が見える。閉ざされたその中に灯りがあるかどうかは、ここからは分からない。
土井は視線を戻し、歩き続けた。足音は変えず、顔も変えない。普段通りの顔のまま、廊下を渡り自室に戻った。
部屋の障子を閉めて一人になる。懐の中で螺鈿の櫛が体温を吸って温まっているのに、無意識に触れた。
(利吉くん……もう少しだけ、待っていてくれ)
障子の向こうで、夕暮れの光が廊下を赤く染めていた。