powered by 「arei」

大江戸転生主従パロ 手を放す 17 ~罪の重さ~


横書き
https://notes.underxheaven.com/preview/c8ce9617953b032c131778f2609778fd
縦書き
https://notes.underxheaven.com/preview/tate/c8ce9617953b032c131778f2609778fd






 仙蔵の手配は速かった。彼は土井からの文を受け取ったその日のうちに、診療所に来た留三郎と段取りを詰めた。伊作は別室で利吉の膏薬を替えている。障子一枚隔てた奥の間で、仙蔵と留三郎は声を落として話した。
「実行犯を動かすぞ。追加の証拠隠滅か、ここへの口封じか──どちらかに手を出させて、その現場を押さえる」
「どうやって動かす?」
「餌を撒く。二つ、同時に」
 仙蔵は畳の上に指で線を引いた。
「一つ目は、土井家の焼け跡から帳面の断片が見つかった、という噂を町に流す。これは長次の仕事だ。瓦版には書かず、口伝で屋敷町の辺りに落とす。家老の耳に届くように」
「帳面が残っていると知れば、焦るな」
「ああ。残った帳面を押さえに動くか、あるいは帳面を見た人間の口を塞ぎに来る筈だ。どちらにしろ、実行犯を使うしかない。家老本人が動くわけにはいかないからな」
「二つ目は」
「先生から聞いた話だが──利吉さんの処遇について、屋敷の中で近く話し合いが持たれるらしい。利吉さんの容態が回復しつつあることは屋敷にも伝わっている。話ができる状態に近づけば、家老にとっては厄介だ」
「利吉さんが口を開く前に、ということか」
「そうだ。二つの餌のどちらかに食いつく。食いついた方を押さえればいい。──留三郎。お前の火消し連中で、土井家の屋敷周辺と、この診療所の周辺を見張れるか」
「ああ。このところの付け火騒動で、火消しが火の用心であちこち歩いていても誰も怪しまないからな。巡回の範囲を少し広げれば済む話だ」
「小平太には同心の張り込みを頼もうと思う。夜の見回りで、不審者の動きを押さえる形にする。巡回路を調整して、二箇所を交互に回る」
「長次には具体的には」
「長次には瓦版屋の伝手を使って噂を流してもらう。それから噂が家老の耳に届いたかどうかを確かめるための耳も要るな。屋敷に出入りする者の中に、長次の情報網が使える人間がいるはずだ」
「荷運びの連中か。文次郎の麻問屋の親父が言っていた、屋敷に出入りする荷運びの愚痴──あれを逆に使えるな」
「ああ。荷運びの一人に噂を含ませれば、屋敷の中にも自然に届く筈だ」



 翌日、長次が動いた。
 町の辻で、茶飲み話に混ぜるような声で噂を落とす。土井家の蔵の焼け跡から紙切れが出てきたらしい。帳面の切れ端だ。何が書いてあるかは分からないが、鳶の連中が片付けの最中に見つけて、燃やせと言われたが紛失したとか。──それだけだ。それだけの噂を、長次は三箇所に落とした。屋敷に出入りする荷運びが立ち寄る飯屋。屋敷町の番所の近く。そして、屋敷の裏門に面した路地の井戸端。
 噂は水のように染み込んでいく。帳面なんて大事なものだろう。それを燃やせって? なぜ? 何か不正があったんじゃないかと、囁き合う声は広がっていく。
 長次はそれを見届けると永楽屋に戻り、文次郎に一言だけ告げた。
「……撒いた」

 三日目の夜。留三郎の組の若い衆が屋敷町近くの廃材置き場の裏手で不審な人影を見つけた。
 塀沿いに歩く男が一人。提灯は持っておらず、闇に紛れるように蔵筋に通じる通用門の方へ向かっている。若い火消しは尾行せず、すぐに留三郎に知らせに詰所に走った。
 同じ頃、小平太は屋敷町の辻に立っていた。同心の夜回りの装いで、編笠を目深に被っている。留三郎の組の者から報せを受け取り、足早に裏手へ回った。
 男は廃材置き場の奥に入っていった。そこには土井家の焼け跡から持ち出された焼け残りや炭化した材が置かれている。男は燃え残った紙類の山へと向かい漁り始めたところで、足音に気づいて振り返った。
「──同心である。その場を動くな」
 小平太の声が、夜気を裂いた。
 男は走った。来た道とは反対の方向へ。しかし三歩も行かないうちに路地の向こうから留三郎が立ち塞がった。火消しの半纏を羽織り、腕を組んでいる。
「おい。どこへ行く」
 男は立ち止まった。前に留三郎、後ろに小平太。逃げ場がない。
 小平太が男の腕を取り、懐を改めた。油を染み込ませた布の切れ端が出てきて、嗅ぐと、油の匂いの奥に甘い匂いが混じっていた。
 男は、家老の直属の家来だった。



 番所の土間で、男は口を割った。
 小平太が聞き取り、留三郎が立ち会った。長次は番所の外で待ち、中から漏れる声を拾っている。
「……家老殿のお指図です」
 男の声は掠れていた。覚悟を決めた人間の声ではない。追い詰められて、諦めた人間の声だった。
「帳面の切れ端が見つかったと聞いて──今夜中に蔵の焼け残りを確かめてこいと言われました。もし残っているものがあれば、燃やせと」
 小平太は帳面に筆を走らせた。
「手口を話せ」
「匂いを残したのには、蔵から持ち出した古い香袋を使いました。衣装箱に添えてある防虫香を入れておくものです。もうほとんど香らなくなっていますが、香木はまだ燃やせば香ります。それに油を含ませて、扉際に置いて火をつけます」
「油の仕入れもお前がやったのか? 防虫香の匂いが残ることは承知していたか」
「仕入れは他の者がやっております。匂いは──むしろ残すように言われていました。武家の蔵に出入りした者に疑いが向くようにと。土井家の屋敷では、」
 男の目が泳いだ。
「……あの忍に罪を着せろと、具体的に指示されました。あの忍が蔵に出入りしていたことは知っていましたし、匂いを纏っていることも、屋敷の中で噂が立っていることも承知していました。全て家老殿が──」
 声が途切れた。男は頭を垂れた。
「……私は、言われた通りにしただけです」
 小平太は筆を止め、帳面を閉じた。留三郎と目が合った。
「これで実行犯は押さえたな。だが、これだけでは家老本人は裁けない」
「家来の証言だけでは弱いか……」
「ああ。武家屋敷のことは町方の権限では手入れができない。家老は知らぬ存ぜぬで通せるだろうし、家来が勝手にやったと言えば武家の壁の内側では通ってしまう」
 留三郎は腕を組んだ。
「……文次郎の金の線があれば」
「ああ。金の証拠があれば、筋が二つになる。油は家老の名を担保にして仕入れたものだ。それで知らないと言い張るのは無理がある。証拠を揃えて先生にお伝えすれば、何らかの沙汰は可能だろう」
 長次は番所の外で、それらの全てを聞いていた。どこにも書かない内容だが、頭の中に刻んでいく。瓦版屋が最後に書く記事は──全てが終わった後の仕事だ。



***



 文次郎が金の線を仕上げたのは、実行犯の確保から二日後だった。
 永楽屋の奥座敷に、留三郎、小平太、長次が集まった。伊作と仙蔵は診療所を離れられないため、留三郎が後で伝える手筈だ。文次郎は帳場の帳面を三冊、畳の上に並べた。
「油の請け人を辿り切った。小さな店に油を流していた請け人は三人いるが、三人とも同じ帳場で育った人間だ。符牒の癖が一致している。そして三人の判には──保証人として、もう一つ判が添えてある」
「誰のだ」
「家老の直属の家来のものだ。実行犯とは違う。つまり、油の手配から付け火までに、家老の配下の人間が複数人動いている」
「家来が複数関わって、知らぬ存ぜぬは無理があるな」
「ああ。実行犯一人に任せなかったのは、恐らく互いに裏切らないか見張らせるためだろうな。それが裏目に出たわけだ。この別名義で発注された油の代金は、屋敷の運営費から出ている。運営費の水増し分──つまり横領した金で、放火の油を買っていた。不正を隠すための放火の費用を、不正の金で賄っていたわけだ」
 文次郎は帳面を指で叩いた。
「これが金の証拠だ。別名義の納入記録、請け人の判、油屋の帳面の写し。三つ揃えてある」
 小平太が控えの帳面を出した。
「私の方は──出火の記録と、番替えの一致、木札の乱れを時系列で並べた。納め蔵、組屋敷、土井家の屋敷。三件とも番替えの隙に出火している。木札を動かした者として、家老の家来の名が複数回挙がっている」
「それは、仙蔵からの情報か?」
「ああ。仙蔵が土井先生から受け取った情報だ。鍵の持ち出し記録、出入りの記録。先代の家老殿の調べと私の控えが、同じ人物を指している」
 長次が壁際で、もそりと口を開いた。
「……匂いも」
「ああ。さっきの実行犯の証言で、伊作が集めた証言と、仙蔵の仮説が裏付けられたな」
 留三郎が頷いた。
「防虫香の匂いは犯人が意図的に残していた。蔵に出入りしていた者に疑いを向けるための偽装だ」
 文次郎は帳面を閉じた。
「整理する。伊作が患者から匂いの話を聞いて、火事場を見ていた留三郎が不審を持った。長次が噂を撒いて犯人を誘導した。匂いの偽装は仙蔵が看破した。俺と先生が帳面の焼け残りから不正の痕跡を読んで、油の金の筋は俺が押さえた。出火の記録と番替えの一致は小平太が押さえ、出入りと鍵の記録は土井先生が洗い出した」
「これで、全部揃ったな。──小平太、これを奉行所で通る形にできるか」
 留三郎から言われ、小平太は控えの帳面を開いて新しい頁に筆を走らせ始めた。
「町方の付け火として立件するなら、実行犯の身柄だけで収められる。納め蔵と組屋敷の件は町方の管轄だ。犯人が捕まった、手口も自白した、それで町方の件は収まる」
「家老の名は出さないのか?」
「出さないと言うより、出せない。出せば土井家の不始末になる。大名家の留守居役が町方に放火を指示していた──そんな話が奉行所に上がれば、土井家そのものの責任が問われる。参勤交代中の江戸屋敷で、お家騒動と見られれば最悪だ」
 文次郎が腕を組んだ。
「つまり、家老の始末は屋敷の中でつけるしかないということか」
「そうだ。ここから先は私たちが口を出す筋ではない」
 留三郎は腕を組み、天井を見上げた。
「あとは──先生の方だな」
「ああ。屋敷の中の始末は、先生にしかできない。私たちの仕事はここまでだ」


***


 翌日、仙蔵を通じて全ての証拠が土井の手に届けられた。文次郎の金の帳面と小平太の控え、実行犯の証言の写しに先代家老の書付。そして焼け残った帳面の紙片。
 土井はそれらを一つずつ読み、一つずつ重ね、一つの結論を束ねた。

 土井が小平太に頼んで実行犯に会わせてもらったのは、その日の夕刻だった。
 番所の奥の小部屋に男は座っていた。縄は解かれていたが手首に擦れた跡が残っている。痩せた体躯と日に焼けた顔。下級武士の身なりで、着物はところどころ繕ってあった。繕いの糸が新しいものと古いものが混じっている。長い間、同じ着物を着続けている人間の衣だった。
 土井が部屋に入ると、男は畳に額をつけた。
「……若様。申し訳ございません」
 声が震えていた。顔を上げられないでいる。土井は男の向かいに座った。小平太は部屋の外で控えている。
「顔を上げなさい」
 男はゆっくりと顔を上げた。覚悟を決めた人間の目ではない。決められないまま、ここにいる人間の目をしていた。
「……お取り調べは、同心殿から受けました。全てお話しいたしました。付け火のことも」
「ああ。聞いている」
「若様が直にいらっしゃるとは、思いませんでした」
「一つだけ聞きたいことがある」
 土井の声は静かだった。
「なぜやった」
「……家老殿のお指図だと、申し上げた通りでございます」
「指図だけで、付け火をやった理由が知りたい。付け火がどういう罪になるかはお前も知っているだろう」
 男は答えなかった。しばらく黙ったまま自分の手を見つめる。その手は震えていた。男は掠れた声で言った。
「……母が、長い病いでございまして。もう何年も、薬が要ります。楽になる薬は高うございます。私の禄では」
 言葉が途切れた。男は目を伏せたまま、絞り出すように続けた。
「家老殿は、薬代を出してやると仰いました。母の面倒も見てやると。私がこの件を引き受ければ、と」
 土井は何も言わなかった。男の声は低く、途切れ途切れに続いた。
「付け火がどんな罪になるかは、存じております。けれども──母に、もう少しだけ楽に暮らしてほしかった。それだけでございます」
 男の目から、涙がこぼれた。拭おうとして手首の擦れた跡に触れ、手を止める。
「……私は、どうなりますか」
 土井は男を見た。痩せた肩。繕った着物。母の薬代のために付け火をした、家老に利用された下級武士。利吉に罪を着せろと言われてそうした男。憎むべき相手のはずだが、目の前にいるのは追い詰められて判断を誤っただけの人間だった。
「……付け火をしたこと自体は、庇いようがない。それはお前も分かっているだろう」
「……はい」
「だが、ご家族のことであれば、どうにかできるかもしれない」
 男が顔を上げた。
「母君の薬代と暮らし向きについては、兄上にお願いしてみる。約束はできないが、私から話す」
 男の目が、土井の顔を見た。この時初めて男は、主君の息子の顔をまっすぐに見た。
「──若様。なぜ、そこまで」
「お前を使った者とお前自身は、同じではない」
 土井は立ち上がった。
「お前がこの先どうなるかは、奉行所のお裁きだ。私にはどうにもできない。だが家族のことは別の話だ。部屋住みの身でもできることはある」
 男は何も言わずに、畳の上に額をつけた。声は出ていなかったが、肩が震えていた。
 土井は部屋を出た。
 小平太が廊下で待っていた。土井は軽く頭を下げて番所を出た。それ以上は何も言わなかった。



 夕暮れの道を、土井は伊作の診療所に向かった。
 利吉は起きていた。枕元の行灯に灯りが入り、左手で何かを握ったり開いたりしている。指の運動だ。土井が襖を開けると、利吉は手を止めてこちらを見た。
「若。今日はお早いですね」
「ああ。少し……顔が見たくなった」
 言ってから、土井は自分の言葉に気づいて目を逸らした。利吉も黙った。
 土井は枕元の、いつもの場所に座った。二人の間にある距離は以前よりは近い。利吉の身体が回復するにつれ五寸の隔たりはなくなっていたが、それでも触れるか触れないかのところで止まる。土井は沈黙を紛らわせるように言った。
「……手の方は、どうだ」
「少しずつ。今日は中指が動きました」
 利吉が左手を開いて見せた。中指がゆっくりと曲がり、また伸びる。小さな動きだったが、昨日までは動かなかった指だ。
「そうか」
「ええ。伊作くんが、焦るなと」
「伊作の言う通りだよ」
「若もいつもそう仰います」
 利吉が笑った。ほんの少しだけ。火傷の前と同じ笑い方ではなかったが、笑い方を思い出しつつある顔だった。土井はその顔を見て、少しだけ息が楽になった。

 しばらく、何でもない話をした。寺子屋の子供が墨を零して大騒ぎになった話。伊作の診療所の猫が裏庭の鼠を捕まえた話。留三郎が火消しの若い者に説教して声を枯らした話。利吉はそれを聞きながら、時折小さく相槌を打った。
 こういう時間が、以前は当たり前にあった。屋敷の廊下ですれ違いざまに交わす短い言葉。視察の道中で馬の背の上から見た同じ景色。畳一枚を隔てた枕元で、今は行灯の灯りの中にある。
 話が途切れた。虫の声が遠くから聞こえている。利吉が天井を見上げている横顔を、土井はしばらく見ていた。
「……利吉くん」
「はい」
「一つ、聞いてもいいか。少し、難しい話になるんだが」
 利吉は土井の顔をまっすぐに見た。土井の目に何かがあることを読み取っている目だった。
「たとえば、の話だ」
 土井は言葉を選んだ。
「ある男がいて、その男は上役に弱みを握られて悪事に手を貸した。男自身が望んでやったわけではない。病の母がいて、薬代を出してやると言われて断れなかった」
 利吉は黙って聞いていた。
「悪事そのものは重い。償いは免れない。だが、これは男を利用した上役の罪だろうか。利用された男の罪だろうか」
 沈黙が落ちた。行灯の火が揺れ、利吉の横顔に影が走った。
「……罪は罪でも、同じではないと、私は思います」
 利吉の声は静かだった。
「悪いことをしたのは確かです。でも、追い詰められて手を出した者と追い詰めた者では、背負うべきものが違う。私も家老に利用されました。棚卸しを命じられて、匂い袋を渡されて。何も知らずに従っていた。もし私がもっと疑っていれば、あるいは──」
「君は何も悪くない」
「ですが、利用された側にも考えるべきことはあります」
 利吉は土井の方に目を戻した。
「……若。その男のご家族は、どうなるのですか」
「それは、まだ決まっていない」
「でしたら、ご家族には罪を負わせないでいただきたいと思います。母上が病だと仰ったでしょう。その母上に息子の罪まで背負わせるのは酷だと思います」
 土井は利吉の目を見た。利吉は喩え話ではないことを分かっていた。土井が今日、誰かに会ってきて、その誰かが自分に罪を着せようとした人間の一味であることを。それを分かった上で、家族を守ってやれと言っている。
「……ありがとう」
「お礼を言われることではありません」
 利吉はそう言って、天井に目を戻した。
 再び沈黙が落ちた。行灯の火が揺れている。利吉は天井の木目を辿りながら、思考の先が別のところへ流れていくのを止められなかった。母、という言葉が出たせいかもしれない。
 ──全てが片付いたら。
 晴れて嫌疑が消え、屋敷に帰れるようになったら、自分はどうするのだろう。御側に戻るのか。忍として戻れるのか。この腕で。まだ指が三本しか動かないこの腕で。
 利吉は縁談のことを思い出した。奥方から持ちかけられたあの話は、まだ生きているのだろうか。屋敷に戻れば、あの話はまた持ち出されるのかもしれない。いっそ受ければ全てに片がつくだろう。嫁を取って、土井家の家中として芯から根を下ろす。そうすれば若の傍にはいられる。ただし──そういう形でだ。
 胸の奥が、きりりと痛んだ。
「……若」
「何だい」
「縁談のことなのですが」
 土井の手が、膝の上でかすかに動いた。利吉はそれを見ていた。ずっとその意味を聞きたくて、聞けないままでい続けている。
「あのお話は……まだ生きているのでしょうか」
 土井が答えるまでに間があった。短い間だったが、利吉にはそれがひどく長く感じられた。土井はゆっくりと口を開いた。行灯の光は彼の背にあって、表情は読み取りづらかった。
「……それは、母上のお考え次第だろう。君の──思うようにしたらいい」
 土井の声は穏やかだった。穏やかで、平坦な、普段通りの若君の声だ。けれども利吉はその声の下にあるものを聞いてしまった。なぜ分かったのかは自分でも分からない。声の高さでも、速さでも、言葉の選び方でもない。ただ枕元で何日も聞いてきた声を、出会った頃から聞き続けていた若の声を身体が覚えていた。覚えている声と今の声の間にある微かなずれを、耳ではなく胸の奥で拾っていた。
 君の思うようにしたらいい、と若は言った。その言葉の裏に、してほしくない、と言えない人間の形が透けていた。
 利吉は土井の顔を見た。彼は目を合わせない。目元はいつも通りだったけれども睫の影が頬に落ちていて、その影が微かに揺れていた。
 利吉は、それ以上聞かなかった。聞けなかったのだ。聞いてしまえば、若は何かを言わなければならなくなる。
「……分かりました。もう少し、考えてみます」
「ああ」
 土井の声が、ほんの少しだけ緩んだ。緩んだことに彼自身も気づいてはいないのだろう。けれども利吉の耳には届いていた。
 利吉は少しだけ首を傾けた。
「若、お疲れの顔をしておいでです。今日は少し、ここで休んでいかれませんか」
 土井は答えに詰まったようだった。ここのところはずっと彼が気遣う側だった。利吉に気遣われる側に回るのは久々のように感じた。
「じゃあ……少しだけ」
 土井は枕元の壁に背を預けた。利吉の布団のすぐ傍で、足を崩して座る。利吉の左手が布団の上を滑って、土井の膝のすぐ傍に来た。触れてはいない。けれども指先が土井の着物の裾にかかっている。かかっていることに利吉自身は気づいていないのだろう。彼の指の数本は未だ麻痺している。彼が気づかないということそのものが、土井の心を焼いた。
 土井は目を閉じた。利吉の呼吸は穏やかで、それだけが土井をほっとさせる。けれども利吉の放った問いは、とげのように喉の奥に刺さっていた。もう少し、考えてみますと利吉は言った。考えてみます──それは、受けたい気持ちがあるということだろうか。それとも受けたくないということだろうか。
 土井にはそれが聞けなかった。喉の奥に山程のことを抱えたまま、利吉の指先が着物の裾にかかっている重さだけを感じていた。